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消えた叫び

 少し前。アルドたちがエレノアの家を出てしばらく経った頃、小部屋にはノルとエディンだけが残っていた。


 寝台の上で上体を起こしたノルは、腰まで掛けられた薄い布団の上から焼き菓子を一つ摘まむ。エディンが持ってきた簡素なもので、噛めば小さく音が鳴った。飲み込んでから、ノルは閉じた扉を見る。


「行っちゃったわねぇ」


「うん」


 エディンが椅子へ腰を下ろした。


「寂しい?」


「まぁ、うん」


「あら、素直ねぇ」


「少しだけ」


「少しだけ、ねぇ」


 ノルは二つ目の菓子へ手を伸ばしたものの、今度はすぐ口へ運ばなかった。


「みんな、必死だったのよぉ」


「なんとなく覚えてる」


 手の中の菓子を見ながら答える。


「エディンが走ってた。セレスが泣きそうだった。アルドが焦ってた。レイスが怖い顔してた」


「あら。ちゃんと覚えてるじゃない」


「ぼんやり」


 ようやく菓子を口へ入れる。


「治ってよかったわぁ」


 エディンの声は、いつもより少しだけ静かだった。


「うん」


 ノルは頷き、ふと顔を上げた。


「いくらだったの?」


「何が?」


「治療費」


 エディンの笑みが僅かに止まった。


「エレノア、モグリの医者なんでしょ? 高そう」


「うーん、そうねぇ」


 頬へ指を当てたエディンを、ノルはまっすぐ見る。


「教えて」


「知らなくてもいいと思うわよぉ」


「教えて」


 エディンはしばらくノルを見たあと、小さく息を吐いた。


「……二十万よ」


「にじゅ……」


 ノルの顔から血の気が引いた。


「高い……」


「安くはないわねぇ」


「二十万……」


 菓子を持った指まで止まっている。エディンはその額を軽くつついた。


「みんな気にしてないわぁ。アルドちゃんなんて、二百万だったとしても払うって即答してたわよぉ」


「二百万」


「ええ」


「……馬鹿」


「あら。愛されてるわねぇ」


 ノルの頬へじわりと赤みが差した。


「違う」


「そういうことにしておく?」


「うん」


 視線を逸らした耳まで少し赤い。エディンは楽しそうに笑ったが、そのまま話を終わらせはしなかった。


「本当は、口止めされてたんだけどねぇ」


「誰に?」


「アルドちゃんに」


「やっぱり」


「隠したところで、どうせ分かっちゃうでしょう?」


「うん」


 ノルは菓子を布団の上へ置いた。


「みんなの役に立って返さないと」


 エディンが少しだけ目を細める。


「ふふっ。じゃあ、そうしなさいな」


「うん」


「でも、気にしすぎちゃ駄目よぉ」


「分かった」


 その時、小部屋の外で椅子を引く音がした。


「おい」


 エレノアの声だった。エディンが扉へ顔を向ける。


「どうしたのぉ?」


「少し出てくる」


 棚が開き、何かを鞄へ入れる音が続く。エディンが扉を少し開くと、廊下の先でエレノアが鞄を肩へ掛けていた。黒い髪をまとめ直し、いつもの面倒そうな顔のまま玄関へ向かっている。


「患者を置いて行くのぉ?」


「今すぐ死ぬ状態じゃない」


「それ、医者の言い方としてどうなのかしらぁ」


「事実だ」


 エレノアは振り返らない。


「すぐ戻る。余計なことをするな」


「はぁい」


 玄関の扉が閉まった。家の中へ静けさが戻る。


「忙しい人ねぇ」


「うん」


 ノルはしばらく閉じた扉を見ていた。やがて、口元がにやりと持ち上がる。エディンの眉が動いた。


「どうしたのぉ、ノルちゃん」


「後をつけよう」


「あのねぇ」


 返事はすぐだった。


「まだ治ってないのよぉ?」


「リハビリ」


「まだ早いわぁ」


「歩ける」


「歩けるからって、尾行していい理由にはならないわよぉ」


 ノルはエディンを見た。


「ニロとお祭りデートかもよ」


 エディンの眉が、今度ははっきり動いた。


「見逃せないよね?」


 数秒、二人は見つめ合った。先に笑ったのはエディンだった。


「……歩けるの?」


「ばっちし」


「無理しない?」


「しない」


「途中でふらついたら戻るのよぉ」


「うん」


 エディンが立ち上がり、ノルへ手を差し出す。


「じゃあ、こっそりねぇ」


「うん」


 ノルはその手を取り、寝台から足を下ろした。


         ◇


 エレノアは祭りの中心へ向かっていた。二人は人混みを挟み、少し距離を取ってその背中を追う。


 二日目のキュリン祭はまだ賑わっていた。通りには露店が並び、酒を飲んだ町人が声を張り上げ、菓子を持った子供たちが人の間を走っていく。これだけ人がいれば、二人で後ろを歩いていても目立ちにくい。


「身体は?」


 エディンが声を落とす。


「平気」


「痛みは?」


「ない」


「嘘なら怒るわよぉ」


「本当」


 ノルの目は前を歩くエレノアから離れなかった。人の群れの中でも、黒い髪と愛想のない歩き方は意外と見つけやすい。


「やっぱり」


 ノルの口元がまた緩む。


「予感的中」


「怪しいわねぇ」


 エディンも楽しそうに目を細めた。エレノアが祭り会場へ入る。ニロの屋台がある方角だった。ノルがちらりとエディンを見る。エディンは何も言わない。


 だが、エレノアはニロの屋台へ向かわなかった。人の流れを横切り、露店の列を抜ける。そのまま灯りの多い通りまで突っ切り、奥の裏路地へ入っていった。


 ノルの笑みが消えた。


「ニロの家?」


「さぁ。分からないわぁ」


 二人も人混みを抜け、路地の入口まで来る。背後ではまだ笛と太鼓が鳴っている。


 一歩入れば道は急に細くなった。高い家壁に挟まれ、露店の灯りも届かない。湿った石畳だけが夕暮れの残り光を鈍く返している。


 エレノアは迷わず先へ進んでいた。


「少し距離取るわよぉ」


「うん」


 二人は歩調を落とし、足音を抑えた。いくつか路地を抜けた先で、エレノアが一軒の建物へ入っていった。古びた酒場だった。


 看板は斜めに傾き、壁板も傷んでいる。扉が開いた一瞬だけ、中からくぐもった笑い声と酒の臭いが流れてきた。ノルが首を傾げる。


「一人で呑むのかな?」


「こんな一面もあるのねぇ」


 エディンは酒場を見上げた。


「でも、中へ入ったら目立つわぁ」


「感知する?」


「ええ」


 二人は酒場の向かい側にある路地の影へ入り、感知を広げた。酒場は混んでいた。身体を大きく揺らしている者、机へ突っ伏している者、忙しく動き回る者。


 その中を一つの人影が進んでいく。エレノアだ。客席へは向かわない。


 カウンターの内側へ入り、そのまま奥へ進む。


「中に入った」


「飲みに来たわけじゃなさそうねぇ。往診かしらぁ」


 エレノアの輪郭が奥の部屋へ消えた。そこで床の一部が動く。人一人が通れるほどの空間が下へ開き、エレノアが降りていった。


「地下室」


「そうみたいねぇ」


 エディンの声から軽さが少し消えた。二人はさらに意識を集中させる。


 地下は地上より輪郭を拾いにくい。石と土が間に入り、酒場で動く人々の形まで重なる。


 それでも、少しずつ中が見えてきた。人が七人。台や棚、椅子、箱、細い棒状の器具。その中には、エレノアの家で見たものとどこか似た輪郭も混じっている。


「形だけじゃ、はっきりしないわねぇ」


「詳細感知する?」


 ノルが聞いた。エディンはすぐには答えなかった。


「……その前に、もう少し普通に拾いましょう」


「うん」


 二人は呼吸を整え、形だけをさらに細かく追う。七人のうち、エレノアの前に二人。奥に四人。


 ノルの眉が僅かに寄る。


「二人は、エレノアと話してるみたい」


「ええ」


「残りの四人は……」


 言葉が止まった。奥の四つの輪郭は、ほとんど位置を変えていない。


 一人は立ち、一人は座っている。その手足の周囲には細い線がいくつも見え、格子や鎖、椅子、壁の輪郭が重なっている。


「……拘束されてる?」


 エディンの顔から笑みが消えた。


「これは……牢屋?」


 直後、エレノアの前にいた二人のうち一人が動いた。奥へ進み、拘束されている一人の腕を掴む。連れていかれる側の身体が大きく揺れた。


 首を振る。脚を踏ん張る。腕を引こうとする。


 それでも、前へ引きずられていく。


 ノルの唇が僅かに開いた。


「抵抗してる……」


 顔の辺りには、口を塞ぐような形がある。声は聞こえない。首と肩が激しく揺れ、脚は必死に踏ん張っている。


「叫んでるみたいねぇ」


 エディンの声が沈む。


「猿ぐつわ……」


 ノルが酒場を見る。地上では客たちが笑い、何かを机へ打ちつけている。酒場の外からは祭りの笛や太鼓まで重なっていた。


「だから、聞こえないんだ……」


 地下の人影は椅子へ座らされた。両腕。両脚。胴。一つずつ動きを封じられていく。


 そこへエレノアが近づいた。


「助けに行く?」


 ノルの声が震えた。エディンはすぐには答えない。地下にいる人数。酒場を埋める人間。入口と奥。


 そして隣にいる、治ったばかりのノル。しばらく形を追ったあと、低く言った。


「……やめましょう」


「……もう間に合わない?」


「それもあるわ」


 ノルが俯きかける。エディンは地下から意識を外さないまま続けた。


「あの子のためにも、ちゃんと見ましょう……」


 返事はなかった。少しして、ノルが頷いた。地下では、エレノアが細い器具を手にしていた。


 針にも管にも見える。それを拘束された人間の身体へ差し込む。ノルの肩が小さく震えた。


 エディンは動かない。器具が操作される。拘束された人影は椅子へ押さえつけられたまま、逃げることもできない。


 やがてエレノアが器具を抜いた。すぐには、何も変わらなかった。一呼吸。二呼吸。拘束された身体が激しく跳ねた。


 椅子が揺れる。腕が暴れ、脚が何度も突っ張る。首が大きく仰け反り、口を塞がれた顔が何度も左右へ振られた。


 声は届かない。地上では誰かが笑っている。酒杯が机へ置かれる。その外では太鼓が鳴っていた。ノルは目を閉じたまま息を止めていた。


 やがて、地下の動きが弱くなっていく。指先だけが震える。脚が一度跳ねた。首が傾く。それきりだった。


 胸の輪郭から動きが消えた。ノルが顔を落とす。エディンも何も言わない。地下では別の二人が拘束を外していた。


 動かなくなった身体を台車のようなものへ載せ、布を被せる。そのまま酒場の表ではない通路へ運び始めた。地下から外へ続く、別の出口がある。


 台車を押す人影が外へ出る前に何かを羽織った。ノルの喉が鳴る。


「外套……」


 エディンがゆっくり目を開いた。


「おねぇさんは追うわ」


 ノルも目を開く。


「ノルちゃんは戻りなさい」


「でも……」


「戻りなさい」


 ノルの唇が結ばれる。


「エレノアとは普段通りに接して。いいわね」


「……分かった」


 小さく頷く。エディンはノルの肩へ手を置いた。


「無理はしないで。戻ったら寝台へ戻って、何も知らない顔をするのよぉ。できたら寝ちゃいなさい」


「うん」


「できる?」


「できる」


 声は細い。


 それでも返事は揺らがなかった。


 エディンは一度だけ頷き、外套の男の輪郭を追って路地の奥へ動き出した。ノルは一人残った。背後では、まだ祭りが続いている。


 笛。太鼓。笑い声。酒場のざわめき。


 そのどれもが聞こえるのに、地下で確かに叫んでいたはずの声だけは、一度も地上へ届かなかった。ノルは息を吸い、エレノアの家へ向かって歩き出した。


 治ったはずの腹の奥が、冷たかった。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新です。

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