ナカ村の夜
夜になると村は息を潜める。
ナカ村ではそれが決まりだった。日が沈めば畑仕事は途中でも切り上げる。
井戸端の世間話も子供たちの鬼ごっこも酒場のくだらない笑い声も、月が東の空に白く浮かぶ頃にはぴたりと止む。
戸を閉めて灯りを細くし白き天へ祈る。月に呑まれぬように、今夜も朝を迎えられるように。
けれどその夜、ナカ村の静けさは長くは続かなかった。
「――出たぞ!」
誰かの叫びが夜を裂き家々の隙間から怯えた息が漏れた。泣き出した子供の口を母親が慌てて塞ぐ。
村の外れ、麦畑へ続く細い道の向こうで何かが月明かりの下を這っていた。
最初は崩れた岩の塊に見えたが、輪郭の一部が縮んだかと思えば別の場所が膨らむ。
湿った土と砕けた石を無理やり練り合わせ生き物の真似だけをさせたような塊だった。
腕とも脚ともつかない突起で道を掻くたび表面の小石が擦れ合って乾いた音を立てる。
ところどころから滲む黒い泥だけが月光を受けてぬらりと光っていた。
這うたびに潰れては盛り上がり裂けてはまた繋がる。どこも同じ形を保ってはいなかった。
その奥のどこかから低い音が漏れた。
「ごぼ……ぁ、あ……」
喉を泥で塞がれた獣のような声だった。
村人たちはそれを知っていた。夜に出て人を襲い、家畜を裂き、村を壊す怪物。
夜骸。
ナカ村は何にも守られていない。ただ王都に近いというだけでこれまで大きな被害を免れてきた小さな村だ。
だから夜骸が出ればどうかどこかへ行ってくれと祈りながら朝まで息を殺して耐えるしかない。
「爺さん、下がれ!」
若い男が鍬を握って叫んだ。村の墓守でも兵士でもない、ただの農夫だ。
それでも家の中には妻と子がいる。逃げるわけにはいかなかった。
夜骸がずるりと前へ進み石混じりの泥を道に擦らせて嫌な音を立てる。
農夫が喉を鳴らしながら鍬を握り締めたその時夜骸の体から槍のように尖った土の突起が伸びた。
農夫は死を覚悟した。
「伏せろ!」
鋭い声とともに農夫の頭上を赤い光が走り闇を裂いた炎の刃が土の突起を斬り飛ばした。
砕けた石と泥が地面に散って黒い煙を上げる。農夫は腰を抜かしてその場に倒れ込んだ。
目の前に黒い軍靴が止まった。
見上げた先にいたのは黒を基調に赤を差した隊服の男だった。右肩には白く縁取られた隊章がある。
短い黒髪を夜風に揺らし男は炎を纏った長剣を手に夜骸を見据えていた。
「怪我は?」
農夫は声も出せず何度も首を振った。
「なら家に入れ。戸を閉めて、絶対に出るな」
荒くもなければ怒鳴ってもいない。それでも逆らえない重さのある声だった。
農夫が這うように家へ逃げるのを見届け男――アルドは炎を纏った剣を軽く振った。
「雑級一体。……にしては、村の騒ぎが大きいな」
「当然だろ」
背後から涼しい声が返る。
金髪を後頭部の低い位置でまとめた細身の男――レイスが眼鏡の位置を指で直しながら歩いてきた。
黒い隊服の裾に月明かりが薄く乗っている。アルドの隣に立つにはあまりにも落ち着きすぎた男だった。
「ナカ村は何にも守られていない。村人にとって夜骸一体は十分な災害だ。お前の基準で物を言うな、アルド」
「はいはい。副隊長様は今日も正しいな」
「正しいから言ってる」
アルドが片頬を上げる。その視線の先で夜骸がうねり炎で切り落とされた突起の断面から泥が盛り上がった。
小石を巻き込みながら別の突起が形を成していく。痛みを感じている様子はない。
体のどこが口なのかすら分からない。それでも泥の奥から咆哮が漏れた。
「ご、ぼぉおおおおおおおお――!」
空気が震え戸の内側で村人たちの悲鳴が重なる。
「うるっせぇなぁ!」
夜を割る声とともに大柄な影が横合いから飛び込んだ。赤と金の混じった髪が獅子のたてがみのように揺れる。
バルトは拳を固めると地面を踏み砕く勢いで夜骸へ突っ込んだ。
「カシラ! こいつ俺様がもらっていいか!」
「お前、さっき飯食い過ぎて腹苦しいって言ってなかったか?」
「腹ごなしだ!」
「便利な腹だな」
バルトの拳が夜骸の胴体らしき塊に叩き込まれる。
「大地壱式 岩拳!」
拳を覆った土の魔力が岩のように硬化し鈍い音とともに夜骸の体が大きく歪んだ。
潰れた泥と石の塊が後方へ弾け飛びその土くれが麦畑の柵へ叩きつけられて木片を跳ね上げる。
「おー、飛んだ飛んだ」
軽い声が屋根の上から降ってくる。
屋根瓦の上にしゃがんだ茶髪の少年ルカが両手に小型の銃を持っていた。楽しげで少し生意気な笑みが顔に浮かんでいる。
「バルトさん、雑級相手に力みすぎじゃないですか?」
「あぁ? ルカ、降りてきて同じこと言え!」
「嫌ですよ。近いとうるさいし」
「聞いたかカシラ! こいつ最近俺様への敬意が足りねぇ!」
「昔からだろ」
「カシラまで!?」
そのやり取りに村の空気が一瞬だけ緩み戸の隙間から覗いていた子供がぽかんと口を開ける。
けれど夜骸は止まらず、飛び散った泥がずるずると本体へ戻り地面を転がった石まで吸い寄せられるように塊へ沈む。
潰れたはずの体が再び膨らみ別の形を取り始めるとルカの笑みが消えた。
「再生、というより集合してる」
「雑級でも夜骸だ。油断するな」
レイスの短い忠告が終わるより早くルカは屋根を蹴り月明かりの中で身を翻した。
双銃が連続して火を噴き夜骸の表面に浮いた石を次々と砕く。
空中で右の銃を口にくわえて腰のナイフを抜くと着地と同時に塊の中心へ刃を突き立てた。
だが深く沈んだ刃は泥に絡め取られる。
「っ、重……!」
夜骸の表面が盛り上がり腕のような土塊がルカを包み込むように振り下ろされた。
その一撃を大きな盾が受け止める。重い衝撃音が夜道に響いた。
盾の向こうには巨躯の男、ゴードが立っていた。寡黙な盾役が何も言わず腕に力を込めると盾の表面を土色の魔力が走る。
「大地弐式 堅塞」
低い声とともに夜骸の土塊が盾に弾かれぼろぼろと崩れ落ちた。
ルカはナイフを引き抜いて腰へ戻し口にくわえた銃を手に取った。
「ゴードさん、助かりました!」
軽く跳び退くルカにゴードは小さく頷くだけだった。その横からバルトが覗き込む。
「おいルカ、今のは俺様が助ける場面だろうが」
「遅いんですよ、バルトさん」
「速けりゃ偉いと思うなよ、若造」
「実際、速い方が偉い場面って多くないですか?」
「カシラー! こいつ屁理屈までレイスに似てきたぞ!」
「バルトさん、俺を巻き込まないでください」
レイスが冷たく返す。
その少し後ろでは金髪の少女ルシアンが村人の家の戸口に膝をつき倒れ込んだ老婆の手を取っていた。
老婆を支える掌には水色の魔力が灯っている。
「大丈夫ですよ。怖かったですね。ゆっくり息をしてください」
「す、すまないねぇ……」
「謝らなくていいんです。夜は、怖いものですから」
柔らかな声に老婆が握り込んでいた指から少しずつ力が抜けていく。
すぐ近くではまだ泥と石が砕ける音がしていた。それでも老婆の呼吸は一息ごとにゆっくりと長くなった。
隣では暗めの茶髪を短く切った少女セレスが家の壁にもたれ周囲を見ている。
「ルシアン、そっち終わったら次。あの子、膝擦りむいてる」
「うん。ありがとう、セレス」
「どういたしまして」
セレスは軽く返しながら指先に水の魔力を集めた。そこから細い糸のような水が地面を走り逃げ遅れた子供の足元の泥を払う。
「ほら、転ばない。家に戻って」
「う、うん……」
走り出した子供の頭上へ夜骸から土の触手が伸びた。その根元を風の音とともに細い弾丸が正確に撃ち抜く。
村の物見台では長銃を構えた女、ノルが片目を伏せていた。
幼さの残る顔立ちながら、月光を浴びた横顔はひどく整っていてどこか冷たい。
「危ないなぁ……」
次弾を装填する手つきに無駄はない。
「旋風壱式 導弾」
撃ち出された弾丸に風が絡み夜骸の動きに合わせて軌道を曲げながら盛り上がった土塊の奥へ潜り込む。
内部で何かが弾けると夜骸の体が大きく波打ち半分ほど崩れ落ちた。
「ノル! 俺様の見せ場!」
「まだ言ってるの?」
「言うだろ普通!」
「普通じゃないでしょ」
ノルの返事は雑だったが、口元は少しだけ緩んでいた。
そのやり取りを聞きながらアルドは剣を下げたまま夜骸へ近づく。
崩されても散らされても夜骸は体の端を何本もの触手に変えて土の道を掻きまだ村へ這おうとしていた。
村人たちはその姿に怯えていた。アルドも笑わない。
夜骸との戦いには慣れている。斬ることにも燃やすことにも慣れた。
それでも泥の奥から人とも獣ともつかない声が漏れるたび奥歯の裏が冷えるような感覚だけは消えなかった。
痛みがあるのかも、何を見て村へ這ってくるのかも分からない。それでも止めなければ戸の向こうへ届く。
アルドは家々の隙間に見える人影を一度だけ見て剣を構え直した。
「終わらせる」
刃に沿って炎が走り熱に押された夜気が揺らぐ。
「火炎壱式 炎刃」
炎の刃が一閃して夜骸の中心を断ち泥と石の塊が真っ二つに裂けた。
裂け目から黒い煙が噴き出し這い寄っていた触手がびくりと跳ねる。
泥が寄り集まるより早くアルドは踏み替え二撃目で集まりかけた土塊を横から断つ。
そのまま返した三撃目が黒い泥ごと焼き払った。
形を作り直す場所を失った岩と泥の山が何度か小さく脈打ち、やがて完全に動きを止めた。
村に静けさが戻る。
それでも誰もすぐには声を上げず、戸の内側ではすすり泣きに混じって誰かが祈りの言葉を小さく唱えていた。
ルシアンが立ち上がり胸元で手を組んだ。
「……白き天へ」
祈りはそこで切れた。誰かが続けることもなく、戸の奥から聞こえるすすり泣きだけが残る。
アルドは剣の炎を消した。赤く熱を残した刃から微かな金属の匂いが夜風へ混じる。
「レイス、他は?」
「今のところ反応なし。ルカ、屋根から見えるか?」
屋根へ戻っていたルカの声が降ってくる。
「北側は異常なし。東もなし。西に獣が二匹。夜骸じゃないです」
「ノル」
「こっちもなし。今の一体だけだと思う」
「分かった」
レイスは息を吐き村人たちへ視線を向けた。
「警戒は朝まで継続する。村長に説明して、見回りを組み直そう」
アルドは剣を鞘に収めて村全体を見回す。
「了解。バルト、ゴードさんは村の外周。ルカは屋根伝いに見張り。ノルはそのまま高所。セレスはルシアンの補助。エディンさんは――」
「はぁい、おねえさんは村長さんとお話してくるわねぇ」
いつの間にか綺麗な藤色の髪を揺らす女、エディンが村道の中央に立っていた。柔らかく笑いながら怯えた村人たちへ手を振る。
「もう大丈夫よぉ。黒豹さん達が来たからねぇ」
その一言で閉じていた戸が少しずつ開いた。
黒豹――第一部隊を民間ではそう呼ぶ。その名を聞いただけで子供の肩から少し力が抜け、一人が恐る恐る外へ出てきた。
「く、黒豹の隊長さん……?」
アルドが振り向く。子供は母親の後ろに半分隠れながら、それでも目だけは輝かせていた。
「夜骸、やっつけたの?」
「ああ。もう動かない」
「すごい……!」
その声にバルトが胸を張った。
「だろう! 特に俺様の拳がだな――」
「最後に倒したのはアルドさんですけどね」
屋根の上からルカが口を挟む。
「ルカぁ!」
「事実です」
「お前ほんっと可愛くねぇな!」
「可愛がられる年でもないです」
「十七はまだ可愛がられとけ!」
「バルトさんにだけは可愛がられたくないです」
「カシラぁ!」
アルドが笑う一方でレイスはこめかみを押さえた。
「バルトさん、夜骸処理の直後に騒がないでください。村人が不安になります」
「もう笑ってるけどな」
レイスがちらりと村人たちを見れば張り詰めていた顔にも少しずつ血の気が戻っていた。
泣いていた子供までバルトとルカの言い合いに鼻をすすりながら笑っている。
レイスは小さく息を吐く。
「結果論だ」
「照れんなよ」
「照れてない」
ルシアンが二人のやり取りに小さく笑い子供の頭を撫でた。
「怖かったね。でも、もう大丈夫」
「お姉ちゃんたち、また来る?」
「来ない方がいいんだよ」
ルシアンは困ったように笑う。
「私たちが来る時は、怖いものが出た時だから」
子供は少し考えてから言った。
「じゃあ、怖いものが出なくても来て」
ルシアンが目を丸くすると隣でセレスが小さく吹き出した。
「いい口説き文句じゃない」
「もう、セレス」
ルシアンは照れたように笑い、それから子供へ頷いた。
「うん。いつか、遊びに来るね」
アルドはその横顔を見ていた。月明かりの下でもルシアンの笑顔は柔らかい。
すぐそばには夜骸の残骸があり焦げた泥と金属の匂いもまだ残っている。
村人たちの怯えは消えず朝までは誰も安心して眠れない。
それでもこういう笑顔を守るために自分たちはここにいる。
「アルド」
レイスが呼んだ。
「村長への報告、お前も来い。隊長だろ」
「分かってるよ」
「あと、さっきの『雑級一体にしては』は不用意だ。後で反省しろ」
「今じゃなくていいだろ」
「今でもいいくらいだ」
「お前、夜骸より手厳しいな」
レイスは眼鏡の奥で目を細めた。
「夜骸は説教しても改善しない。お前は稀に改善する」
「稀かよ」
アルドが肩をすくめた時村の端で小さな鐘が鳴った。
白天還教の小さな祈り場に吊るされた鐘だ。夜明けを告げるのではなく、夜の無事を願って鳴らされる。
細く頼りない音に合わせ村人たちは静かに頭を垂れた。
アルドが一度だけ空を見上げると月はまだ高く、雲の切れ間から落ちる白い光が夜骸の黒い泥を鈍く照らしていた。
すぐに視線を戻す。
「カシラ!」
村道の向こうでバルトが手を振っている。
「見回り終わったら飯食っていいか! 村長が芋出してくれるってよ!」
「お前、腹ごなししたばっかだろ!」
「だから腹減ったんだよ!」
屋根からルカの呆れた声が落ちる。
「燃費悪すぎません?」
物見台の上ではノルまで同じことを呟いた。
「燃費悪すぎ」
「二人して言うんじゃねぇ!」
叫ぶバルトを見てセレスが笑う。そのやり取りには構わず、ゴードは外周へ歩いていった。
少し離れたところではエディンが村長の肩を優しく叩き、ルシアンは怪我人の手を握っていた。
レイスは留帳を開いてさらさらと書きつける。
ナカ村。雑級夜骸一体。被害軽微。第一部隊、負傷者なし。
書き終えた文字はしばらく紙面にとどまり、やがて留帳へ沈むように消えた。記録だけがその内側に残る。
「よし。朝まで気抜くなよ」
アルドの声に黒豹たちはそれぞれの持ち場へ散っていく。
夜はまだ終わらない。それでもナカ村にはほんの少しだけ朝の気配が戻り始めていた。
この作品を見つけてお読みいただきありがとうございます。
本作は毎日20時頃更新です。
この作品は比較的ゆっくりと物語が進むので一緒にゆっくり楽しんでもらえると嬉しいです。
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