エルル救出任務
馬車の窓から見える村は、思っていたよりも小さかった。王都からそれほど離れていない場所にある、何の変哲もない村。畑があり、井戸があり、干された洗濯物が風に揺れ、子供たちが道端で小石を蹴って遊んでいる。けれど、少女にとっては、それだけでも十分に珍しかった。
「本当に、皆さんは朝から畑へ出るのですね」
少女は、馬車の中から外を見つめたまま言った。年は十代半ばほど。柔らかな茶色の髪を肩のあたりで結び、質の良い薄青の外套を羽織っている。服装は控えめだが、布地も仕立ても庶民のものではない。貴族のご令嬢。そう呼ぶのが一番自然な少女だった。
彼女の向かいに座る護衛兵は、少しだけ苦笑した。
「畑は待ってくれませんからな。雨が降る前に耕し、日が出れば収穫し、夜になる前に片づける。村の暮らしは、王都の鐘より空の都合で動きます」
その護衛兵は、この一行の中で最も年長の男だった。年は四十を少し過ぎた頃。鎧は実用本位だが、手入れが行き届いている。腰の剣にも飾りは少ない。貴族の護衛を任されるだけあって、声にも態度にも落ち着きがあった。少女は感心したように頷く。
「空の都合……。良い言葉ですね」
「良い言葉というより、逆らえぬ相手です」
「それも、屋敷の中ではなかなか分かりません」
「エルル様は、そういうことを知るために今回の視察を?」
「はい」
少女――エルルは、素直に頷いた。
「屋敷にいると、村の話は紙で届きます。収穫量、税、病、夜の被害、道の修繕……。大事なことばかりです。でも、紙だけでは、ここに住む人たちが何を見て、何を怖がり、何を大切にしているのかまでは分かりません」
「お若いのに、よく見ておられる」
「まだ、見ているだけです」
エルルは窓の外を見た。子供が転んだ。近くにいた母親らしき女性が、笑いながら土を払ってやっている。ただそれだけの光景に、胸の奥が少し温かくなった。
「だから、見ただけで分かったつもりにならないようにしたいんです」
護衛兵は少しだけ目を細めた。
「そのお気持ちは、きっと大切です」
「きっと、では困ります」
「では、間違いなく」
「ふふ。ありがとうございます」
エルルが笑うと、護衛兵もわずかに笑った。馬車の外では、別の護衛兵たちが周囲を警戒しながら馬を進めている。王都郊外とはいえ、人気の少ない道もある。油断はできない。
「今日見たことを、帰ったらどう報告なさるおつもりですか」
護衛兵が尋ねた。
「まず、村の井戸のことを」
「井戸ですか」
「はい。古い井戸の石積みが崩れかけていました。村長はまだ使えると言っていましたが、子供が近くで遊んでいました。あれは早めに直した方が良いと思います」
「細かいところを見ておられる」
「細かいところに、生活がありますから」
護衛兵は少し驚いた顔をした。それから、静かに頭を下げる。
「失礼しました。まったく、その通りです」
エルルは照れたように笑った。
「それから、農具の刃を研ぐ職人が足りないとも聞きました。王都から職人を呼べないか、調べたいです」
「それは、なかなか骨が折れそうですな」
「そうですね。でも、誰に相談すればいいかを探すことはできます」
「頼もしいことです」
「そうでしょうか」
「はい。少なくとも、私はそう思います」
馬車は村を離れ、街道へ戻る。左右には疎らな林が広がっていた。王都郊外。危険がないわけではないが、辺境ほど荒れてはいない。道もひどく荒れているわけではなく、昼の光もまだ明るい。だからこそ、その音はあまりにも唐突だった。
外から、馬の嘶きが聞こえた。次いで、金属が激しく擦れる音。護衛兵の顔が変わる。エルルが口を開くより早く、外の衛兵の叫びが轟いた。
「敵襲!!」
突如として世界が、ひっくり返った。
◇
馬車が大きく揺れた。車輪が石を踏み外し、エルルの体が座席から浮く。向かいの護衛兵が即座に腕を伸ばし、彼女を支えた。
「伏せてください!」
「何が――」
「伏せて!」
護衛兵の声には、先ほどまでの穏やかさが欠片もなかった。外で怒号が上がる。馬が暴れ、誰かが怒鳴る。剣が抜かれる音。鎧が叩かれる音。
男たちの荒い笑い声。
「積み荷は後だ! まず馬車を止めろ!」
「護衛を崩せ!」
「女は殺すなよ、値が落ちる!」
エルルは息を呑んだ。盗賊。夜骸ではない。人間の声だった。だが、それが分かったからといって、恐怖が薄れるわけではなかった。
窓の外を、顔を布で覆った男が横切った。煤けた革鎧の上に、暗い灰色の外套。腕には薄い鉄板を縫い込んだ籠手。そして腰には、短い赤い鎖が垂れていた。手には曲刀に似た刃物を持っている。動きは乱暴だが、隊列は崩れていない。ただの野盗にしては統率が取れている。そんな印象だった。
「扉を開けないでください」
護衛兵が低く言った。
「私が外を確認します」
「でも」
「絶対に出ないでください」
その言葉を最後に、護衛兵は馬車の外へ出た。扉が閉まる。エルルは座席の端を握りしめた。外では戦いが続いていた。
「囲め! 馬車から離すな!」
「左から来るぞ!」
「押し返せ!」
護衛兵たちの声。それに混じって、盗賊たちの罵声。
「硬ぇな、この護衛ども!」
「隊長格から潰せ!」
金属音が連続する。馬車の壁に、何かが叩きつけられた。血が窓に飛んだ。エルルは声を上げそうになり、自分の口を両手で押さえた。視察で話した村の井戸。
畑の土。小石を蹴っていた子供。そのすべてが、一瞬で遠くなる。今あるのは、馬車の中の狭い空間と、外から聞こえる死の音だけだった。扉が開いた。
エルルは肩を跳ねさせる。入ってきたのは、先ほどの護衛兵ではなかった。若い護衛兵だった。兜が割れ、額から血を流している。だが、目ははっきりしていた。
「エルル様、こちらへ」
「他の方は」
「時間がありません」
「答えてください」
若い護衛兵は一瞬だけ黙った。その沈黙で、エルルは理解した。胸が冷たくなる。
「……隊長は」
「最期まで、馬車を守り抜きました」
エルルは唇を噛んだ。泣いてはいけない。今泣けば、この人の足を止める。
「分かりました」
彼女は震える足で立ち上がった。若い護衛兵はエルルに外套を被せる。
「顔を伏せて。走ります」
「あなたは」
「私は、最後の護衛です」
それは嘘ではなかった。だが、何かが少しだけ違った。しかしエルルには、それを考える余裕はなかった。馬車の外は、惨劇だった。護衛兵たちが倒れている。
馬も、御者も、道端の草も、血で汚れていた。盗賊たちはまだ残っている。顔を覆い、刃物を持ち、腰に赤い短鎖を垂らした男たちが、壊れかけた馬車を囲んでいた。ひとりがエルルに気づく。
「いたぞ!」
「生け捕りにしろ!」
若い護衛兵がエルルの手を引いた。
「走って!」
二人は林へ向かって走った。背後で、馬車が砕ける音がした。
◇
盗賊から逃げ続けるうちに、昼の明るさは少しずつ傾いていった。エルルは、どれほど走ったのか分からなくなっていた。途中で何度も転び、若い護衛兵に支えられた。膝は痛み、靴の中には土が入り、外套は枝に引っかかって裂れている。それでも、止まれなかった。背後から聞こえていた盗賊たちの声は、いつの間にか遠くなっていた。
だが、若い護衛兵は足を緩めない。
「まだ追ってきていますか」
エルルが息を切らして尋ねる。
「今は離れています」
「なら、少しだけ」
「駄目です。ここは旧材木道に近い。日が落ちる前に開けた場所へ出ます」
「旧材木道……」
「使われなくなった道です。夜は危険です」
その言葉の意味を、エルルはすぐには理解しきれなかった。ただ、若い護衛兵の声が硬くなったことだけは分かった。林の空気が変わる。昼の熱が薄れ、木々の影が長く伸びていた。枝の間から差し込む日差しは赤みを帯び、足元の草は暗く沈み始めている。どこかで鳥が鳴いた。
その声が、急に途切れた。若い護衛兵が立ち止まる。
「……まずい」
「どうしましたか」
「声を出さないで」
エルルは言われた通り、口を閉ざした。林の奥から、ずる、と何かが這う音がした。盗賊ではない。人の足音ではない。木の根元から、泥のようなものがゆっくりと起き上がる。
雑級夜骸。黒ずんだ土と腐葉土が混ざったような塊が、湿った音を立てて揺れていた。エルルの喉が凍る。
「夜骸……」
夕方の林の中。日が落ちきる前の、光が弱くなる時間。それでも、影の濃い場所には、もう夜が染み出し始めていた。若い護衛兵が剣を抜く。
「下がってください」
「でも」
「ここから先は、走るだけでは逃げ切れません」
雑級が一体。いや、二体。木の陰から、さらにもう一体。そして、林の奥で獣のような唸り声がした。低級だ。
地面に伏せるような黒い獣型の夜骸が、ゆっくりと姿を現す。若い護衛兵はエルルを背に庇った。
「合図が届いていれば、助けが来ます」
「合図?」
「来ます」
彼はそれ以上答えなかった。雑級が泥のように這い寄る。若い護衛兵は踏み込み、雑級を斬った。剣筋は速い。護衛兵としては、あまりにも速い。
エルルはその動きに違和感を覚えた。だが、次の瞬間には、低級が横から飛びかかっていた。
「伏せて!」
若い護衛兵はエルルを抱えるように倒し、自分の肩で低級の爪を受けた。血が散る。
「っ……!」
「あなたが!」
「走ってください!」
だが、もう前にも夜骸がいた。泥のような雑級が三体。獣型の低級が一体。さらに林の奥から、もっと大きな影が姿を現す。複数の獣が混ざったような姿。
翼の骨組み。獣の前脚。長い尾。裂けた口。その体の一部が、傾きかけた光を吸うように黒く蠢いていた。
中級夜骸である。エルルの膝が震える。若い護衛兵が彼女の前に立つ。
「下がって」
「でも」
「ここで止めます」
「一人で?」
若い護衛兵は答えなかった。代わりに、剣を構えた。中級が低く鳴いた。その体から、黒い骨片のようなものが浮き上がる。一定以上の強さを持つ夜骸が使う特別な技。
骸技。黒い骨片が、矢のように放たれた。若い護衛兵がエルルを庇う。その瞬間。炎が走った。
横合いから飛び込んできたアルドが、炎の刃で黒い骨片を斬り払う。
「間に合った!」
彼の声が、林に響いた。若い護衛兵の目が一瞬だけ細くなる。エルルは呆然と、全身に赤い炎をまとった男を見た。その後ろから、第一部隊が次々に現れる。ゴードが盾を構え、ルシアンがエルルの方へ駆ける。
「大丈夫ですか!」
その声は、驚くほど優しかった。エルルは答えようとして、声が出なかった。ルシアンは無理に聞かず、彼女の肩に手を添える。
「もう大丈夫。私たちが来ました」
その言葉で、エルルの張り詰めていた何かが少しだけ緩んだ。だが、泣く暇はない。レイスが全体を見渡す。
「雑級三、低級二、中級一! 対象を守りながら戦います!」
「了解!」
◇
少し前。王都討祓軍本部の廊下を、アルドとレイスは走っていた。普段なら、総隊長室へ向かう時に走ることは少ない。特にレイスは、廊下を走る行為そのものを嫌う。緊急時を除けば、規律を乱すだけだと言う。だが今、そのレイスが走っていた。
先を行くアルドの背を追いながら、眉間に深い皺を刻んでいる。
「伝令の顔、見たか」
アルドが言った。
「あぁ、見た」
「ただ事じゃないな」
「だから走っている」
二人は角を曲がり、総隊長室の前へ着いた。扉の前にいた兵が、二人を見るなり道を開ける。
「入れ!」
中からローグレスの声がした。アルドは扉を開けた。室内には、ローグレスとジークがいた。そして、泥と血で汚れた伝令が、片膝をついたまま息を荒くしている。ローグレスは机の前に立っていた。
珍しく、顔に焦りが出ている。それだけで、アルドの胸の奥が冷えた。
「アルド、レイス。緊急任務だ」
「はい」
「王都北東、旧材木道付近で貴族令嬢エルル様一行が盗賊に襲撃された。護衛隊は壊滅。エルル様本人は生き残った護衛一名と林へ退避している」
「盗賊?」
アルドが眉を寄せる。ローグレスは続けた。
「問題はこれからだ。日が沈めば夜骸が出る」
レイスの表情が変わった。
「盗賊…夜骸…。報告経路は確かですか。そもそもその令嬢はなぜ旧材木道近くに――」
「気持ちは分かる」
ローグレスが、レイスの言葉を遮った。その声は強かった。
「だが今は緊急だ、時間がない。詳細確認は後でいい。直ちに向かえ」
レイスが口を閉じる。ローグレスの焦りは、苛立ちではない。恐れでもない。時間がないことを知っている者の焦りだった。
「第一部隊でなければ間に合わない」
ローグレスはアルドを見た。
「絶対に助けろ」
アルドは一瞬だけ頷いた。
「分かりました」
それだけ言って、部屋を飛び出す。
「アルド!」
レイスが追う。廊下へ出た瞬間、アルドは走りながら振り返らずに言った。
「レイス!」
「何だ」
「全員集めろ。ルカは肩を確認してから出す。ルシアンには治療具多め。ノルには予備の弾も持たせろ。ゴードさんには替え盾紐。バルトには大技を林で撃つなって先に言え。セレスは足場制御できる準備を!」
レイスの目がわずかに見開かれた。アルドが、指示を出している。しかも、雑ではない。迅速かつ的確。必要なものを分かっている。
「馬はどうする!」
「本部厩舎から最速のを回せ!俺は先に隊舎へ行く!」
「了解した」
レイスは即答した。文句はない。この時だけは、アルドの判断が最短だった。
「伝令には追加情報を聞く。出発までに拾える分だけ拾う」
「頼む!」
アルドはさらに速度を上げた。レイスは別の廊下へ曲がり、伝令と厩舎へ向かう兵を同時に捕まえに走った。
◇
王都北東へ向かう街道を、第一部隊は馬で駆けていた。蹄の音が連続して地面を打つ。風が顔を叩き、隊服の裾が後ろへ流れる。アルドは先頭で声を張った。
「任務は貴族令嬢エルル様の救出! 昼に盗賊襲撃を受けて護衛隊が壊滅、本人は護衛一名と林へ逃げてる!」
「盗賊ってことは、今も追われてるんですか!」
ルカが馬上で叫ぶ。
「分からん!ただし、その後に夜骸と接触している可能性が高い!」
「どの程度?」
ノルが短く問う。
「知るか!」
空気が引き締まる。バルトが歯を剥く。
「マジかよ!」
「しかも対象を守りながらの戦闘になる」
レイスが隣から補足する。
「林の中なら視界も悪い。火炎、大地の大技は制限される」
「俺様に先に言うなよ」
「先に言わなければ使うでしょう」
「……ちょっとは考えるわ!」
「ちょっとでは困ります」
セレスが前を見ながら言う。
「対象は戦えない前提でいいのね?」
「ああ。貴族令嬢だ」
「なら足場と退路を作るわ」
ゴードが盾を背負い直す。
「守る対象は一人か」
「令嬢と護衛一名です。護衛が生きていれば二人」
アルドが答える。ルシアンは治療具の入った鞄を強く抱えていた。
「怪我人が多いかもしれないね」
「護衛隊は壊滅と見ていい」
レイスが言った。
「ただ、生存者がいないとは限らない」
「分かった」
エディンは静かに馬を走らせながら、微笑みを消していた。
「多分状況は最悪ね」
「恐らく」
アルドは前方を睨む。遠くに、古い林が見えてきた。旧材木道へ続く道だ。胸の奥が焦げるように熱い。知らない令嬢。
知らない護衛。知らない事情。だが、今この瞬間、助けを待っている。それだけで十分だった。
「急ぐぞ!!」
アルドの声が、街道に響いた。
◇
バルトが拳を鳴らす。
「中級だろうが何だろうが、ぶっ飛ばしゃいいんだな!」
「だから林を壊すなと言ったばかりだろ」
レイスが即座に返す。
「分かってるって!」
「信用が薄いですね」
ルカが両手の銃を回し、低く構える。
「雑級は僕とノルさんで削ります。抜けたらお願いします」
「抜ける前に止める」
ノルは長銃を構えたまま答えた。中級の前脚が振るわれた。アルドは剣で受けず、身体強化で横へ跳んだ。地面を蹴り、低い枝をさらに蹴って、斜め上から炎の刃を叩き込む。
「火炎弐式 焔刃!」
炎が中級の肩を裂いた。だが、浅い。中級の体がぐにゃりと歪み、傷口から黒い骨片が生える。
「硬いな!」
「中級です!」
レイスは水と風を合わせ、鋭い刃を作った。
「水風弐式 裂雨」
細い水刃が風に乗り、中級の脚を刻む。中級が低く唸る。その背の翼骨が開いた。飛ぶ、というより、跳ねる。巨大な体が一瞬浮き、アルドの頭上へ影を落とした。
「上!」
ノルの声。弾丸が走る。一発目は近くの岩に当たって跳ね、低級の側面を撃ち抜いた。二発目は旋風に押され、中級の背後へ回り込む。正面にいるはずのノルの弾が、背後から翼骨の付け根を穿った。
中級の姿勢が崩れる。ノルは短く呟いた。
「正面だけ見てるから」
その声は冷たく、少し荒かった。ルカは雑級を双銃で撃ち散らしながら、低級の懐へ飛び込んでいた。弾丸で足を止め、右手の銃を口にくわえる。空いた手で短剣を抜き、飛びかかる低級の爪を受け流す。そのまま蹴りで低級の顎を跳ね上げ、左手の銃で膝にあたる関節を撃ち抜いた。
低級が崩れる。
「邪魔です」
短剣を投げる。刃が低級の肩に刺さる。ルカは弾を込め直しながら踏み込み、刺さった短剣の柄へ足裏を叩き込んだ。刃が深く沈む。低級が呻いた瞬間、ルカは口にくわえていた銃を右手へ戻す。
ゼロ距離。頭部へ連射。低級が崩れた。
「一体」
「調子に乗るな、肩が開いている」
レイスが叫ぶ。
「はい!」
ルカは素直に返事をした。バルトは別の低級を真正面から受け止めていた。
「大地弐式 砕岩拳!」
拳が低級の胸を打つ。しかし低級は倒れない。横へ回ろうとする。ゴードが盾で押し返した。
「通さん」
重い盾撃が低級の体を木へ叩きつける。セレスは水の膜を地面へ広げ、雑級の進路を滑らせた。
「こっちへ来ないで」
足場を奪われた雑級へ、ノルの弾が横から入る。さらにセレスは一歩踏み込み、迫ってきた雑級の上部を水で固め、蹴りで横へ払った。水膜で滑った雑級が、別の雑級とぶつかって崩れる。
「雑級相手に手間取ってる暇はないわ」
その横で、ルシアンはエルルを木の陰へ誘導していた。
「エルル様ですね、ここにいてください。動かないで。大丈夫、私がそばにいます」
「でも、あの方が」
エルルは若い護衛兵を見る。彼は肩から血を流しながらも、立っていた。だが、次の瞬間、中級の放った黒い骨片が彼の腹を貫いた。
「っ……!」
護衛兵が膝をつく。
「いや!」
エルルが叫ぶ。ルシアンが彼女を抱き止めた。
「行っては駄目!」
「あの人が!」
「今行ったら、あなたも死にます!」
その声は強かった。エルルは動けなくなる。ルシアンは彼女を抱きしめたまま、歯を食いしばった。助けたい。だが、今はエルルを守るのが先だ。
中級が再び骸技を放つ。黒い骨片が複数、アルドへ向かった。アルドは剣で二本を弾き、三本目を炎を纏った足で蹴り上げた。身体強化を乗せた蹴りが骨片の軌道を逸らす。
「邪魔だ!」
レイスが横から雑級を蹴り飛ばした。蹴られた雑級が泥のように潰れ、後方へ散る。
「近づくな、鬱陶しい」
その声は冷たかった。アルドが一瞬だけ笑う。
「レイス、口悪いぞ」
「今言うことか」
「余裕あるかと思って」
「ない」
レイスは風を纏わせた剣で、中級の前脚を斬る。
「アルド、核は胸奥だ。翼骨の下!見えるか?」
「一瞬だけ。ノル!」
「聞いてた、狙う」
ノルが三発撃った。一発目は跳弾で中級の側面。二発目は旋風誘導で背後。三発目は正面から、麻痺属性の魔力が込められた麻痺弾。中級は弾道に反応しきれなかった。
側面を抉られ、背後から翼骨を砕かれ、正面から麻痺弾を胸に受ける。動きが一瞬、止まる。
「今!」
ノルが叫ぶ。アルドは地面を蹴った。低級の崩れた体を足場にし、さらに跳ぶ。炎が剣に集まる。大きく燃やせば林が燃える。
だから、一点に絞る。
炎が刃の先に凝縮する。
「火炎弐式 炎牙!」
アルドは中級の胸へ突っ込んだ。炎の刃が、翼骨の隙間から深く刺さる。中級が暴れる。アルドの体が振り回される。だが、彼は剣を離さなかった。
「バルト!」
「任せろ!」
バルトが中級の脚を殴りつける。ゴードが盾で体を押さえる。レイスが風でアルドの背を押し、セレスが水で足場を固定する。
「アルド、押し込め!」
レイスの声。
「分かってる!」
アルドは両手で剣を握り直した。
「燃えろ!」
核が砕けた。中級の体が大きく震える。黒い骨片がばらばらと落ち、翼骨が折れ、前脚が崩れる。最後に、裂けた口から濁った音が漏れた。
「ぎ、ぁ……」
中級は、地面へ沈むように崩れ落ちた。林に静けさが戻る。雑級の残骸。低級の死骸。中級の黒い塊。
そして、倒れた護衛兵。エルルはルシアンの腕の中で震えていた。戦いが終わったと分かっても、足が動かなかった。
「大丈夫」
ルシアンが言う。
「もう、大丈夫です」
その言葉で、エルルの目から涙がこぼれた。
「私……」
「はい」
「皆が、私を守って……」
「怖かったですね」
ルシアンはそれ以上、何も聞かなかった。ただ、エルルの背を撫でた。エルルは声を殺して泣いた。アルドは剣を下ろし、息を吐く。レイスは周囲を確認していた。
「残存なし。ノル」
「見える範囲、いない」
「ルカ、怪我は」
「大丈夫です」
「肩を見せろ」
「後で」
「今だ」
「はい」
バルトは護衛兵の方を見た。
「おい、あいつ」
若い護衛兵は地面に倒れていた。腹から血が流れている。ルシアンがエルルを支えながら、顔を上げる。
「手当てを――」
その時、護衛兵がかすかに動いた。アルドが近づこうとする。護衛兵は弱々しく手を上げた。
「……お嬢様を」
「分かってる。あんたも助ける」
「私は……もう」
「勝手に決めるな」
アルドが膝をつく。護衛兵は、ほんのわずかに笑ったように見えた。
「頼みます」
その言葉の後、彼の体から力が抜けた。ルシアンが息を呑む。エルルは泣きながら首を振った。
「そんな……」
バルトが拳を握った。レイスは無言で周囲を見た。死体。血。壊れた道。
夜骸の残骸。違和感を覚えるには、あまりに現場が荒れている。
「エルル様」
アルドが呼ぶ。少女はびくりと肩を震わせた。
「俺たちは王都討祓軍第一部隊です。ローグレス総隊長の命で、あなたを救出に来ました」
エルルは涙で濡れた目を上げた。
「王都討祓軍……黒豹……」
「はい」
ルシアンが優しく言う。
「あなたを、王都までお送りします」
エルルはルシアンを見つめた。怖くてたまらなかった。足は震えている。頭の中には、馬車の中で笑っていた護衛隊長の顔が残っている。敵襲の叫びが、まだ耳の奥で響いている。
けれど、ルシアンの手は温かかった。エルルは、その手を握り返した。
「……ありがとうございます」
声は震えていた。それでも、礼を言った。ルシアンは少しだけ笑った。
「よく頑張りましたね」
その一言で、エルルはまた泣きそうになった。アルドは空を見上げる。日は傾き始めていた。王都まではまだ距離がある。
「一度、馬車の残骸まで戻る。使える馬がいれば使う。なければ常歩で移動だ」
「対象の体力を考えると、休ませたい」
レイスが言う。
「でもまた夜になる前に林は出る」
「ああ」
アルドはエルルへ視線を戻した。
「歩けますか」
エルルは答えようとした。だが、足に力が入らない。ルシアンがすぐに支える。
「無理しなくていいです」
「でも」
「怖い時は、怖いままでいいんです。歩けない時は、誰かに頼っていいんです」
エルルは、ルシアンの顔を見た。その声は、貴族令嬢へ向けたものではなかった。ただ、震えている一人の女の子へ向けられた声だった。だから、余計に胸に届いた。
「……はい」
ルシアンはエルルの手を握った。
「行きましょう。ゆっくりで大丈夫」
アルドはその二人を見て、小さく頷いた。レイスは留帳を開く。短く記す。貴族令嬢エルル救出。盗賊襲撃後、旧材木道付近にて夜骸群と接触。
雑級複数、低級二体、中級一体。中級、骸技使用。護衛隊壊滅。生存対象一名。王都へ護送。
筆が止まる。それから、もう一行。対象、恐慌状態。ルシアンが付き添う。最後の文字が留帳へ消える。
◇
林の奥で、死んだはずの護衛兵の指が動いた。ほんのわずかに。それから、血に濡れた手がゆっくりと地面を押す。腹を貫かれたはずの男は、静かに上体を起こした。アルドたちの足音は、もう遠い。
エルルの泣き声も、ルシアンの声も、林の向こうへ消えかけている。男は自分の腹を見下ろした。血は派手に流れている。服も裂けている。だが、致命傷ではない。
そう見えるように受けた。そう見えるように倒れた。そう見えるように、息を止めた。
「……いやぁ」
男は小さく息を吐いた。
「思ってたより、あいつら強ぇな」
その声には、死に損なった者の苦痛より、仕事の結果を測るような軽さがあった。
「しかし、来るの少し遅くないか?アイツ、俺が伝令役だとか言って楽な方選びやがって、サボりやがったな」
彼は立ち上がる。護衛兵の外套を脱ぐと、その下から黒い外套の端が覗いた。それもすぐに、折り畳むように内側へ隠す。男は遠ざかる第一部隊の気配を一度だけ見た。
「黒豹、ね」
小さく呟き、肩を回す。それから、林のさらに深い方へ足を向けた。死体の間を歩く足音は、ほとんどなかった。風が吹く。地面に落ちていた黒い布片が、落ち葉の下へ滑り込む。
次に誰かがそこを見たとしても、ただの汚れた布にしか見えないだろう。護衛兵だった男の姿は、もう林の中に消えていた。
お読みいただきありがとうございます。
次回も明日20時頃更新予定です。




