医療の進歩
翌朝、レイスとエディンは早いうちに宿を出た。向かう先は町長の屋敷。
アルド、セレス、ノルの三人は交代でエレノアの家を監視する。ただし張りつくことはせず、町を歩く旅人に見える距離を保つ。
ノルをエレノアに診せた陽剣旅団は、この町では多少顔を知られている。こちらが警戒していると気づかれれば、それだけで証拠も被害者も消されかねない。宿を出る前、レイスが念を押していた。
「何も起きなければ、それでいい。動いた時だけ追う」
「分かってる」
アルドが答え、ノルとセレスも頷いた。
◇
町長の屋敷は、祭りの名残が残る通りから少し外れた場所にあった。門を抜けて中へ入ると、受付の女がすぐに顔を上げた。
「ご用件は?」
レイスは懐から二通の紹介状を取り出した。
「オルセア商会とハイン商会からの紹介状です。町長に直接お目通り願いたい」
二つの名を確認した受付の表情が変わる。
「少々お待ちください」
すぐに奥へ消え、ほどなく二人は応接室へ案内された。町長は初老の男だった。
丸みのある柔らかな顔立ちで、服装も町長という立場を誇示するほど派手ではない。ただ、机には何種類もの書類が積まれ、壁にはキュリン町と周辺の道を記した地図が掛けられている。紹介状を読み終えた町長が顔を上げた。
「陽剣旅団の方々、ですな」
「はい。急な面会をお許しいただき、ありがとうございます」
「オルセア商会とハイン商会の名が並んでいては、無視できません。……それで、何がありましたか」
レイスは一度エディンを見る。エディンが小さく頷いた。レイスは、失踪事件を追う中でエレノアの地下施設を見つけた経緯と、そこで拘束された人間が処置を受けて死亡し、遺体まで隠されたことを順に話した。
町長は途中で一度も遮らなかった。ただ、話が進むほど顔から血の気が引いていった。
「……まさか」
すべて聞き終え、椅子の背へ身体を預ける。
「エレノア医師が……」
「すでに一人の死亡と遺体の隠蔽まで確認しています」
レイスは言った。
「ただ、今すぐ警備隊を動かすのは避けたい。大人数が酒場やエレノアの家を嗅ぎ回れば、気づかれる可能性が高い」
町長は唇を結んだ。その様子を、エディンが静かに見ていた。
「町長さん」
「はい」
「一つ確認してもいいかしらぁ?」
「何でしょう」
「あなたは、エレノアちゃんと繋がっているの?」
町長の目が大きく開いた。
「なっ……!」
「繋がってなどいません! 知っていたなら、放置するはずがないでしょう!」
エディンはその返答を少しの間見てから、いつもの柔らかな調子へ戻った。
「そう。なら安心したわぁ」
町長は胸元へ手を当て、呼吸を整えた。
「……失礼。取り乱しました」
「当然の反応です」
レイスも表情を変えない。
「こちらも確認せず、町の警備隊へ協力を求めるわけにはいきませんでした」
「分かります」
町長は頷いた。
「協力します。すぐ警備隊を――」
「いえ」
レイスが止めた。
「大きく動かさないでください」
「では、どうすれば?」
「町長から警備隊長へ、いつでも連絡できる状態だけ作ってください。それと俺がここへ来た場合、すぐ町長へ取り次げるようにしてほしい」
町長は頷きながら聞いている。
「相手が動いたら俺たちが現場を押さえます。そのあと、すぐ警備隊を呼ぶ」
「伝令を待機させましょう」
「表向きは祭り後の治安確認でいいでしょう。警備隊を一ヶ所に集める必要もありません。すぐ動ける者だけ、目立たないよう近くへ置いてください」
「分かりました」
町長はすぐ机の引き出しから紙を出した。必要な指示だけを書き、呼び鈴で職員を呼ぶ。それを渡して短く命じると、職員は一礼して部屋を出た。
「こちらでも酒場周辺には目立たない見張りを置きます。近づきすぎないよう徹底させます」
「お願いします」
「それと――」
町長が小さな革袋を机へ置いた。中で硬貨が重い音を立てる。
「警戒期間中の滞在費です。三万セリオあります」
レイスは袋を見た。
「受け取ってよいのですか」
「本来なら、町が正式に依頼料を出すべき案件です。ただ今は大きな金の動きも避けたい。まずは宿と食事に使ってください」
レイスは革袋を受け取った。
「助かります」
「こちらこそ」
町長は深く頭を下げた。
「町の問題です。どうか、力を貸してください」
「そのために来ました」
◇
その日は、何も起きなかった。朝からエレノアの家を離れて監視し、ときおり場所を交代する。患者らしき者が何人か訪れた。
エレノアは普段と変わらず面倒そうに扉を開け、短く話して家へ入れる。しばらくすると患者は出てきて、そのまま帰っていった。昼を過ぎても変化はない。
夕方。そして夜。エレノアがどこかへ向かう様子はなかった。
ただ一度だけ、見覚えのある男がやって来た。
「ニロ」
離れた路地から見ていたアルドが小さく呟く。ニロは両手に、布や油、簡単な食材、薬瓶を包むためらしい小さな箱を抱えていた。
玄関先でいつものように何か話し、エレノアから金を受け取る。エレノアは相変わらず愛想もなく、そのまま扉を閉めた。それだけだった。
「普通の配達に見えるね」
隣のセレスが言う。
「ああ」
「普通すぎて逆に分からねぇな」
荷を下ろしたニロは肩を何度か回し、町の方へ戻っていく。途中で知り合いらしい男から声を掛けられると、足を止めていつもの調子で笑っていた。
ノルは、その背中が見えなくなるまで黙っていた。
「知らないと思う」
やがて小さく言う。アルドも同じ背中を見送っていた。
「俺も、そう思いたい」
「思いたい、じゃなくて」
ノルは少し間を置いた。
「そうであってほしい」
アルドは答えるまでに一呼吸かかった。
「……ああ」
その日は、それ以上何も起こらなかった。
◇
翌日の夜。エレノアが動いた。
髪をいつものように一つへ束ね、肩には鞄を掛けている。家を出ると扉へ鍵をかけ、周囲へ一度だけ目を向けてから歩き始めた。少し離れた場所で見張っていたセレスが合図を送る。
それを受け、ばらけていた陽剣旅団も動いた。ノルは先に酒場へ回り、地下の様子を拾う。残る四人も一列にはならず、アルドが後方、セレスが別の道、レイスがさらに距離を取り、エディンは追跡する三人を後ろから見る位置へ入った。
エレノアは酒場へ真っ直ぐ向かわなかった。祭りの片づけが残る広場の脇を抜け、古井戸のある細道へ曲がる。そこからさらに裏道へ入り、遠回りするように歩いていった。
アルドは前を行く背中から目を離さない。ただの道順なのか。追跡を警戒しているのか。
まだ判断できない。離れた位置からレイスの合図が来る。追えている。気づかれた様子もない。
やがてエレノアは、前と同じ古びた酒場へ入った。扉の向こうから酒を飲む者たちの笑い声が漏れ、煙と酒の臭いが路地まで流れている。
少し遅れて、先回りしていたノルから合図が届いた。
「始まるまで待つ」
レイスが低く言う。
「分かってる」
アルドは酒場を見たまま答えた。
「でも、遅らせすぎねぇ」
「ああ」
短い時間だけ待つ。
酒場の反対側にある細い路地では、ノルが目を閉じて感知へ集中していた。カウンターの奥で床の扉が開き、エレノアが地下へ降りていく。前と同じだ。
地下には七人。エレノアと男が二人、牢の中に四人。そのうち一人が牢から出される。
ノルが指を動かして合図を送った。アルドがレイスを見る。レイスも頷いた。
もう待つ理由はなかった。
「行くぞ!」
◇
酒場の扉を開けた瞬間、客たちが一斉に振り向いた。
「な、なんだ!」
「おい、誰だ!」
怒鳴り声を背中へ流し、五人は一直線に奥へ向かう。店主らしき男が慌てて間へ入ろうとしたが、アルドは止まらない。
「邪魔すんな!」
肩で押しのけ、そのまま奥の部屋へ入る。床の扉は閉じていた。
アルドは足を振り上げ、留め金ごと踏み抜いた。木板が割れ、歪んだ扉の向こうから湿った空気が吹き上がる。地下へ続く階段。
「行くぞ!」
先頭で駆け下りる。
石壁に低い天井。棚には薬瓶が並び、奥には鉄格子。中央には台と椅子、その周囲へ拘束具と細い器具が置かれている。
椅子には一人の女性が縛られかけていた。その横にエレノア。手には器具。
さらに男が二人。
「誰だ!」
「上に戻れ!」
二人が同時に前へ出た。アルドは先頭の男へ踏み込み、腹へ拳を叩き込む。身体が折れたところへ緋喰刃の柄頭を顎へ打ち上げると、男はその場へ崩れた。
もう一人はレイスが取った。
掴みに来た腕を払い、踏み込んだ脚へ足を掛けて体勢を崩す。そのまま首筋へ一撃を入れると、こちらも抵抗する間もなく床へ沈んだ。エディンはすでにエレノアのすぐ横へ立っていた。
白い指先を首元へ向ける。
「動かないで」
声は静かだった。
「少しでも変なことをしたら、眠らせる」
エレノアは抵抗しなかった。面倒そうに目だけをエディンへ向ける。
「騒がしい連中だな」
「静かに捕まる気はあるかしらぁ?」
「ない」
「でしょうねぇ」
その間に、セレスは椅子へ駆け寄った。
「大丈夫。今外すから」
女性は猿ぐつわをされ、腕も脚も固定されている。目だけが大きく開き、呼吸が短い。セレスは流涙を抜き、刃先を拘束具へ滑らせた。
身体へ触れないよう縄と革だけを切る。猿ぐつわを外すと、女性は大きく息を吸った。
「もう大丈夫。動ける?」
声は出なかった。セレスは急かさず肩を支える。
「ゆっくりでいいよ。もう終わらせるから」
レイスは地下全体を一度確認すると、すぐ階段へ向かった。
「町長に報告してくる」
「ああ、頼む!」
レイスはそのまま地上へ駆け上がった。
◇
地下の奥では、三人が鉄格子の向こうに残されていた。男が一人。女が二人。
誰もまともに立てる状態ではなく、壁へ身体を預ける者もいる。
「鍵は?」
セレスが振り返る。エレノアは答えない。その首元へ、エディンの指が僅かに近づいた。
「エレノアちゃん」
「……そこの男が持っている」
床で気絶している男の一人を顎で示す。アルドが腰を探り、鍵束を抜いた。
「セレス!」
放られた鍵を受け取り、鉄格子を開ける。
「出られる? 無理なら肩貸すから」
「た、助かったのか……?」
男の声が震えていた。
「まだ全部終わったわけじゃない。でも、あなたたちは助かる」
セレスはしゃがみ、目線を合わせる。
「あとで警備隊に話を聞かれると思う。辛いと思うけど、証言してほしい」
女の一人が涙を流しながら何度も頷いた。
「話します……全部、話します……」
「ありがとう。今はここから出よう」
その間にアルドは、倒した男二人の腕を後ろへ回して縛った。足も固定し、腰の短剣を外す。懐からは小瓶が出てきた。
それも取り上げる。そこへ地上から何人もの声が落ちてきた。
「おい! 何があった!」
「下で何してる!」
「店を壊しやがって!」
酒場の客たちが階段へ集まっている。アルドは階段の下へ移動した。
「降りてくるな」
上から覗いていた者たちの足が止まる。
「警備隊が来るまで誰もここへ入るな。逃げても追う」
アルドは階段を塞いだまま動かなかった。
誰も、それ以上降りてこなかった。
◇
エディンはエレノアの両手を背後で縛った。続けて、彼女が持っていた小瓶を取り上げる。液体はほとんど透明で、底にだけ薄茶色の沈殿が残っていた。
「これが、試していた薬かしらぁ?」
「そうだ」
「何の薬?」
「錆病だ」
エディンの目が細くなる。
「……不治の病だったわねぇ」
「そうだ」
エレノアは縛られたまま答える。
「全身の皮膚が、錆びた鉄のようにぼろぼろになっていく。進行すれば筋肉、骨、内臓にまで届き、苦しみながら身体が崩れる」
セレスが顔を上げた。
「そんな病気が……」
「治る見込みがないから、大半の患者は自ら死を選ぶそうよ」
エディンが言う。エレノアは頷いた。
「毒を転用して、錆病の原因を取り除くところまでは成功した」
視線がエディンの持つ小瓶へ向く。
「ただ、そのために使った毒がどうしても体内へ残る。錆病は消えるが、今度は薬の毒で患者が死ぬ」
「毒だけが残るのねぇ」
「ああ。弱毒化すれば錆病そのものを治せない」
エレノアの声に迷いはない。
「病ごと患者を殺すだけだ。それでは意味がない」
ノルが歩いてきた。アルドは止めなかった。ノルはエレノアの前に立つ。
「私の毒を治した薬も、そうやって作ったの?」
「そうだ」
返事は即座だった。
「共和国にいた頃に完成した。それが原因で、私は国を出る羽目になった」
ノルの指が僅かに震えた。
「なんで……そんなことするの」
エレノアはノルを見る。
「医療というのは、人間と病の戦争だ」
平坦な声だった。
「勝つためには犠牲が必要だ」
「だからって、こんなことしなくても……」
「こんなことをするから、医療は進む」
ノルが息を止める。
「私の実験の被害者がいなければ、お前は死んでいた。あの毒は共和国の技術でも治せない」
エレノアはノルから目を逸らさない。
「あれを治せるのは、世界中で私だけだ」
ノルの口が動く。
「ちゃんと、正式な手順を踏んで実験すればいい」
「何年かかると思う」
エレノアの声が、僅かに鋭くなった。
「人間へ使って初めて得られる情報がある。一度人間へ試せば分かることに、動物では何年もかかる。それでも最後に得られるのは推測だ」
「こんなことして救われても、嬉しくない」
「本当か?」
ノルが固まった。
「……え?」
「それは、本心か?」
エレノアは淡々と続ける。
「末期の患者へ薬を試し、まだ生きられたはずの者が死ぬこともある。死んだ人間の身体を切り開き、病の原因を探ることもある」
ノルは答えられなかった。
「医療は、綺麗なことだけで進んできたわけじゃない」
「それとこれは違う!」
セレスが一歩出た。
「本人が何も知らないまま攫われて、縛られて、実験されて殺されるのは違うでしょ!」
「それで救われる命があるのに?」
エレノアはセレスを見なかった。視線はノルのままだった。
「お前のように」
ノルは何も言えなかった。その時。
「馬鹿言うな」
階段の方から声がした。レイスだった。その後ろには警備隊がいる。警備隊長らしき男も一緒だった。
レイスは階段を降りながらエレノアを見る。
「お前がやっていることは殺人だ。何の罪もない人間を、自分の信条のために殺しているだけだ」
「そうしなければ救えない命が山ほどある」
「そんなことは言われなくても分かっている」
レイスの声は低い。
「なら――」
「だが、そんなことを全員がやりだしたら、病が人類を殺す前に人類が滅ぶだろうな」
エレノアの目が僅かに動いた。
「それとこれとは――」
「何が違う」
レイスはその先を許さなかった。
「新薬を作るために人を殺すのは正しいんだろう? なら、その行為を全員が正義として繰り返した結果、人類が滅んでも仕方ないのか」
「誰もそこまでやるとは言っていない」
「いや、お前は止まらない」
レイスは一歩近づく。
「正義なんだろ」
エレノアの返事が止まった。
「だから法が線を引く。合理を是とする共和国でさえ、お前のやり方を禁じている」
地下にいる誰も声を挟まなかった。
「お前の名前は、いつか新薬の開発者として残るかもしれない」
レイスは続ける。
「だが、それ以上に大量殺人鬼として残る」
エレノアは少しだけ目を伏せた。
「……そうだな」
それでも、次に見たのはノルだった。
「だが、そいつの命を救ったのは、私が殺した被験者たちのおかげだ」
「ああ」
レイスは否定しなかった。ノルの肩が小さく揺れる。
「だが、その選択をした責任まで、薬を使われた側へ押しつけるな」
レイスの言葉が続く。
「ノルが望んでお前に人を殺させたわけじゃない」
エレノアは黙った。やがて短く言う。
「……分かっている」
「ならいい」
レイスはそれ以上詰めなかった。
「どうせこの話に、綺麗な答えはない。終わりだ」
◇
警備隊が動いた。エレノアを立たせ、両側から腕を取る。床で意識を失っていた男二人も拘束されたまま引き渡された。
棚に並んだ薬瓶や器具、記録らしき紙束、実験に使われていた椅子と拘束具。その場に残されていたものは、すべて警備隊が押収する。エレノアは階段へ向かう直前、一度だけノルを見た。
ノルも目を逸らさなかった。どちらも何も言わない。そのままエレノアは地下を連れ出された。
残ったのは陽剣旅団と、助け出された者たち。それから、薬と鉄の臭いが染みついた地下室だった。
「レイス」
ノルが呼ぶ。レイスが振り向く。
「ありがとう」
「礼を言われることはしていない」
「ううん」
ノルは首を横へ振った。
「ありがとう」
レイスは少し黙った。
「奴の犠牲者に申し訳ないと思うことまで、俺が間違いだとは言えない」
ノルが顔を上げる。
「会ったこともない人間が、お前をどう思うかも分からない」
「……うん」
返事は細い。
「ただ、お前は助けられた」
レイスはそれだけ言って、一度口を閉じる。
「そのことまで嫌う必要はないと、俺は思う」
ノルはしばらく動かなかった。
「……まだ、分からない」
「ああ」
レイスは頷いた。
「なら、今はそれでいい」
アルドが両手を一度叩いた。
「はい、終わりだ」
一同の視線が向く。
「あいつはただの殺人鬼。事件は解決。それでいい」
セレスが眉を寄せた。
「アルド、話聞いてなかったでしょ」
「聞いてた。今の俺らに答えが出ないこと考えても仕方ねぇだろ」
アルドは階段へ向かう。
「帰るぞ」
「間違いではない」
レイスが続いた。陽剣旅団は地下室を出た。外へ出ると、祭りの灯りはもうほとんど残っていない。
片づけられた露店の跡と、踏まれて形を失った紙飾りが道端に残っていた。夜の通りを、五人で歩き出した。
お読みいただきありがとうございます。
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