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王城の夜

 王城の夜は、王都の夜よりも静かだった。同じ月明かりが降っているはずなのに、厚い石壁と高い天井を通ると、光まで少し冷たくなる。廊下に並ぶ燭台の炎は揺れず、敷き詰められた絨毯は足音を吸い込んだ。王城の西廊下を、一人の少女が歩いていた。銀の髪が、窓から差し込む白祈塔《はっきとう》の光を受けて淡く光っている。名を、エデルという。


 年若い王女でありながら、その歩き方には妙な落ち着きがあった。背筋は伸び、視線はまっすぐで、手にした数枚の報告紙も乱れていない。ただ、疲れてはいた。今日の職務は、いつも以上に神経を使った。王都郊外の村々に関する報告の確認。井戸の損傷。


 旧道の危険性。護衛配置の薄い経路。民の暮らしに関わる、いくつもの細かな情報。紙に並べれば、どれも数行で終わる。けれど、その数行の向こうには、誰かの朝があり、夕餉があり、眠る場所がある。


 エデルは、そういうものを軽く扱うのが苦手だった。


「エデル」


 低い声がした。廊下の先に、第一王子ヴィクターが立っていた。王家特有の銀髪。鋭い目。整った顔立ちは、端正というより硬質だった。上等な軍装に近い服を着ており、腰には儀礼用ではない剣を下げている。王になるために作られたような人。王城の者たちは、しばしば彼をそう評した。


 エデルは立ち止まり、軽く頭を下げる。


「ヴィクター兄様」


「こんな時間まで何をしている」


「父上への報告です」


「報告なら担当官に任せればいい。お前が直接持っていく必要はない」


「私が確認したものですから」


「確認したものを、すべて自分の口で伝えるつもりか」


 ヴィクターの言葉は正しかった。いつもそうだ。正しく、無駄がなく、隙が少ない。だからこそ、時々、息苦しい。


「すべてではありません。ですが、いくつかは私から申し上げた方がいいと思いました」


「民政に関わる報告か」


「はい」


「ならば、なおさら順序を誤るな。感情で話せば、父上は聞いてくださる。だが、国は感情だけでは動かない」


「分かっています」


「本当に分かっているならいい」


 ヴィクターは歩み寄り、エデルの手元の報告紙を一瞥した。奪い取ることはせず、紙の端へ触れもしない。ただ、その場から動く必要がないとでもいうように、エデルの返事を待った。


「お前は、時々近すぎる」


「近すぎる?」


「民にだ」


 エデルは少しだけ眉を寄せた。ヴィクターはそれを見て、表情を変えないまま続ける。


「民の暮らしを知ろうとすることは悪くない。だが、王族はすべての民に直接手を伸ばせるわけではない。制度を通し、官を通し、軍を通し、法を通す。それが王族の仕事だ」


「はい」


「一人の困りごとに心を奪われすぎれば、百人のための判断を誤る」


「……はい」


 返事はした。けれど、胸の奥に小さな棘が残る。ヴィクターは間違っていない。でも、正しすぎる言葉は、時に人の柔らかい部分を削る。


「顔色が悪い」


 不意に、ヴィクターが言った。エデルは瞬きをする。


「そうでしょうか」


「休め」


「報告が終わったら」


「それが終わらなければ休まないつもりだろう」


「兄様も似たようなものです」


「俺はいい」


「なぜですか」


「俺は王になる」


 迷いのない声だった。エデルは黙った。その言葉には、誇りと責任が同じだけ詰まっていた。同時に、誰にも弱さを見せないという決意も。ヴィクターは、少しだけ視線を逸らした。


「お前まで、同じように張り詰める必要はない」


 その言い方は硬かった。でも、心配しているのだと分かった。エデルは小さく笑う。


「ありがとうございます、兄様」


「礼を言われることではない」


「では、報告が終わったら休みます」


「今すぐ休めと言っている」


「父上への報告が終わったら、です」


 ヴィクターはわずかに眉を寄せた。


「頑固だな」


「兄様ほどではありません」


「言うようになった」


「リオネル兄様の影響です」


「悪い影響だ」


 そう言いながら、ヴィクターの声にはほんの少しだけ柔らかさが混じった。エデルはそれに気づいたが、指摘はしなかった。


「父上の前で感情を先に出すな」


 別れ際、ヴィクターが言った。


「事実、原因、必要な対応。その順だ」


「はい」


「分からなくなったら、リオネルのところへ行け。あいつは、言葉を柔らかくするのだけは上手い」


「それ、リオネル兄様に言ってもいいですか」


「言うな」


 エデルは少しだけ笑った。ヴィクターはそれ以上何も言わず、廊下の反対側へ歩いていった。背筋の伸びた後ろ姿。迷わない歩幅。正しい道を、正しい速度で進もうとする人。


 エデルは、その背を見送りながら、小さく息を吐いた。


         ◇


 リオネルの部屋は、王城の東側にあった。華美ではない。むしろ、王族の私室としては驚くほど落ち着いている。淡い色の壁紙、低い本棚、薬湯の匂い。窓辺には小さな花瓶があり、白い花が一輪だけ挿してあった。寝台の上で、第二王子リオネルが上体を起こしていた。銀髪は少し長く、肩に落ちている。顔色は悪いが、目は穏やかだった。膝には薄い毛布が掛けられている。


 彼はエデルを見ると、柔らかく微笑んだ。


「エデル。こんな時間に来るなんて、兄上に叱られなかった?」


「叱られました」


「やっぱり」


 リオネルは小さく笑い、その直後に咳き込んだ。


「兄様」


 エデルが駆け寄る。リオネルは片手を上げて制した。


「大丈夫。いつものことだよ」


「いつものことでも、心配です」


「ありがとう」


 彼は水を一口飲み、息を整える。


「それで、父上への報告の前に僕のところへ来たということは、何か悩んでいるね」


「分かりますか」


「分かるよ。エデルは困った時、報告紙を少し強く握る」


 エデルは自分の手元を見た。紙の端が、わずかに曲がっている。


「……ヴィクター兄様にも言われました。感情で話すな、と」


「兄上らしい」


「間違ってはいません」


「そうだね」


「でも、正しいことを言われると、余計にどう言えばいいのか分からなくなる時があります」


 リオネルは静かに聞いていた。急かさない。遮らない。エデルは、その沈黙に少しだけ甘える。


「今日見た報告は、民の暮らしに関わる情報でした。旧道の危険、井戸の損傷、護衛配置の穴……。どれも、紙に書けばただの改善点です」


「うん」


「でも、軽く扱ってはいけないと思いました。けれど、大げさに言えば、父上の判断を乱すかもしれません。軽く言えば、伝わらないかもしれません」


「なるほど」


「私は、どう報告すればいいのでしょう」


 リオネルは少しだけ考えた。窓の外では、白祈塔の光が薄く揺れている。


「エデル」


「はい」


「父上には、感情ではなく順番を渡すといい」


「順番」


「何が分かったか。なぜ危険なのか。何を変えるべきか。その三つに分けるんだ」


 リオネルは指を一本ずつ立てる。


「一つ目、事実。これは短くていい。旧道の利用状況、井戸の損傷、警備の薄い経路」


「はい」


「二つ目、危険。そこに人の暮らしがあることを添える。ただし、泣きつくように言わない。危険が放置されればどうなるか、父上が判断できる形にする」


「はい」


「三つ目、提案。補修、巡回経路の見直し、報告系統の整理。小さくてもいいから、動かせる形にする」


 エデルは報告紙を見下ろした。ごちゃごちゃに絡まっていたものが、少しほどける気がした。


「兄様は、どうしてそんなに整理できるのですか」


「寝台の上にいる時間が長いからかな」


 リオネルは冗談めかして言った。


「動けない分、考える時間だけはある」


「そんな言い方をしないでください」


「ごめんよ」


 彼は穏やかに笑った。その笑顔が優しいほど、エデルの胸は少し痛む。


「ヴィクター兄様は、いつも正しいです」


 エデルはぽつりと言った。


「うん」


「でも、正しいことばかり言われると、息が詰まる時があります」


「うん」


「私は間違っているのでしょうか」


「間違っていないよ」


 リオネルは即答した。エデルは顔を上げる。


「兄上も間違っていない。エデルも間違っていない。だから、少し難しいんだ」


「難しい?」


「正しさには、いくつも形があるからね」


 リオネルは少し咳をした。エデルは水差しに手を伸ばす。彼は礼を言って、また一口飲んだ。


「ヴィクター兄上は、王になるために正しくあろうとしている。国を支えるための正しさだ。大きくて、硬くて、折れてはいけない正しさ」


「はい」


「エデルは、目の前の暮らしを見落としたくないと思っている。小さくて、柔らかい正しさだね」


「柔らかい正しさ……」


「どちらかだけでは、きっと足りないんだ」


 リオネルは微笑む。


「だから、エデル。兄上を説得しようとしすぎなくていいよ。兄上は、王になるために正しくあろうとしている。正しい人間ほど、時に話が通じないからね」


「それ、兄様が言うとひどいです」


「ふふっ本人には言わないでね」


「言いません」


「よかった。僕は兄上に怒られると咳が増える」


「それは困ります」


 二人は小さく笑った。リオネルは、エデルの持つ報告紙へ視線を落とす。


「父上は、感情を嫌っているわけではないよ」


「そうでしょうか」


「嫌ってはいない。ただ、感情だけでは玉座に届かない。形にして渡せば、聞いてくださる」


「形」


「そう。事実、危険、提案。その順で」


 エデルは、ゆっくり頷いた。


「ありがとうございます、兄様」


「どういたしまして」


 リオネルは少し疲れたように息を吐いた。


「そろそろ行くといい。父上を待たせすぎると、別の意味で報告が重くなる」


「はい」


 エデルは立ち上がる。扉へ向かいかけて、ふと振り返った。


「兄様」


「うん?」


「ヴィクター兄様は、私のことを心配してくださっているのでしょうか」


「しているよ」


「分かりにくいです」


「兄上は分かりにくいんだ。僕よりずっとね」


「リオネル兄様は分かりやすいです」


「それは困ったなぁ」


 リオネルは少しだけ悪戯っぽく笑った。


「王族は、あまり分かりやすすぎてもいけない」


「では、兄様は王族失格ですね」


「ひどいなぁ」


 エデルは笑った。部屋を出る時、リオネルが静かに言った。


「エデル」


「はい」


「今日の職務は、いつも以上に神経を使ったんだろう。報告が終わったら、必ず休むこと」


「……ヴィクター兄様にも言われました」


「なら、兄二人からの命令だね」


「命令ですか」


「お願いでもいいよ」


 エデルは少し考えた。


「では、お願いとして聞きます」


「ありがとう」


 リオネルは優しく笑った。


         ◇


 王の執務室は、夜でも明るかった。壁に掛けられた燭台の炎が、磨き上げられた床に反射している。部屋の奥には大きな机があり、その向こうにはエデルの父親、セリュヴェイン王国の最高権力者である君主オルディス王が座っていた。銀髪には白が混じり、顔には深い皺が刻まれている。威厳という言葉が、人の形を取ったような男だった。エデルは扉の前で一度息を整えた。


 事実。危険。提案。その順で。


「入れ」


 中から声がする。エデルは扉を開け、静かに一礼した。


「父上。夜分に失礼いたします」


「構わぬ。報告か」


「はい」


 オルディスは書類から目を上げた。


「話せ」


 無駄のない言葉。ヴィクターとは違う。リオネルとも違う。王の言葉だった。エデルは報告紙を開いた。


「王都北東部の郊外村、および周辺街道についてです。まず、事実を申し上げます」


 オルディスの目がわずかに動いた。エデルは続ける。


「一つ目、村内の井戸に損傷があります。現状では使用可能ですが、石積みの一部が崩れかけており、子供や高齢者が近づいた場合、事故に繋がる恐れがあります」


「ふむ」


「二つ目、旧材木道周辺の利用実態です。新街道整備後、正式な通行路としての役割は薄れていますが、近隣住民や一部の商人が短絡路として使っている記録があります」


「管理外の道か」


「はい。三つ目、周辺警備です。国軍巡回の経路から外れる時間帯があり、王都に近いにも関わらず、空白が生じています」


 オルディスは黙って聞いていた。エデルは紙を持つ手に力が入りそうになるのを抑えた。


「次に、危険についてです」


「続けよ」


「井戸の損傷は、単なる施設不備ではなく、生活の中心の損傷です。水場で事故が起これば、村全体に影響します。旧材木道についても、正式な道ではないからと放置すれば、夜間の事故、盗賊被害、夜骸遭遇の危険が高まります」


「夜骸」


「はい。王都近郊であっても、夜の危険は消えません」


 オルディスの表情は変わらない。だが、聞いていないわけではない。エデルは、そう感じた。


「最後に、提案です。井戸については修繕費の一部補助。旧材木道については、完全封鎖ではなく、利用実態の確認と警告標識の設置。警備については、国軍巡回経路の再確認を求めます」


「王都討祓軍ではなく、国軍にか」


「はい。夜骸討祓ではなく、日中の街道管理と治安維持が主です。王都討祓軍の仕事を増やすより、国軍の通常巡回へ組み込む方が自然かと」


 オルディスは少しだけ目を細めた。


「誰に教わった」


 エデルは一瞬、言葉に詰まった。


「……リオネル兄様に、報告は順番を渡すとよい、と」


「そうか」


 オルディスの声に、わずかな柔らかさが混じった気がした。


「リオネルらしい」


「はい」


「ヴィクターは何と言った」


「感情で話すな、と」


「ヴィクターらしい」


 エデルは少しだけ笑いそうになり、堪えた。オルディスは椅子に背を預けた。


「井戸の修繕は許可する。費用は管区予備費から出せ。旧材木道は、まず利用実態を確認させる。封鎖するか残すかは、その後だ」


「はい」


「警備の空白は国軍へ確認させる。軍務大臣に回せ」


「ありがとうございます」


「礼は早い。通るまでが仕事だ」


「はい」


 オルディスは報告紙へ視線を落とした。


「エデル」


「はい」


「民の暮らしに関わる情報だ。軽く扱うな。だが、抱え込みすぎるな」


 エデルは顔を上げた。王の声は重い。けれど、その奥に父の声が少しだけ混じっていた。


「お前一人が苦しんでも、井戸は直らぬ。道も整わぬ。動かすべき者に渡せ」


「……はい」


「今日はもう休め」


 エデルは思わず瞬きをした。


「父上にも言われてしまいました」


「他、誰かに言われたのか」


「ヴィクター兄様と、リオネル兄様に」


「では、三人目だ」


 オルディスは淡々と言った。


「これ以上起きていれば、王命に逆らうことになる」


 エデルは少しだけ目を丸くした。それから、深く頭を下げる。


「承知いたしました。休みます」


「そうせよ」


 報告は終わった。エデルは退室する。扉を閉める直前、オルディスが再び書類へ目を落とすのが見えた。王は、眠らない。少なくとも、王である間は。


 エデルはそう思った。


         ◇


 自室へ戻ると、急に体が重くなった。廊下では保てていた背筋が、扉を閉めた瞬間にほどける。侍女が心配そうに近づいた。


「エデル様、お着替えを」


「お願いします」


 声が思ったより小さかった。侍女は何も聞かなかった。ただ、温かい布を用意し、寝間着を整え、髪をほどいてくれた。鏡の中のエデルは、ひどく疲れて見えた。銀の髪。


 王族の色。王城の灯りを受けて、淡く光っている。その髪を見ていると、自分がどこにいるのかを思い出す。王城。王族。


 職務。報告。民の暮らしに関わる情報。今日の職務は、いつも以上に神経を使った。ただ、それだけ。


 エデルはそう自分に言い聞かせる。寝台に入ると、体が布に沈んだ。目を閉じる前に、リオネルの言葉を思い出す。事実。危険。


 提案。ヴィクターの言葉も。感情で話すな。父の言葉も。抱え込みすぎるな。


 それぞれ違う言葉なのに、どれもエデルを同じ場所へ押し戻している気がした。休め。そう言われている。


「……休みます」


 誰にともなく、小さく呟いた。燭台の火が落とされる。部屋が暗くなる。王城の夜は静かだった。静かすぎるほどに。


 エデルは、ようやく眠りに落ちた。

お読みいただきありがとうございます。

毎日20時頃更新予定です。

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