旧材木道の跡
旧材木道の再確認任務が下りたのは、赤い短鎖についての報告を上げた翌日だった。任務内容は単純だった。王都北東、旧材木道周辺の危険度確認。夜骸残骸の有無。盗賊襲撃跡の補足調査。
旧道を民間人が利用している痕跡がないかの確認。要するに、前回の後始末である。ただし、第一部隊全員で向かうわけではなかった。
「ルカは?」
隊舎の前で、アルドが周囲を見回した。いつもなら軽い足取りで銃の調子を確かめている少年の姿がない。両手の銃も、からかうような笑顔も、今日は見当たらなかった。レイスが馬具を確認しながら答える。
「第二部隊の任務に参加している」
「いつものか?」
「あぁ、昨日のうちに応援要請が来ていた」
「肩、まだ治りきってないだろ」
「ルシアンも同じことを言った」
レイスは淡々と言った。
「本人は行くと言っていた。第二部隊側も、前線で無理をさせるつもりはないと」
「ほんとかよ」
「建前としては」
「建前じゃ駄目だろ」
アルドは眉を寄せた。ルシアンも不安そうに治療鞄を抱えている。
「私、もう一回止めた方がよかったかな」
「無理に止めても、ルカは笑って抜け出すわよ」
セレスが言った。
「そういうところ、妙に頑固だもの」
「僕は大丈夫です、って顔で無茶する」
ノルが短く付け足す。
「腹立つ」
「ノルが言うと重いな」
アルドが苦笑する。バルトは拳帯を巻きながら唸った。
「第二部隊か。ヴァルムのおっさん、ルカをちゃんと見てくれてるんだろうな」
「ヴァルム隊長はバルトさんよりよほど部下を見る」
レイスが言った。
「何で俺様と比べた!?」
「分かりやすいので」
「失礼すぎるだろ!」
ゴードが盾を背負い、低く言う。
「ルカなら戻る」
「そうですね」
アルドは頷いた。それでも、胸の中に小さな引っかかりは残った。ルカがいない。それだけで、隊の音が少し違う。いつもより軽口が一つ少ない。
銃を回す音がない。だが、任務は待たない。
「行くぞ」
アルドが言うと、第一部隊は王都の門へ向かって歩き出した。
◇
旧材木道へ向かう道は、昨日よりも静かだった。空は晴れている。昼の光は明るく、夜骸が姿を現す時間ではない。だが、旧道に近づくほど、木々の影は濃くなった。使われなくなった道というのは、ただ人が通らなくなるだけではない。草が伸びる。
石が沈む。枝が張り出す。人の手が離れた場所へ、少しずつ別のものが戻ってくる。アルドは馬上で周囲を見た。
「昼なのに、嫌な感じだな」
「日が落ちればさらに悪くなる」
レイスが答える。
「だから確認に来ている」
「分かってる」
バルトが前方を睨む。
「盗賊が出たら殴っていいのか?」
「国軍案件です」
レイスが即答した。
「じゃあ襲ってきたら?」
「その場合は殴ってください」
「よし!」
「嬉しそうにしないでください」
「難しいこと言うなよ!」
ノルが周囲の木々を見た。
「昨日より静か」
「盗賊も夜骸も、毎日同じ場所に出るわけじゃないわ」
セレスが言う。
「でも、痕跡は残る」
エディンは最後尾近くで、いつものようにふわりと笑っていた。
「旧道って、人が忘れたものが溜まりやすいのよねぇ」
「エディンさん、それ怖い言い方ですよ」
アルドが振り返る。
「あら、本当のことよ」
「だから怖いんですって」
ルシアンは黙っていた。普段なら誰かの軽口に笑うところだが、今日は旧道の木々を見つめている。アルドは馬を少し寄せた。
「ルシアン」
「うん?」
「大丈夫か」
「大丈夫」
返事は早かった。早すぎた。アルドは少しだけ眉を上げる。ルシアンもそれに気づいて、困ったように笑った。
「……大丈夫、って言うのが早かったね」
「早かったな」
ルシアンは旧道の奥を見る。
「昨日、エルル様がここを走ったんだと思うと、少しね」
風が木々を揺らす。葉の擦れる音が、遠い悲鳴の名残のように聞こえた。
「怖かっただろうなって。あの子、ちゃんと歩いて、逃げて、助けを待って……すごく頑張ってたんだなって」
バルトが少しだけ黙った。それから、いつもより低い声で言う。
「次はもっと早く行けばいい」
ルシアンはバルトを見る。バルトは真剣だった。単純な言葉だ。けれど、単純だからこそ、余計なものがなかった。
「うん」
ルシアンは小さく頷いた。
「そうだね」
レイスはそのやり取りを聞きながら、何も言わなかった。ただ、手元の留帳を閉じた。
◇
盗賊の襲撃地点に着くと、そこにはまだ昨日の痕跡が残っていた。壊れた馬車はすでに回収されている。倒れていた護衛兵たちの遺体もない。だが、地面に残った轍、踏み荒らされた草、血の染み、折れた枝までは消えていなかった。セレスが膝をつき、地面の跡を見る。
「荷車の跡があるわ」
「盗賊のか?」
アルドが聞く。
「たぶんね。馬車の轍とは幅が違う。軽い荷車を何台か使ったんじゃないかしら」
「盗品運搬用か」
レイスが言った。
「護衛隊を崩して、積み荷か対象を奪う。その場に長く留まらず、荷車で撤収。動きとしてはかなり組織的です」
ノルが少し離れた木の根元を指差した。
「あれ」
そこには、焦げた焚き火跡があった。昨日できたものではない。灰は古く、何度か使われた形跡がある。近くには粗末な布切れ、骨の残り、酒瓶の破片が落ちていた。ゴードが低く言う。
「野営跡だ」
「盗賊がここを使ってたんですか?」
ルシアンが眉を寄せる。
「一度きりではないな」
レイスは周囲を見ながら言った。
「街道から外れ、旧道に入りやすく、王都から近すぎず遠すぎない。待ち伏せには向いています」
「胸糞悪いな」
アルドは地面を見た。少し離れた場所に、赤いものが落ちている。拾い上げると、それは短い鎖の欠片だった。全部ではない。輪が二つだけ。
それでも、深い赤色が残っている。前に回収したものと同じ色だった。
「またこれか」
バルトが嫌そうに言った。
「やっぱり同じ連中?」
「断定はできません」
レイスが欠片を布に包む。
「ただ、関連は濃い」
「普通の野盗ではない、か」
セレスが呟いた。
「普通の野盗って何だって話だけどね」
「少なくとも、昨日の連中はただ暴れていただけではありません」
レイスの声は冷静だった。
「襲撃場所を選び、退路を確保し、同じ印を身につけていた。組織です」
「でも村からも奪ってるかもしれないんでしょ」
ノルが言う。
「なら最悪」
「そうだな」
アルドは赤い欠片を見た。
「誰かを恨んでるにしても、関係ない人間を巻き込んだら盗賊だ」
その言葉に、誰も反論しなかった。今この場にあるのは、事情ではない。残った被害の跡だけだった。
◇
旧材木道の奥へ進むと、空気がさらに湿った。道の両側に古い石積みが残っている。木材を運んでいた頃、荷車が谷へ落ちないように積まれたものだろう。今は崩れかけ、苔が覆い、ところどころ根に押し広げられている。ノルが先に足を止めた。
「いる」
全員の空気が変わる。まだ日は落ちきっていないが木々の重なった深い影の中で、土が不自然に盛り上がっていた。雑級だ。黒ずんだ土と枯葉が混じった塊が、湿った音を立てて起き上がる。一体。
二体。三体。さらに奥から、獣のような低い唸りがした。低級。狼とも山猫ともつかない四肢の黒い獣が、崩れた石積みの上に現れる。背には枯れ枝のような棘が並び、口だけが裂けるように開いていた。
「雑級三、低級一」
レイスが即座に判断する。
「周囲に民間人なし。速やかに処理する」
「了解」
アルドは剣を抜いた。その瞬間、刃が小さく鳴った。きん、と。かすかな音だった。だが、レイスの目が動く。
「アルド」
「後ろだ」
低級が石積みを蹴った。跳ぶ。一直線にアルドへ向かってくる。アルドは剣を構え、身体強化で踏み込んだ。横へ逃げず、低級の懐へ入る。爪が振るわれるより早く、剣の柄で顎を打ち上げ、空いた足で腹を蹴り飛ばした。低級の体が宙に浮く。
「火炎弐式 炎装!」
アルドの全身と刃に炎がまとわりつく。だが、いつもより火の通りが少し鈍い。アルドは眉を寄せた。
「火炎壱式 炎刃!」
炎の刃が低級の肩を裂く。黒い獣が地面へ叩きつけられ、すぐに起き上がった。
「浅いか」
「雑級、来る!」
セレスが水を走らせる。足元に薄い水膜を広げ、這い寄る雑級の進路を滑らせた。動きの鈍った雑級へ、ノルの弾丸が跳ぶ。一発目は崩れた石積みに当たり、角度を変えて雑級の側面へ撃ち込まれた。二発目は木の根元を跳ね、背後から別の雑級を貫く。三発目は正面から、核の近くへ。
「見てる場所、違う」
ノルは短く言った。雑級が崩れる。バルトは低級へ突っ込もうとして、レイスに止められた。
「バルトさん、足場を壊さないでください」
「分かってる!」
「本当に?」
「本当に!」
「参式は禁止です」
「使わねぇよ!」
バルトは大地の魔力を拳に込める。
「大地壱式 岩拳!」
低級が横へ逃げようとしたところへ、拳を叩き込む。直撃ではない。地面を打ち、跳ね上がった石片で進路を塞ぐ。
「こっちだ!」
低級が反応し、バルトへ向かう。その隙にアルドが再び踏み込んだ。剣を振るう。刃が低級の前脚を切り裂く。しかし、また音が鳴った。
きし、と。今度はアルドにも分かった。
「……何だ?」
「アルド、剣を下げろ!」
レイスの声が飛ぶ。だが、低級は待たない。裂けた口を開け、アルドの肩へ噛みつこうとする。アルドは剣を引く余裕がなかった。身体を沈め、膝を低級の胸へ叩き込む。動きが止まった瞬間、剣ではなく左足を軸に回り、右足で低級の横面を蹴り抜いた。
低級がよろめく。
「近づくな」
レイスが横から入り、風を纏わせた剣で低級の傷口を広げた。
「離れろ」
さらに蹴りで低級の前脚を払う。体勢が崩れたところへ、ゴードが盾で押し込んだ。
「止める」
低級の体が石積みへ叩きつけられる。セレスが水を細く伸ばし、低級の脚を絡め取った。
「今よ!」
ノルの弾丸が核近くを撃つ。低級の動きが一瞬止まる。アルドは剣を握り直した。レイスが鋭く言う。
「炎を通しすぎるな!」
「分かってる!」
アルドは炎を大きく広げなかった。刃の先にだけ集中させる。
「火炎弐式 炎牙!」
鋭い突きが、低級の胸奥を貫いた。核が砕ける。低級はびくりと震え、石積みの下へ崩れ落ちた。残った雑級は、バルトとノルがすぐに処理した。静けさが戻る。
だが、レイスの視線は夜骸の残骸ではなく、アルドの剣に向いていた。
「見せろ」
「何だよ」
「剣だ」
「後でいいだろ」
「今だ」
レイスの声が硬かった。アルドは肩をすくめ、剣を差し出す。レイスは刃を受け取り、光にかざした。沈黙。その沈黙で、アルドも少し嫌な予感がした。
「まずいのか?」
「まずい」
即答だった。レイスは刃の根元を指差す。
「ここに欠けがある。小さいが深い。それと、刃の中心がわずかに歪んでいる。熱を通しすぎた跡だ」
「昨日の中級か?」
「おそらくな。炎牙を押し込んだ時、かなり負荷がかかったはずだ。今日の戦闘でさらに広がった」
セレスが近づいて覗き込む。
「本当ね。色も少し変わってる」
「今すぐ折れる?」
ルシアンが不安そうに聞く。
「今日明日で折れるとは言わない」
レイスは言った。
「だが、この使い方を続ければ持たない。お前の火力に、剣が耐えきれていない」
アルドは自分の剣を見た。訓練兵時代からずっと使ってきた剣だ。手に馴染み、炎の流し方も分かっている。何度も夜骸を斬り、何度も仲間を守ってきた。その刃に、細い欠けが走っている。
「……俺が雑に使ったからか」
「それもある」
「そこは否定しろよ」
「事実だ」
レイスは淡々と返す。
「だが、単に雑というだけではない。お前の魔力出力が上がっている。中級以上を相手にするなら、今の剣では限界が近い」
バルトが腕を組む。
「なら、もっと頑丈な剣にすりゃいいだろ」
「簡単に言うな」
ノルが言う。
「でも、必要」
ゴードも頷いた。
「武器が折れれば、前線が崩れる」
アルドは剣を受け取った。重さはいつもと同じはずだった。だが、少しだけ違って感じた。
「戻ったら、ローグさんに相談するか」
「相談はする」
レイスが言う。
「それと、当面は炎を無駄に通すな。特に弐式以上は必要な時だけにしろ」
「分かった」
「本当に分かったか」
「分かったって」
「お前の分かったは信用ならない」
「ひどいな」
「実績だ」
セレスが小さく笑った。
「でも、今回はレイスの言うことを聞いた方がいいわよ。剣が折れたら、あなた蹴りだけで戦うつもり?」
「いや、蹴りだけは無理だろ」
「さっき蹴ってたじゃない」
「それとこれは別だ」
少しだけ空気が緩む。だが、アルドは剣の欠けから目を逸らせなかった。自分が強くなれば、それでいいと思っていた。けれど、強さに道具が追いつかないことがある。そんな当たり前のことを、初めて突きつけられた気がした。
◇
旧材木道の調査は、日が傾く前に終わった。確認できたのは、盗賊の野営跡、赤い短鎖の欠片、複数の荷車跡、そして雑級三体と低級一体の発生地点。村人や商人が直近で通った痕跡もあった。完全に使われていない道ではない。だからこそ危険だった。
「封鎖するか、警告を出すか」
アルドが言った。
「それを決めるのは国軍と管区役人だ」
レイスが答える。
「俺たちは危険度を報告する」
「でも、報告だけじゃ間に合わないこともある」
「だから、今回は強めに書く」
レイスは留帳を開いた。
「旧材木道、民間利用痕跡あり。盗賊野営跡あり。夜骸発生確認。警備・通行管理の早急な見直しが必要」
「強めだな」
「事実だ」
「ならいい」
ルシアンは旧道の奥を見つめていた。エルルが逃げた道。護衛が倒れた場所。夜骸が現れた影。そこに今は、昼の光が落ちている。
「ルシアン」
アルドが声をかける。
「帰るぞ」
「うん」
ルシアンは頷いた。
「帰ろう」
その声は、朝より少し落ち着いていた。
◇
王都へ戻る道中、バルトはずっと不満そうだった。
「やっぱり盗賊出なかったな」
「出てほしかったのか」
アルドが聞く。
「殴れるなら殴りたかった」
「正直だな」
「だってよ、貴族令嬢襲って、村の近くで野営して、旧道に人追い込むような連中だぞ」
バルトは拳を握った。
「気に入らねぇ」
「それは同感です」
レイスが言った。バルトは驚いた顔をする。
「お、レイスもか」
「当たり前です。ただし、怒りだけで動くなと言っているんです」
「分かってるって」
「本当に?」
「本当に!」
ノルがぼそっと言う。
「怪しい」
「ノル!」
セレスは笑いながら、アルドの剣を見る。
「帰ったら鍛冶師にも見せた方がいいわね」
「そうだな」
アルドは剣の柄に手を置いた。いつもの重み。だが、いつも通りではない。今のままでは、いつか折れる。そう思うと、少しだけ背筋が冷えた。
エディンが隣へ馬を寄せる。
「アルドちゃん」
「はい?」
「武器も、持ち主についていくのは大変なのよ」
「何ですか、それ」
「そのままの意味」
エディンは微笑んだ。
「あなたが強くなるなら、あなたを支えるものも変わらないとねぇ」
アルドは返事に困った。レイスが横から言う。
「珍しくまともなことを言いましたね」
「あら、いつもまともよ」
「そうですか」
「疑いが深いわねぇ」
アルドは小さく笑った。その笑いは、少しだけ硬かった。
◇
その日の報告で、ローグレスは赤い短鎖の欠片よりも、まずアルドの剣の損傷に目を向けた。
「剣を見せろ」
総隊長室。机の向こうで、ローグレスが言った。アルドは少し気まずそうに剣を差し出す。ローグレスは刃を確認し、眉を寄せた。
「よくこれで戦ったな」
「戦闘中は気づかなくて」
「気づけ」
「すみません」
レイスが横から淡々と言う。
「中級戦での熱負荷、今日の低級戦での追加負荷が原因と思われます。アルドの魔力出力に剣が耐えられていません」
「だろうな」
ローグレスは剣を返した。
「修理はさせる。ただし、根本的な解決にはならん」
「根本的?」
アルドが聞く。
「素材だ」
ローグレスは短く答えた。
「今の剣は悪いものではない。だが、お前の炎をこれ以上受けるには限界がある」
「じゃあ、どうすれば」
「調べる」
ローグレスは書類を一枚引き寄せた。
「火属性の高出力魔法に耐える素材。王都内の鍛冶師と、第四部隊の素材記録に当たらせる」
「第四部隊?」
「医療だけが第四の仕事ではない。残骸分析、素材反応、魔力損耗の記録もある」
「へぇ」
「感心している場合か」
ローグレスは少しだけ呆れた顔をした。
「当面、無茶な出力は控えろ」
「レイスにも言われました」
「なら二人分聞け」
「はい」
ローグレスは次に、机上の布包みを見た。その中には、赤い短鎖の欠片がある。
「盗賊の痕跡は」
レイスが報告する。
「野営跡、荷車跡、赤い短鎖の欠片。複数回利用された形跡があります。旧材木道が盗賊の待機・逃走経路として使われている可能性が高いです」
「国軍へ回す」
「はい」
「だが、旧道の夜間危険度は王都討祓軍でも記録する。第五部隊に旧道利用状況を確認させる」
「了解しました」
ローグレスは深く息を吐いた。
「盗賊が人を追い、夜骸がそれを襲う。嫌な繋がり方だな」
「はい」
レイスは頷く。
「被害が重なります」
「そうだな」
ローグレスは窓の外を見た。王都は、昼の光の中にあった。夜になれば、その外側に別のものが出る。だが、昼にも敵はいる。それを、昨日から嫌というほど思い知らされていた。
◇
その夜、煤鳩亭では酒ではなく茶が出された。理由は単純だった。アルドの剣の件で、ルシアンが「今日はお酒を飲んで浮かれる日じゃない」と言ったからだ。誰も逆らわなかった。バルトだけは少し残念そうだったが、ミナが蜂蜜入りの温かい茶を出すと機嫌を直した。
「これうまいな!」
「静かに飲んでね」
ミナが笑う。
「はい!」
「声」
「はい……」
アルドは自分の剣を横に置き、茶を飲んだ。レイスはその向かいで報告書の写しを確認している。
「ここでも書くのかよ」
「確認だけだ」
「休めよ」
「お前に言われたくない」
「俺は休んでる」
「剣が欠けても気づかない休み方はやめろ」
「根に持つなぁ」
「根に持つのではなく、記録している」
「怖い」
ルシアンが微笑む。
「でも、本当に気をつけてね。剣が折れたら、アルドが危ないんだから」
「分かってる」
「本当に?」
「今日はみんなそれ聞くな」
「信用がないから」
ノルが言った。
「つらい」
「自業自得」
セレスが茶碗を置く。
「でも、武器の話は大事ね。アルドだけじゃなくて、私たち全員、強くなれば今まで通りじゃ済まなくなるかもしれない」
「そうですね」
レイスが頷く。
「敵の等級が上がれば、こちらの消耗も変わる。武器、魔力、身体、全部です」
バルトが腕を組んだ。
「なら全部鍛えりゃいい」
「単純」
ノルが言う。
「でも、間違ってはいない」
ゴードが続けた。エディンは茶を揺らしながら笑った。
「黒豹ちゃんたちは、まだ強くなるのねぇ」
「ならないと困りますよ」
アルドが言う。
「夜骸も、昼の敵も増えてる」
「昼の敵、か」
レイスが小さく呟いた。赤い短鎖。旧材木道。組織立った盗賊。まだ名前も、目的も、規模も分からない。
ただ、普通の野盗ではない。それだけは分かっていた。アルドは欠けた剣を見た。夜には夜骸がいる。昼には人がいる。
どちらも、守るものを壊しに来る。なら、どちらも止めなければならない。簡単な話だ。簡単ではないだけで。
「レイス」
「何だ」
「明日、鍛冶師のところ付き合ってくれ」
「最初からそのつもりだ」
「さすが」
「お前を一人で行かせたら、見た目が格好いいだけの剣を選びそうだからな」
「選ばねぇよ」
「選ぶだろ」
「……ちょっとは見るかも」
「ほらな」
皆が笑った。その笑い声は、煤鳩亭の木壁に柔らかく染み込んだ。旧材木道には、まだ跡が残っている。赤い短鎖の盗賊も、どこかで息を潜めている。アルドの剣には、小さな欠けがある。
不安は消えない。第一部隊はそのまま同じ卓を囲み、冷めかけた料理へ手を伸ばした。いつもの煤鳩亭の音が、少しずつ戻ってきた。
今回もお読みいただきありがとうございました。
引き続き毎日20時頃の更新になりますので、よろしくお願いします。




