いつもの寝顔
翌朝、アルドたちは目を覚ますとすぐにエレノアの家へ向かった。一晩眠った程度では疲労も傷の痛みも抜けていない。それでも足は自然と町外れへ向いていた。
昨日は駆け抜けるだけだった町の外れにも、今朝はいつもの生活があった。店先の戸を開ける音が聞こえ、水桶を抱えた者とすれ違い、路地の隅では一匹の猫が丸まっている。その中を歩き、エレノアの家まで来る。
レイスが扉を軽く叩いた。すぐには返事がなかったが、しばらくすると内側から足音が近づき、扉が開く。黒い髪を後ろで一つにまとめたエレノアが、三人を順に見た。
「……毎日来るつもりか」
第一声がそれだった。アルドの眉が動く。
「ノルの様子を見るだけだ。すぐ帰る」
「見るだけなら短く済ませろ。患者の睡眠を邪魔するな」
「分かってる」
「なら入れ」
エレノアはそれだけ言って背を向けた。
「ほんとに、言い方……」
セレスが小さく漏らす。
「今は我慢しろ」
「うん。分かってる」
◇
奥の治療室へ入ると、ノルは寝台で眠っていた。胸元まで白い布を掛けられ、その脇には薬液の入った硝子瓶と細い器具が並んでいる。昨日まで忙しなく使われていた物の多くは片づけられ、部屋も少し静かになっていた。
寝台のそばにはエディンがいる。椅子へ腰掛けたまま、ノルを見守っていた。
「エディン」
アルドが声を落とす。
「寝てないのか?」
「少しは寝たわぁ」
「少しだけだろ」
「まあねぇ」
エディンは笑い、ノルの額へ掛かっていた髪を指先で払った。三人も寝台へ近づく。そこで、アルドの足が止まった。
まだ少し青白いが、唇には色が戻り、胸は一定の間隔でゆっくり上下している。眉間の皺も消え、小さな寝息だけが聞こえた。いつものノルの寝顔だった。
「……ノル」
セレスが小さく呼ぶ。返事はなく、その肩からゆっくり力が抜けた。
「本当に……大丈夫そうだな」
アルドの声が少し掠れた。
「大丈夫よぉ」
エディンは眠っているノルから目を離さない。
「エレノアちゃんの処置、ちゃんとうまくいってるわぁ」
「昨日の夜、ずっと見てたの?」
セレスが聞く。
「ええ」
エディンは頷いた。
「おねぇさん、少し誤解してたわぁ」
「誤解?」
レイスが聞き返す。エディンは治療室の外へ一度だけ目を向けた。
「エレノアちゃん、ほとんど寝てないの。一時間くらい経つたびに来て、ノルちゃんの呼吸と脈、顔色、魔力の流れを確認してたわぁ」
「一時間おきに?」
「ええ。数時間おきに薬も入れてたわねぇ」
寝台脇に置かれた細い硝子管を指す。
「おねぇさんには何をしてるのか分からなかったけど、あれを使ったり、小さい魔法具を繋いだり。そのたびにノルちゃんの顔色が少しずつ戻っていったわぁ」
レイスは並んだ器具を見る。
「治癒魔法だけではないんだな」
「ええ。途中で治癒魔法も使ってたけど、薬や器具も順番に使ってたわぁ。療養院とは全然違ったわねぇ」
「そうか……」
アルドはもう一度ノルを見る。
「……少し、悪いことしたな」
アルドが呟く。セレスも頷いた。
「うん」
少し考えてから付け足す。
「好きか嫌いかで言えば、まだ好きじゃないけど」
「分かる」
アルドも即答した。
「思いやりがあるとか、そういうのは分からない。言い方も嫌い。でも……助けてくれた」
「それに、今も仕事は続けてる」
レイスが言った。
「感情を表に出さないことと、仕事を雑にすることは別だ。少なくともエレノアは後者じゃない」
「ああ」
アルドはノルの静かな寝息を聞いた。
「後で、ちゃんと礼は言うか」
「うん」
セレスも頷く。
「謝るかは……ちょっと迷うけど」
「それも含めてだな」
レイスが言った、その時だった。治療室の扉が開く。エレノアが立っていた。
三人とエディン、それから眠っているノルを順番に見て、一言だけ告げる。
「もういいだろ。邪魔だ。帰れ」
扉が閉まった。三人の視線が、そのまま扉へ残る。数秒後、アルドが息を吐いた。
「謝るのはなしだ」
「うん」
セレスの返事は早かった。
「私も今そう思った」
「評価は改める」
レイスも扉を見る。
「性格まで好きになる必要はない」
「それでいこう」
アルドは最後にノルへ顔を向けた。
「ノル。また来る」
返事はない。代わりに、規則正しい寝息が聞こえる。それをもう一度確かめてから、三人は寝台を離れた。
「エディンは?」
「おねぇさんは、もう少しいるわぁ」
「ああ。頼む」
「何かあったら、すぐ呼んでくれ」
「もちろんよぉ」
エディンが椅子へ座り直す。三人はノルを残し、治療室を出た。
◇
帰り際、アルドは別室の前で足を止めた。中ではエレノアが机へ向かい、硝子瓶や小さな器具を確認している。こちらを見もしない。
アルドも部屋へ入らなかった。
「……助かった」
通り過ぎる前に、それだけ言う。返事はなかった。やっぱりな、と歩き出しかける。
「おい」
振り返った瞬間、小さな箱が飛んできた。アルドは反射的に受け取る。
「何だ、これ」
「塗り薬だ」
エレノアは椅子から動かない。
「あんたらの傷なら、それで十分だ」
手のひらほどの薄い木箱を開けると、薬草と油の匂いがした。
「いいのか?」
「金もらえるなら貰う」
「だろうな」
アルドは腰の金袋から一万セリオ金貨を取り出し、エレノアへ投げた。片手で受け取ったエレノアは金額を確認する。今度は、もう一つ小箱が飛んできた。
「なんだ?」
「一つで一万は貰いすぎだ。もう一つやる」
アルドが少し目を丸くする。
「黙って一万持ってくと思ったぞ」
「価格は私なりの計算式がある。ぼったくってるわけじゃない」
「そうか」
二つの小箱を見る。
「貰ってく」
「ああ」
エレノアは金貨を机へ置く。
「患者が目を覚ましたら、あの女があんたらを呼びに行く。だから明日は来るな」
「あの女ってエディンか」
「他に誰がいる」
「……分かったよ」
「分かったなら帰れ」
「はいはい」
アルドが部屋を離れる。後ろでセレスが小さく呟いた。
「……やっぱり、言い方は嫌い」
「同感だ」
レイスも静かに答えた。
◇
エレノアの家を出た三人は、そのままニロのところへ向かった。町の広場まで来たところで、アルドが足を止めた。
「ここにもあるんだな」
広場の端に、天祈像が立っていた。キュリン町の像は女性だった。
片足を少し前へ出し、身体を斜めに構えている。片手には短剣を持ち、その刃を天へ掲げるような姿をしていた。細身の身体に、静かな鋭さがある。
「セレスみたいだな」
セレスが振り向く。
「私?」
「ああ。短剣もだし、なんとなく雰囲気が」
セレスも像を見上げた。少しして口元を緩める。
「ありがとう」
「褒めたつもりだからな」
「分かってるよ」
もう一度、像へ目を向ける。
「かっこいいね、この人」
「ああ」
「でも、私に似てるは言いすぎ」
「そうか?」
「そう」
レイスが先へ歩き出す。
「行くぞ。ニロなら町の入口辺りだろ」
「ああ」
三人は天祈像を背に、広場を抜けた。
◇
ニロは昨日と同じように、町の入口近くで紙を配っていた。
「困りごとはありませんかー! 荷物運び、買い出し、猫探しまで――」
アルドたちへ気づくと、営業用の声が止まった。
「あっ、皆さん。お連れの方はどうでしたか?」
「大丈夫そうだ」
アルドが答える。
「まだ寝てるけど、昨日よりずっと顔色が良かった」
ニロの顔が明るくなる。
「本当ですか!」
「ああ」
「よかった……!」
胸へ手を当て、大きく息を吐く。
「エレノアさん、ちゃんと診てくれたんですね」
「ほとんど寝ずに診てたらしい」
「ええ。あの人、必要なら寝ませんから」
ニロは苦笑した。レイスが一歩前へ出る。
「ニロ。聞きたいことがある」
「はい。何でもどうぞ。内容によっては料金が――」
アルドが目を細める。ニロは咳払いした。
「今のは冗談です」
「命の恩人じゃなかったら小突いてたぞ」
「でも、本当に重要な情報なら貰いますからね」
「分かっている」
レイスはそのまま続けた。
「この町の行方不明者について聞きたい」
ニロの表情から笑みが消えた。
「行方不明者、ですか」
「ああ。コンデンス村とカッカ村で調べてきた。キュリン町でも同じことが起きているなら知りたい」
「この町は人の出入りが多いですから、行方不明者自体はいます」
ニロは持っていた紙束を揃える。
「旅人も商人も来ますし、借金から逃げる人、家族と揉めて出ていく人、荷を持ったまま消える人もいます。全部が事件とは限りません」
「最近は?」
「少し前までは多かったです。ただ、最近は落ち着いていますね」
レイスの目が細くなる。
「多かった時期があるのか」
「はい。数ヶ月前から、ぽつぽつと。最初は旅人、その後に商人。町の外れに住んでいた職人もいますし、宿に泊まっていた女性も一人」
「共通点は?」
「正直、分かりません」
ニロは首を横に振った。
「年齢もばらばら。男も女もいます。町の人も外から来た人もいる。荷を持っていた人も、何も持っていなかった人も」
「子供は?」
レイスが聞いた。ニロの返事だけが少し遅れた。
「……いませんね」
アルドとセレスが顔を見合わせる。
「やっぱりか」
「やっぱり?」
「他の村でも同じだったの」
セレスが言う。
「消えてるのは大人だけ。子供は一人もいない」
ニロは紙束へ目を落とした。
「それは……良かった、とは言いづらいですね」
「ああ」
レイスは留帳を開いた。
「キュリン町では最近落ち着き、コンデンス村とカッカ村ではまだ続いている。発生する場所が移ったのか、それとも別の理由があるのか……」
「大人だけが必要なのかな」
セレスが呟く。
「何に使うんだ?」
アルドが腕を組む。
「働かせるなら、体力のある大人を狙う理由はある。でも死体も出てる」
「奴隷目的なら、子供を避ける理由にはならない場合もある」
レイスが答える。
「身代金目的でも同じだ。金のある家の子供を狙うことは考えられる。今のところ、そういう被害は確認できていない」
「夜骸が関係してるなら?」
セレスが聞く。
「月酔い患者とか……」
レイスはすぐに答えなかった。
「可能性としては切れない。ただ、今ある情報だけで繋げるのは早い」
「あの外套の男は?」
アルドが言う。
「ああ。赤鎖の末端へ死体処理を頼んだ男だな」
レイスはニロを見る。
「ニロ。最近、外套を着た妙な男を見た覚えは?」
ニロは自分の外套を摘まんだ。
「外套の人なんて、この町にはたくさんいますよ。僕もそうですし」
「それはそうだな」
「少なくとも、死体を処理してくれなんて言ってくる相手には心当たりがありません」
「怪しい依頼自体は?」
「ありますよ」
「例えば?」
「荷物を誰にも見られないよう運んでほしいとか、誰かの後をつけてほしいとか、借金取りに人の居場所を教えてほしいとか」
アルドが眉を寄せる。
「受けたのか?」
「受けませんよ」
ニロは真顔だった。
「面倒なことになるに決まってるじゃないですか。僕は借金がありますけど、牢屋に入ったら返せませんから」
「現実的だな」
「それだけが取り柄です」
少しだけ空気が緩む。レイスは今の話を留帳へ書き込み、閉じた。
「分かった。何か思い出したら教えてくれ」
「もちろんです」
◇
それから三日、アルドたちはキュリン町に留まった。ノルは眠ったままだった。
エディンがそばに残り、何か変化があれば知らせることになっている。エレノアから明日は来るなと言われて以降、アルドたちも遠くへは動かず宿で身体を休めた。その間に、三人の傷もかなり塞がった。
エレノアから買った塗り薬が、腹が立つほどよく効いた。アルドは宿の部屋で肩を回す。
「……これ、本当に効くな」
裂けていた肩も、脇腹も戦うには支障のないところまで戻っている。セレスも腕の包帯を外し、傷を確かめた。
「ほんとにね。言い方は嫌いだけど、腕は本物」
「薬も本物だな」
レイスも肩を動かしてみる。
「療養院で受ける手当てより回復が早い」
「何入ってんだろうな」
「聞いても分からないだろ」
「それはそう」
アルドは寝台へ腰を下ろす。
「ノル、いつ起きるかな」
「エレノアは数日と言っていた」
レイスが答えた。
「今日で三日目だ」
「じゃあ、そろそろ起きてもいいんだよな」
「可能性はある」
セレスが少し考える。
「起きたら、まず怒られそう」
「誰に?」
「ノルに」
アルドが顔をしかめた。
「なんでだよ」
「うるさい、とか言われるんじゃない?」
「……ありそうだな」
レイスの口元が僅かに緩む。その時、廊下の向こうから速い足音が聞こえた。三人が同時に扉を見る。
足音は真っ直ぐこちらへ近づき、次の瞬間、扉が勢いよく開いた。エディンだった。走ってきたのか少し息を弾ませている。
「ノルちゃんが目を覚ましたわ!」
アルドが立ち上がる。セレスも椅子を押して立ち、レイスはもう扉へ向かっていた。
「行くぞ!」
三人は同時に部屋を飛び出す。エディンの後を追い、目を覚ましたノルの元へ走った。
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