夜更けの帰還
王都の城壁が見えた時、空はすっかり夜の色に沈んでいた。昼の熱を失った石畳に、馬の蹄が乾いた音を刻む。遠くにそびえる白祈塔は月明かりを受け、夜の王都の中心で淡く白く浮かんでいた。鉱山からの帰路は、思っていたよりも長く感じた。討祓そのものは終わっている。鉱夫達の無事も確認した。低級夜骸の残骸処理も済ませ、坑道の安全も最低限確かめた。任務としては成功だった。
だが、全員が無傷というわけではない。
「バルト、傷は?」
馬上でアルドが振り返ると、バルトは脇腹に巻いた布を片手で押さえた。
「こんなもん、かすり傷だ」
「そのかすり傷でルシアンに怒られてただろ」
「治療しろってうるせぇんだよ、あいつは」
「ルシアンが正しい」
「カシラまでそっち側かよ」
バルトは不満そうに鼻を鳴らした。言葉だけ聞けばいつも通りだった。声も大きい。態度もでかい。背筋も伸びている。それでも、鉱山で低級の爪を受けた瞬間の、ほんのわずかな遅れがアルドの頭に残っていた。だが、それだけだ。疲れもある。坑道内は足場も悪かった。緋灼鉱石に浮かれていた自分が言えたことではないが、任務中に少し調子を崩すことくらい誰にでもある。
「ルシアン、戻ったらバルトを頼む」
「うん。隊舎に着いたらすぐ治療室に連れていくね」
「おい、俺様の意思は?」
「ない」
ノルが短く言った。
「ひどくねぇか?」
「傷作った人に発言権ないでしょ」
「傷ぐらい誰でも作るだろ!」
「バルトさん、さっきから血が滲んでるよ」
セレスが横から指摘すると、バルトはぎょっとして脇腹の布を見た。たしかに、布の端が赤く染まり始めている。
「……大したことねぇ」
「だから大したことになる前に治療するんだよ」
ルシアンが穏やかに言うと、バルトは言い返せずに口を曲げた。セレスが隣で小さく息を吐く。
「今回はルシアンの言うことを聞いておきなさい。あなたが倒れると、運ぶ方が大変なのよ」
「俺様は倒れねぇ」
「そういう人ほど倒れるの」
「セレスまで……」
アルドは苦笑した。王都の門が近づく。門番が第一部隊の隊章を見るなり姿勢を正し、すぐに通行を許した。夜の王都へ入り込むと、昼間の喧騒とは違う静けさが街に満ちていた。店の多くは閉まり、通りに残っているのは夜番の兵と、遅くまで明かりを灯す酒場くらいだ。その酒場の一つを見て、バルトが目を輝かせた。
「煤鳩亭行こうぜ!」
「バルトは治療」
ルシアンが即答した。
「飯だけ!」
「治療」
「酒一杯だけ!」
「治療」
「ルシアン、お前最近強くなったな……」
「バルトが弱くなっただけだよ」
にこりと笑って言うルシアンに、バルトは肩を落とした。アルドはそこで馬を止め、全員を見渡した。
「俺とレイスはローグさんに報告してくる。ルシアンはバルトを治療室へ。他のみんなは先に煤鳩亭に行っててくれ」
「俺は馬を戻してから行く。腹減ったしな」
ゴードが低く笑う。
「じゃあそうしてくれ。報告が終わったら俺たちも合流する」
「アルド」
レイスが横から言った。
「俺たち、だよな」
「何だよ」
「報告が長引いた場合、合流できない可能性がある」
「縁起でもねぇこと言うな」
「現実だ」
「現実を今言うな」
アルドは眉を寄せた。懐には、布で包んだ緋灼鉱石の小片が入っている。小片とはいえ、念願の緋灼鉱石だ。剣を作るには足りないかもしれない。だが、可能性はある。坑道の奥で見つけたあの赤い輝きが、アルドの頭から離れない。新しい剣。炎に耐える剣。
自分の魔法を、今よりもっと自由に受け止められる剣。考えるだけで、疲れが少し軽くなる。
「報告は手早く終わらせる」
「できるといいな」
「お前も協力するんだよ」
「もちろん。余計な話をしないよう、お前を止める」
「それ協力か?」
「かなり」
レイスは淡々と答えた。隊はそこで分かれた。ルシアンはバルトを連れて隊舎へ向かう。バルトは最後まで煤鳩亭の方を見ていたが、ルシアンに袖を引かれ、渋々歩き出した。ノル、セレス、エディンは先に煤鳩亭へ。ゴードは馬を戻すために厩舎へ向かった。ルシアンとバルトは治療のため隊舎へ戻っている。アルドとレイスは、そのままローグレスの執務室へ向かった。
夜の総隊長室には、まだ明かりが灯っていた。
「入れ」
扉を叩くと、中からすぐに声が返ってくる。アルドが扉を開けると、ローグレスは机の上に広げた書類から顔を上げた。疲れは見えるが、目はまだ鋭い。その後ろでは、ジークがいつものように書類を整理していた。
「戻ったか。鉱山は?」
「低級夜骸を討祓。鉱夫に死者なし。坑道内の危険箇所は鉱山側へ共有済みです」
アルドが端的に報告すると、レイスが補足の紙を机に広げた。
「出現個体は低級獣型一体。旧採掘口付近に留まり、坑道側へ反応する様子はありましたが、原因は未確認です。詳細な検分は鉱山側の再調査待ちになります」
「分かった。よくやった」
ローグレスは頷き、それからアルドの顔を見た。
「バルトが負傷したと聞いたが」
「軽傷です。脇腹を少し。ルシアンが治療しています」
「バルトが低級相手に?」
ローグレスの眉がわずかに動いた。アルドは肩をすくめる。
「あいつ、緋灼鉱石に浮かれてたんですよ。俺と一緒で」
「お前もか」
「俺は浮かれてました」
素直に言うと、ローグレスは呆れたように息を吐いた。レイスが横から静かに付け加える。
「傷自体は深くありません。任務遂行に支障もありませんでした」
「ならいい。だが、様子は見ておけ」
「はい」
ローグレスは報告書に目を落とし、何点か確認をした。鉱山の稼働再開時期。第二部隊へ戻すべき警備案件が残っているか。鉱夫達からの追加要望。採掘量への影響。アルドは答えられる部分だけ答え、細かい部分はレイスが補った。こういう時のレイスは本当に頼りになる。アルドが「たぶん」「大体」「そんな感じ」と言いそうになる箇所を、先回りして数字と状況で埋めていく。ジークはそのやり取りを聞きながら、静かに書類をまとめていた。報告が一通り終わると、ローグレスは椅子の背に体を預けた。
「疲れているところ悪かったな。今日はもう休め」
「ありがとうございます」
アルドは頭を下げた。そこで終わるはずだった。だが、ローグレスの視線が、アルドの胸元へ一瞬だけ向いた。
「……それで、目的のものは見つかったのか?」
アルドはぴくりとした。レイスが横で目を細める。
「目的のもの?」
「緋灼鉱石だ」
ローグレスは当然のように言った。
「お前、あの鉱山の資料を見た時から目の色が変わっていただろう」
アルドは固まった。レイスが静かに口元を押さえた。笑いをこらえている顔だった。
「ローグさん……気づいてたんですか」
「途中でな。最初は、剣を傷めてまで任務を優先するお前のことだから、鉱山の安全を気にしているのだと思った」
「最初は」
「途中から、明らかに鉱石の話を聞く時だけ反応が違った」
「……」
「分かりやすすぎる」
ローグレスは呆れたように、けれど少しだけ楽しそうに言った。アルドは片手で顔を覆った。
「くそ……バレてた……」
「バレないと思っていたのが不思議だ」
レイスが言う。
「お前は黙ってろ」
ローグレスは小さく笑った。
「まあいい。下心があったとしても、任務は果たした。鉱夫達も守った。それは変わらん」
その言葉に、アルドは少しだけ胸を撫で下ろした。
「で、見つかったのか」
「小片だけです」
アルドは懐から布包みを取り出し、机の上に置いた。布を開くと、緋色の鉱石片が灯火を受けて鈍く光った。ローグレスが目を細める。
「小さいな」
「分かってます」
「剣一本には足りんだろう」
「分かってますって」
アルドは少しむきになった。
「でも、当てがあります。これだけじゃ無理でも、混ぜ方とか、芯材とか、補助素材次第でどうにかなるかもしれない。俺、この後鍛冶屋に行って聞いてきます」
「今からか?」
「今からです」
「夜だぞ」
「夜でも起きてる鍛冶屋です」
ローグレスはしばらくアルドを見た。そして、諦めたように息を吐いた。
「ほどほどにな」
「はい!」
「報告後に寄り道して朝帰り、などはするなよ」
「しません!」
レイスが横で小さく呟いた。
「どうだかな」
「しねぇよ!」
アルドは叫びかけて、総隊長室だと思い出し、声を抑えた。ローグレスは笑いを噛み殺した顔で手を振った。
「行ってこい」
「ありがとうございます!」
アルドは布包みを大事に懐へ戻し、勢いよく部屋を出ようとした。
「アルド」
背中に、ローグレスの声が落ちた。呼び止める声は、さっきまでより少しだけ低かった。アルドが振り返ると、ローグレスは机の引き出しを開けていた。中から取り出したのは、手のひらより少し大きい小包だった。古い布に包まれ、紐で固く結ばれている。ローグレスはそれをしばらく見下ろしてから、無造作に投げた。
「持っていけ」
アルドは慌てて受け止めた。思ったより重い。
「何ですか、これ」
「鍛冶屋に見せろ」
アルドは紐を解き、布を少しだけ開いた。中から覗いたのは、緋色だった。ただ赤いだけではない。灯火の下で、内側に火を閉じ込めているような濃い緋色。アルドが鉱山で手に入れた小片よりも大きく、色も深い。緋灼鉱石だった。
「……ローグさん!」
アルドの声が掠れた。
「これ、いいんですか!?」
「昔、ある鉱山の救援で礼として預かったものだ。俺が持っていても使い道がない」
「でも」
「お前の剣になるなら、その方がいい」
ローグレスは、少しだけ目を逸らした。いつもの総隊長の顔ではない。不器用な父親が、子供に何かを渡す時のような顔だった。
「この前は、久々に旨い酒が飲めた」
ぼそりと、言い訳のように言う。
「その礼だ。受け取れ」
アルドは小包を両手で握った。鉱石の冷たさが、布越しに手のひらへ伝わる。だが、その奥に確かに熱があるような気がした。ローグレスが渡したのは、ただの素材ではなかった。アルドがこれから進む道を、黙って許すようなものだった。剣を新しくするということは、ただ武器を変えるだけではない。
これまで戦ってきた自分から、次の自分へ進むことだ。その背中を、ローグレスは押した。
「ローグさん!」
アルドの顔が、一気に明るくなる。
「絶対、また誘いますからね!」
ローグレスは机上の書類へ目を戻し、片手で追い払うように振った。
「早く行け。さすがの鍛冶屋も閉めるぞ」
「はい!」
アルドは小包を大事に抱えたまま、勢いよく部屋を出た。レイスもローグレスへ一礼し、その後に続く。廊下に出るなり、レイスが言った。
「浮かれすぎだ」
「浮かれるだろ!」
「さっきよりひどい」
「ローグさんが緋灼鉱石くれたんだぞ。しかもこの大きさだぞ。浮かれない方がおかしい!」
「まあ、それは否定しない」
「だろ?」
「顔はうるさいけどな」
「お前までそれ言うな」
アルドは足早に歩き出した。煤鳩亭とは逆方向。王都の古い職人通りへ。レイスは数歩ついてきたが、途中で足を止めた。
「俺は煤鳩亭へ行く」
「え、来ないのか?」
「鍛冶屋でのお前の浮かれ顔を見続けるより、先に食事をしたいからな」
「薄情者」
「現実主義者だ」
「じゃあ、後で合流する」
「閉店までには来いよ」
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるって!」
レイスは疑わしげな顔をしたが、それ以上は言わず煤鳩亭の方へ歩いていった。アルドは職人通りへ走った。夜の鍛冶屋は、まだ赤い火を抱えていた。煙突から細い煙が上がり、戸の隙間から炉の赤が滲んでいる。夜の職人通りはほとんど眠っていたが、この店だけはまだ金属を叩く音がしていた。アルドは表の戸を叩いた。
「誰だ、こんな時間に」
中から低い声が返ってくる。
「アルドです!」
「帰れ」
「まだ何も言ってない!」
「お前がこの時間に来る時は面倒ごとだ」
「今回は夢の話です!」
「もっと面倒くせぇ」
戸が乱暴に開き、煤で顔を黒くした鍛冶師が姿を現した。年季の入った腕。太い首。睨むような目。アルドの剣を何度も見てきた男だった。
「で、何だ」
アルドはまず、自分の布包みを開いた。鍛冶師の表情がわずかに変わる。
「……緋灼か」
「小片ですけど」
「見りゃ分かる」
鍛冶師は鉱石を指先でつまみ、灯火にかざした。炉の赤に重なって、緋灼鉱石が小さく燃えるように光る。しばらく無言だった。アルドは息を止める。
「剣、作れますか」
「これだけじゃ無理だ」
「そう言うと思った」
アルドは、もう一つの小包を作業台に置いた。ローグレスから受け取ったものだ。鍛冶師の目が細くなる。
「何だ、それ」
「餞別です」
「誰から」
「ローグさんから」
アルドは布を開いた。大きな緋灼鉱石が姿を見せる。その瞬間、鍛冶師の顔つきが変わった。職人の目だった。人を見る目ではなく、素材を見る目。色、重さ、内側の筋、魔力の通り、火の入り方。すべてを一瞬で測るような目。
鍛冶師は無言で鉱石を持ち上げた。炉の光へ近づける。緋色の奥に、細い金の線のようなものが走った。
「……こいつは」
低く呟いた声に、アルドの胸が跳ねた。
「いいものなんですか」
「黙ってろ」
「はい」
鍛冶師は鉱石を何度も角度を変えて見た。指で軽く弾き、耳を澄ませる。次にアルドが持ってきた小片も並べ、二つを見比べた。やがて、口の端をわずかに上げる。
「面白ぇ」
「作れますか」
「作れるか、じゃねぇ」
鍛冶師は鉱石を作業台に置いた。
「これは、作らなきゃ損だ」
アルドの目が見開かれる。
「それって」
「ああ」
鍛冶師は炉の赤を背にして、はっきりと言った。
「お前用の剣を打てる」
胸の奥で、何かが鳴った気がした。
「ただし、ただ緋灼を混ぜりゃいいってもんじゃねぇ。お前は剣に炎を纏わせるだけじゃない。剣の内側まで火を通す。普通の鋼じゃ耐えられない。緋灼を刃全体に散らしても駄目だ。火は通るが、剣が暴れる」
「暴れる?」
「魔力の流れが荒くなる。斬るたびに火力は出るが、刃が持たねぇ。下手すりゃ、お前の手元で割れる」
アルドは思わず腰の剣に触れた。鍛冶師はそれを見て鼻を鳴らした。
「今の剣がそうなりかけてる。よくここまで使ったもんだ」
「こいつには助けられてきたんで」
「分かってる。だから次は、助けられるだけの剣じゃなく、お前についてこられる剣にする」
その言葉に、アルドは顔を上げた。鍛冶師は古い帳面を引っ張り出し、作業台に広げる。
「芯には耐久力に秀でた鋼材を使う。外側は熱を逃がしすぎず、溜め込みすぎない層を作る。緋灼は芯材と刃の間、魔力の通り道に沿わせる。余った分は鋼へ薄く噛ませて、切れ味と強度を底上げする」
鍛冶師の太い指が、帳面の上を走る。
「柄にも細工がいる。お前は剣ごと燃やす馬鹿だからな。手元に熱が返りすぎないよう、魔力を逃がす導線を入れる。炎を受け止めて、刃へ流し、余分な熱を逃がす。そういう剣だ」
「つまり」
「お前の炎を、ただ耐える剣じゃねぇ」
鍛冶師はアルドを見た。
「お前の炎を、剣の力に変える剣だ」
アルドは言葉を失った。炉の火が鳴る。熱が頬を撫でる。まだ形もない剣が、そこにあるような気がした。緋色の鉱石が、これから鋼と混ざり、叩かれ、焼かれ、冷まされ、何度も何度も鍛えられる。
その果てに生まれるものが、自分の手に収まる。夜骸を斬るために。仲間を守るために。まだ見ぬ夜を越えるために。
「……最高じゃないですか」
アルドが呟くと、鍛冶師は口の端を上げた。
「最高にするんだよ。俺が」
「お願いします!」
「まだ話は終わってねぇ」
「あ、はい」
「緋灼は足りる。質もいい。だが、それだけじゃ駄目だ。補助素材がいる。耐久鋼材、熱導石、柄芯に使う硬木、あと魔力を受け流すための細工材。金も時間もかかる」
「素材は?」
「これと、これと、これだ」
鍛冶師が帳面に名を書き足す。必要素材の名がいくつか並べられる。聞き覚えのあるものもあれば、初めて聞くものもあった。だが、そのうち二つにアルドは心当たりがあった。
「これ、王都の軍備倉庫に少量あります。こっちは前に第四部隊の補修材で見た」
「なら当てはあるな」
「あります」
「だったら作れる」
もう一度、鍛冶師は言った。作れる。その言葉が、頭の中で何度も響いた。アルドは拳を握った。
「お願いします!」
「正式な依頼書と素材を持ってこい。あと、今の剣はしばらく無茶に使うな」
鍛冶師は腰の剣へ顎をしゃくる。
「限界に近い。次に派手に炎を通したら、刃が欠けるだけじゃ済まねぇ。最悪、戦闘中に折れる」
アルドは腰の剣に手を置いた。この剣には何度も助けられてきた。だが、限界は近い。
「分かりました」
珍しく素直に頷くと、鍛冶師は少しだけ眉を上げた。
「お前が素直だと気味が悪いな」
「今は機嫌がいいんです」
「だろうな。顔がうるさい」
「顔がうるさいって何ですか」
「そのまんまだ」
鍛冶師は緋灼鉱石を布に戻し、アルドの方へ押し返した。
「今日は持って帰れ。正式に預かるのは依頼書を持ってきてからだ。こういう素材は、手順を飛ばすと後で面倒になる」
「分かりました」
「それと」
鍛冶師は炉の方を見た。
「こいつは、ただの替えの剣にはならねぇぞ」
アルドは息を止めた。
「お前が本気で使えば、剣もお前に馴染む。お前の炎の癖を覚える。振るたびに、火の通りが変わる。雑に扱えば壊れるが、ちゃんと付き合えば、長く持つ」
「長く」
「ああ」
鍛冶師は短く言った。
「長く使える剣にはできる」
長く使える。その一言だけで、アルドには十分だった。まだ形もない剣が、少しだけ待ち遠しくなる。
「……お願いします」
今度の声は、さっきよりも静かだった。鍛冶師は頷いた。
「礼は完成してから言え」
「完成したら毎日言います」
「やめろ、迷惑だ」
追い出されるように鍛冶屋を出る。夜風が頬を撫でた。アルドはしばらくその場に立ち尽くし、それから小さく拳を突き上げた。
「よし……!」
作れる。新しい剣が。炎に耐え、炎を受け止め、炎を力へ変える剣が。自分のための剣が。そして、きっと。
これから先の夜を、共に越えていく剣が。足取りは自然と軽くなった。そのまま煤鳩亭へ向かう。夜の通りを歩きながら、アルドは何度も必要素材を頭の中で繰り返した。軍備倉庫のどこにあったか。誰に許可を取ればいいか。第四部隊に頼むならフィオナか、マリエルに話を通した方が早いか。ローグレスに相談すればいけるか。考えるだけで楽しかった。
煤鳩亭の灯りが見えた時、アルドは勢いよく扉を開けた。
「お待たせ!」
店内は、静かだった。椅子がいくつか机に上げられている。床は半分ほど拭き終わっていた。カウンターではドランが皿を片づけている。客は、いない。アルドは扉を開けた姿勢のまま固まった。
「……あれ?」
ドランが顔を上げる。
「遅ぇよ」
「みんなは?」
「帰った」
「えっ」
「打ち上げは終わった」
「ええっ!?」
アルドは店内を見回した。本当に誰もいない。ノルもルカもセレスもエディンもいない。ゴードもいない。レイスすらいない。
「レイスは?」
「飯食って帰った」
「あいつ……!」
薄情者。いや、最初からそういう男だった。アルドはがっくり肩を落とした。
「せっかくいい話持ってきたのに……」
「いい話?」
ドランが皿を置いた。アルドは一瞬で顔を上げた。
「新しい剣、作れることになりました!」
言った瞬間、声が弾んだ。ドランは片眉を上げる。
「ほう」
「手に入れた緋灼鉱石は小片だけだったんですけど、ローグさんが追加でくれて。鍛冶屋が言うには、あとは補助素材を揃えればいけるって。必要な素材にも当てがあって。まだ正式に依頼はしてないんですけど、作れるって言われました」
「そうか」
ドランは短く言った。だが、その目元は少しだけ柔らかかった。
「そりゃ祝いだな」
「はい!」
「飯、食ったか」
「まだです」
「だと思った」
ドランは厨房へ引っ込むと、すぐに鍋を火にかけた。
「残りもんでいいなら出してやる。今日は奢りだ」
「え、いいんですか!?」
「祝いだって言ったろ」
「ありがとうございます!」
「声がでけぇ。近所迷惑だ」
「すみません!」
アルドはカウンター席に座った。出てきたのは、肉と豆を煮込んだ濃いスープ、少し硬めのパン、焼き直した芋、それから冷えた果実水だった。残りものだとドランは言ったが、湯気の立つ皿は十分すぎるほど温かかった。
「いただきます」
アルドは夢中で食べた。空腹だったことを、食べ始めてから思い出した。鉱山から戻って、報告して、鍛冶屋へ走って、ずっと何も食べていなかった。スープが胃に染みる。
「うまい……」
「そりゃよかった」
ドランはカウンターの向こうで食器を拭いている。
「新しい剣か」
「はい」
「今の剣も長かったな」
「そうですね」
アルドは腰の剣を見た。何度も夜骸を斬った剣。何度も炎を纏わせた剣。欠けて、直して、また欠けて、それでも一緒に戦ってきた剣。
「捨てるわけじゃないです」
「分かってる」
ドランは静かに言った。
「でも、進む時はある」
アルドは少し黙り、それから頷いた。
「はい」
食事を終える頃には、店の灯りも少し落とされていた。ドランに何度も礼を言い、アルドは煤鳩亭を出た。夜はさらに深くなっていた。隊舎へ戻る道すがら、アルドはずっと新しい剣のことを考えていた。どんな形になるのか。刃は少し厚めになるのか。炎を通した時、どんな音がするのか。浮かれている自覚はあった。
でも、浮かれずにはいられなかった。隊舎に戻ると、廊下は静かだった。ほとんどの隊員はもう自室に戻っている。治療室の明かりも落ちていた。ルシアンとバルトも、もう休んだのだろう。食堂の前を通りかかった時、小さな声が聞こえた。こんな時間に珍しい。
アルドが覗くと、食堂の隅にノルとルカがいた。机の上には、酒の瓶が一本。ノルの前には酒の入った杯。ルカの前には果実水の杯が置かれている。
「何してんだ、お前ら」
アルドが声をかけると、ノルが顔だけ向けた。
「飲んでる」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かないで」
「ルカは?」
「僕は果実水」
ルカは両手でグラスを包むように持っていた。いつもの軽い笑みはない。眠そうでもない。ただ、少し静かだった。アルドは椅子を引いて、二人の向かいに座った。
「混ざっていいか」
「もう飲み物ないよ」
「水でいい」
「地味」
「うるせぇ」
アルドは水差しから自分の杯に水を注いだ。しばらく誰も話さなかった。ノルは酒を一口飲み、ルカは杯の中の果実水を見つめている。
「第二部隊の任務、どうだった」
アルドが聞くと、ルカの指がわずかに動いた。ノルは黙っていた。ルカは少し笑った。
「普通だったよ」
「普通か」
「うん。街道沿いの巡回と、盗賊の残党確認。大きい戦闘じゃない」
「なら、何でそんな顔してる」
ルカは笑みを消した。しばらくして、ぽつりと言った。
「僕の方が強かったんだ」
アルドは黙って続きを待った。
「第二部隊の人達より、たぶん僕の方が速いし、近くで戦えば僕の方が倒せる。盗賊が出た時も、最初に反応できたのは僕だった。相手の動きも見えてた」
ルカは杯を回した。果実水の表面が揺れる。
「でも、助けられなかった」
「怪我人が出たのか」
「うん。死んではない。でも、第二部隊の人が一人、肩を斬られた。もう一人は足をやられた。多分もう現場には出られない」
「お前は?」
「無傷」
その言い方が、少しだけ硬かった。
「僕だけ無傷だった。相手も倒した。でも、二人は怪我した」
ノルが静かに酒を置いた。
「ルカは、自分が全部止められたはずだと思ってる」
「止められたよ」
ルカは即答した。
「僕がもっと早く動けば。もっとちゃんと周りを見てれば。第一部隊にいる時みたいに動けてたら、たぶん止められた」
「第一部隊にいる時みたいに?」
アルドが聞き返す。ルカは少し視線を落とした。
「第一部隊なら、アルドさんが前に出る。レイスさんが全体を見る。ノルさんが変な角度から撃つ。セレスさんが有利な環境を作る。ルシアンさんが守る。バルトさんが敵を吹っ飛ばす。ゴードさんが受ける。もし何かあっても、エディンさんが目を光らせてくれてる。僕は、自分が一番動きやすい場所に飛び込めばいい」
「うん」
「でも、第二部隊だと違った」
ルカは唇を噛んだ。
「僕が速すぎた。僕だけ前に出すぎた。後ろがついてこられなくて、横が空いた。そこを狙われた」
ノルは何も言わない。アルドは水を一口飲んだ。ルカは続けた。
「僕は敵を倒した。でも、助けられなかった。僕の方が強いのに」
その言葉には、子供っぽい悔しさと、子供では済まされない戦場の苦さが混ざっていた。アルドは椅子の背にもたれた。
「強いだけじゃ駄目なんだよな」
ルカが顔を上げた。
「アルドさんでも?」
「俺でも」
アルドは笑った。
「俺も何回もやった。自分が前に出れば片づくと思って突っ込んで、後ろに負担かけたことある。レイスに死ぬほど怒られた」
「レイスさんに?」
「めちゃくちゃ怒られたぞ。『お前が勝手に勝っても隊が崩れたら意味がない』って」
「言いそう」
「言う。すごく言う」
ノルが少し笑った。アルドはルカを見る。
「第一部隊で動けるのは、お前が第一部隊の動きを知ってるからだ。俺たちも、お前の速さを知ってる。だから合わせられる。でも第二部隊は違う。お前の速さを知らない。お前も第二部隊の間合いを知らない」
「……うん」
「だったら、最初から全力で前に出るんじゃなくて、半歩だけ合わせるんだ」
「半歩?」
「全部合わせたら、お前の良さが死ぬ。合わせなさすぎると、周りが死ぬ。だから半歩だけ」
ルカは黙って聞いていた。
「最初の一手で味方の速さを見る。二手目で敵を崩す。三手目で、自分が一番速く動ける場所に入る。お前ならできる」
「……そんな簡単に?」
「簡単じゃない」
アルドは即答した。
「でも、お前ならできる」
ルカの目が少し揺れた。ノルがグラスを揺らしながら言った。
「あと、助けるって考えすぎない方がいい」
「え?」
「全部助けようとすると、全部見ようとする。全部見ると、逆に遅れる」
ノルは淡々と言った。
「ルカは速いんだから、全部守るより、敵が一番嫌がりそうな場所を潰した方がいい。結果的に味方が助かる」
「敵が一番嫌な場所」
「そう」
ノルの目が細くなる。
「味方を守る動きと、敵を壊す動きは同じじゃない。でも、敵が一番嫌がる動きをすれば、守れる時がある」
「ノルさんっぽい」
「褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんか」
ルカが少し笑った。その笑い方を見て、アルドは少し安心した。ルカは強い。若いが、強い。だが、強いからこそ、自分ができなかったことを許せない時がある。自分より弱い誰かが傷ついた時、それを自分の失敗だと思ってしまう。
アルドにも覚えがあった。だからこそ、軽く流したくなかった。
「ルカ」
「うん」
「怪我した第二部隊の二人は、お前を責めたか」
「責めてない」
「なら、次に会った時、ちゃんと話せ」
「何を?」
「次はどう動くか」
ルカは瞬きをした。
「謝るだけで終わるな。次に一緒に戦うなら、どうすればお互い動きやすいか話せ。お前が速すぎるなら、どこまで出るか先に決める。第二部隊が守りを固めるなら、お前は崩し役に回る。そういうのを決めるだけで、次は変わる」
ルカはしばらく黙っていた。それから、ゆっくり頷いた。
「そっか」
「ああ」
「謝って終わりじゃなくて、次の話をすればいいんだ」
「そういうこと」
ルカは杯を置いた。その顔に、ようやく年相応の柔らかさが戻った。
「アルドさんって、たまにちゃんと隊長みたいなこと言うよね」
「たまにって何だよ」
「褒めてる」
「本当か?」
「うん。今の、すごくよかった」
まっすぐ言われて、アルドは言葉に詰まった。ノルが横でにやりとする。
「照れてる」
「照れてねぇ」
「耳赤い」
「赤くない」
「赤いよ、アルドさん」
「ルカまで言うな」
ルカは笑った。軽く、けれどさっきよりずっと楽そうに。
「ありがとう。ちょっと整理できた」
「ならよかった」
「明日、第二部隊の人達に話してみる」
「ああ」
「じゃあ、僕そろそろ寝るね」
ルカは立ち上がり、空になった果実水の杯を持って流しへ向かった。足取りは軽い。いつものルカに戻ったように見えた。
「おやすみ、アルドさん。ノルさん」
「おう、おやすみ」
「おやすみ」
ルカは食堂を出ていった。その背中を見送りながら、アルドは水を飲み干した。
「いいこと言ったでしょ、俺」
「自分で言うと台無し」
ノルが即座に返す。
「でも、悪くなかった」
「だろ?」
「調子乗るな」
アルドは笑って立ち上がった。今日は疲れた。でも、悪い夜ではなかった。新しい剣は作れる。煤鳩亭では飯を奢ってもらえた。ルカにも、少しは隊長らしいことを言えた。胸の奥がほくほくしていた。
「ノル、飲みすぎるなよ」
「分かってる」
「ルカのこと、ありがとな」
「別に。たまたまいたから」
「そういうことにしとく」
ノルは返事の代わりに、軽く手を振った。アルドは食堂を出た。廊下を歩く足取りは、やっぱり少し軽かった。自室へ向かいながら、鍛冶屋に言われた素材の名をもう一度思い出す。明日、ローグレスに相談しよう。軍備倉庫の確認も必要だ。第四部隊にも話を通すべきかもしれない。やることが増えた。
それが嬉しかった。アルドが廊下の角を曲がった後、食堂にはノルだけが残った。酒の瓶は、もう半分ほど空いている。ノルは自分の杯を見つめ、ふっと息を吐いた。
「……若いなぁ」
誰に言うでもなく呟く。その時、食堂の入口に影が差した。ノルが顔を上げるより早く、ルカが戻ってきた。
「あれ、忘れ物?」
ノルが聞く。ルカは首を横に振った。
「ううん」
そして、さっきまでノルの前に置かれていた酒の杯を手に取った。ノルは止めなかった。ルカは中に残っていた酒を、ためらいなく飲み干した。喉が小さく動く。杯が空になる。
「……寝るんじゃなかったの」
ノルが静かに言う。ルカは杯を置いた。顔は赤くなっていない。酔った様子もない。ただ、いつもより少しだけ目が暗かった。
「寝るよ」
そう言って、ルカは笑った。さっきアルドに見せた笑顔と、よく似ていた。けれど、同じではなかった。
「おやすみ、ノルさん」
「……おやすみ」
ルカは今度こそ食堂を出ていった。ノルは空になった杯を見つめていた。しばらくして、酒瓶に栓をする。
「燃費悪すぎ」
小さく呟いた声は、誰にも届かなかった。その頃、隊舎の別の部屋では、バルトが一人で窓辺に立っていた。治療は済んでいる。脇腹の傷はもう痛まない。部屋の中は暗い。明かりはつけていない。
窓の外には、月があった。白く、静かで、嫌になるほど綺麗な月だった。バルトは腕を組み、何も言わずにそれを見上げていた。いつもなら、腹が減っただの、酒が足りないだの、アルドがずるいだの、何かしら口にしている男が、今は黙っている。月明かりが、バルトの横顔を薄く照らした。
その目が何を見ているのか。何を思い出しているのか。誰も知らない。ただ、夜だけが静かに更けていく。王都の上で、月は変わらず白く輝いていた。
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