赤い短鎖
翌朝の第一部隊隊舎には、重たい沈黙が落ちていた。戦闘で疲れているからではない。夜骸の中級と戦ったからでもない。貴族令嬢を救出した緊張が、まだ尾を引いているからでもなかった。原因は、机の上に積まれた報告紙だった。
「……多いな」
アルドは腕を組んで、机の上を見下ろしていた。紙束が三つある。一つ目は、盗賊襲撃について。二つ目は、旧材木道付近での夜骸群との遭遇について。三つ目は、貴族令嬢エルルの護送と、煤鳩亭での一時保護について。
さらに横には、赤い短鎖についての覚書が置かれていた。
「昨日言っただろ。書くことが多いって」
レイスは椅子に座り、筆を動かしながら言った。
「お前、こうなるの分かってたなら減らしてくれよ」
「起きたことは減らない」
「そこを何とか」
「現実を削るな」
レイスは容赦なく返した。アルドは唸った。
「盗賊、夜骸、中級、護衛隊壊滅、貴族令嬢、煤鳩亭。詰め込みすぎだろ」
「俺に言うな」
「いや、誰かに言いたい」
「壁にでも言え」
レイスは筆を止めずに言った。その横で、ルカが肩に巻かれた包帯を触っていた。
「僕の負傷報告もあります?」
「ある」
「浅いってことで」
「浅くない」
ルシアンが即座に言った。
「ルカ、昨日もそう言ってたけど、ちゃんと裂けてたからね」
「でも動けます」
「動けるかどうかと、怪我が浅いかどうかは別」
「はい」
ルカは素直に頷いた。バルトが椅子の背もたれに腕を乗せながら、感心したように言う。
「ルシアンに言われるとみんな大人しくなるよな」
「バルトも大人しくして」
「はい」
「早い」
ノルが呟いた。セレスは窓辺で髪をいじりながら笑う。
「まあ、昨日は誰も大怪我しなくてよかったじゃない」
「ルカは怪我した」
ノルが言う。
「僕だけ強調しないでください」
「事実」
「ノルさん、最近ちょっと僕に厳しくないですか」
「普通」
「その普通が怖いんですよ」
ゴードは黙って盾の革紐を確認していた。昨日の戦闘で、盾そのものに損傷はない。ただ、衝撃を受けた留め具が少し緩んでいる。エディンは机の隅に座り、茶を飲みながら全員を見ていた。
「昨日は賑やかな任務だったわねぇ」
「賑やかで済ませる内容じゃないですよ」
レイスが言う。
「盗賊団、夜骸群、中級個体、対象の精神的負荷。報告だけで半日潰れます」
「レイスちゃんは報告書好きそうなのに」
「好きではありません。必要だから書いています」
「でも上手よね」
「上手いかどうかではなく、正確かどうかです」
レイスはそう言って、紙を一枚アルドへ差し出した。
「確認しろ」
「今?」
「今」
「あとで」
「今」
「……わかったよ」
アルドは紙を受け取った。数行読んで、顔をしかめる。
「字が多い」
「報告書だからな」
「もっとこう、要点だけで」
「要点だけだ」
「これで?」
「これで」
アルドは助けを求めるようにルシアンを見た。ルシアンは優しく微笑んだ。
「アルド、読もうね」
「はい」
バルトが小声で笑った。
「カシラもルシアンには弱ぇな」
「聞こえてるぞ」
「小声だったろ」
「お前の小声は大きい」
ノルが言った。
「俺様の小声、そんなに大きいか?」
「うん」
「即答すんなよ」
少しだけ、いつもの朝だった。だが、机の上に置かれた赤い短鎖だけは、空気の中に別の重さを残していた。
◇
赤い短鎖は、盗賊の死体から回収したものだった。長さは手のひらほど。鎖といっても拘束用ではなく、腰に垂らす飾りである。だが、飾りにしては色が濃く、赤い塗料か染料のようなものが金属の隙間まで入り込んでいる。ルカがそれをつまみ上げた。
「全員がつけていたんですよね」
「ああ。少なくとも、俺たちが確認できた死体には全員あった」
アルドが答える。
「なら、ただの飾りじゃないですね」
「組織の印か、部隊分けか、階級か」
レイスが言った。
「ただの盗賊にしては、動きが揃いすぎていた。馬車の止め方、護衛の崩し方、退路の潰し方。偶然ではない」
「規律あるチンピラ」
ノルがぽつりと言った。全員がノルを見る。
「それ、しっくりくるな」
アルドが頷いた。
「下品だけど、動きは揃ってる。訓練されてるってほど綺麗じゃないけど、慣れてた」
「盗賊慣れ、ということですね」
ルカが言う。
「人を襲うことに慣れている連中か」
セレスの声が少し冷えた。
「気分悪いわね」
「盗賊なんてそんなもんだろ」
バルトが言う。
「だが、貴族令嬢の馬車を狙うのは普通か?」
「普通じゃない」
レイスが即答した。
「相手を知っていたか、知らずに襲ったかで意味が変わる。知っていたなら計画的。知らなかったなら、かなり広範囲で活動している可能性があります」
「どっちが面倒?」
アルドが聞く。
「どちらも面倒だ」
「だよな」
ゴードが低く言った。
「国軍案件だ」
「基本はそうですけどね」
アルドは赤い短鎖を見た。
「でも夜骸と絡んだ。旧材木道付近に逃げ込まなければ、エルル様は夜骸に襲われなかったかもしれない」
「盗賊被害が夜骸被害を誘発した形です」
レイスが紙に書き加える。
「ローグ様には、国軍との連携案件として上げる」
「またローグさんの仕事が増えるな」
「お前の書類も増える」
「俺の話はしてない」
「しろ」
レイスは冷たく言った。
「隊長だろ」
「都合のいい時だけ隊長扱いするな」
「都合の悪い時に隊長扱いしているんだ」
「最悪だ」
ルシアンが笑った。だが、その笑いは少し弱かった。アルドは気づく。
「ルシアン」
「ん?」
「昨日のこと、まだ気にしてるか」
ルシアンは一瞬だけ黙った。それから、少しだけ目を伏せる。
「護衛の人たち、助けられなかったから」
隊舎の空気が静かになる。軽口が、そこで止まった。
「分かってるよ。私たちが着いた時には、もう遅かった。あの場で一番守らなきゃいけなかったのはエルル様だった。それも分かってる」
ルシアンは自分の手を見た。
「でも、分かってても、悔しいものは悔しいね」
アルドはすぐには何も言わなかった。ルシアンがそういうことを言う時、軽く慰めても意味がない。ゴードが静かに言った。
「悔しいと思えるなら、次も手は伸びる」
ルシアンが顔を上げる。ゴードは盾の紐を締め直しながら続けた。
「何も思わなくなったら、伸びない」
「……うん」
ルシアンは小さく頷いた。
「ありがとう、ゴードさん」
バルトが真面目な顔で腕を組む。
「次はもっと早く行けばいい」
「単純ね」
セレスが言う。
「でも、嫌いじゃないわ」
「だろ!」
「褒めきってはいない」
「何でだよ!」
また少しだけ、空気が戻った。レイスは筆を止めていなかった。だが、その横顔はいつもより少しだけ柔らかい。
「報告書にも書いておく」
レイスが言った。
「盗賊襲撃から王都への伝令到着までの時間。第一部隊出動までの時間。現地到着時刻。次に同様の事案が起きた場合、短縮できる余地があるか確認する」
「お前、そういうところ本当にすごいな」
アルドが言う。
「感心している暇があるなら読め」
「戻るの早いな」
「仕事だからな」
◇
総隊長室へ向かったのは、昼前だった。アルドとレイスの二人だけで行く予定だったが、赤い短鎖の現物を運ぶためにルカも同行することになった。肩の怪我を理由にルシアンが渋ったが、ルカは両手を上げて言った。
「歩くだけです。戦いません」
「本当に?」
「本当に」
「銃の手入れも?」
「それはあとで」
「今日は少しだけね」
「はい」
そのやり取りを見て、アルドは小さく笑った。
「ルカ、最近ルシアンに弱いな」
「お前もだろ」
レイスが即座に言う。
「お前も人のこと言えないだろ」
「俺はお前ほど露骨じゃない」
「そうか?」
「そうだ」
ルカは二人を見ながら笑った。
「仲いいですね」
「悪い」
「そういうことにしておきます」
総隊長室の前に着くと、ローグレスの補佐官がすぐに通した。室内には、ローグレスがいた。机の横にはジークが立っている。いつものように書類を整理しているが、視線はすでに三人の手元へ向いていた。
「来たか」
ローグレスは疲れた顔をしていた。昨日の緊急対応に加え、各所への連絡に追われていたのだろう。机の上には国軍宛てと思われる書類と、王都討祓軍内部向けの指示書が分けて置かれている。アルドは敬礼した。
「第一部隊、先日の任務報告に来ました」
「聞こう」
レイスが報告紙を広げた。今回は、アルドではなくレイスが話す。任務の時系列。盗賊襲撃の痕跡。旧材木道付近での夜骸遭遇。
雑級、低級、中級の数。中級が骸技を使用したこと。エルルの状態。煤鳩亭での一時保護。迎えの人物と確認書。
そして、赤い短鎖。ローグレスは途中で一度も遮らなかった。ただ、赤い短鎖が机の上に置かれた時だけ、眉がわずかに動いた。
「これを、盗賊全員が?」
「確認できた範囲では」
レイスが答える。
「盗賊側の死体が全員同じものをつけていました。装飾にしては統一されすぎています」
ローグレスは鎖を手に取らなかった。目だけで見た。
「国軍へ回す」
「はい」
「だが、王都討祓軍側でも記録を残す。盗賊の動きが夜骸被害に繋がるなら、こちらにも無関係ではない」
「同意見です」
レイスが頷く。
「旧材木道周辺の夜間危険度も、再評価が必要です」
「第二部隊へ地形と残骸の確認を依頼する」
ローグレスは書類の端へ印をつけた。
「国軍には盗賊団調査。第五部隊には王都近郊の旧道利用状況を確認させる。第一部隊は中級個体の戦闘記録を提出しろ」
「はい」
「アルド」
ローグレスが視線を上げる。
「中級はどうだった」
アルドは少し考えた。
「硬いです。速さより、形が崩れないのが厄介でした。低級までとは違って、傷をつけてもすぐ別の形で補ってくる感じがありました」
「骸技は」
「黒い骨片みたいなのを飛ばしてきました。距離を詰めてても撃ってくるし、守る対象がいるとかなり面倒です」
「撃破の決め手は」
「ノルが動きを止めてくれました。跳弾と風の誘導で翼骨を崩して、麻痺弾。そこに俺が核を刺しました」
ローグレスは頷いた。
「連携は機能したか」
「はい」
アルドは即答した。
「ただ、対象を守りながらだとルシアンとゴードさんの負担が大きいです。今回はエルル様が一人だったからよかった。でも複数人いたら、もっときつかったと思います」
「分かった」
ローグレスは短く書き留めた。その横で、ジークが別の紙へ何かを書いている。アルドはちらりと見たが、内容は見えない。ジークは顔を上げ、いつもの穏やかな声で言った。
「赤い短鎖については、現物をお預かりしても?」
レイスが少しだけ視線を向ける。
「国軍へ回すのでは?」
「もちろん、正式には国軍へ回ります。ただ、写しと特徴記録をこちらでも作成しておく必要がありますので」
ジークの言葉は自然だった。秘書官として、当然の申し出だ。ローグレスも止めなかった。
「頼む」
「承知しました」
ジークは布を取り出し、赤い短鎖を包んで他の書類と分けた。
「エルル様の御様子はどうだった」
ローグレスが聞いた。アルドは少し表情を和らげる。
「だいぶ怯えてました。でも、ルシアンがついていたので少し落ち着いてました」
「そうか」
「煤鳩亭で少し笑ってました」
ローグレスは目を伏せた。
「それは、よかった」
その声には、総隊長としてではない響きが少しだけあった。だが、すぐに戻る。
「第一部隊は午後休め。ただし、報告書は今日中だ」
「休みなのにですか」
アルドが思わず言う。
「報告書を書き終えたら休め」
「それ休みじゃないです」
「なら明日も書くか」
「今日やります」
レイスが横で言った。
「アルド。戻るぞ」
「分かってる」
アルドはため息をついた。
◇
総隊長室を出た後、アルドは廊下で大きく伸びた。
「報告だけで疲れた」
「お前は半分も話していない」
レイスが言う。
「話すより聞かれる方が疲れるんだよ」
「なら隊長に向いていない」
「今さらだな」
「今さらだ」
ルカが二人の後ろで笑っていた。
「でも、ローグレス様、かなり気にしてましたね」
「盗賊のことか?」
「エルル様のことも」
アルドは少し黙った。
「まあ、貴族令嬢があんな目に遭ったんだ。気にするだろ」
「それだけですかね」
ルカが言う。レイスが横目で見る。
「何か気づいたのか」
「いえ。ただ、ローグレス様って、ああいう時に少し顔が変わるんだなって、父親みたいでした」
「よく見てるな」
「レイスさんほどではありません」
「俺を何だと思ってる」
「よく見てる人です」
「雑だな」
アルドは笑った。
「戻ったら飯食おうぜ。頭使ったら腹減った」
「報告書が先だ」
「飯が先」
「報告書」
「飯」
「報告書」
「レイス、頼む。腹が減ると字が読めない」
「満腹でも読まないだろ」
「ばれたか」
その時、廊下の窓から白祈塔が見えた。昼の光の中で、塔は静かに立っている。昨日の夜、エルルが震えていた手。ルシアンがその手を握っていたこと。赤い短鎖。
旧材木道。中級の黒い骨片。全部が、まだ近くにある。でも、王都は今日も動いていた。兵が歩き、文官が書類を運び、誰かが笑い、誰かが怒られている。
そういう普通の時間の中に、昨日の出来事も混ざっていく。アルドは窓の外を見ながら、小さく息を吐いた。
「なあ、レイス」
「何だ」
「赤い鎖の連中、また出ると思うか」
「出るだろうな」
「だよな」
「組織の印なら、昨日の連中だけで終わるとは思えない」
レイスは淡々と言った。
「ただ、今追うのは国軍だ。俺たちは夜骸を優先する」
「分かってる」
「でも、関わることにはなるかもしれない」
「盗賊が夜骸被害を広げるなら?」
「ああ」
アルドは拳を軽く握った。
「面倒だな」
「面倒だ」
「でも放っておけないな」
「それも分かっている」
二人は少しだけ黙った。ルカが後ろで肩をすくめる。
「結局、やるんですね」
アルドは振り返って笑った。
「まあな」
「でしょうね」
ルカはそう言って、少しだけ肩を押さえた。レイスがすぐに見る。
「痛むのか」
「少し」
「ルシアンに見せろ」
「戻ったら見せます」
「今から医務室でもいい」
「戻ったらで」
「逃げるなよ」
「逃げませんよ」
アルドは二人のやり取りを聞きながら歩き出した。報告書は残っている。盗賊の謎も残っている。旧材木道の危険も、中級の記録も、全部残っている。それでも、とりあえず腹は減った。
第一部隊は、今日も生きている。だから飯を食う。報告書を書く。怒られる。笑う。
そうやって、次の夜まで進んでいく。
◇
その頃、総隊長室では、ジークが赤い短鎖の写しを取っていた。鎖の長さ。輪の数。赤い塗料の入り方。留め具の形。
すべてを淡々と記録する。ローグレスは机に向かったまま言った。
「何か知っているのか」
ジークの筆は止まらなかった。
「いえ。断定できるほどのものは」
「断定できない程度には、心当たりがある顔だ」
「ローグレス様は、人の顔をよく見ておられる」
「お前ほどではない」
ジークは小さく笑った。
「鎖を印にする盗賊は、珍しくありません。ですが、全員が同じ長さ、同じ留め具、それにこの深い赤色。となると話は変わります」
「大きいか」
「少なくとも、ただの野盗ではないでしょう」
ローグレスは深く息を吐いた。
「国軍に投げて終わり、とはいかないか」
「国軍の仕事ではあります」
ジークは鎖を布に包み直す。
「ですが、同じ印を使う者が他にもいないかは確認した方がよいでしょう」
「嫌な言い方をする」
「嫌な可能性ですので」
ローグレスは目を閉じた。また一つ、厄介ごとが増えた。そう思った。王都討祓軍は夜骸を討つ。国軍は国境と治安を守る。
だが現実は、そんなふうに綺麗には分かれてくれない。盗賊が人を追えば、人は旧道へ逃げる。旧道で日が暮れれば、夜骸が出る。夜骸が出れば、王都討祓軍が動く。一本の赤い鎖が、別々のはずの仕事を結びつけていた。
「記録しておけ」
ローグレスが言った。
「はい」
「それと、国軍への照会文を作る。急ぎで回す」
「承知しました」
ジークは静かに頭を下げた。窓の外では、白祈塔が昼の光を受けて白く立っている。その下で、赤い短鎖は布に包まれたまま、机の上に置かれていた。小さな鎖だった。だが、その赤は妙に目に残った。
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