モグリの医者
便利屋の男――ニロは、町の表通りを避けて走った。細い路地へ入り、古い石畳を抜け、家々の間に干された布の下を潜っていく。大きな町ではないキュリンにも入り組んだ裏道は多く、療養院のある通りを離れるほど人の声が遠ざかった。
「こっちです! 足元に気をつけてください!」
「いいから走れ!」
アルドが叫ぶ。先を急ぐニロの後ろでは、エディンがノルを抱えている。そのすぐ横をセレスが走り、脇腹へ清癒膜を維持していた。
ノルの呼吸は、療養院を出た時よりさらに浅い。胸が小さく上下するたび、額に浮いた汗が黒髪へ滲む。唇からは色が失われ、閉じた目は一度も開かなかった。
「セレス」
全体を見ながら走るレイスが呼ぶ。
「持つか」
「持たせる」
セレスはそれだけ返した。顔色は悪い。それでもノルへ向けた手だけは下げなかった。
ニロがまた角を曲がる。店の看板が減り、行き交う人もいなくなる。町の外れまで来たところで、ようやく一軒の古びた家の前に止まった。
周囲の家から少し離れ、庭には伸びた草が残っている。窓は厚い布で塞がれて中が見えず、扉の横にだけ乾燥させた薬草が何束も吊るされていた。
「ここです」
ニロは息を整えるより先に、扉を三度強く叩いた。
「エレノアさん! 急患です!」
返事はない。
「エレノアさん! 療養院でも駄目な毒です!」
もう一度叩くと、ようやく内側から足音が近づいてきた。扉が開く。黒い長髪を後ろで一つにまとめた女が立っていた。
年齢は若く見える。女はニロを見てから、血に汚れたアルドたちへ視線を移し、最後にエディンの腕の中で動かないノルを見る。
「ニロか」
声は平坦だった。
「何があった」
「療養院でも治せない毒だそうです。エレノアさんならどうにかなると思って連れてきました」
女――エレノアはノルの顔色を見た。次に脇腹を覆う水膜へ目を落とし、そのままセレスを見る。
「水流の清癒膜か。ここまで持たせたなら十分だ」
セレスの口が僅かに開いたが、エレノアはもうノルへ視線を戻していた。
「金はあるのか」
セレスの顔が変わる。
「今、それを――」
アルドが片手で止めた。
「セレス」
「でも」
「いい」
アルドはエレノアを見る。
「二十万で足りるか」
「まあいい」
エレノアは一秒も迷わず扉を大きく開いた。
「とりあえず中に入れろ。診る」
「頼む」
◇
家の中には薬と器具が隙間なく収められていた。壁一面の棚には硝子瓶が並び、乾燥させた薬草や色の違う粉末、澄んだ薬液が細かく分けて置かれている。その間には切開具や縫合針、硝子管、見たことのない小さな魔法具まで混じっていた。
エレノアは足を止めず奥の部屋へ入った。
「そこに寝かせろ」
中央には白布を張った寝台が一つあり、脇の台には必要な器具が揃えられている。エディンがノルをゆっくり寝かせた。意識は戻らない。
呼吸に合わせて喉が時折震え、眉間には苦しそうな皺が残っている。エレノアはすぐにノルの瞼を上げた。
目を確認し、首筋へ触れる。脈、呼吸、魔力の流れ。それから清癒膜の下にある傷口まで、一つずつ確かめていった。
「清癒膜はもういい」
セレスの手が止まる。
「でも、切ったら」
「私が受け持つ」
「ここまで繋いだなら十分だ。あとは素人が触るな。邪魔になる」
セレスの顔が強張った。
「私は――」
「医者なのか?」
エレノアはノルから目を離さず聞いた。
「……違う」
「違うなら出ろ。感情で手を伸ばす人間は、治療室では邪魔だ」
セレスの唇が震えた。横でアルドの拳が握られる。
「言い方ってもんがあるだろ」
「必要ない。考える時間が無駄だ」
そこで初めてエレノアがアルドを見た。
「説明して安心したいなら療養院へ戻れ。助けたいなら黙れ」
「っ……」
アルドが一歩出かける。その前へレイスが入った。
「アルド、下がれ」
「レイス」
「ここは任せるしかない」
レイスはエレノアへ向き直った。
「引き継ぎはできるのか」
「できる」
「必要なものは」
「今はない。必要なら呼ぶ」
「分かった」
レイスはセレスを見る。
「セレス、出るぞ」
「でも……」
「お前がここまで繋いだ。次は医者の仕事だ」
セレスは寝台へ目を戻した。ノルの胸が、また浅く上下する。離れたくない。
自分の手を止めた途端に何かが起こるような気がして、指先から魔力を切れない。それでも、エレノアはもう薬瓶と器具を選び始めていた。
セレスは奥歯を噛み、清癒膜を消した。
「……お願いします」
「ああ」
エレノアは振り返らなかった。代わりに金属の器具を台へ並べていく。アルドたちは部屋を出た。
扉が閉じる直前に、平坦な声が聞こえた。
「始める」
すぐに硝子同士が触れる乾いた音が続いた。
◇
部屋の外には椅子が三つしかなかった。アルドは座らず扉の前を離れない。
レイスは壁へ背を預け、エディンは大剣を横へ置いて静かに座った。セレスも扉のすぐ近くに立ち、さっきまで清癒膜を維持していた両手を握っている。ニロだけが少し離れた入口近くにいた。
中から聞こえるのは治療の音だけだった。
硝子瓶が置かれる。金属が触れる。水が流れ、布が裂かれ、小さな魔法具が低く唸る。
その間にエレノアの声が混じった。
「呼吸、低下」
「毒、肺側へ移行」
「抗毒薬、追加」
「傷口、開く」
アルドの眉間に皺が寄った。
「何なんだ、あの女」
ニロが少し肩をすくめる。
「エレノアさんです。悪い人ではないんです。話し相手にはなりませんけど」
「だろうな」
「彼女は共和国から来た医者です。五ヶ月くらい前に、この町に来ました」
レイスが顔を上げた。
「共和国の医者か」
「はい。本人はあまり話したがりませんけど、共和国は軍事技術だけじゃなく医療技術も進んでいるそうです。王国では扱わない薬や器具もある、と聞いています」
「だからここへ連れてきたのか」
「はい。駄目元でしたけど、療養院で無理ならエレノアさんしかいないと思いました」
エディンが扉へ目を向けたまま聞く。
「なぜ療養院にいないのかしらぁ」
「嫌がっているからです」
ニロの答えは簡単だった。
「療養院に所属すると、面倒な手続きや規則や人間関係が増える。そういうのが嫌なんだそうです。必要なら診る。必要がないなら関わらない。それだけで十分だと」
アルドの顔がさらに歪む。
「人の命を扱ってるのにか」
「エレノアさんにとっては、感情より結果なんだと思います」
ニロは困ったように笑った。
「あの人は助けたいから助けるんじゃなくて、助けられるなら処置する。助けられないなら助けられない。そこに余計な慰めを足さない」
「気に食わないな」
「はい。気に食わない人は多いです」
ニロはあっさり認めた。
「でも、腕だけは確かです」
「言い方が冷たすぎる」
セレスは扉から目を離さない。
「そうですね」
ニロも否定しなかった。
「でも、嘘は言いません」
「それで救われる人もいる。傷つく人もいる」
レイスが静かに言った。アルドとセレスは何も返さなかった。レイスはニロへ視線を戻す。
「君はエレノアとどういう関係だ」
「便利屋と客です」
「客?」
「はい。家の掃除、買い出し、薬草の運搬、患者の紹介。そういう仕事を何度も頼まれています」
「患者の紹介も仕事なのか」
「紹介料をもらえる時もあります。今回みたいな急患は、まあ……どうなるか分かりませんけど」
アルドの目が向く。ニロはすぐ両手を振った。
「いえ、今のはお金の話ではなく! エレノアさんが受けてくれるかどうかの話です!」
「今、金の話はするな」
「はい。すみません」
素直に頭を下げる。
「共和国へ戻る気はないのか」
レイスが続ける。
「ないみたいです」
「理由は」
「共和国に愛想が尽きた、とだけ聞いています」
それ以上、ニロは話さなかった。
◇
時間だけが過ぎていった。窓から入る光は少しずつ傾き、外を行き交う人の声も変わっていく。アルドは座ってもすぐ立ち、数歩歩いてはまた戻った。
エディンは大剣の横で扉を見続けている。レイスは壁際から動かず、セレスは膝の上でまだ震える指を握っていた。中の音だけは止まらない。
薬液を混ぜる音。水の流れる音。布を替える音。
そして、時折聞こえてくるエレノアの声。
「呼吸、戻る」
四人の視線が扉へ向く。
「毒反応、低下」
誰も口を開かない。
「脈、安定」
聞こえる言葉は良くなっている。
それでも、扉が開くまでは喜べなかった。
やがて、中の音が途切れた。扉が開く。エレノアが出てきた。
薄い手袋を片方ずつ外しながら、いつもと変わらない調子で言う。
「解毒はできた」
アルドはすぐには意味を飲み込めなかった。
「……今、何て」
「解毒はできた。命に別状はない」
誰も動かなかった。
「数日は眠る。今は寝かせておけ。体力をある程度戻してから、雑に治された傷を綺麗にする」
「雑……」
セレスの口から漏れる。
「療養院で押さえた傷だ。出血を止めるという目的だけなら間違っていないが、急いだ処置だから内部が乱れている。放置すれば後が悪いから後で開いて整える。はっきり言って下手くそだな。レベルが低い」
セレスは言葉を失った。――命に別状はない。その言葉だけが遅れて胸まで届いた。
「……助かった?」
「ああ」
エレノアは淡々と答えた。セレスの目から涙が落ちた。アルドは壁へ片手をつく。
さっきまで立っていられなかったはずの脚から、一気に力が抜けた。
「よかった……」
エディンは目を閉じた。唇だけが僅かに震える。
「ノルちゃん……」
レイスも長く息を吐いた。
誰もすぐ次の言葉を出せない。
その中で、エレノアだけが外した手袋を片づけると、アルドへ手のひらを差し出した。
「何だ」
「金だよ、金」
「二十万」
アルドは一瞬だけ止まった。
「……今かよ」
「今だ」
少し腹は立った。それでも、さっきまでノルの命に値段をつけろと言われたなら、二十万など迷わず払った。
「ああ。分かった」
アルドは床へ膝をつき、持っていた金を数え始めた。ハインから受け取った依頼の前金。赤鎖から回収した金。
物資を売った金。旅のために持っていた金まで合わせ、二十万セリオを一つの袋へ移していく。エレノアへ渡す。
受け取ったエレノアは、その場で硬貨を数え始めた。一枚ずつ。アルドが見ている。
セレスも見ている。エレノアは気にしない。最後まで数え終えると、袋の口を閉じた。
「どうも」
「……きっちりしてんな」
「金の確認はするだろ」
「まあな」
「これで最後までやってやる。患者は預かるから、あんたらは帰れ」
「いや、でも」
「患者は大丈夫だ。ここに素人が残っても邪魔になる」
「心配なんだよ」
「心配で毒は抜けない。心配で傷も塞がらない。それでも心配なら外で寝てくれ」
アルドの眉が動いた。
「じゃあ外で寝る」
エレノアが初めて少しだけ顔をしかめた。
「……一人なら居てもいい。外で寝るのは勘弁してくれ」
「助かる」
すぐにエディンが一歩出る。
「おねぇさんが残るわぁ」
アルドが振り向いた。
「いいのか」
「ええ。ノルちゃんが目を覚ました時、誰かいた方がいいものぉ」
「残るなら余計なことはするな。ただ見てろ。もし何かあったら呼べ」
「分かったわぁ」
エディンはいつものように穏やかに答えた。エレノアはもう別の器具を片づけている。
「他は帰れ。傷があるなら療養院へ行け。ここは宿ではない」
アルドは閉じた治療室の扉を見る。
「ノルを頼む」
「金は受け取った。やることはやる」
◇
家を出ると、町の空気が肌へ触れた。遠くで子供の声が聞こえ、どこかの家から食事の匂いが流れてくる。身体にはまだ、走り続けていた時の力が残っている。
アルドは立ち止まり、ようやく大きく息を吐いた。
「……助かった」
「うん」
セレスが目元を拭う。レイスは一緒に出てきたニロへ向き直った。
「ニロ」
「はい」
「助かった。礼を言う」
アルドも顔を上げる。
「ああ。ありがとう」
ニロは少し照れたように笑った。そして、そのまま片手を差し出した。アルドは手のひらを見る。
「……お前もか」
「便利屋なので!」
さっきまでの緊張が抜けたせいか、アルドは呆れたように笑った。腰の金袋から二万セリオを取り出し、ニロの手へ乗せる。
「これで足りるか」
「十分です! 毎度!」
「毎度って言うな。命がかかってたんだぞ」
「はい。すみません。でも、本当に助かります!」
ニロは金を大事そうにしまった。
「お前、何で便利屋なんてやってるんだ」
「え?」
ニロは少しだけ苦笑した。
「もともとは北の方で商人をしていました」
「商人?」
「はい。荷を仕入れて別の町へ運んで売る。普通の商人です」
レイスもニロを見る。
「それがなぜ便利屋に」
「大失敗しました」
あまりにもあっさりした返事に、アルドの眉が上がった。
「騙されたんです。商品を不当に高い価格で売られて、別の場所では不当に安い価格で買い叩かれました」
「最悪だな」
「はい。最悪でした」
ニロは笑う。
「そこで終われば、まだよかったんです。損を取り返そうとして、借金して新しい商品を仕入れました」
「嫌な予感しかしない」
「その荷を盗賊に奪われました」
「踏んだり蹴ったりだな」
「本当ですよ」
今度は肩を落とした。
「しかも金貸しがまたタチ悪くて。商人を続けようとすると仕入れ先に嫌がらせをするし、取引相手には噂を流す。北にいられなくなって、拠点をこの町へ移しました」
「それで便利屋か」
「はい。商品を持って移動する商人は危ない。なら、自分の体と足で稼げる仕事をしようと思いまして」
持っていた紙束を軽く上げる。
「猫探し、荷物運び、買い出し、掃除、案内、修理。何でもやります。大きくは稼げませんけど、少しずつ借金は返せますし、少なくとも誰かの役には立てます」
セレスが聞いた。
「人の役に立ちたいんだ」
「というより、そうでもしないと報われない気がするんです」
ニロの笑い方が少しだけ変わった。
「失敗して、騙されて、奪われて、借金だけ残って。腹も立ちましたけど、それだけで生きてても余計につらいので。今は少しでも人の役に立ちながら、いつか報われるのを待っているんです」
アルドは黙って聞いた。
「報われるといいな」
ニロが目を丸くした。少しして笑う。
「はい。そうなるよう頑張ります」
レイスが町の方へ目を向けた。
「俺たちは宿を取る。エディンが残る以上、近くにいた方がいい」
「それなら、安くてまともな宿を紹介できますよ」
「便利屋らしいな」
「さっきの二万セリオは紹介料込みで結構ですよ!」
ニロが胸を張った。
◇
案内された宿は高級ではなかったが、寝台は清潔で湯と簡単な食事も出た。今の三人には、それで十分だった。宿の前でニロが頭を下げる。
「では、僕はこれで。何かあれば紙に書いてある場所まで来てください」
「ああ」
アルドも頷いた。
「また頼るかもしれない」
「いつでもどうぞ。猫探しから急患の案内まで、何でも承ります」
「猫と急患を並べるな」
「すみません」
ニロは笑って、通りの向こうへ歩いていった。その背中を見送りながら、セレスが言う。
「悪い人じゃなさそうだね」
「胡散臭いけどな」
「うん。胡散臭いけど」
レイスは宿の扉を開けた。
「今は休むぞ。俺たちも限界だ」
部屋へ入り荷を下ろすと、それまで押し込めていたものがまとめて戻ってきた。傷の痛み。走り続けた脚の重さ。
魔力の枯渇。眠気。アルドは寝台へ腰を下ろした。横になれば、すぐ眠れる。
それなのに目を閉じるのが少し怖かった。眠っている間に、ノルへ何か起きるかもしれない。エレノアは大丈夫だと言った。
命に別状はないとも。それでも、身体の方がまだ信じきれていなかった。
「ノルは助かった」
アルドが呟く。
「うん」
セレスも頷く。
「解毒できたって言ってた」
「数日は眠るかもしれない」
レイスが壁際へ腰を下ろした。
「だが命に別状はない。今はそれを信じるしかない」
「ああ」
アルドは横になった。大級夜骸。ノルの血。キュリン町までの道。エレノア。
ニロ。目を閉じても、今日の出来事がまだ頭の中を流れていく。
「起きろよ、ノル」
返事はない。身体はもう限界だった。アルドたちはようやく眠りに落ちた。
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