赤い木札
赤鎖の町を出て三日。北へ向かう道は街道と呼べるものではなかった。山道を越え、森を抜け、湿った谷間へ下り、時には獣道すら外れて進む。
目的地までは七日ほど。レイスの留帳に残った記録へ赤鎖の抜け道を繋いでも、それだけはかかるらしい。
先頭はゾルク。その少し後ろをゼラが歩き、中央にアルドたち。最後尾ではケインが大きな革袋を担いでいた。
革袋の中には水袋、縄、灯り、簡易食、小さな掘り道具、方位石に予備の外套。ゼラの荷物までまとめて詰め込まれ、歩くたび中の金具が鳴っている。レイスは留帳を開き、歩きながら現在地を確かめていた。
前方でゾルクが足を止めた。
「姉貴」
「ああ」
ゼラが空を見上げる。木々の上を黒い雨雲が覆い、湿った風が葉を揺らしていた。遠くで雷鳴が低く転がる。
「この先の谷は崩れやすい」
ゾルクが言った。
「迂回なら半日。強行すれば、一人滑っただけで全員止まる」
「なら止まる」
ゼラは即断した。
「近くに廃村がある。そこでやり過ごすぞ」
「知ってるのか?」
「この辺は赤鎖が使う道だ。雨宿りできる場所くらい把握してる」
「人はいないの?」
ノルが聞く。
「いねぇ。昔、夜骸に食われて捨てられた村だ」
ゼラはそのまま歩き出した。
「雨に打たれて風邪でも引かれたら面倒だ。さっさと行くぞ」
「心配してるんですか?」
セレスが聞く。
「足手まといを増やしたくねぇだけだ」
エディンが小さく笑う。
「団長さんらしいわねぇ」
「褒めてんのか?」
「少しだけ」
「なら全部褒めろ」
「それは難しいわぁ」
ゼラは鼻を鳴らし、歩調を上げた。
◇
廃村は森の奥に残っていた。屋根の落ちた家に蔦が絡み、朽ちた柵の向こうでは濁った水が古い井戸の周りに溜まっている。泥へ半分沈んだ小さな木靴の脇には割れた壺が転がり、壁の崩れた家には錆びた鍋が置き去りにされていた。
「ここに、人が住んでいたのね」
セレスが呟く。
「ああ」
レイスが答えた。ゼラは家々を見回した。
「使える屋根を探せ。火は奥。煙を出しすぎるな。寝る場所と見張りは分けろ」
すぐに指示が飛ぶ。
「ゾルク、外周と退路」
「ああ」
「ケイン、雨漏りしねぇ場所を選んでくれ。水も見てくれ。井戸は使うな、臭う」
「分かったよ、団長。俺は宿探しね」
「得意だろ」
「否定はしないよ」
ケインは革袋を下ろすと、崩れかけた家を順番に見て回った。柱を叩き、床へ体重を掛け、屋根の穴を確かめていく。やがて一軒を選ぶと、荷物を濡れにくい壁際へ寄せ、石で囲った場所に火床を作った。
「本当にこういうの上手いな」
アルドが言う。
「そこだけ切り取ると全然嬉しくねぇな」
「でも上手い」
ノルも続く。
「俺がいなかったら雨漏りの真下で寝てたぞ」
「それは困る」
「だろ。もっと敬え」
「ありがとう」
「素直だな、お嬢さん」
外周を見ていたゾルクも戻ってきた。
「北は道が崩れてる。東は森、西は谷。南が来た道だ。夜骸の痕跡は古いが残ってる」
「夜は出そうか?」
「可能性はあるな」
「なら先に休ませる」
ゼラがアルドたちを見る。
「今のうちに食え。寝られる奴は寝ろ」
間もなく雨が屋根を叩き始めた。古い板の隙間から吹き込む水を避け、火の周りへ集まる。ケインが配ったのは硬い干し肉と薄い保存食だった。
「少ないわね」
セレスが手元を見る。
「七日分だからな。無駄食いしたいなら団長の分を狙えばいい」
「死にたいわけじゃない」
「賢い」
ゼラは入口のそばに座り、開いた戸口から雨の向こうを見ていた。ゾルクはさらに外側へ立っている。ケインは荷物と火の近くに残り、アルドたちは雨風の届きにくい奥へ座っていた。
「慣れてるんだな」
アルドが言う。
「慣れなきゃ死ぬ」
ゼラは外を見たまま答えた。
「赤鎖は、こういうところをよく使うのか?」
「使えるなら使う。廃村でも洞穴でも、捨てられた砦でもな」
火へ薪を一本放り込む。
「国は全部の村を守れねぇ。守られなかった場所は捨てられて、残ったもんを別の奴が使う。それだけだ」
「王国が全部守れるわけじゃない」
セレスが言った。
「そうだな」
ゼラはあっさり頷く。
「守れなかったことまで責める気はねぇよ。ただ、守れなかった場所までなかったことにする国は嫌いだ」
火が小さく爆ぜた。食事を終える頃には、森の向こうから光が消えていた。雨雲に覆われた空は月明かりも通さず、壊れた家の外には濃い夜が広がっている。
その雨音の向こうから、か細い声が届いた。
「……だれか」
ノルが顔を上げる。
「今、声」
ゾルクはすでに戸口へ身体を向けていた。
「東だ」
ゼラも立ち上がる。崩れた柵の向こうで、森の影が揺れた。そこから、小さな子供がよろめくように出てきた。
十にも届かないほどの子だった。髪も服も身体へ張りつき、泥まみれの足で何度も躓きながらこちらへ進んでくる。その背後を、大きな黒い影が這った。
低級夜骸が一体。さらに左右の暗がりから、雑級がいくつも現れる。
「助けるぞ」
アルドが立ち上がる。
「拾うな」
ゼラの声で足が止まった。
「は?」
「助けるなとは言ってねぇ。拾うなと言ってる」
ゼラは雨の向こうを見た。
「こんな夜に子供一人だ。事情まで拾えば足が止まる。俺たちは急いでる」
「でも――」
子供が転んだ。その拍子に、首元から小さな木札が飛び出す。赤い木札。
獅子が爪を立てたような印が刻まれていた。ゼラの目が止まる。
「……その札」
子供が泥の中から木札を握った。
「お、お母さんが……持ってろって……! 赤い髪の、おねぇちゃんにもらったって……!」
「チッ」
ゼラが刀へ手を掛ける。
「赤鎖の札を持ってんなら話は別だ」
次にはもう雨の中へ飛び出していた。子供へ跳びかかった低級夜骸との間へ入り、抜いた刀をそのまま首の根元へ叩き込む。刃は硬い肉を断ち、飛び散った黒い泥を雨がすぐに地面へ流した。
左右から雑級が這い寄る。ゾルクが子供の横へ入った。
一体目の腕を斬り落とし、背後から伸びた泥の塊へ返す刀を走らせる。ゼラが前を塞ぐ夜骸を次々と斬り、ゾルクはその背後から子供へ伸びるものだけを一つずつ落としていく。アルドたちが家を飛び出した時には、残っていた雑級は一体だった。
ゼラの刀がその身体を地面へ叩き伏せる。動かなくなった夜骸から目を離し、子供を見る。
「夜に出るな。次は死ぬぞ」
子供の肩が跳ねた。
「ご、ごめんなさい……」
「謝る相手が違う。死んだら謝る相手もいなくなる」
「団長」
アルドが口を挟む。
「何だ」
「言い方」
「生きてんだから十分だろ」
ゼラは刀を鞘へ納め、家へ戻ろうとした。後ろで子供が咳き込む。濡れた身体が大きく震え、泥に沈んだ片方の靴は踵まで脱げかけていた。
ゼラが止まる。
「……ケイン」
「何、団長」
「布と外套、出してくれ」
「はいよ」
ケインが革袋から乾いた布と小さな外套を取り出す。ゼラはそれを受け取ると子供の肩へ掛けた。
「火の近く空けろ」
「分かった」
ケインが先に家へ戻り、火の周りに置かれていた荷物をどける。ゼラは子供の腕を取った。
「歩けるか」
子供が小さく頷く。一歩進んだところで足がもつれた。
ゼラはため息を吐き、片腕で抱き上げた。背と膝裏を支え、濡れた靴が外れないよう身体へ寄せる。セレスがその姿を見た。
「……」
「見るな」
「何も言ってません」
「見てただろ」
「見てません」
「嘘が下手だな」
「あなたほどではありません」
ゼラは鼻を鳴らし、子供を抱えたまま家へ戻った。
◇
雨は夜更けになっても屋根を叩いていた。子供は火のそばに座り、ケインが出した乾いた布と外套に包まっている。両手には、あの赤い木札が握られたままだった。
「朝になったら近くの集落まで送る段取りをつけろ」
ゼラが言う。
「俺が?」
干し肉を噛んでいたケインが顔を上げた。
「頼む」
「分かったよ、団長」
ケインは子供の前へ保存食を置いた。
「食え」
子供がおそるおそる見上げる。
「……いいの?」
「いい。泣くなら食ってから泣け。腹減ってると余計うるさい」
「ケイン」
セレスが名前を呼ぶ。
「何だよ。食えって言ってんだから優しいだろ」
「言い方が悪いの」
「赤鎖に言い方まで求めるなよ」
子供は保存食を両手で持ち、小さくかじった。見張りは交代で行うことになった。ノルはなかなか眠れず、しばらく火の近くで横になっていた。
水を飲もうと起き上がり、家の奥へ置かれた水袋へ向かう。そこで足を止めた。皆から見えにくい暗がりで、ゼラが子供の前へしゃがんでいた。
布で頬の泥を拭い、足元へ目を落とす。
「痛むところはあるか」
子供が首を横に振った。
「足は?」
「だいじょうぶ……」
「強がるな。こっち出せ」
脱げかけていた靴を外し、擦れて赤くなった踵を確かめる。
「歩きすぎだ。馬鹿が」
「ごめんなさい……」
「謝んな。次から夜に出るな」
「でも、お母さんが……」
「朝になったら送らせる。今は寝ろ」
肩から落ちかけた外套を掛け直す。子供の目にまた涙が溜まった。
「怖かったな」
子供がゼラを見上げた。
「もう大丈夫だ。泣き止めとは言わねぇから、息だけ整えろ。息が乱れるともっと怖くなる」
小さな背をゆっくり叩く。
「赤いおねぇちゃん、優しい」
ノルが言った。ゼラの手が止まった。ゆっくり振り返る。
「誰かに言ったら殺すからな」
「……言わない」
「本当に言わねぇな」
「約束する」
「ならいい」
子供が不安そうに見上げる。
「どうしたの……赤いおねぇちゃん」
「何でもねぇ」
ゼラは立ち上がった。
「こいつ見てろ、ノル」
「私?」
「お前が一番怖がらせねぇ顔してる」
「褒めてる?」
「黙って座ってろ」
子供の背を軽く押す。ノルもしゃがんだ。
「こっち」
子供が隣へ座る。
「寒い?」
「少し」
「火の近く行く?」
「赤いおねぇちゃんは?」
ノルが入口へ戻っていくゼラを見る。
「見張り」
「怒ってる?」
「照れてる」
赤い目が即座に飛んできた。ノルの肩が跳ねる。
「……違う。見張り」
子供は首を傾げた。ノルは何事もなかったように立ち上がり、子供を火のそばへ連れていく。途中でゼラの外套がずり落ちそうになり、肩へ掛け直した。
火の前に座ると、木札を指差す。
「それ、大事?」
「うん。お母さんが、困ったらこれを見せなさいって」
「誰に?」
「赤い人」
「赤い人」
ノルが入口を見る。ゼラは雨の外を見ていた。ノルは木札へ目を戻し、それ以上は聞かなかった。
◇
翌朝、雨は上がっていた。壊れた屋根から水滴が落ち、村の道にはいくつもの水溜まりができている。
子供は火のそばでまだ眠っていた。肩にはゼラの外套が掛かっている。ケインは革袋の中身をまとめながら、アルドたちへ話した。
「北西に小さい集落がある。ここから半日くらいだ。赤鎖の連絡役が近くを通るから、そいつに任せる」
「子供一人で行かせるのか?」
「まさか」
ケインが薄い木片を取り出した。
「そこまでは俺が手配する。道中で何かあっても、これを見せれば近くの赤鎖が拾う」
「赤鎖って、そういうこともするのね」
セレスが言う。
「たまにはな。ただし無料じゃない。後で集落から情報なり物資なり返してもらう」
ケインは笑いながら、保存食と乾いた布を小さな包みに入れた。そこへ印を書いた木片も加える。
「それは?」
ノルが聞く。
「今回だけの通行札。昨日の赤い木札とは別物だ」
「違うの?」
「あれは古い借りの印。こっちは今朝の仕事用」
「仕事用」
「大事な仕事だぞ」
やがて子供が目を覚ました。周囲を見回し、少し離れた場所で刀を手入れしているゼラを見つける。ケインが包みを渡した。
「これ持ってろ。あと泣くな。泣いてると道が見えねぇ」
「……ありがとう」
「礼はあっち」
ケインが顎で示す。子供は包みを抱え、ゼラのところへ駆けていった。
「走るな。転ぶぞ」
「赤いおねぇちゃん」
「その呼び方やめろ」
「ありがとう」
木札を握ったまま頭を下げる。ゼラは少し黙り、子供の頭へ手を置いた。
「次は夜に出るなよ」
「うん」
「木札はなくすな」
「うん」
そのやり取りを見ていたノルへ、赤い目が向く。ノルはすぐ首を横に振った。
「言わない」
ゼラは鼻を鳴らした。ゼラは刀を鞘へ戻した。
「行くぞ」
ゼラは背を向けた。
「七日で着く予定を八日にする気はねぇ」
ゾルクが先頭へ入り、ケインも革袋を担ぎ直す。アルドたちはその後へ続いた。背後で子供が手を振っている。
ゼラは振り返らなかった。ノルが代わりに、小さく手を振り返した。
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