キュリン祭
翌朝。宿屋の一室には、アルド、レイス、エディンの三人だけがいた。アルドは椅子に腰掛け、机へ置いた金袋を指先で持ち上げる。
窓際ではレイスが留帳を閉じている。
「ノルには、戻ってきてから話す」
アルドが金袋から顔を上げた。
「ゾルクのことか」
「ああ。エレノアの家で赤鎖本体との接触について話す必要はない」
「そうだな」
「ノルちゃんが戻って、セレスちゃんも揃ってからでいいわねぇ」
寝台の端に座ったエディンが髪をかき上げる。
「ああ。セレスにもまだ話してねぇからな」
アルドは右手を開き、ゆっくり握る。痺れはほとんど消えている。それでも、黄色い雷を纏った刀を受けるたび指が鈍った感覚は残っていた。
「団長まで繋がった」
「そこは大きい」
レイスが頷く。
「だからこそ、しばらく末端拠点への襲撃は止めるべきだ」
「俺もそう思う」
「話したいって言った翌日に、また殴り込みじゃ格好がつかないものねぇ」
「格好の問題か?」
「向こうから見たら似たようなものよぉ」
「まあ……目的とはずれるな」
アルドは椅子へ深く座り直した。
「行方不明者の方も止まったな」
今度はレイスが机へ留帳を置いた。
「手がかりは増えた。だが、次に追う相手がいない」
「外套の男か」
「ああ。赤鎖の末端へ遺体の処理を頼んだ男だ。ただ、あの末端が個人的に請け負った可能性も高い。赤鎖全体が失踪事件へ関与しているとは断定できない」
「そいつを探そうにも、顔すら分からねぇしな」
「そういうことだ」
アルドは再び金袋へ目を落とした。
「……それより、こっちは本格的にまずいな」
持ち上げて軽く振る。硬貨の音が寂しい。
「宿代が毎日かかってるものねぇ」
エディンが苦笑する。
「三人で一室にして抑えてるけど、食事も薬も必要だし」
「エレノアへの二十万もある」
レイスが言った。
「あれはいい」
アルドの返事は早かった。
「二十万でも二百万でも払った。ノルが助かったんだから」
「ノルには治療費のこと言うなよ」
「言わないわぁ」
エディンが即答した。
「あの子、気にするものねぇ」
「ああ。絶対気にする」
レイスも異論はないらしい。
「ノルが動けるようになったら、オルセアへ戻るべきだな」
「途中報告か」
「ああ。赤鎖は向こうの使い待ち。失踪事件も現状ではこれ以上追えない。ここに留まり続けても金が減るだけだ」
「オラリクさんには何て言う?」
「途中経過をそのまま報告する」
「何も掴めず戻るわけじゃない。ハインとオラリクさんにも情報を整理してもらった方がいい」
「ハインちゃん、ノルちゃんの怪我を知ったら大変そうねぇ」
エディンの言葉に、アルドは簡単に想像できてしまった。
「青ざめるだろうな」
その時、窓の外から大きな声が飛んできた。
「そっちの柱、もっと右だ! 傾いてるぞ!」
「紐が足りねぇ! 誰か持ってこい!」
木槌が何度も鳴り、石畳を荷車が転がっていく。アルドは窓へ顔を向けた。
「何だ? 朝からやけに騒がしいな」
レイスも窓際へ戻る。通りには昨日までなかった木組みが並び、色鮮やかな布を抱えた者たちが忙しそうに行き交っていた。荷車には鍋や木箱、樽が積まれ、その間を子供たちが走っては大人に追い払われている。
「何かの準備だな」
「聞いてくる」
アルドは立ち上がった。
◇
宿屋の主人は入口近くで帳面をつけていた。
「外、朝からすごいな」
アルドが声を掛けると、主人は窓の向こうを見て笑った。
「旅の方はご存じありませんでしたか。明日から二日間、キュリン祭なんですよ」
「キュリン祭?」
「ええ。年に二回、合わせて四日だけ開かれる祭でして。一つはキュリン様の誕生日、もう一つはこの村が町へ格上げされた記念日です」
「キュリン様って、広場の天祈像の人か?」
「はい。この町では守り神のように親しまれている方ですよ」
主人は少し嬉しそうだった。
「祭りが始まれば、通りには露店がずらりと並びます。食べ物に酒、飾り物、旅芸人も来る。町の外からも人が集まるので、宿も今日はほとんど埋まっています」
「それで朝から場所取りしてんのか」
「そういうことです。店を出す人は今日のうちに準備を終わらせないといけませんからね」
外からまた木槌の音が聞こえた。
「時間があるなら、見ていくといいですよ。キュリン祭は賑やかですから」
「そうする。ありがとう」
部屋へ戻る途中にも、祭りの準備は耳へ届いていた。部屋へ戻ると、アルドは扉を開けながら言った。
「祭りだってよ」
「あらぁ」
エディンの目が少し明るくなる。
「明日から二日間。年に二回ある祭の一つらしい」
「それでこの人出か」
レイスはまだ窓の外を見ていた。
「露店もいっぱい出るってさ」
「いいじゃない。少しくらい見て回りましょうよぉ」
「金はないぞ」
「見るだけなら無料よぉ」
「エディンが言うと、見るだけで終わる気がしねぇんだけど」
「あら、失礼ねぇ」
レイスが二人の間へ淡々と挟む。
「人が増えるなら財布と荷物には気をつけろ」
「祭りって聞いた最初の感想がそれかよ」
「今の俺たちには重要だ」
「まあ……そうだな」
アルドは笑いながら窓を見る。露店。食べ物。菓子。
そこまで考えたところで、自然と一人の顔が浮かんだ。
「ノルなら菓子だろうな」
「絶対それねぇ」
エディンが笑う。
「起きてたらな」
アルドは立ち上がった。
「とりあえず様子見に行くか」
「ああ」
「セレスちゃんも、そろそろ休ませないとねぇ」
三人は宿を出た。
◇
昨日まで何もなかった通りの両側へ、露店の骨組みが並んでいた。軒先には色のついた布が掛けられ、広場へ向かって飾り紐が渡されている。組み立て途中の台には鍋や樽が運ばれ、奥ではすでに煮込みの支度を始めている店もあった。
「それはこっち!」
「先に柱立てろ!」
人の声が次から次へ飛ぶ。忙しそうではあるが、険悪な空気はない。子供が運んでいた飾りを落とせば、近くの大人が拾って頭へ乗せ、別の大人に「遊ぶな」と怒られている。
「町ごと忙しいな」
「年に二回なら、こうもなるだろう」
レイスは人の流れを避けながら進む。エディンは通りの奥へ鼻先を向けた。
「もういい匂いがするわぁ」
「まだ祭り始まってねぇぞ」
「煮込みは始まってるものぉ」
「食うなよ」
「まだ食べないわよぉ」
「まだ、な」
歩いていくうちに木槌の音は少しずつ遠ざかり、町外れの静けさが戻ってくる。エレノアの家へ着くと、アルドが扉を叩いた。少しして扉が開く。
「やっぱり来たか」
エレノアは三人を見るなり、面倒そうに言った。
「ノルの様子見に来た」
「見たところで治りは早くならない」
「分かってる」
「なら入れ。入口を塞がれる方が邪魔だ」
そのまま奥へ戻っていく。アルドは背中を見送った。
「相変わらずだな」
「相変わらずねぇ」
エディンが笑い、レイスは何も言わず中へ入った。
◇
治療室では、ノルが眠っていた。頬には色が戻り、布団から出た片手も力なく投げ出されている。寝息はゆっくりと一定で、顔からは普段以上に力が抜けていた。
その横にセレスが座っている。
「来たんだね」
「ああ。ノルは?」
「治療してからずっと寝てる。たまに寝言言うくらい」
声を抑えて答えたセレスの目元には、疲れが残っていた。エレノアは寝台の脇へ来ると、ノルの額と首筋へ順に触れる。
「最初に雑に塞がれた傷は直した。少し残っていた毒も抜いたし、乱れていた魔力の流れも整えた」
「もう大丈夫なのか?」
レイスが聞く。
「ああ。今は体力を戻すために眠らせているだけだ。明日には起きる」
その一言で、セレスの肩が少し下がった。
「ただし、まだ仕上げは残ってる」
「仕上げ?」
アルドが聞く。
「諸々の調整だ」
「雑だな」
「説明しても分からんだろ」
「まあ、それはそうだけど」
エレノアはそれで話を終わらせ、薬瓶の確認へ戻った。アルドはセレスを見る。
「今日は交代しろ」
「うん。さすがに少し眠い」
「じゃあ、おねぇさんが残るわぁ」
エディンがセレスの肩へ手を置いた。
「宿に戻って休みなさいな。それと、アルドちゃんたちから話もあるから」
セレスの目が三人を順に動いた。
「……何かあったの?」
「ここでは話さない」
レイスが答えた。セレスは少しだけ表情を固くしたが、それ以上は聞かなかった。
「分かった」
立ち上がる前に布団を直し、ノルの顔を見る。
「明日また来るね」
返事はない。代わりに、ノルの唇が僅かに動いた。
「……お菓子ぃ」
アルドが思わず寝台を見る。
「寝言までそれかよ」
「元気そうでいいじゃない」
セレスが小さく笑った。その声も起こさない程度に抑えられていた。
◇
宿へ戻ると、アルドは扉を閉めた。レイスは窓から外を見て、さらに廊下の気配を確認する。近くに人がいないと分かってから、ようやく口を開いた。
「昨日、赤鎖本体の人間と接触した」
セレスの顔が変わった。
「団長?」
「いや。幹部だ。ゾルクという」
アルドが昨日の赤鎖との接触とゾルクとの一騎打ち、団長へ話が通ることを順に説明した。
「それで、団長に話を通すって言った」
最後まで聞いたところで、最初に出たのは別の問いだった。
「アルド、怪我は?」
「もうほとんど平気だ」
「ほとんど?」
「エレノアから買った薬も塗った。動く分には問題ない」
「そうじゃなくて」
セレスは椅子へ座ったままアルドを見る。
「どれくらいやられたの?」
「……腹蹴られて、木に叩きつけられたくらいだ」
「それを先に言って」
「いや、今言っただろ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫だって」
少し間を置き、アルドは頭を掻く。
「ちょっと悔しいだけだ」
「押されたの?」
「ああ」
「負けたわけじゃない」
「勝ってもいない」
レイスが横から挟む。
「言うなよ」
「事実だ」
アルドは顔をしかめたが、否定もしなかった。
「……まあ、勝ったとは言えねぇ」
セレスは深く息を吐いた。
「でも、その人が団長に会わせてくれるかもしれないんでしょ?」
「ああ」
「なら、進んだんだね」
アルドはセレスを見る。
「綺麗な進み方じゃないけどさ」
セレスは膝の上で組んでいた手をほどいた。
「止まってはいないよ」
「……ああ」
レイスが留帳へ触れる。
「ノルが戻ったら改めて全員で共有する。それからオルセアへ戻る」
「分かった」
窓の外では祭りの準備が続いていた。色布を抱えた者が通りを走り、子供が飾り紐を振り回している。
「明日、お祭りなんだってね」
「そうらしい」
セレスは外を見た。
「変な感じ」
「何が?」
「私たちはこんななのに、町は楽しそう」
アルドも窓の外へ目を向ける。
「楽しそうでいいだろ」
セレスは数秒その光景を眺めた後、頷いた。
「うん。いいと思う」
◇
翌朝、キュリン町は祭りの音で目を覚ました。笛と太鼓が遠くから重なり、通りでは露店の呼び込みが始まっている。昨日まで組み立て途中だった店には色布が張られ、鍋から湯気が立ち、熱した油へ食材を落とす音が人声の間から聞こえてきた。
通りにはすでに人が溢れている。アルド、レイス、セレスの三人は、その流れを縫うようにエレノアの家へ向かった。
「昨日と全然違うな」
「祭りが始まったからな」
「ノルが見たら喜びそう」
セレスの視線が、菓子を並べた露店へ動く。
「菓子だろ」
「絶対それ」
「まず肉を食わせる」
アルドが言うと、レイスが横から返した。
「両方食わせればいいだろ」
「珍しく優しいな」
「普段から普通だ」
「そうか?」
「そうだ」
セレスが小さく笑った。祭りの中心を抜けても、笛と太鼓は背中からついてくる。エレノアの家へ着き、扉を叩く。
返事がない。
「いないのか?」
アルドがもう一度手を上げたところで、内側から足音が近づいた。扉を開けたのはエディンだった。
「あら、おはよう」
「エディン? エレノアは?」
「用事で出てるわぁ。ノルちゃんが落ち着いたから、今のうちに片づけるんですって」
エディンは扉を大きく開いた。
「入って。ノルちゃん、起きてるわよぉ」
「もう?」
「ええ」
そこでエディンが笑う。
「お菓子も食べてるわぁ」
アルドたちはすぐ奥へ向かった。
◇
治療室の寝台で、ノルは上体を起こしていた。腰まで掛けた布団の上には小さな皿があり、片手には焼き菓子。扉が開くと、いつもの静かな黒い目が三人へ向いた。
「おはよう」
セレスが最初に寝台へ駆け寄る。
「ノル!」
「うん」
「起きてて大丈夫なの?」
「大丈夫。もう痛くない」
言いながら焼き菓子を一口食べる。あまりに普段通りの仕草に、セレスは返事をする前に目元を押さえた。レイスが寝台の横へ来る。
「傷は?」
「治った」
ノルはそう言うと、ためらいなく服の裾を掴んだ。
「ほら」
脇腹が見えるところまで一気に持ち上げる。
「ちょっ――」
「おい!」
アルドとレイスが同時に顔を逸らした。セレスが慌てて服へ手を掛ける。
「ノル! いきなりまくらないの!」
「なんで?」
「なんでじゃない!」
「傷、ないよ」
「それを見るにしてもやり方があるでしょ!」
ノルは不思議そうだった。確かに、以前そこを貫いていた傷は跡形もない。それが嬉しいのか、ノルは少しだけ笑った。
「ちゃんと見て」
「見なくてもエレノアが治ったって――」
「二人とも、触って」
今度はアルドとレイスの身体が揃って固まった。
「いや、それは……」
「みんなのおかげで、ちゃんと治ったから」
声はいつも通り短い。レイスが眼鏡の位置を直し、小さく息を吐く。
「……確認だけだぞ」
脇腹へそっと指先を触れる。皮膚に引きつれも硬さもない。そこに穴が空いていたとは思えないほど綺麗に戻っていた。
「本当に何もないな」
「でしょ」
ノルが少し得意そうに答える。
「エレノアすごい」
レイスは指を離した。
「良かったな、ノル」
「うん」
ノルの口元がまた緩む。アルドも手を伸ばした。
「じゃあ俺も――」
ぱしん、とセレスに叩かれた。
「アルドはいい!」
「なんでだよ! ノルが二人ともって言っただろ!」
「レイスが確認したから十分なの!」
「俺だけ扱い違わない?」
「いいの!」
アルドが叩かれた手を押さえる。それを見たノルが笑い、ようやく服を戻した。肩が小さく揺れている。
アルドはしばらく不満そうにしていたが、その笑い声を聞くうちに何も言えなくなった。
「……まあ、元気ならいい」
「元気」
ノルはまた焼き菓子へ手を伸ばした。
「エレノアは本当に用事か?」
「うん」
菓子を持ったまま頷く。
「今までは、私に万が一があるかもしれないから離れられなかったんだって。もう大丈夫だから、用事に行った」
「そうか」
アルドはそれだけ返した。
「まだ仕上げが残ってるんだろ?」
レイスが聞く。
「うん。中身の整理と、全身の確認」
「中身?」
「血管とか、神経とか……いろいろ言ってた。分かんない」
「俺も分からん」
エディンが棚の近くから笑う。
「血もまだ足りないみたいだから、それもやるらしいわぁ。前にルシアンちゃんがアルドちゃんにやったのと近いと思うわよぉ」
「ああ。それなら明日はまた寝ることになるかもな」
「かもしれないわねぇ」
ノルは手元の菓子を見た。
「じゃあ今のうちに、たくさん食べる」
「肉も食え」
「食べる」
「菓子だけで腹いっぱいにするなよ」
「両方食べる」
真剣な顔で答える。セレスの口元がまた緩んだ。それを見たエディンが立ち上がる。
「セレスちゃん。今日はおねぇさんが残るわぁ」
「でも、昨日も残ってくれたでしょ?」
「いいのよぉ。今日はお祭りなんでしょ?」
「いいの?」
「ええ」
エディンはセレスの肩へ軽く手を置いた。
「ずっと張りつめてたもの。少し歩いて、何か食べて、ちゃんと休んできなさいな」
セレスはすぐには答えなかった。寝台を見る。ノルが焼き菓子を持ったまま言う。
「行ってきて」
「ノル……」
「私は待ってる」
セレスはようやく頷いた。
「……分かった。ありがとう」
「うん」
帰る前に、セレスは布団の端を直した。
「明日か明後日、迎えに来るからね」
「待ってる」
アルドたちが治療室を出ようとすると、ノルが小さく手を振った。セレスも振り返す。扉が閉まった。
◇
家を出た瞬間、祭りの音が戻ってきた。町の中心から笛と太鼓が響き、人の笑い声と呼び込みがその間へ重なっている。天祈像へ続く通りには色鮮やかな飾りが揺れ、風に乗って甘い匂いも流れてきた。
セレスはその場で小さく息を吐いた。
「ノル、笑ってたね」
「ああ」
「ちゃんと起きてた」
「ああ」
アルドはそれ以上言わなかった。セレスも続けなかった。三人は祭りの音がする方へ歩き出した。
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