祭りの表側
翌日。キュリン町は朝から、二日目の祭りで賑わっていた。
通りの両側には昨日より多くの露店が並び、軒先から軒先へ渡された色布が風を受けて揺れている。肉を焼く香ばしい匂いに煮込みの湯気、甘い菓子の香りが混ざり、少し離れた広場からは笛と太鼓の音が途切れず届いていた。その人波の中を、アルド、レイス、セレスの三人が歩いている。
昨夜しっかり眠ったセレスの足取りは、昨日よりずっと軽かった。
「すごいね。昨日より人が多い」
「昨日は祭りの途中を通っただけだったからな」
アルドは人を避けながら、露店の向こうまで見渡した。セレスが焼き菓子を並べる露店へ目を向ける。
「ノルにも何か買っていこうか」
「俺も考えてた」
「なら菓子だな」
レイスは肉串を食べながら答えた。
「肉もだろ」
「ノルなら両方食べるよ」
「それは間違いない」
三人の手には、少し前に買った肉串が一本ずつある。表面は香ばしく焼かれ、噛めば脂と肉汁が広がる。香辛料も強すぎず、歩きながら食べるにはちょうどよかった。
「これ当たりだな」
アルドが最後の一切れを食べる。
「ノルにも買ってやりたい」
「肉は帰りでいいでしょ。冷めるし」
セレスの視線はすでに次の露店へ向いていた。
焼き菓子だけではない。白い皿へ一つずつ並べられた生菓子まである。丸いものや花を模したもの、果物らしきものを載せたものまであり、店の前には何人もの客が足を止めていた。
「生菓子まであるんだ」
「祭りなら今日中に売り切れるから出せるんだろうな」
レイスが答える。アルドは腰の金袋を軽く持ち上げた。硬貨の音は寂しい。
「全部欲しいとか言い出しそうだな」
「全部は無理だ」
「分かってるよ」
「生菓子は帰る直前に買え。先に買ったら傷む」
「はいはい」
レイスの言葉に返しながら、アルドは人混みの方へ目を戻した。親へ手を引かれた子供が、通りの端に並ぶ玩具を指差している。飾り紐を髪へ結んでもらう女。
酒を片手に肩を組んで歩く男たち。買った菓子を落として泣きそうになった子供へ、露店の店主が苦笑しながらもう一つ渡している。町のあちこちから笑い声が聞こえた。
ふと、失踪事件のことが頭をよぎる。アルドは露店へ群がる子供たちを見た。
「……まあ、今日は楽しむか」
セレスがすぐ隣で頷く。
「うん」
「ああ」
レイスも短く返した。三人は祭りの人波へ戻った。
◇
「あ! 皆さん!」
露店の向こうから、聞き慣れた声が飛んできた。人の間から大きく手を振っているのはニロだった。
いつもの紙束ではなく、小さな屋台を背に立っている。台の上には木樽と木杯が並び、樽には濡れた布が何重にも巻かれていた。
「おお、ニロ」
アルドたちが近づく。
「お前も店出してたのか」
「はい!」
ニロは胸を張った。
「便利屋は祭りの日も便利屋です。人探し、荷運び、道案内。そして今日は麦酒売りまで何でもやります!」
「本当に何でもやるな」
「生きるためですよ」
「急に重いこと言うなよ」
ニロは笑ったまま木樽を軽く叩いた。
「どうです? 麦酒、冷えてますよ!」
アルドはレイスとセレスを見る。
「一杯くらい飲むか?」
「一杯なら」
「せっかくだしね」
「よし。三杯くれ」
「毎度!」
ニロが手際よく木杯へ麦酒を注いだ。泡が縁まで盛り上がり、濡れた杯から掌へ冷たさが伝わってくる。アルドは一口飲んだ。
「うまい」
「ありがとうございます!」
セレスも少し飲み、目を細める。
「ちゃんと冷たい」
「そこが売りですよ。祭りで歩き回った後には効くでしょう?」
「儲かってるか?」
アルドが聞く。ニロの顔が一気に緩んだ。
「へへへ!」
「その顔で分かった」
「年二回のかきいれ時ですからね!」
ニロは嬉しそうに屋台へ手を広げる。
「普段は困りごとがないと僕の仕事になりませんけど、祭りなら喉は渇く、荷物は増える、道に迷う、物を落とす。仕事が向こうから歩いてきます!」
「最後の方は人の不幸じゃない?」
「拾った物を届ければ人助けです!」
「たくましいなぁ」
セレスが笑う。
「この町で借金を返しながら生きるには、小回りが命ですよ」
「頑張れよ」
アルドが杯を軽く掲げた。
「はい! 皆さんも祭りを楽しんでください!」
麦酒を飲み終え、三人はニロの屋台を離れた。数歩進んだところで、アルドは金袋を持ち上げる。さっきより音が軽い。
「……また金が減った」
「付き合いだ。必要経費だと思え」
レイスが答える。
「そう言って、レイスも飲みたかっただけでしょ」
セレスが言うと、レイスは一瞬だけ黙った。
「両方だ」
「珍しく素直」
「俺はいつも素直だ」
「それはない」
アルドが即座に否定する。セレスが笑った。その横で、レイスの足が止まった。アルドも遅れて視線を追う。
人で埋まった祭りの通りから少し外れた路地。その入口を、一人の男が横切った。黒い外套。
人混みの中で見えたのは一瞬だけだった。男は三人へ目も向けず、そのまま路地の奥へ入っていく。セレスの声が落ちる。
「……黒い外套」
アルドは手にしていた空の木杯を近くの返却箱へ入れた。
「追うぞ」
「走るな」
レイスが低く言う。
「気づかせるな」
「ああ」
三人は祭り客の流れに乗ったまま路地へ近づいた。子供の横を抜け、露店の陰を通り、角を一つ曲がる。路地へ入ったところで、笛と太鼓の音が僅かに遠くなった。
男はまだ見える。急いではいない。迷う様子もなく細い路地を曲がり、さらに奥へ入っていく。
アルドたちも距離を空けたまま追った。
「町の道を知ってるな」
レイスが小声で言う。
「ああ」
路地を二つ抜けたところで、男は大きな道へ出た。その先に建っていたのは、周囲より一回り大きな屋敷だった。
「町長の屋敷か」
黒い外套の男は門前で止まらない。そのまま屋敷の中へ入っていった。
「行くぞ」
今度はレイスが先に動いた。
◇
屋敷へ入ると、外の喧騒が急に遠ざかった。入口近くには受付用らしい机があり、若い女が一人、積まれた書類を整理している。三人へ気づくと顔を上げた。
「ご用件は?」
アルドがすぐ聞く。
「今、黒い外套を着た男が入ってこなかったか?」
「黒い外套……ですか?」
「俺たちは、その男に用がある」
レイスが続ける。女は少し考えた後、何か思い当たったらしく奥へ顔を向けた。
「ああ。それでしたら――」
声を張る。
「ペンさん! お客さんです!」
奥の扉が開いた。出てきたのは五十代ほどの男だった。
髪には白いものが混じり、穏やかな顔をしている。片腕には、先ほど見たものと同じ黒い外套が綺麗に畳まれていた。
「はい。何かご用でしょうか?」
男が丁寧に頭を下げる。アルドはしばらく黙って見た。背丈も合う。外套も同じだ。
「……悪い」
「人違いだったみたいだ」
「そうでしたか」
ペンは不思議そうにしながらも、それ以上追及しなかった。受付の女が苦笑する。
「黒い外套でしたら、今日はかなり見かけますよ。祭りで人も多いですし、荷物や服を汚さないために羽織っている方もいますから」
「なるほどな……」
アルドが頭を掻く。
「邪魔した」
レイスが軽く頭を下げ、三人は屋敷を出た。外へ一歩出れば、また祭りの音が耳へ届く。セレスが息を吐いた。
「空振りだったね」
「ああ」
「黒い外套ってだけじゃ無理があるな」
アルドも通りへ目を向ける。
「分かりやすい特徴ではあるが、珍しい服じゃない」
レイスが答えた。
「だからって見つけても放っておけないでしょ」
「それもそうだ」
「戻るか」
レイスが言う。
「その前に買い物」
アルドは祭りの通りを指した。
「ノルの菓子と肉」
「忘れてなかったんだ」
「忘れるわけないだろ」
「生菓子は最後だぞ」
「分かってるって!」
三人は再び、人の流れの中へ戻っていった。
◇
夕暮れになる頃には、祭りの勢いも少しずつ落ち着いていた。露店の灯りはまだ並んでいるが、昼間ほど人は密集していない。遊び疲れた子供が親に手を引かれ、空になった樽や鍋を片づけ始める店も増えていた。
アルドたちは、焼き菓子や生菓子、砂糖菓子、焼いた肉の包みを抱えて町外れへ向かっている。
「生菓子は今日中だぞ」
レイスが言う。
「何回目だよ」
「忘れそうだから言っている」
「忘れねぇよ」
「アルドなら分からない」
セレスまで乗ってきた。
「信用なさすぎだろ」
そんなやり取りをしながら、エレノアの家へ着く。扉を叩くと、少しして本人が姿を見せた。いつもの眠そうな目。
いつもの面倒そうな顔。
「また来たのか」
「差し入れ持ってきた」
「好きにしろ」
「ノルは?」
「歩ける。もう連れて帰っていい」
アルドの目が丸くなる。
「もう?」
「いいからそう言ってる」
それだけ告げると、エレノアはさっさと奥へ戻っていった。
「相変わらずね」
セレスが小声で言う。
「でも、もう連れて帰っていいってさ」
アルドたちも奥へ向かった。
◇
治療室へ入ると、ノルは寝台の端へ座っていた。傍らではエディンが畳んだ布や薬の包みをまとめている。
「ノル」
アルドの声に、黒い目がこちらへ向いた。
「おかえり」
「もう帰れるのか?」
「うん」
ノルは両腕を曲げた。
「元気いっぱい」
力こぶを見せるような姿勢を取る。細い腕は、どう見ても普段と変わらない。アルドは数秒黙った。
「……どこがだよ」
「ここ」
「ないだろ」
「ある」
「ない」
「ある」
「セレス、どう思う?」
「私を巻き込まないで」
ノルの口元が少し緩んだ。エディンが荷をまとめながら説明する。
「前にアルドちゃんが同じような処置を受けた時と違って、ノルちゃんは傷自体がかなり治ってたし体力も戻ってたでしょう? だから少し疲れたくらいで済んだみたいよぉ」
「じゃあ本当に大丈夫なんだな」
「うん」
ノルは短く頷いた。
「痛くない」
「そうか」
アルドはようやく息を吐いた。手にしていた菓子の包みを軽く持ち上げる。
「ほら。祭りで買ってきた」
ノルの目が包みへ向く。
「生菓子もあるぞ」
「うん」
「肉も」
「うん」
「……食わないのか?」
「あとで食べる」
それだけ言って、ノルは自分の荷物へ視線を戻した。アルドの手が僅かに下がる。セレスもノルを見た。
「本当に大丈夫?」
セレスが聞く。
「うん」
「身体じゃなくて」
ノルは一瞬だけ止まった。
「……大丈夫」
その横でエディンは、笑わず荷物を畳んでいる。アルドは二人を見比べたが、それ以上は追わず、エレノアへ顔を向けた。
「ありがとな。本当に助かった」
エレノアは薬の棚を見たまま片手を振った。
「礼は金でもらった」
「それでもだよ」
「好きにしろ」
最後まで変わらない。エレノアはエディンへ薬の包みを一つ渡した。
「熱が出たら戻せ。数日は無茶をさせるな」
「分かったわぁ」
「以上」
アルドたちはノルを連れ、家を出た。
◇
宿へ戻る頃には、祭りの音もかなり遠くなっていた。通りにはまだ灯りが残り、酒を飲む声も聞こえる。だが昼間の熱気は薄れ、露店から聞こえるのも呼び込みより片づけの音の方が増えている。
部屋へ入ると、アルドは買ってきた菓子と肉を机へ並べた。ノルは椅子へ座り、それらを見ていた。手は伸びない。
セレスが隣へ腰を下ろす。
「ノル」
「うん」
「食べない?」
「あとで」
アルドも座らず、その顔を見た。
「何かあったのか?」
ノルはすぐには答えなかった。代わりに、エディンが口を開く。
「アルドちゃん」
声は柔らかい。ただ、いつもの軽さがない。
「まずは赤鎖の話を、ノルちゃんにしてあげて」
アルドはエディンを見る。
「……分かった」
レイスは窓から外を確認し、それから扉の向こうへ意識を向けた。近くに人はいない。三人が席へ着く。
アルドはノルへ、昨日の赤鎖との接触とゾルクとの一騎打ち、団長へ話が通ることを説明した。ノルは黙って聞いていた。話が進むにつれ、視線が菓子からアルドへ移っていく。
「アルド、押されたの?」
「ああ」
「かなり強かった」
「負けた?」
「……負けたとは言いたくない」
レイスが横から口を挟む。
「勝ってはいない」
「レイス」
「事実だ」
ノルはアルドをじっと見る。
「じゃあ、負けたの?」
「だから負けたとも言ってないだろ」
「言いたくないだけ?」
「……言いたくないだけだな」
ノルの目が僅かに細くなった。
「強いんだ」
「ああ。かなりな」
「刀って、変な剣?」
「細くて反ってた。抜き方も見たことないやつだった」
「雷も使う?」
「ああ。雷を纏って動く。速かった」
ノルは少し黙った。机の上へ視線を落とす。
「私が寝てる間に、進んでたんだ」
小さな声だった。
「そりゃ寝てたんだから仕方ないだろ」
アルドが返す。
「お前を置いて勝手に進めたって話じゃない。治療中のやつを連れていけるわけないだろ」
「うん」
「ノルがいたとしても、ゾルクは俺とサシでやるって言ったと思うぞ」
「うん」
「分かってるか?」
「分かってる」
ノルは頷いた。
それでも、ほんの少し悔しそうだった。
レイスが静かに口を開く。
「ノルが生きて戻ったことも前進だ」
黒い目が上がる。
「赤鎖との接触だけが成果じゃない。お前が戻ったから、俺たちは次へ進める」
ノルはレイスを見る。少しして頷いた。
「……うん」
「そうだよ」
セレスも続く。
「また五人で動けるんだから」
「うん」
表情はまだ戻らない。エディンも一度も茶化さず、ノルの隣で黙っている。やがてノルが顔を上げ、エディンを見た。
二人の視線が重なる。ノルは小さく頷いた。エディンも頷き返す。机には祭りで買った菓子が残っている。肉も、まだ僅かに温かい。
昼間の賑わいを持ち帰ったはずの食べ物に、誰も手を伸ばさなかった。
「こっちの話は」
エディンが静かに口を開く。
「おねぇさんから話すわ」
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