人体実験
エディンの話が終わったあとも、宿の部屋にはしばらく声が戻らなかった。
机の上には、祭りで買ってきた菓子と肉が並んでいる。焼き菓子、生菓子、砂糖菓子、まだ僅かに温かさを残した肉串。いつもなら真っ先に手を伸ばすはずのノルも、膝の上で両手を握ったまま動かなかった。
視線は机にも、仲間にも向いていない。エディンはその隣に立っている。いつもの笑みも、甘く伸びる声もなかった。
アルドは強く拳を握り、レイスは目を伏せて考え込んでいる。セレスも唇を結んだまま、ノルとエディンを交互に見ていた。最初に口を開いたのはエディンだった。
「外套の男を追ったわ」
普段より低い声だった。
「遺体は近くの林に埋められた。男が去った後、場所が分かるように小さく目印だけ付けておいたわ」
アルドの拳に、さらに力が入る。
「……人体実験ってことか」
「恐らくな」
レイスが答えた。
「今まで行方不明者にほとんど共通点がなかったのも、健康な大人なら対象にできたからかもしれない。普通に薬を試すなら持病や体質も関係するはずだが、エレノアが何を試しているのか分からない以上、そこまでは断定できない」
セレスが恐る恐る口を開く。
「じゃあ……子供が一人も攫われてなかったのは?」
「薬の対象に子供が含まれないのかもしれない」
レイスは一度言葉を切った。
「あるいは、子供までは手を出さないという線を引いているか」
「良心ってこと?」
「そうであってほしいが」
「……無いだろうな」
アルドが吐き捨てる。エディンも否定しなかった。
「そういう線引きをする子には、あまり見えなかったわねぇ」
「じゃあなんだよ」
アルドの声が荒れる。
「自分の好奇心のために、何人も攫って殺したってのか? しかも一人じゃねぇ。手伝ってる連中までいる」
机の上の木杯が僅かに震えた。レイスはアルドを止めなかった。
「好奇心だけとは限らない」
「金か」
「その可能性もある。今まで治せなかった病気や毒を治せれば、それだけで莫大な価値になる」
レイスは視線を机へ落とした。
「正規の手続きを踏まず、人を攫って直接試しているなら、必要な金も時間も大きく減らせるだろう」
「ふざけてやがる……!」
アルドが椅子へ腰を落とす。椅子の脚が床を軋ませた。セレスは少し迷ってから聞いた。
「エレノアの医療技術があそこまで突出してたのも……共和国の技術だけじゃなくて、こういうことをしてきたからなのかな」
「可能性は高い」
レイスの答えは短かった。
「共和国から王国へ来た理由も、これが発覚したか、発覚しかけたからという線は考えられる。ただ、そこはまだ推測だ」
ノルの肩が僅かに震えた。誰も声を掛けるより先に、ノルは両手で顔を覆った。
「私が助かったのは……」
途切れそうな声だった。
「エレノアが、たくさんの人を殺したから……?」
「ノル」
「じゃあ私……私は……」
続かなかった。指の隙間から涙が落ちる。泣き声を抑えようとするほど呼吸が詰まり、細い肩だけが何度も震えた。
アルドが立ち上がる。
「違うぞ、ノル」
ノルが顔を上げた。涙で濡れた顔から血の気が失われている。
「でも……私の傷は……」
「お前は知らなかった」
アルドはノルの前まで行き、膝をついた。
「誰も攫ってない。誰も殺してない。薬を試せなんて頼んでもいない。地下で何してたかも知らなかった」
「でも、私が使ってもらった薬は……」
「ああ。そこは消えねぇ」
ノルの目が揺れた。アルドは一度だけ唇を噛み、それでも目を逸らさない。
「だからって、お前が生きたことまで悪いことにすんな。エレノアがやったことまで、お前のせいにすんな」
「……じゃあ、どう思えばいいの」
「知らねぇよ」
ノルが僅かに目を見開く。
「俺にも分からん。今すぐ決めなくていいだろ」
ノルは唇を震わせたが、言葉は出なかった。セレスもエディンも口を挟まない。レイスも黙ったまま、二人を見ていた。
窓の外からは、祭りを片づける音が遠く聞こえていた。木箱が運ばれ、誰かが笑い、店の戸が閉まる。しばらくして、レイスが口を開いた。
「どうする」
全員の視線が向く。
「ここから先は動き方を間違えれば終わりだ。エレノアに気づかれれば、証拠も被害者も消される可能性がある」
アルドはノルから手を離し、立ち上がった。
「現場を押さえるしかない」
「ああ」
「今あるのは、ノルとエディンが感知で見たものと、埋められた遺体だ。あいつらが言い逃れできない状態で捕まえる」
エディンが頷く。
「欲しいのは三つねぇ。エレノアちゃんと手伝ってる男たちがその場にいること。捕らえられた人が生きたまま残っていること。それから、実際に使おうとしている薬と器具」
「昨日埋められた人の遺体もある」
セレスが続けた。
「場所はエディンが分かるんだよね」
「ええ」
「なら、それも証拠になる」
レイスが頷いた。アルドはエディンを見る。
「追ったことは、エレノアに気づかれてないんだな?」
「そこは大丈夫よぉ。戻ったノルちゃんも普段通りにしてくれたし、エレノアちゃんが警戒した様子もなかったわ」
「なら、まだこっちが先に動ける」
アルドは再びノルの前へしゃがんだ。涙は拭われていない。
「ノルは休んでろ」
「でも」
「今のお前を連れてくのは駄目だ」
ノルの眉が歪む。
「一人で待つ方が嫌」
「……だろうな」
アルドは頭を掻いた。
「じゃあ、菓子でも食ってろ。笑えとは言わねぇ」
「そんな気分じゃない」
「なら食わなくてもいい」
少し間を置いて、アルドが続ける。
「ただ、今夜中に全部の答え出そうとすんな。自分まで悪者にして終わらせるのもなしだ」
セレスは何も言わず、ノルのすぐ隣へ座った。レイスが眼鏡を押し上げる。
「少なくとも、アルドを刺す権利まで返上する必要はない」
「それは返上しろ」
ノルは四人を順番に見た。頬にはまだ涙が残っている。
それでも、ほんの僅かに口元が動いた。
「……それはする」
「するのかよ」
掠れた声のまま、ノルは鼻をすすった。
だが、ノルは続けた。
「でも、私も行く」
「ノル」
セレスがすぐに名前を呼ぶ。
「これは私もやらないと駄目」
ノルは顔を上げた。涙を流したばかりの目だったが、もう逸らしてはいなかった。
「それだけは譲らない」
アルドは返事を止めた。
「……無茶はするなよ」
「うん」
「治ったからって、いきなり戦おうとするな」
「うん」
「絶対だぞ」
「しつこい」
「心配してんだよ」
「知ってる」
ノルは少しだけ目を伏せる。
「だから、しない」
「……分かった」
アルドがようやく折れた。今度はエディンを見る。
「次にエレノアがあそこへ行くのは、いつだと思う?」
「数日のうちじゃないかしらぁ」
「理由は?」
「牢に、まだ三人いたわ」
エディンの声からまた軽さが消える。
「いつまでも拘束しておけば、逃げられたり誰かに見つかったりする危険が増えるでしょう? 長く置いておく理由はないと思うわぁ」
「なら、張るしかないな」
レイスが留帳を開く。
「アルド。応援はどうする」
「呼んだ方がいいか?」
「いや。今の段階で大勢を動かすのは危険だ。終わってからでいい」
レイスは少し考えた。
「ただ、町長には話を通しておく価値がある。現場を押さえたあと、警備隊をすぐ動かせる」
「信じてもらえるかな」
セレスが聞く。
「材料はある。ただし、騒がれれば終わる」
「その話には、おねぇさんも行くわぁ」
エディンが言った。
「もし町長さんがエレノアちゃん側だったら、その時点で全部筒抜けになるもの。おねぇさんも一緒にいた方がいいわねぇ」
「頼む」
アルドが頷く。レイスもすぐに決めた。
「町長には俺とエディンで行く。アルド、セレス、ノルはエレノアの監視だ。夜に動く可能性が高いが、昼も外すな」
「ああ」
「うん」
セレスとノルも頷いた。
「まずは飯だ」
アルドがノルを見る。
「私も見る」
「飯を食ってから見ろ」
「見る」
「だから、その前に食え」
「……分かった」
渋々といった顔で、ノルが机を見る。そこでアルドがふと黙った。
「なぁ」
「どうした」
レイスが顔を上げる。
「ニロは……このこと知ってんのか?」
また部屋が静かになった。
「近いのは確かだよね」
セレスが言う。
「でも」
ノルが小さく続けた。
「ニロは、そんな感じじゃない」
「ああ」
「知らないと思いたい」
アルドが零す。レイスが少し目を細めた。
「ずいぶん気に入ったな」
「ああ」
アルドは隠さなかった。
「でも胡散臭いよ?」
ノルが真顔で言う。
「そこは俺も分かってる」
アルドが苦笑する。レイスが留帳を閉じる。
「ニロについては、今ここで答えを出しても仕方ない。明日以降、行動を見ればいい」
「ああ」
「今日は休む。明日から監視だ」
エディンが机の上から菓子の包みを一つ取り、ノルの前へ寄せた。
「ノルちゃん。まずはこれねぇ」
「うん」
ノルは包みを見る。すぐには手を伸ばさなかった。少し迷ったあと、一つ摘まんで口へ入れる。
噛んで、飲み込む。
「甘い」
「そりゃ菓子だからな」
「肉も」
「食え」
「うん」
ノルがもう一つ菓子を取った。レイスはそれを確認してから立ち上がる。
「だから――」
全員が顔を向けた。
「寝るぞ」
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