震える手
林を抜ける頃には、空の色がすっかり変わっていた。昼の名残は西の端に薄く滲むだけで、木々の間には夜の気配が沈み始めている。風が吹くたび、枝葉が擦れ、遠くで何かが動いたような音に聞こえた。エルルは、そのたびに肩を震わせた。無理もない。盗賊に襲われた。
護衛を失った。逃げた先で、夜骸に襲われた。そして、目の前で最後の護衛も倒れた。それだけの出来事を、半日も経たないうちに浴びたのだ。震えるなという方が無理だった。
「足、大丈夫ですか?」
ルシアンが隣で聞いた。エルルは頷こうとした。けれど、うまく首が動かない。
「……大丈夫、です」
声は、自分でも驚くほど掠れていた。ルシアンは否定しなかった。ただ、エルルの歩幅に合わせて少しだけ速度を落とした。
「痛かったら言ってくださいね。無理に歩かなくていいです」
「いえ……歩けます。歩かないと」
「歩かないと、じゃなくて」
ルシアンは柔らかく言った。
「歩ける時に、歩けばいいんです」
エルルはその言葉に、少しだけ目を瞬かせた。貴族令嬢として育ってきた彼女は、何度も「しなければならない」と言われてきた。笑わなければならない。礼を言わなければならない。姿勢を正さなければならない。
怖くても、取り乱してはいけない。泣きそうでも、泣いてはいけない。そうすることが当たり前だった。だから、ルシアンの言葉は不思議だった。歩ける時に、歩けばいい。
そんなふうに言われたことは、あまりなかった。
「……ありがとうございます」
「はい」
ルシアンは笑った。その笑顔は、馬車の中で見た護衛隊長の笑顔とは違う。もっと近くて、もっと温かい。身分や礼儀のためではなく、ただ目の前の人を安心させるための笑顔だった。エルルは、ルシアンの手を握る力を少しだけ強めた。
◇
馬車の残骸まで戻ると、そこは昼とは別の場所のようになっていた。壊れた車輪。裂けた扉。血に濡れた地面。倒れた護衛兵たち。
盗賊たちの姿はなかった。逃げたのか、死体を回収したのか、あるいは最初から長居するつもりがなかったのか。レイスは周囲を見て眉を寄せたが、すぐには何も言わなかった。エルルは、足を止めた。昼に自分が座っていた馬車。楽しく話していた場所。その車体が、無残に壊れている。
そこに、護衛隊長の姿はなかった。いや、倒れている者の一人が、そうなのかもしれない。だが、見たくなかった。見れば、きっと壊れてしまう。
「エルル様」
ルシアンが、静かに声をかける。
「見なくていいです」
エルルの喉が震えた。
「でも……皆さんが、私を守って」
「だから、今は生きてください」
ルシアンの声は優しかった。けれど、そこには芯があった。
「見届けるのは、もう少し落ち着いてからでもできます。今は、エルル様が倒れないことが一番大事です」
「私だけ……」
「だけ、じゃないです」
ルシアンは首を振った。
「あなたが生きていることは、あの人たちが守ったものです」
その言葉で、エルルは顔を歪めた。涙がこぼれそうになる。でも、泣き声にはならなかった。喉の奥で、痛みだけが詰まった。少し離れた場所で、アルドが周囲を見ていた。
「使える馬は?」
「二頭」
ゴードが答える。
「一頭は脚を痛めている。長くは走れない」
「なら、エルル様を乗せる。もう一頭は怪我人用……って言いたいが」
アルドは一瞬だけ、倒れた護衛兵たちを見た。生存者はいない。少なくとも、第一部隊が見た限りでは。ルシアンは悔しそうに唇を噛んだ。
「……ごめんなさい」
「ルシアンのせいじゃない」
アルドが言う。
「でも」
「お前はエルル様を守った。それでいい」
ルシアンは何か言おうとして、やめた。代わりに、エルルの手を離さないまま、そっと支え直した。レイスは壊れた馬車の側面を見ていた。
「盗賊の動きが妙です」
「妙?」
アルドが聞く。
「物取りにしては速い。誘拐目的にしては、こちら側の護衛を崩す判断が的確すぎる。全員が無秩序に襲ったわけではなさそうだ」
「腰の赤い鎖か」
「見たか」
「ああ。盗賊側の死体が全員同じのをつけてる」
レイスは少し考え込む。
「組織立っている可能性があるが今は追えない」
「だな。優先はエルル様の護送だ」
アルドは周囲を見回した。
「ここに長居はしない。夜になる前に街道へ戻る」
「もうほとんど夜」
ノルが言った。
「なら、なおさらだ」
バルトが拳を鳴らす。
「また出てきたらぶっ飛ばす」
「林ごと壊すなよ」
「分かってるって!」
「さっきも言われてたわね」
セレスが呆れたように笑う。そのやり取りに、ほんの少しだけ空気が緩んだ。エルルは、それを不思議に思った。つい先ほどまで恐ろしい戦いをしていた人たちが、こうして普通に言い合っている。怖くないわけではないはずだ。
疲れていないわけでもないはずだ。けれど、彼らは軽口を捨てない。それが、エルルには少しだけ眩しく見えた。
◇
エルルは馬に乗せられた。ひとりでは危ないため、ルシアンが同じ馬に乗り、後ろから支えることになった。
「苦しくないですか?」
「はい」
「揺れたら、私に体を預けてくださいね」
「そんな、重く」
「重くないですよ」
ルシアンは笑った。
「私、こう見えてけっこう鍛えてますから」
その言い方が少しだけ得意げで、エルルは思わず目を丸くした。
「ルシアンさんも、戦うんですか?」
「私はみんなみたいに前には出ません。防いだり、治したり、人を逃がしたりするのが役目です」
「それも、戦いなのですね」
ルシアンは少し驚いたようにエルルを見た。それから、嬉しそうに微笑む。
「はい。そう言ってもらえると、嬉しいです」
馬がゆっくり歩き出す。アルドが先頭。レイスとノルが周囲を警戒し、ルカは少し後ろから側面を見る。肩の傷はまだ痛むはずだが、本人は顔に出さない。バルトとゴードは後方。セレスはエルルたちの近くにいて、必要ならすぐ水の防壁を張れる位置を取っていた。
エディンは、最後尾に近い場所で静かに周囲を見ている。エルルは、その布陣を見ていた。自分を中心に、自然と人の輪ができている。護衛とは違う。命令された配置ではなく、互いの役割を知っている者たちが、当たり前のように支え合っている。
「あの……」
「はい?」
「第一部隊の皆さんは、いつもこうなのですか?」
「こう、というと?」
「その……とても、近いんですね」
ルシアンは少し考えた。
「そうかもしれません」
「怖くありませんか?」
「怖いですよ」
即答だった。エルルは驚いて、少し振り返る。ルシアンは穏やかに続けた。
「夜骸は怖いです。怪我をするのも、誰かが死ぬのも怖いです。怖くない人なんて、きっといません」
「でも、皆さんは」
「怖くても、誰かが動かないといけない時があります」
ルシアンの手が、エルルの肩を軽く支えた。
「その時、ひとりだと怖くて動けないかもしれません。でも、皆がいると少しだけ動けます」
「少しだけ……」
「はい。少しだけでいいんです。少しずつ、誰かが支えてくれるから」
エルルは黙った。さっき、自分もそうだった。歩けないと思った。立てないと思った。でも、ルシアンが手を握ってくれたから、少しだけ歩けた。
少しだけ息ができた。
「ルシアンさん」
「はい」
「私……怖かったです」
「はい」
「本当に、怖かったです」
「はい」
ルシアンはそれ以上、何も言わなかった。ただ、エルルの言葉が最後まで出るのを待った。
「皆が死んで、馬車が壊れて、逃げて……夜骸が出て……私だけが生き残って……」
「はい」
「私、何もできませんでした」
声が震える。
「何もできなかったのに、守られて……助けられて……」
「エルル様」
ルシアンの声が、少し近くなる。
「生き残るのも、すごく大変なことです」
エルルは息を止めた。
「怖い中で、走ったんですよね。立って、逃げて、何度も転んでも、ここまで来たんですよね」
「でも、それは護衛の方が」
「それでも、エルル様が諦めなかったからです」
ルシアンは静かに言った。
「だから、何もできなかったなんて言わないでください。今日、あなたはちゃんと生きようとしました」
エルルの目から、涙が落ちた。今度は止められなかった。
「……はい」
その返事は、とても小さかった。それでも、ルシアンには届いた。
「はい」
ルシアンも同じように返した。
◇
王都の灯りが見えた頃、エルルの体力は限界に近かった。何度も眠りかけ、そのたびに小さく震えて目を覚ます。夢と現実の境が崩れ、馬車の壁に飛んだ血や、盗賊の声や、夜骸の裂けた口が、まぶたの裏にちらつくのだろう。ルシアンはそのたびに、エルルの背を撫でた。
「大丈夫です。王都が見えてきましたよ」
「……はい」
「あと少しです」
「ルシアンさん」
「はい」
「手を……」
言い切る前に、ルシアンはエルルの手を握った。
「握ってます」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
少し前を進むアルドが、横目でそれを見た。そして小さく笑う。
「ルシアン、すっかり懐かれてるな」
「アルド」
レイスが低く言う。
「今は茶化すな」
「悪い」
アルドは素直に謝った。その横で、バルトが小声のつもりで言う。
「いやでも、ルシアンはすげぇよな。俺様だったら何て言えばいいか分かんねぇ」
「バルトは黙って立っているだけでいい」
ノルが言った。
「おい、どういう意味だ」
「安心感はある」
「褒めてんのか?」
「半分」
「残り半分は!?」
「うるさい」
セレスが軽く笑う。
「でも、確かにバルトが黙って立ってたら壁にはなるわね」
「壁扱いかよ!」
「盾なら俺がいる」
ゴードが静かに言った。
「ゴードまで!?」
その声に、エルルがほんの少しだけ顔を上げた。笑ったわけではない。でも、泣きそうに固まっていた表情が、少しだけ動いた。ルシアンはそれに気づいたが、何も言わずに微笑んだ。
◇
王都に入った頃には、夜は完全に落ちていた。白祈塔の淡い光が、遠くから王都を照らしている。街門の兵は第一部隊の姿を見るとすぐに通した。事情を聞くより先に、疲れ切った少女と血に汚れた隊服を見て、顔色を変えた。
「総隊長への報告は?」
レイスが問う。
「戻り次第、アルドと俺で行く」
「エルル様は?」
ルシアンが聞いた。レイスは少し考える。
「本来なら、依頼元の屋敷へ直行するべきです。ですが、迎えの確認が取れていない以上、夜間に動かすのは危険です」
「療養院は?」
「怪我は軽い。むしろ精神的な疲労が大きい。人目を避けて休める場所がいい」
アルドは少し考えた。そして、言った。
「煤鳩亭に連れていく」
レイスが眉を寄せる。
「酒場だぞ」
「個室がある。ドランもミナも口が堅い。あと、あそこなら俺たち全員が自然にいられる」
「自然にいる必要があるのか」
「ある」
アルドはエルルを見た。
「このまま堅苦しい場所に連れていったら、たぶんこの子、ずっと固まったままだ」
ルシアンは小さく頷いた。
「私も、煤鳩亭がいいと思う。温かいものを飲んで、少し座れるだけでも違うよ」
レイスはため息をついた。
「……短時間だけだ。迎えが来るまで。騒ぐなよ」
「誰に言ってる?」
「主にバルトさんです」
「俺様まだ何もしてねぇぞ!」
「これからする可能性が高い」
バルトは反論しようとして、エルルを見た。そして、声を落とした。
「……しねぇよ。今日は」
レイスは少しだけ目を細めた。
「ならいいです」
◇
煤鳩亭の扉を開けると、温かな空気が流れてきた。焼いた肉の匂い。煮込みの湯気。木の床を踏む音。客たちの笑い声。
外の夜とは違う、人の生活の熱がそこにはあった。
「いらっしゃ――」
ミナがいつもの調子で声を上げかけて、止まった。第一部隊の服が汚れている。ルカの肩には血が滲み、ルシアンに支えられたエルルは真っ青な顔をしている。ミナの表情がすぐに変わった。
「奥、空いてるよ」
それだけ言って、すぐに道を開けた。ドランも厨房から顔を出した。何かを聞く前に、アルドを見て頷く。
「温かい茶と、食べやすいものを出す」
「助かる」
「酒は?」
「今はいらない」
「だろうな」
その短いやり取りだけで、十分だった。エルルは店内を見回していた。煤鳩亭は、彼女が普段入るような店ではない。床には傷があり、壁には酒の匂いが染みついている。客の声は大きく、机も椅子も上等とは言い難い。けれど、そこには不思議な安心感があった。
誰かが帰ってくる場所。誰かが笑って、怒って、食べて、眠くなる場所。そういう空気があった。
「大丈夫ですよ」
ルシアンが言う。
「ここは、私たちがよく来るお店なんです」
「皆さんの……?」
「はい。ミナちゃんも、ドランさんも、とっても優しいです」
「黒豹さん、こっち」
ミナが奥の個室の扉を開けた。エルルはその呼び方に少し驚いたようだった。
「黒豹……」
アルドが笑う。
「貴族様や軍関係者の間だけの名称じゃないってことですよ」
「そうなのですね」
「かっこいいだろ!」
バルトが小声で言った。小声のつもりだった。普通に聞こえた。エルルはほんの少しだけ瞬きをして、それから小さく頷いた。
「はい。かっこいいです」
バルトが固まった。ルカが笑う。
「バルトさん、今ので落ちましたね」
「落ちてねぇ」
「顔が落ちてる」
ノルが言った。
「顔が落ちるって何だよ」
「だらしない」
「お前、最近俺様に厳しくないか?」
「普通」
エルルの口元が、ほんの少しだけ動いた。それは笑みと呼ぶには小さすぎた。でも、確かに強張りがほどけた瞬間だった。
◇
個室に入ると、エルルは椅子に座った。座った瞬間、体から力が抜ける。ルシアンがすぐ隣に腰を下ろした。
「外套、脱げますか?」
「はい」
「手伝いますね」
裂けた外套を外すと、エルルの袖や裾にも泥がついていた。膝には擦り傷がある。手のひらにも枝で切った小さな傷があった。ルシアンは治療具を開く。
「しみるかもしれません」
「大丈夫です」
「本当に大丈夫じゃなくても、大丈夫って言ってしまう顔ですね」
エルルは少しだけ驚いた。
「分かるのですか?」
「分かります」
ルシアンは微笑んだ。
「私の周りにも、そういう人が多いので」
「俺のことか?」
アルドが自分で言う。
「アルドは違うよ」
「違うのか?」
「アルドは大丈夫じゃない時ほど、変なことを言う」
「ひどくない?」
「事実だ」
レイスが即座に言った。
「レイスまで」
「お前は昔からそうだ」
「昔の話を今するなよ」
エルルはそのやり取りを聞いていた。不思議だった。彼らは互いに遠慮がない。けれど、雑に扱っているわけではない。踏み込み方を知っている。
引き方も知っている。エルルは、それが少し羨ましかった。
「痛みますか?」
ルシアンが傷に薬を塗りながら聞く。
「少し」
「少し、ですね」
「……少し、痛いです」
「はい」
ルシアンは優しく頷いた。
「ちゃんと言えましたね」
その言葉に、エルルはなぜか胸が詰まった。痛いと言っただけ。たったそれだけなのに、褒められた。それが、ひどく優しかった。ミナが盆を持って入ってきた。
「温かいお茶と、薄い野菜粥。食べられそうなら少しだけ」
「ありがとうございます」
エルルが丁寧に頭を下げる。ミナは一瞬、目を丸くした。それから、にっと笑う。
「どういたしまして。黒豹さんたちの知り合いなら、うちでは遠慮しなくていいよ」
「知り合い……」
エルルは小さく繰り返した。
「はい。ありがとうございます」
ミナは少し得意げに笑って、アルドたちを見る。
「黒豹さんたち、今日は騒ぎすぎないでね」
「俺様は静かにしてる!」
バルトが言った。
「一番心配なの、そこ」
「信用がない!」
「今までの積み重ねだろ」
アルドが言う。バルトはしょんぼりした。その顔があまりに分かりやすくて、エルルはつい、小さく笑ってしまった。部屋が一瞬、静かになる。エルル自身も驚いて口元を押さえた。
「……すみません」
「謝らなくていいですよ」
ルシアンが言った。
エルルは目を伏せた。
「笑っていいのか、分からなくて」
ルシアンはすぐには答えなかった。
「……さっき笑ったことまで、悪いことにしなくていいと思います」
「でも、皆さんが」
「忘れたわけじゃないでしょう?」
エルルは黙って首を振った。
「なら、それでいいと思います」
ルシアンは茶碗を持つエルルの手をそっと包んだ。
「今は、温かいうちに飲みましょう」
エルルは茶碗を見つめ、小さく頷いた。
◇
エルルは、少しだけ粥を食べた。ほんの数口だったが、それでもルシアンは嬉しそうに笑った。
「無理しなくて大丈夫です」
「はい。でも、温かくて……美味しいです」
「ドランさんの粥、地味にうまいんだよな」
アルドが言った。
「地味には余計だ」
扉の向こうから、ドランの声が飛んできた。エルルはまた少し驚いた。この店では、奥にいても会話が聞こえるらしい。
「すみません」
「謝る必要はねぇよ、お嬢さん。食える時に食っとけ」
ドランの声は低く、少しぶっきらぼうだった。けれど、怖くはなかった。エルルは小さく頷く。
「はい」
バルトは腕を組んでいた。珍しく静かだった。静かすぎて、逆に不自然だった。
「バルトさん」
ルカが小声で言う。
「無理してません?」
「してねぇ」
「顔がすごく喋りたそうです」
「してねぇ」
「じゃあその握り拳は?」
「気合いだ」
ノルが横から言った。
「うるさくしない気合い?」
「そうだ!」
「声」
「……そうだ」
今度はちゃんと小さかった。エルルはまた、少し笑った。バルトはそれを見て、明らかに嬉しそうな顔をする。
「よし」
「何がよしなのよ」
セレスが呆れた。
「笑ったからよしだろ」
その言葉は、思ったよりもまっすぐだった。エルルはバルトを見た。大きくて、少し乱暴そうで、声も大きい。でも、たぶん優しい人なのだと思った。
「ありがとうございます、バルトさん」
「お、おう!」
バルトが固まる。ルカが小さく笑った。
「今日のバルトさん、すぐ落ちますね」
「落ちてねぇ!」
「声」
「落ちてねぇ……」
また部屋に、小さな笑いが生まれた。エルルは茶碗を握ったまま、少し遅れて口元を緩める。誰も「笑っていい」とは言わなかった。バルトは次の一言を飲み込み、ルカはいつもの調子で横から刺し、セレスは呆れた顔のまま水差しを寄せる。エルルの茶碗が空くと、ルシアンが何も聞かずにもう一杯注いだ。
◇
少し落ち着いた頃、レイスとアルドは総隊長室へ報告に向かった。エルルのそばには、ルシアンが残った。他の隊員たちも、個室や店内でそれぞれ待機している。全員がいると騒がしくなるため、ゴードとバルトは入口側に立ち、ルカとノルは窓側を確認し、セレスはミナと一緒に水を汲みに行った。エディンは、少し離れた椅子で静かに茶を飲んでいる。不思議と、誰も完全には気を抜いていなかった。
それでも、張り詰めすぎてもいない。エルルには、そのバランスが分からなかった。
「ルシアンさん」
「はい」
「皆さんは、いつもこうして人を助けているのですか?」
「いつも、助けられるわけではありません」
ルシアンは正直に答えた。
「間に合わないこともあります。守れないこともあります。助けたくても、助けられないことも」
エルルは膝の上の手を見た。
「今日も……」
「はい」
ルシアンは否定しなかった。その優しさが、エルルには苦しかった。嘘をつかれないから、痛い。でも、嘘をつかれないから、信じられる。
「それでも、皆さんは行くのですね」
「はい」
「どうしてですか?」
ルシアンは少し考えた。
「助けられるかもしれないから、だと思います」
「かもしれない」
「はい。絶対に助けられるとは言えません。でも、行けば助けられるかもしれない。行かなければ、絶対に助けられない」
エルルは、その言葉をゆっくり飲み込んだ。行けば、助けられるかもしれない。行かなければ、絶対に助けられない。それは単純な言葉だった。けれど、とても重かった。
「私も……」
エルルは言いかけて、止まる。
「私も?」
ルシアンが優しく促す。
「私も、いつか誰かを助けられるでしょうか」
その声は、幼い願いのようでもあり、祈りのようでもあった。ルシアンは、エルルの手を取った。
「助けられます」
「本当に?」
「はい」
ルシアンは迷わなかった。
「剣を持たなくても、魔法が使えなくても、人は誰かを助けられます。話を聞くことでも、手を握ることでも、間違っていることを間違っていると言うことでも」
エルルは、ルシアンを見た。
「ルシアンさんも、そうやって助けているのですか?」
「私は……どうでしょう」
ルシアンは少し照れたように笑った。
「助けられている方が多いかもしれません」
「そんなことはありません!」
エルルは思わず言った。自分でも驚くほど、強い声だった。
「ルシアンさんは、私を助けてくれました」
ルシアンが目を瞬かせる。エルルは、手を握り返した。
「夜骸からだけではありません。怖くて、息ができなくなりそうだった時も。歩けなかった時も。泣いていいのか分からなかった時も」
声が震える。でも、今度は逃げなかった。
「ルシアンさんが、私を助けてくれました」
ルシアンは少し黙った。それから、柔らかく笑った。
「ありがとうございます」
「私が言うべき言葉です」
「でも、嬉しかったので」
エルルは少しだけ困った顔をした。そして、二人は同時に小さく笑った。その笑いは、静かだった。店の外の喧騒に紛れてしまいそうなほど小さかった。けれど、エルルにとっては、今日初めて自分から笑えた瞬間だった。
◇
迎えが来たのは、それからしばらくしてからだった。煤鳩亭の入口が開き、店内の空気がわずかに変わる。入ってきたのは、背の高い青年だった。年は二十代半ばほど。整った身なりをしているが、華美ではない。深い紺色の外套に、手入れの行き届いた革手袋。腰には細身の剣を下げている。姿勢がよく、視線に無駄がない。
貴族の屋敷に仕える者、と言われれば納得できる雰囲気だった。青年は店内を一度見渡し、第一部隊の面々へ軽く頭を下げた。
「夜分に失礼いたします。エルル様を迎えに参りました」
声は穏やかだった。だが、その奥に張り詰めたものがあった。アルドとレイスは、ちょうど報告から戻ってきたところだった。レイスが青年を見る。
「あなたは」
「セインと申します」
青年――セインは短く名乗った。
「エルル様のご家族より、迎えを命じられております」
「確認書は」
「こちらに」
セインは封書を差し出した。レイスは封を確認し、アルドへ目配せする。問題はなさそうだった。アルドは頷いた。
「エルル様は奥にいます。ただ、かなり疲れてます」
「承知しております」
セインの表情が、ほんのわずかに痛む。
「お守りいただき、感謝いたします」
「礼は本人が無事に帰ってからでいい」
「はい」
セインは深く頭を下げた。その所作は丁寧だったが、過剰ではない。アルドは少しだけ目を細めた。ただの使いではない。腕も立つ。
そう思った。だが、それ以上は聞かなかった。今聞くべきことではない。ルシアンがエルルに知らせると、エルルは少しだけ顔を強張らせた。
「迎え……」
「はい。セインさんという方です」
「セインが……」
エルルはその名を聞いて、安心したように息を吐いた。けれど、すぐにルシアンの手を見る。離すのが怖い。その気持ちが、指先に出ていた。ルシアンは気づいていた。
「大丈夫です」
「……はい」
「外まで一緒に行きます」
エルルは目を上げた。
「いいのですか?」
「もちろん」
ルシアンは笑った。
「まだ、手を離すのは怖いでしょう?」
エルルは少し迷った。それから、小さく頷いた。
「……怖いです」
「はい。言えましたね」
また、その言葉。エルルは少し泣きそうになりながら笑った。
「ルシアンさんは、すぐ褒めるのですね」
「そうですか?」
「はい」
「嫌ですか?」
「いいえ」
エルルは首を振った。
「嬉しいです」
◇
煤鳩亭の外に、馬車が待っていた。昼に乗っていたものとは違う、静かな黒塗りの馬車だった。余計な装飾は少ないが、造りはしっかりしている。周囲には数名の護衛が立っていた。セインはエルルの前に膝をついた。
「エルル様。遅くなりました」
「セイン……」
「怖い思いをされましたね」
その一言で、エルルの顔が歪んだ。しかし、泣き崩れはしなかった。ルシアンの手を握ったまま、静かに頷く。
「はい」
「すぐにお屋敷へ戻ります」
「分かりました」
セインは立ち上がり、第一部隊へ向き直る。
「皆様、本当にありがとうございました」
アルドは軽く手を上げた。
「俺たちは任務を果たしただけです」
「その任務で、救われた命があります」
セインの声は穏やかだった。
「その事実は、忘れません」
アルドは少し困ったように笑った。
「そう言ってもらえるなら、ありがたいです」
バルトが腕を組んだ。
「エルル、ちゃんと飯食えよ」
レイスが咳払いをする。
「バルトさん」
「小声だろ!」
「距離感です」
「あっ」
バルトは慌てて頭を下げた。
「す、すみません。エルル様」
エルルは少し笑った。
「はい。食べます」
バルトはそれだけで満足そうだった。ルカが手を振る。
「次に会う時は、もう少し安全な場所がいいですね」
「はい」
ノルは短く言った。
「絵葉書、いる?」
「え?」
「今度、持ってくる」
エルルは一瞬驚いた後、嬉しそうに笑った。
「はい。見てみたいです」
「分かった」
セレスは軽く肩をすくめる。
「まずは休みなさい。話はそれからよ」
「はい」
ゴードは短く頷いた。
「冷やすな」
「はい。ありがとうございます」
エディンはふわりと笑う。
「またね、エルルちゃん」
「はい、エディンさん」
そして最後に、エルルはルシアンを見た。手はまだ繋がっている。けれど、もう行かなければならない。
「ルシアンさん」
「はい」
「また、お会いできますか」
「もちろんです」
ルシアンは迷わず言った。
「王都にいるなら、きっと会えます」
「本当に?」
「はい。約束します」
エルルは、その言葉を胸にしまうように目を伏せた。そして、両手でルシアンの手を包む。
「今日、私を助けてくださって、ありがとうございました」
「こちらこそ」
「こちらこそ、ですか?」
「はい」
ルシアンは優しく笑った。
「エルル様が生きていてくれて、よかったです」
エルルの目に、また涙が浮かぶ。けれど、今度はこぼれなかった。
「……はい」
エルルはゆっくりと手を離した。その瞬間、少しだけ寒くなった気がした。でも、もう歩けないほどではなかった。セインに支えられながら、馬車へ乗る。扉が閉まる前、エルルはもう一度顔を出した。
「ルシアンさん」
「はい」
「怖い時は、怖いままでいいんですよね」
ルシアンは少し驚き、それから笑った。
「はい」
「歩ける時に、歩けばいいんですよね」
「はい」
エルルは小さく頷いた。
「覚えておきます」
扉が閉まる。馬車がゆっくりと動き出した。ルシアンは、その馬車が角を曲がって見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
◇
煤鳩亭の前に、少しだけ静けさが残った。バルトが頭をかいた。
「いい子だったな」
「そうね」
セレスが頷く。
「強い子でもあったわ」
「強い?」
ルカが聞く。
「ええ。あれだけの目に遭って、最後にちゃんと礼を言ったもの」
「確かに」
ノルは小さく言った。
「また会えるといいね」
ルシアンがぽつりと言った。アルドはその横顔を見る。
「会えるだろ」
「そうかな」
「約束したんだろ?」
「うん」
「なら会える」
アルドは当然のように言った。ルシアンは少し笑う。
「アルドらしいね」
「そうか?」
「うん」
レイスは留帳を開いていた。短く記す。貴族令嬢エルル、煤鳩亭にて一時保護。ルシアンと親しくなる。迎え、セインと名乗る青年。
身分ある家の使者と思われる。詳細不明。赤い短鎖を腰に下げた盗賊団の存在、要調査。筆が止まる。それから、もう一行。エルル、ルシアンとの再会を望む。
最後の文字が留帳へ消えると、レイスは帳面を閉じた。
「アルド」
「何だ?」
「明日は報告書が増える」
「うげ」
「盗賊、夜骸、中級、護衛隊壊滅、依頼元、迎えの確認。書くことが多い」
「お前が書いてくれ」
「隊長署名が必要だ」
「そこだけ書く」
「全文読め」
「嫌だ」
「読むまで帰さない」
いつものやり取りが戻ってくる。ルシアンはそれを聞きながら、もう一度だけ、馬車が消えた角を見た。手のひらには、まだエルルの震えが残っている気がした。怖い時は、怖いままでいい。自分で言った言葉なのに、胸の奥に残っていた。
いつか、あの子が今日のことを思い出した時。恐怖だけではなく、誰かの手の温かさも一緒に思い出せるように。ルシアンは、そう願った。夜の王都に、白祈塔の光が淡く降っている。第一部隊は煤鳩亭へ戻る。
扉の向こうから、ミナの声が聞こえた。
「黒豹さんたち、お茶のおかわりいる?」
バルトが即答する。
「いる!」
「酒じゃないの?」
「今日は茶だ!」
「珍しい」
「俺様だって空気読む!」
「今ちょっと大声だったよ」
「……茶、いる」
その声に、皆が小さく笑った。第一部隊は、まだ湯気の残る茶の席へ戻っていった。
お読みいただきありがとうございます。
次回から毎週月曜日・水曜日・金曜日の週3通常更新に戻す予定でしたが、こんな載せたての無名小説なのに想定よりも多くの方にお読みいただいていますので、そのお礼も兼ねて皆様をお待たせしないように、第1章を毎日更新継続させていただきます。
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