商人と職人
翌朝。ハイン商会本部の執務室では、大きな地図の上に何枚もの紙が広げられていた。町の名前、積荷、仕入れ値の目安、現地での予想売価まで、ニロの細かな字が並んでいる。
「最初の行き先は、ミルフォート町がいいと思います」
ニロが指したのは、オルセアから南東にある大きな町だった。いくつもの水路と水車を持ち、石造りの砦に囲まれている。東へ進めば戦地にも近く、商人や国軍の補給隊が行き交う。
「町が大きければ、多少読みを外しても売り先を変えられます。最初から小さな村へ一種類の荷を大量に持ち込むより安全です」
中心に選んだのは、丈夫な麻袋と補修用の麻布。水車の革帯へ使う革材、軸の手入れに使う油、交換用の鉄鋲や留め具も少量ずつ積む。
「東の戦地へ送る食料が増えているなら、水車を動かす時間も伸びてるはずです。袋も革帯も軸も傷む。しかも砦や荷車の修理にも回せます」
ハインは数量の欄へ目を走らせた。
「武器や防具なら、もっと高く売れるのではありませんか?」
「今回はやめます。国軍に止められる可能性がありますし、許可や仕入れ先の確認にも時間がかかる。最初の仕事で商会の荷を没収されたくありません」
「塩や干した魚は?」
ミュレナの問いに、ニロは首を横に振った。
「海に比較的近い町へオルセアから持ち込んでも、値段で勝てません。縄も同じです。薬は需要があっても、僕がまだ品質を見切れないので扱いません」
ハインの目がわずかに細くなる。
「売れ残るより、質の悪い薬を商会の名前で売る方が怖いです」
「正しい判断です」
帰りの荷も現地の相場を見るまで決めない。粉にした穀物が安ければ仕入れ、値が上がっていれば海側から入った品を探す。利益が出る物がなければ空荷で戻る。
「帰りの荷台が空いてるからって、損まで積んで帰る理由はありませんからね」
ハインとミュレナが視線を交わした。
「私は問題ないと思う」
ミュレナが言う。
「自分が運びたい物じゃなく、向こうで必要になる物から考えてる」
「私も賛成です。数量と最低売価はこちらで再確認しますが、行き先と荷はニロさんの案で進めましょう」
「ありがとうございます!」
「ただし、出発前の検品は全て行います。油の容器、革材、麻袋の縫い目、鉄具の数量まで」
「……全部ですか?」
「全部です」
ニロは一度息を吐き、すぐに頷いた。
「分かりました」
経路は南東の街道からミルフォート西側へ回り、国軍の補給路を避ける。夜営地だけは陽剣旅団へ任せると、ニロは最初から線を引いた。
「商売の道は分かります。でも、夜骸を避ける場所まで僕が決めるべきじゃないです」
「分からない部分を無理に決めないことも大切です」
「昨日からずっと試されてる気がするんですけど」
「気のせいではありません」
ミュレナが笑う。
「採用したからこそよ。今度は商会の金と信用まで背負うんだから」
ニロは地図へ目を落とし、背筋を伸ばした。
「軽くは扱いません」
ハインはそこで、二人へもう一つだけ釘を刺した。
「今回、陽剣旅団の皆さんは二十万セリオで同行してくださいます。しかし、今後それを基準にはしないでください」
「二十万って、そんなに安いんですか?」
「安いです。皆さんには皆さんの使命があります。商会の都合だけで拘束していい方々ではありません」
今回引き受けたのも、ニロを紹介した責任があるとアルドたち自身が考えたからだと伝える。ミュレナも真顔で頷いた。
「私たちも、頼るのが当たり前になっちゃ駄目ね」
ミュレナは少し考えた。
「危ない道を歩いてるはずなのに、舗装された道みたいに感じるの」
ハインはニロを見た。
「どれほど商会へ利益をもたらす存在になっても、皆さんを軽んじるような真似だけは許しません」
「分かりました。肝に銘じます」
◇
同じ頃。陽剣旅団はサヴィアの鍛冶屋にいた。店の奥では鉄を打つ音が続き、作業場から流れてくる炉の熱が入口まで届いている。
「お、来たね!」
出てきたサヴィアは、五人の顔を見るなり笑った。
「今度は何を壊したの?」
「壊した前提で話すなよ」
「アルドの剣を見た後だと、そう思うでしょ」
「前の話だろ」
「今度は雷澄」
ノルがレイスの腰を指した。
「雷澄?」
サヴィアの視線が細剣へ移る。
「名前を付けたの?」
「ああ。昨日決まった」
レイスが雷澄の柄へ触れた。
「へぇ、いいじゃない。誰が付けたの?」
「ミュレナだ」
「ミュレナが?」
サヴィアが笑う。
「今度詳しく聞こうっと」
「今日はその話じゃない」
レイスが言うと、アルドは持っていた細長い包みを作業台へ置いた。
「見てもらいたい物がある」
「武器?」
「多分な」
「多分?」
布を開く。三振りの黒い短剣が並んだ。炉の赤い光を受けても、刃はほとんど輝かない。
サヴィアの目つきが変わった。
「……何、これ」
「森で拾った」
「森に三本並んで?」
「詳しいことは言えない」
「訳ありね」
サヴィアは五人を順に見てから、もう一度短剣へ目を落とした。
「内緒で調べてほしいって顔してる」
「ああ。他の奴には絶対に話さないでくれ。必要なら壊しても構わない」
「そこまで?」
「頼めるか?」
サヴィアは答える前に一振りを手に取った。柄を握って重さを確かめ、刃先から背、柄との接合部へ視線を移す。炉へかざして何度か角度を変えると、眉が寄った。
「……変だね」
「何か分かるのか?」
「普通じゃないってことだけはね」
刃へ爪先を軽く当てる。
「全然研がれてない。刃の形にはなってるけど、これじゃ布を切るのにも苦労するよ」
「なまくらなのは俺たちも確認した」
レイスが言う。
「それだけじゃない」
サヴィアは作業台の下から細い鉄の試験棒を取り出した。
「壊していいんだよね?」
「ああ」
刃元へ棒を当て、少しずつ力を込める。鋭い金属音は鳴らず、鈍い音とともに黒い表面へ浅い傷が入った。
「やっぱり」
「簡単に傷が入るのね」
セレスが覗き込む。
「うん。人と打ち合えばすぐ欠けるか折れる。少なくとも武器として打った物じゃないよ」
「でも雑には見えない」
ノルが言った。
「そこなんだよ」
サヴィアは三振りを並べ、刃先を揃えた。背を重ね、柄の長さと刃の幅を比べていく。
「三本とも綺麗すぎるくらい同じなんだ。刃も柄もほとんど差がないし、重さも近い。一本ずつ手で作れば、腕のいい職人でも多少は違いが出る」
「同じ方法で作られている?」
「多分ね」
サヴィアは一本を指先で転がした。
「これと同じ品質の物を、何本も作れる方法があるはずだよ」
「素材は?」
「分からない」
即答だった。
「鉄じゃない。私が扱った鉱石とも違う。混ぜ物なのか、そもそも鉱石から作ったのかも分からない」
先ほど傷を入れた箇所を炉の光へ向ける。
「表面を黒く塗ったわけでもないね。中まで同じ色だ」
「加工方法は?」
「それも分からない。叩いて鍛えた跡が薄すぎるし、型へ流したなら継ぎ目がない。削り出したにしては道具の跡が残らなさすぎる」
「サヴィアでも分からないの?」
ノルが聞く。
「分からないね」
サヴィアは黒い刃から目を離さなかった。
「だから面白い」
「武器としては役に立たないんだろ?」
アルドが言う。
「役に立たない。でも短剣の形だけは、やけにきっちり作ってある」
サヴィアは柄を持ち上げる。
「何かの儀式や印に使うなら、刃物として切れる必要はない。短剣の形そのものに意味がある可能性はあるね」
レイスが三振りを見下ろす。
「調べられそうか?」
「やってみる」
サヴィアは迷わなかった。
「ただし、すぐ答えが出るとは思わないで。素材も作り方も分からない物だからね」
「構わない」
「じゃあ二振り置いていって」
一本目を指す。
「これは分解する。切って、削って、熱も加える。元の形には戻らないと思って」
次の一本へ指を移す。
「こっちはそのまま残す。壊した方と比べるために必要だから」
「最後の一本は?」
「そっちで持ってて。全部ここへ置く必要はないでしょ」
「分かった」
アルドは一振りだけ布へ戻した。サヴィアは残る二振りを別の布で包む。
「このことは誰にも話さない。調べるのも私一人でやるよ」
「助かる」
「その代わり、何か分かったら拾った場所で何があったのか教えてね」
「話せる範囲でな」
「今はそれでいいよ」
サヴィアは包みを抱え、そのまま作業場へ向かった。
◇
鍛冶屋を出ると、セレスたちは先に拠点へ戻ることになった。
「打ち合わせ、長くなりそう?」
「荷と道を確認するだけだ」
レイスが答える。
「なら私たちは夕飯の準備してるね」
アルドが三人へ手を上げる。
「じゃあ、また後でな」
セレス、ノル、エディンと別れ、アルドとレイスはハイン商会本部へ戻った。執務室へ入ると、朝より地図への書き込みが増えていた。
「お帰りなさい」
ハインが顔を上げる。
「サヴィアさんは引き受けてくださいましたか?」
「ああ。二振り預けた。分解して調べてもらう」
アルドは手元に残した包みを軽く持ち上げた。
「良かったです。こちらも行き先と荷が決まりました」
「どこだ?」
アルドとレイスが机へ近づく。
「ミルフォート町です」
ニロが、決めた積荷と西側から町へ入る経路を手短に共有した。レイスの指が街道を辿り、途中の森で止まる。
「夜営場所は俺たちで決める。街道沿いだから安全とは限らない」
「そこは任せます。商売は僕、夜と戦闘は皆さんです」
「その方がいい」
ハインは一枚の紙を机へ置いた。
「行商中の役割も確認しておきます。ニロさんが商隊の責任者です。売買、価格交渉、荷の管理、取引先の選定はニロさんが決めてください」
「俺たちは護衛」
「はい。ただし危険回避に必要な場合、経路、出発時刻、夜営地についてはアルドさんとレイスさんの判断を優先します」
「分かった」
「積み下ろしはみんなにも手伝ってもらうことになるわ」
ミュレナが言う。
「ニロ一人にやらせたら時間がかかるから」
「それくらいならいくらでもやる」
「出発は?」
「荷が揃い、検品が終わった翌朝です」
ハインが答えた。
「それまでは装備を見ておく」
レイスが雷澄の柄へ手を置いた。
「短剣もサヴィアへ預けた以上、結果が出るまでは待つしかない」
「赤鎖から何か来るまでは、俺たちも動けないしな」
アルドも頷く。
「ちょうどいい」
「では、ミルフォートへの行商を進めます」
「はい!」
ニロの返事が執務室へ響いた。
◇
その夜。別館二階の食堂では、温かな煮込み料理とパンを囲んでいた。皿の端には、エディンが買ってきた焼き菓子も積まれている。
「ミルフォートかぁ」
セレスがパンを千切る。
「水車、見たい」
「仕事しながらな」
「全部数える」
「そこまでは頼んでねぇよ」
エディンが笑いながら焼き菓子へ手を伸ばし、ノルも一つ取った。アルドも皿へ手を伸ばす。先にノルの手が乗った。
「一人一個」
「いっぱいあるだろ」
「明日の分もある」
「今日食えばいいだろ」
「駄目」
「ニロの荷より厳重だな」
アルドが別の角度から手を伸ばすと、今度は雷澄の鞘がすっと進路へ入った。
「一個にしておけ」
「お前までノル側かよ」
「明日の分まで食われると困る」
「お前も食う気じゃねぇか」
「当然だ」
ノルは焼き菓子を口へ入れ、知らない顔で前を向いた。話はそのまま、水車やミルフォートで何を食べるかへ転がっていった。
◇
食事の後、アルドは自室へ戻った。緋喰刃を壁へ立てかけ、上着を椅子へ掛ける。机の上へ置いた細長い包みを開くと、残った一振りの黒い短剣が現れた。
アルドは柄を持ち上げた。サヴィアが付けた浅い傷と同じように、刃の奥まで黒い。
切れない。打ち合えば壊れる。それでも棺の中では、死者が夜骸になるのを抑えていた。
「なんなんだよ、お前」
窓の外には月が出ている。アルドは短剣を月明かりへかざした。
何も起きない。
しばらく待っても黒い刃は光らず、熱も持たなかった。
「……まあ、そうだよな」
布へ包み直して机の端へ置く。アルドは寝台へ横になった。
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