煤鳩亭の黒豹
朝焼けの下で見るナカ村は夜とはまるで違う顔をしていた。
麦畑は薄い金色に光り、家々の屋根には夜露が残っている。
昨夜、夜骸が這った道には泥と砕けた石の跡が残っている。それでも村人たちはもう戸を開けていた。
誰も大声では笑わないが、朝を迎えた村には昨夜なかった息遣いが戻っていた。
「本当に、ありがとうございました」
村長は何度目か分からない礼を繰り返し腰が折れるほど深く頭を下げた。
隣では昨夜腰を抜かした農夫が気まずそうに鍬を抱えていた。
「いや、被害が少なくてよかったです」
アルドはそう言って馬の手綱を軽く引いた。
広場に並ぶのは長距離移動に慣れた頑丈な馬たちだ。荷袋には最低限の装備と保存食、予備の弾薬や治療具が積まれている。
その中でバルトの馬だけがなぜか妙に疲れた顔をしていた。
「おいおい、なんだその顔は。俺様を乗せられる栄誉に震えてるのか?」
バルトが首を撫でると馬はぶるると鼻を鳴らし露骨に顔を背けた。
「嫌がられてるじゃないですか」
ルカが隣の馬に軽々と跨りながら言った。
「違ぇよ。照れてんだよ」
「馬が?」
「馬だって照れるだろ」
「バルトさん相手に?」
「お前、今日はやけに刺してくるな」
「いつも通りです」
ルカが涼しい顔で返すと物見台の方から戻ってきたノルが長銃を背負いながらぼそりと呟いた。
「馬、可哀想」
「ノルまで!?」
「だって可哀想でしょ」
「俺様のどこを見て馬に同情してんだよ!」
「重さ」
「直球!」
バルトが叫ぶとセレスが小さく笑った。
「大丈夫よ。馬も仕事だから」
「慰め方が雑!」
「事実だもの」
その横でルシアンが馬の鼻先へ手を伸ばすとよく懐いているらしい馬は彼女の金髪に顔を寄せ甘えるように鼻を鳴らした。
「今日もお願いね」
ルシアンが柔らかく笑う。
「いい子だなぁ、お前は」
アルドが横からその首を撫でようとすると馬は一歩引いた。
「……なんでだよ」
「アルド、火の匂いが残ってるんじゃない?」
ルシアンが笑いを堪えながら言う。
「ちゃんと消したぞ」
「馬には分かるのかも」
「隊長なのに馬に避けられてる」
ルカがすかさず言った。
「ルカ、お前最近ほんと遠慮ないな」
「第一部隊に入って学びました。遠慮してるとバルトさんに全部持っていかれます」
「どういう意味だ若造!」
「そのままの意味です」
レイスは馬上で留帳を開いて昨夜の記録に目を通していた。その手元をアルドが覗き込む。
「まだ書くことあるのか?」
「ある。村の防衛状況、夜骸の形状、戦闘時の反応、周辺地形。お前が見ていないところも含めて記録しておく必要がある」
「俺も見てたぞ」
「見ていたことと観察していたことは違う」
「朝から手厳しいな」
「朝だから言ってる。夜明け前のお前は眠そうで聞いてない」
「否定できねぇ」
アルドが肩をすくめると村長が恐る恐る声をかけた。
「あの……黒豹の隊長さん」
アルドは振り向いた。
「どうした?」
「やはり、うちの村にも、祈りの像か何かを置くことはできんのでしょうか」
その言葉に周囲の空気がわずかに沈んだ。
祈りの像は白天還教が管理する白い小像だ。
大きな村や街道沿いの集落に置かれ夜の怪物を遠ざけると信じられている。
ナカ村にはそれがない。何にも守られず、ただ王都に近いというだけでこれまで大きな被害を免れてきた。
レイスが留帳を閉じた。
「申請は可能です。ただ、設置には教会と王家の判断が必要になります。俺たちだけで約束はできません」
村長の顔に落胆が浮かぶ。
「そう、ですか……」
「ですが、今回の件は報告します。夜骸が出た事実と、村の防衛状況も含めて」
「お願い致します」
再び頭を下げた村長を前にアルドは少しだけ黙ってから口を開いた。
「約束はできない。でも、見捨てるつもりもない」
村長が顔を上げる。
「俺たちは王都に戻る。けど、何かあればまた来る。だから、夜に無理はするな。昨夜みたいに、変に立ち向かおうとするな」
農夫がぎくりと肩を揺らすとアルドはそちらへ目を向けた。
「あんたは勇敢だった。でも、あれは死ぬ」
「……はい」
「家族がいるなら、死なない方を選べ」
責める声ではなかった。農夫は唇を噛んだ後に深く頷いた。
「……はい」
農夫の様子にルシアンが少し安心したように目を細める。エディンは藤色の髪を揺らし村人たちへ手を振った。
「じゃあねぇ。夜は早めに戸締まりするのよぉ」
「おねえさん達、また来てね!」
昨夜の子供の呼び声にルシアンが馬上から手を振り返す。
「うん。今度は怖いものが出てない時にね」
「約束!」
「約束」
その言葉を合図に第一部隊が馬を進めるとナカ村の家々が少しずつ後ろへ遠ざかっていった。
冷たい朝風の中、村を離れるにつれて昨夜の焦げた泥の匂いが薄れ、代わりに湿った草と土の匂いが強くなる。
まだ人通りの少ない王都への街道に馬蹄の音が一定の調子で響いていた。
アルドとレイスを先頭にゴードとバルトが続き、中央にはルシアン、セレス、エディンがいる。
ルカは退屈そうに馬上で銃を手入れし、ノルは長銃を抱えたまま周囲へ目を配っていた。
「ルカ、馬上で銃を分解するな。落とすぞ」
レイスが前を向いたまま言った。
「落としませんよ」
「前にもそう言って弾倉を落とした」
「あれはバルトさんが急に歌い出したからです」
「俺様の歌が美声すぎて手元が狂ったってことか?」
「騒音で集中力が削られたってことです」
「同じようなもんだな!」
「同じじゃないです」
ノルが横から呟く。
「同じだったら困る」
「おいノル、最近俺様に厳しくないか?」
「最近?」
「前からという意味だね」
セレスがさらりと言う。
「お前ら全員、俺様で遊んでねぇか?」
「今気づいたのか」
アルドが笑う。
「カシラまで!」
街道に響いたバルトの声にゴードの馬が驚いたように耳を揺らした。その首をゴードが無言で撫でて落ち着かせる。
その様子にルシアンがくすくす笑う。
「バルトさんがいると、帰り道が眠くならなくて助かりますね」
「だろ? 俺様は部隊の太陽だからな!」
「太陽というより、昼間から鳴く鳥って感じだけど」
セレスが言った。
「もっと格好いい鳥にしてくれ!」
「煤鳩?」
「店の名前じゃねぇか!」
エディンが口元に手を当てて笑う。
「いいじゃない、バルトちゃん。煤鳩亭の看板鳥みたいでぇ」
「俺様が看板鳥なら、客が溢れるな」
「騒がしくて逃げるんじゃない?」
ノルが言う。
「ノル!」
「何?」
「ちょっとは遠慮しろ!」
「してるよ」
「どこが!?」
街道に広がる笑い声を馬上で聞きながらアルドは少しだけ目を細めた。
夜骸を倒して村を離れ大きな怪我もなく王都へ戻る。アルドはそんな帰り道が好きだった。
バルトの声にルカが小憎らしく返し、レイスの小言にルシアンが笑う。任務帰りでも皆いつもの調子だった。
「アルド」
隣からレイスが低く呼んだ。
「何だ?」
「ナカ村の件、ローグ様には少し強めに報告する」
「祈りの像の話か」
「ああ。設置できるかは別として、何もない村に夜骸が出た事実は残すべきだ。王都近郊だから安全、という判断は危うい」
「だな」
アルドが目を向けた先では朝靄の向こうに王都の影が見え始めていた。白祈塔の頂が薄い光を受けて白く浮かぶ。
王都に近づくほど荷馬車や巡礼者、商人、農夫たちの往来が増えた。第一部隊の黒い隊服が目に入ると人々は自然に道を空ける。
「黒豹だ」
誰かが囁く。
「第一部隊か」
「昨夜、ナカ村に出たって聞いたぞ」
「もう戻ってきたのか」
その声にバルトが片手を上げた。
「おう! 黒豹様のお帰りだ!」
「バルトさん、様は余計です」
レイスが即座に言った。
「いいだろ、ちょっとくらい」
「よくありません。王都討祓軍の品位に関わります」
「レイスは固いなぁ」
「バルトさんが柔らかすぎるんです」
「俺様は筋肉で硬いぞ」
「そういう話ではありません」
ルカが小さく笑った。
「レイスさん、今のは流石にバルトさんの勝ちじゃないですか?」
「どこがだ」
「勢い」
「議論において勢いは勝敗基準にならない」
「バルトさんの会話、だいたい勢いしかないですけど」
「若造ぉ!」
セリュヴェイン王国の王都の門をくぐる頃には太陽もかなり高くなっていた。第一部隊を見た門番がすぐに敬礼する。
「第一部隊、お帰りなさい!」
「おう。ただいま」
アルドが軽く返す。
王都の中はナカ村とは比べものにならないほど賑やかだった。
石畳を馬車が行き交い、朝市からは威勢のいい声と焼きたてのパンの匂いが届く。
水路のせせらぎに混じって遠くから白天還教の鐘も聞こえた。
白祈塔のあるここでは夜の恐怖が薄い。人は守られていると思える場所では声を大きくできる。
第一部隊は軍の厩舎へ馬を預けた。馬を降りたバルトが腰をぐるぐる回す。
「よし! 飯だな!」
「まだです」
レイスが即答した。
「なんでだよ!」
「報告が先です」
「俺様も?」
「アルドと俺だけで十分です。バルトさん達は先に煤鳩亭へ行っていてください」
「おっ、いいのか!」
「騒ぎすぎないでください」
「任せろ!」
「全く信用できませんね」
レイスの冷たい声など聞いていない顔でバルトはルカの肩へ腕を回そうとしたが、するりと避けられた。
「ルカ、逃げんな。席取り行くぞ」
「席取りに腕力いります?」
「いる。煤鳩亭だぞ」
「常連席、空いてると思いますけど」
「万が一があるだろ!」
「ないと思います」
ノルが長銃を肩に掛け直しながら言った。
「でも早く行かないと、バルトがうるさい」
「結局行くんですね」
ルカが笑う。
ルシアンがアルドへ振り向いた。
「アルド、レイス。先に行ってるね」
「ああ。すぐ行く」
「ローグレスさんにもよろしくね」
レイスが小さく頷く。
「伝えておく」
エディンは藤色の髪を揺らしにこにこと手を振った。
「じゃあ、おねぇさん達は先に一杯やってるわねぇ」
「飲みすぎ注意ですよ、エディンさん」
「やぁねぇ、アルドちゃん。おねぇさん、そんなに飲まないわよぉ」
その場にいた第一部隊のほぼ全員が微妙な顔をした。
「……何かしらぁ?」
「いや」
アルドは目を逸らした。
「何でもないです」
「そう?」
エディンは楽しそうに笑ってバルト達と王都の通りへ歩いていった。
残ったアルドとレイスは王都討祓軍本部へ向かう。
本部は白祈塔を望む高台の一角にあり、黒い石壁の上では赤い旗が揺れている。
門の両脇には夜骸討伐を象徴する獣章が刻まれていた。
第一から第五まで異なる獣章のうち、第一部隊を示すのは黒豹だ。民間から広まった呼び名がいつしか隊の象徴にもなっていた。
廊下を歩く二人に他部隊の隊員たちがちらりと視線を向けた。羨望や警戒、呆れや憧れまで混じった目だった。
第一部隊は強く派手で、そのぶん問題も多い。嫌でも目立つ部隊だった。
「アルド」
「分かってる。余計なこと言わない」
「本当に分かっているならいい」
「俺を何だと思ってる」
「時々、勢いで会議室の空気を壊す隊長」
「間違ってねぇのが腹立つな」
レイスは答えず総隊長室の前で足を止めて扉を叩いた。
「レイスです。アルドもいます」
「入れ」
低い声が返った。
中に入ると書類の山がまず目に入った。机だけでなく脇の棚や椅子の端、床の箱にまで積まれている。
その中心で筆を走らせているのが王都討祓軍総隊長のローグレスだった。
年齢を重ねた顔には深い皺があるが、背筋は曲がっておらず眼光も鈍っていない。
黒い隊服の上に羽織った外套が椅子の背に重く落ちていた。
部屋の隅には黒みがかった灰色の髪を後ろで束ねた痩せた男がいる。若くも老けても見える、年齢の読みにくい顔だった。
地味な文官服で棚の前に立ち書類を分類しているのはローグレスの執務を補佐する秘書官ジークだ。
アルドたちが入ってきても口は挟まず一度だけ静かに会釈して手元の書類へ視線を戻した。
「戻ったか」
ローグレスは筆を置いて顔を上げた。
「怪我は」
「第一部隊、全員負傷なし。ナカ村の被害も軽微です」
レイスが一歩前に出て報告する。
「夜骸は雑級一体。岩と土で構成された不定形型。中心部を破壊し、アルドが炎で処理しました。周辺に追加反応はありません」
「村人の死傷者は」
「軽傷者が数名。ルシアンとセレスが処置済みです」
「そうか」
ローグレスの短い吐息に混じる安堵をアルドは聞き取った。
この人はいつもまず部下の怪我を聞き次に民間人の被害を確かめてから戦果や手柄を問う。
部屋の隅でジークが棚から数枚の書類を抜き取り別の束へ移していた。報告を聞きながら必要なものを整理しているらしい。
「ナカ村には何もありません」
レイスが続けた。
「祈りの像も、塔も、防衛設備もない。王都近郊だからという理由で見過ごされていますが、昨夜のような例が出た以上、報告を上げるべきです」
「村長にも同じことを言われたか」
「はい」
「お前はどう見た、アルド」
ローグレスに視線を向けられたアルドは腕を組んで少し考えた。
「雑級一体であれだけ怯える村です。今まで大きな被害がなかったのは、本当に運がよかっただけだと思います」
「うん」
「祈りの像を置けるかは分かりません。でも、次に何か出たら、村人だけじゃどうにもならない」
「そうだな」
ローグレスは椅子に深く座り直した。
「分かった。ナカ村の件はこちらで上げる。教会側への打診もしておく」
「お願いします、ローグ様」
頭を下げたレイスにローグレスは頷き、それから少し表情を緩めた。
「それで」
「はい」
「お前たちは、この後どうする」
アルドとレイスは顔を見合わせてアルドが先に口を開いた。
「煤鳩亭です。みんな先に行ってます」
「だろうな」
ローグレスが微かに笑う。
「バルトが我慢できるはずがない」
「本人は腹ごなしの後で腹が減ったと言っていました」
レイスが真顔で告げる。
「相変わらずだな」
「相変わらずです」
ローグレスの目元がほんの少し柔らかくなった。
第一部隊の話をするとたまに総隊長ではなく子供の近況を聞く親のような顔になる。アルドはそれを見るのが少し好きだった。
「ローグさんも来ません?」
アルドが言った。
「たまにはいいでしょ。ナカ村、死者なしで終われたんです。飯くらい一緒に」
レイスも静かに続けた。
「ローグ様が来れば、きっと皆喜びます。バルトさんは騒ぎますが」
「それはいつものことだ」
「はい。いつものことです」
ローグレスは黙って机の書類へ目を落とした。別の村の報告や部隊配置、負傷者名簿に国軍からの照会まで積み上がっている。
窓から差し込む朝の光が紙の端を白く照らしていた。その沈黙の間もジークは部屋の隅で書類を整え続ける。
「……今日は遠慮しておく」
ローグレスは言った。
「この後、第二と第五の報告も聞かねばならん。午後には国軍との調整もある」
「そっか」
アルドは少し残念そうに言った。
「無理にとは言いません」
レイスが頭を下げるとローグレスは二人へ目を向けた。
「誘ってくれたことは嬉しい」
その言葉にアルドは少し笑った。
「じゃあ次は来てくださいよ」
「予定が合えばな」
「それ、来ない人の言い方ですよ」
「総隊長とはそういうものだ」
淡々と返すローグレスのそばでレイスが小さく息を吐いた。
「アルド、ローグ様を困らせるな」
「困らせてねぇよ。誘ってるだけだ」
「ローグ様は忙しい」
「忙しいから誘ってるんだろ。飯くらい食わないと倒れるぞ」
その言葉にローグレスはわずかに目を細めた。
「お前に心配されるとはな」
「俺だって心配くらいしますよ」
「そうか」
短い返事に少しだけ温かさが滲んだ。
ローグレスが机の引き出しから小さな革袋を取り出して放るとアルドは片手で受け取った。
「何です?」
「酒代の足しだ」
「おっ」
「ただし、飲みすぎるな。特にエディンとバルトを見張れ」
「エディンさんは見張れる気がしませんね」
レイスが即答した。
「同感だ」
ローグレスは真面目な顔で頷いた。
部屋の隅でジークが静かに咳払いをした。笑いを誤魔化したようにも、ただ喉の調子を整えただけのようにも聞こえる。
ローグレスがそちらを見る。
「ジーク」
「失礼しました、ローグレス様」
ジークは書類の束を抱えたまま穏やかに頭を下げた。
「こちらの整理は続けておきます」
「ああ」
それだけのやり取りをアルドは特に気に留めなかった。秘書官がローグレスの執務室で書類を整理しているだけだ。
アルドは革袋の重みを確かめてにやりと笑った。
「ありがたく使います」
「領収を切らせるなよ」
「切りませんって」
「お前は切らなくても、レイスが切りかねん」
レイスが眼鏡の奥で真顔になる。
「必要であれば」
「必要ない」
ローグレスとアルドの声が揃って少しだけ沈黙が落ちた後、三人とも小さく笑った。
少なくともこの瞬間は、報告も任務も終わっていた。
「行け」
ローグレスが言った。
「今日は休め。お前たちは、無事に戻った。それだけで十分だ」
アルドは軽く拳を胸に当てた。
「了解」
レイスも姿勢を正す。
「失礼します、ローグ様」
総隊長室を出ようとアルドが扉に手をかけたところで背後から声がした。
「……アルド、レイス」
二人が振り返るとローグレスは机に向かったまま少しだけ視線を逸らしていた。
怒っても悩んでもいないのに、いつものように真っすぐ言い切れず言葉の置き場に困っているように見える。珍しい顔だった。
「何ですか、ローグさん」
アルドが首を傾げるとローグレスは小さく息を吐いた。
「今日は行けん」
「はい」
「だが……」
言葉がそこで止まりローグレスはわずかに眉を寄せた。
「また、誘え」
低い声がいつもより少しだけ硬く、不器用に響いた。
「予定が合うかは分からん。だが……誘われるのは、悪くない」
アルドは一瞬きょとんとしてからぱっと笑った。
「もちろん」
レイスも目元をわずかに緩めた。
「では、次もお誘いします。ローグ様」
「ああ」
短く答えたローグレスの耳のあたりがほんの少し赤い。
アルドは何も言わなかった。口にすればたぶん次から誘いにくくなる。
「じゃ、行ってきます」
「騒ぎすぎるな」
「無理ですね」
「努力しろ」
「努力はします」
アルドが笑って今度こそ扉を開けるとレイスも一礼して部屋を出た。
扉が閉まる直前にアルドが一度だけ中を見るとローグレスはもう書類に目を落とし、その背後でジークが書類を棚へ戻していた。
扉が閉まるとアルドは廊下で革袋を軽く放り上げた。
「よし。ローグさんのおごりだ」
「全額使うなよ」
「分かってる」
「本当に?」
「半分くらい」
「駄目だ」
レイスが即座に言う。
「隊の共有費に戻す分を残せ」
「お前、こういう時ほんと夢がないな」
「夢で会計は成立しない」
「酒場で言う台詞じゃねぇ」
「酒場に行く前だから言っている」
二人は並んで本部を出た。昼前の王都は朝よりもずっと賑やかだった。
焼き菓子の匂いが漂う通りに馬車の車輪が石畳を叩く音が響いている。
本部から少し下った通りに煤鳩亭はあった。煤けた灰色の外壁には丸々と太った鳩が黒い羽を広げる看板が掛かっている。
洒落ているとは言い難いが、一度見たら忘れない。
扉へ近づく前から中の騒がしい声が聞こえてきた。
「だから俺様は言ったんだよ! あの泥野郎は俺様が一発で――」
「一発で潰したけど、動いてましたよね」
「ルカ、お前そういう細かいところ拾うな!」
「細かくないです」
「燃費悪いだけじゃなくて燃焼効率も悪い」
「ノル! 今のはうまいこと言ったつもりか!」
「別に」
アルドは扉の前で足を止めてレイスを見た。
「元気だな」
「元気すぎる」
「入るか?」
「入らない選択肢はない」
アルドが扉を開けると温かい空気と香ばしい匂いが流れてきた。
焼いた肉や煮込んだ野菜、濃い麦酒に少し焦げたパンの匂いまで混じっている。
煤鳩亭は昼前だというのに人の声と笑い声で賑わっていた。
奥の大きな丸テーブルは第一部隊が占領している。
バルトはすでに皿を三枚空にし、その隣ではルカが呆れ顔のまま器用に肉を切っていた。
壁際ではノルが長銃を立てかけて麦酒の泡を眺め、ゴードは黙々とパンを食べていた。
セレスとルシアンは何かを話しながら笑っている。
エディンと妙に親しげに話していた看板娘らしき少女がアルドたちに気づいてぱっと顔を明るくした。
「あっ、アルドさん! レイスさん! お帰りなさい!」
煤鳩亭の看板娘ミナは栗色の髪を後ろで結び白い前掛けをつけていた。
ルカより少し上くらいの年だが、常連相手のあしらいは妙に手慣れている。
「ただいま、ミナ」
アルドが手を上げる。
「席、空けてありますよ。というか、皆さんが勝手にいつもの席に座ってます」
「だろうな」
「ローグレス様は?」
ミナが少し期待した顔で聞いた。
「今日は仕事だってさ」
「あー……残念。お父さん、ローグレス様用にいい肉残してたのに」
「その肉、俺様が食う!」
奥から叫ぶバルトへミナが即座に振り返った。
「バルトさんはもう十分食べてます!」
「まだ腹三分目だ!」
「嘘つけ」
ノルが言った。
「腹どこまであるの」
「夢と希望の分だけある!」
「最悪」
「ノルぅ!」
店内の客たちが笑った。黒豹の面々はこの店では珍しくなく常連たちもその騒がしさに慣れている。
むしろ第一部隊が静かな方が不吉だと思う者さえいる。
アルドとレイスが席に近づくとルシアンが嬉しそうに手を振った。
「お疲れ様、アルド、レイス。報告どうだった?」
「問題なし。ローグさんが酒代くれた」
「本当?」
セレスの目がわずかに鋭くなる。
「いくら?」
「おい、まずそこかよ」
「大事でしょ」
「大事だな」
レイスが当然のように頷いた。
「全額使わせない。半分以上は戻す」
「えー」
バルトが露骨に嫌な顔をした。
「ローグレスの旦那からの酒代だろ? 使い切るのが礼儀じゃねぇのか?」
「違います」
レイスが冷静に言う。
「バルトさんの礼儀はだいたい財布に悪い」
「何だと!」
「事実です」
「レイス、今日は俺様に厳しすぎないか!?」
「いつも通りです」
ルカがにこにこと言った。
「ルカ、お前は黙って肉食ってろ!」
「食べてます」
ルカはそう答えながら肉を口に運んでいた。
アルドが笑いながら席に座ると隣には当然のようにルシアンがいた。彼の前へ水の入った杯を置く。
「まず水」
「分かってるって」
「任務明けでいきなりお酒飲むと、またレイスに怒られるよ」
「怒る前提なのか」
向かいに座りながら言うレイスにルシアンはにこりと笑った。
「怒らない?」
「状況による」
「ほら」
「何がほらだ」
アルドは水を飲んだ。冷たさが喉を落ちていくとようやく任務を終えた実感が湧いた。
ナカ村の夜がまだ頭に残っている。泥と石にまみれた夜骸も、怯えていた村人たちも。
最後に浮かんだのは朝焼けの中で手を振っていた子供だった。
けれど今は目の前に仲間たちがいる。
バルトが騒げばルカが笑いそこへノルが横から茶々を入れる。ゴードは我関せず食事を続け、セレスは呆れた顔で眺めていた。
ルシアンも楽しそうに笑っている。少し離れたところではエディンが酒の杯を揺らしていた。
アルドは仲間たちを一度見渡して革袋をテーブルに置いた。
「ローグさんからだ」
「おおおお!」
バルトが身を乗り出す。
「ただし、使いすぎるなってさ」
「そこは聞こえなかった」
「聞け」
笑って杯を持ち上げたアルドに続き他の面々も自分の杯を取った。中身は水や茶、麦酒とばらばらだ。
そこへミナが追加の料理を抱えてきてテーブルの端へ置いた。
「ナカ村任務、お疲れ様でした」
「ありがとな」
アルドは同じ卓を囲む仲間たちを見渡した。全員揃って任務を終えられたのだから今日はそれで十分だった。
「じゃあ」
アルドが杯を掲げる。
「ナカ村の夜が、無事に明けたことに」
レイスが静かに杯を上げた。
「被害軽微と、第一部隊負傷者なしに」
ルシアンが微笑む。
「村の人たちが、今夜は少しでも眠れますように」
バルトが待ちきれない顔で叫ぶ。
「そして飯がうまいことに!」
「台無し」
ノルがぼそりと言うと皆が笑った。
杯が軽く触れ合う小さな音が煤鳩亭の喧騒へ溶けていく。
王都の昼は明るい。
煤鳩亭には笑い声と食器の音が重なり黒豹たちもその中で遅い朝食を続けていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回も明日20時頃更新予定です。




