命懸けの博打
夜の街道を、陽剣旅団は走り続けていた。先頭を行くレイスの肩からは血が流れている。それでも速度は落とさず、暗い道の中から足を取られにくい場所だけを選んで進む。
その後ろでは、エディンがノルを抱えていた。ノルの脇腹を覆う清癒膜へ、アルドに担がれたセレスが魔力を流し続けている。離れすぎれば維持が難しくなるため、アルドはエディンのすぐ横を走りながら、セレスを揺らさないよう歩幅を合わせていた。
「セレス! 膜は!」
「持ってる!」
返事はすぐに来た。
だが、セレスの声には余裕がない。
「息は!」
前を走るレイスが叫ぶ。
「浅い! でも、まだある!」
エディンが腕の中のノルを抱き直した。
「ノルちゃん。聞こえる?」
返事はない。閉じた瞼の下で、胸だけが細く動いていた。
「キュリン町までどれくらいだ!」
「普通に歩けば二日弱!」
「聞きたいのはそれじゃねぇ!」
「この速度なら昼までには着く!」
「なら上げるぞ! ノルを生かすために死ぬ気で走れ!」
「言われなくても!」
足元へ木の根が張り出し、暗闇の中で石が転がる。
誰も速度を落とさなかった。
◇
夜が深くなると、街道へ夜骸が現れた。最初は三体の雑級だった。道端の茂みから折れた獣のような影が這い出してきた瞬間、先頭のレイスが片手を向ける。
「水流弐式 水撃!」
横殴りの水塊が三体をまとめてさらい、街道の外へ叩き出した。木へ激突した身体が崩れる。レイスは確認すらしない。
「構うな! 走れ!」
誰も返事をしなかった。
声へ使う息すら惜しかった。しばらく先では低級夜骸が道を塞いだ。唸り声とともにこちらへ踏み込んでくる。
「邪魔だ!」
レイスも足を止めず、両手へ水を集めた。
「水流参式 激瀑!」
圧縮された奔流が正面から夜骸を呑み込み、そのまま街道脇の岩へ叩きつける。骨と肉が押し潰され、動かなくなった横を五人が駆け抜けた。
セレスを担ぐアルドも、ノルを抱えるエディンも戦えない。前を切り開くレイスが、夜骸を退かしながら進路を作っていく。
◇
夜が明けても、五人は走っていた。森の向こうから差し込んだ朝日が街道を照らし、鳥の声に混じって遠くから荷馬車の車輪が軋む音が聞こえる。
誰も足を止めない。
水をゆっくり飲む時間も、開いた傷を巻き直す時間もなかった。セレスの額には汗が浮かび、アルドの背中へ乗せた身体から少しずつ力が抜けている。
「セレス、持つか!」
「持たせる!」
「頼む……!」
「アルド、揺らさないで!」
「分かってる!」
アルドは走り方を変えた。速度は落とさない。ただ、一歩ごとに生じる上下の揺れを脚と腰で潰していく。
肩も脇腹も太腿も傷ついている。踏み込むたび傷が引かれ、流れた血が服へ貼りついた。
それでも背中のセレスを揺らさない。
隣のエディンも、ノルの身体を胸元へ固定したまま走り続けている。
「ノルちゃん。もう少しよぉ」
返事はない。
「起きなくてもいいわぁ。でも、ちゃんと聞いてなさい」
返事はない。エディンは前を見たまま、もう一度だけ腕へ力を入れた。
「おねぇさん、あなたにまだ言いたいことがいっぱいあるのよぉ」
最後だけ、声が僅かに揺れた。アルドは振り向かなかった。今は止まれない。
◇
キュリン町が見えたのは、昼前だった。街道の先に木と石で作られた門が立ち、その向こうには家々の屋根が連なっている。人の声が飛び交い、荷馬車が行き来していた。
本来なら二日近くかかる道のりを、半日余りで走り抜けた。
「着いたぞ!」
町の入口では、一人の男が紙を配っていた。
「困りごとはありませんか! 猫探し、荷物運び、荷車修理、買い物代行、何でも承ります!」
外套を着た男。少し前、アルドが夜道で声を掛けられた便利屋だった。
だが今のアルドには思い出す余裕もない。
「おい!」
「はい! 何かお困り――」
「療養院はあるか!」
男の顔が変わった。
エディンの腕の中にいるノル。脇腹を覆う清癒膜。アルドに担がれたセレス。そして全員の服に残る血。
視線が一度それだけを拾うと、男はすぐ町の中を指した。
「あります! 門を入ってまっすぐです! 二つ目の井戸を右! 白い布の看板が出ていて、入口に薬草の束が吊るしてあります!」
「分かった!」
「右側の道が空いてます! そっちの方が早い!」
「助かる!」
レイスが先に門を抜ける。
「右側だ! 行くぞ!」
血まみれの五人が飛び込んできたことで、通りの人々が振り返った。
「どいてくれ!」
「怪我人だ!」
人波が割れる。二つ目の井戸を右へ曲がった先に、白い布の看板が見えた。その下には薬草の束。
「そこだ!」
レイスが木の扉を開け放つ。
「急患だ!」
◇
療養院の中には薬草の匂いが満ちていた。並んだ寝台の間を人が動き、奥から患者の呻き声が聞こえる。レイスの声を聞いて、初老の医者がすぐに出てきた。
「何事だ!」
「夜骸に刺された!」
アルドが答える。
「脇腹を貫通してる! 清癒膜で血は押さえてるが、息が浅い!」
「そこへ寝かせろ!」
エディンが示された寝台へノルを下ろす。医者はすぐ服を切り、脇腹の傷を確認した。血を拭う。
入口と出口を見る。皮膚の色を確かめる。そして、手が止まった。
「……毒が回っている」
「毒?」
セレスの顔が上がる。
「ああ。夜骸の体液か、刺した部位に毒があったんだろう。傷も悪いが、こっちの方がまずい」
「どうすればいい!」
詰め寄ろうとしたアルドの胸へ、レイスの腕が入った。
「アルド。下がれ。邪魔になる」
「っ……」
アルドは歯を食いしばって一歩退いた。医者はその間にもノルの身体へ手を動かしている。
「傷を洗う。出血を止め直す。毒の回りもできる限り遅らせる。今できることは全部やる」
「助かるのか」
「分からん」
医者はアルドを見ない。
「助けたいなら場所を空けろ」
「俺は――」
「外だ!」
一喝され、アルドの足が止まった。寝台を見る。閉じた瞼。浅く動く胸。
「……頼む」
それだけを残し、アルドは治療室を出た。レイス、セレス、エディンも続く。扉が閉まった。
◇
待合には古い椅子が並んでいた。アルドは座らず、閉じた扉の前で立っている。肩の傷からまた血が滲んでいたが、本人は見てもいない。
レイスも壁へ背を預けて呼吸を整えていた。エディンは少し離れた場所で目を閉じ、セレスだけが両手を握ったまま扉の近くにいる。
「毒かよ……」
アルドが呟く。
「夜骸の骨槍が貫通した」
レイスの声は低い。
「体液が入った可能性はある」
「気づけなかった」
「戦闘中だ。あの出血で、毒まで見抜けって方が無理だ」
「それでも――」
「俺たちはフィオナ隊長でもルシアンでもない」
アルドの口が止まった。
「仮に気づいていたとしても、あの場でできたことは変わらない。セレスが繋いで、ここまで運ぶ。それしかなかった」
「……分かってる」
「なら今はそれでいい」
扉の向こうから水の音がする。布を裂く音。棚が開き、誰かが走る足音。
それが聞こえるたび、四人の視線が扉へ戻った。どれほど待ったのか分からない。やがて扉が開き、医者が出てきた。
「ノルは!」
「中へ入れ」
四人はすぐ寝台のそばへ戻った。ノルの顔はまだ白い。呼吸も浅い。
医者はその横で手についた血を拭いながら言った。
「傷口はなんとか押さえた」
アルドの肩から僅かに力が抜ける。
だが、医者の表情は変わらない。
「毒が強い。ここで打てる手は、もう多くない」
「……何だよ、それ」
「夜骸の毒にも種類がある。身体を腐らせるもの、熱を出させるもの、魔力を乱すもの、呼吸を奪うもの。あの子に回っているものは症例が少ない。対処法が定まっていない型だ」
「治せないのか」
「この療養院では難しい」
「どこなら」
レイスが聞いた。
「王都なら解毒用の魔法具も、専門の治療師もいる。助けられる可能性はある」
レイスの目が伏せられる。ここから王都。距離を考えれば聞くまでもなかった。
「……間に合わないな」
「ああ。今からではとても間に合わん」
アルドの拳が固くなる。
「じゃあ、どうしろっていうんだ」
「こちらでも探す。古い薬の記録も見るし、町に使える魔法具がないか確認する」
「それで助かるのか」
「分からない」
また、その言葉だった。アルドは何も返せない。
「だが、諦めるとは言っていない」
医者は寝台のノルを見る。
「まだ息がある。なら、できることを探す」
それから四人へ目を向けた。
「それと、お前たちも手当てを受けろ」
「あとでいい」
アルドが即答する。
「倒れたら邪魔になる」
医者はそれだけ言い残し、奥へ戻っていった。
◇
待合へ戻ると、セレスが椅子へ腰を落とした。座ったというより、脚が支えきれなくなった。
「セレス」
アルドが腕を取る。
「大丈夫」
「大丈夫じゃねぇだろ」
「……うん。大丈夫じゃない」
セレスはアルドの腕を軽く押し返し、自分で座り直した。膝の上で握った両手が震えている。
「セレスが繋いだから、ここまで来られた」
レイスが言う。セレスは俯いたままだった。
「私、もっと上手くできてたら……」
「やめろ」
アルドの声が強くなる。セレスが顔を上げた。
「それを言うなら俺だって同じだ。ノルを守れなかった。もっと早くあいつを殺せたかもしれない。毒にも気づけなかった」
「アルド……」
「でも、今それ言ってもノルは助からねぇ」
握った拳が膝へ落ちる。
「考える。今できることを考えるぞ」
レイスが頷いた。
「王都は間に合わない。なら近場で、王都に近い治療ができる場所を探すか、別の解毒手段を見つけるしかない」
「ハイン商会に連絡は?」
セレスが聞く。
「すぐに届かせる方法がない」
「この町に支店は?」
「ない」
「商会へ頼んで早馬を出せば……」
「仮に王都から治療師を呼べても、間に合わない可能性が高い。どれだけ急いでも一週間はかかる」
エディンが腕を組んだ。
「近くに特殊な魔法具を持ってる貴族か、大きな商会でもあれば別だけどぉ」
「この町にあると思うか?」
「規模から考えると、期待は薄いわねぇ」
そこで話が止まった。アルドが髪を掴んだ。
「何か……何かあるだろ……!」
その時、入口の扉が勢いよく開いた。
「はぁ、はぁ……! すみません!」
息を切らした男が飛び込んでくる。町の入口で療養院を教えた、あの外套の男だった。片手には、まだ紙の束を持っている。
アルドが眉を寄せる。
「お前……」
男もアルドを見て目を開いた。
「やっぱり! あなたでしたか!」
「何?」
「覚えてますか? 昨日の夜、紙を渡した便利屋です!」
夜道。酒。外套。
何か困っていることはありませんか、と差し出された紙。
「ああ……あんただったのか」
「はい!」
「悪いが今は付き合ってる余裕がない」
男は一瞬だけ肩をすくめた。
だが、帰らなかった。
「営業に来たんじゃありません。さっきの方が心配で……今、どういう状態ですか?」
「何であんたに――」
「夜骸に脇腹を貫かれたのよぉ」
エディンがアルドを遮った。声は柔らかい。目だけが男を見ている。
「急所は外れてる。でも毒が回ってるみたいなの。傷は押さえたけど、この療養院では解毒が難しい。王都なら可能性があるけど、間に合わないって」
男の顔から、残っていた軽さが消えた。
「夜骸の毒ですか」
「ああ」
レイスが答える。
「医者によれば症例の少ない型らしい」
「……呼吸は浅くなってます?」
四人の視線が一斉に集まった。アルドが男へ近づく。
「なんで分かる」
「夜骸の毒には、魔力の流れと呼吸を乱す型があります。傷を押さえても内側から弱っていくものです」
「お前、医者なのか?」
「違います」
男は即答した。
「便利屋です」
「ふざけてんのか」
「ふざけてません」
退かなかった。
「こういう仕事をしてると、妙な依頼も妙な人も、普通なら近づかない場所も知るんです」
男は少し考えた。その数秒すら長い。アルドは続きを待った。
「……心当たりがあります」
「本当?」
セレスが立ち上がる。
「確実とは言えません。でも、ここで待つより可能性はあると思います」
「どこだ」
レイスが聞いた。
「町の外れに、モグリの医者がいます」
アルドの眉間に皺が寄る。
「モグリ?」
「はい。まともな相手ではありません」
「胡散臭ぇな」
「かなり胡散臭いです」
「自分で言うな」
「でも腕は一流です」
男は真っ直ぐ答えた。
「夜骸の毒も扱ったことがあるはずです。正式な療養院には属してませんし、普通の医者が頼るような相手でもありません。でも今の状況なら……賭ける価値はあります」
誰もすぐには答えなかった。
アルドは腕の中のノルを見る。
「……医者には話さないと」
セレスが言った。
「勝手に連れ出すのは危ない」
「でも話してる時間も惜しい」
アルドが返す。
「ここで待つのも危ない」
レイスも男を見る。
「その医者までどれくらいだ」
「走ればすぐです。町の外れなので」
「今いるのか」
「います。あの人、ほとんど外に出ませんから」
また、選択肢が止まった。その時だった。アルドの袖が、ごく弱く引かれた。
「……アルド」
振り返る。いつの間にか寝台のノルが薄く目を開けていた。
「ノル!」
アルドはすぐそばへ寄る。
「大丈夫か!」
「うる……さい」
掠れた声だった。アルドの口が止まる。
「お前、こんな時まで……」
ノルの指がもう一度、袖を掴んだ。弱い。振りほどこうとしなくても、すぐ外れてしまいそうな力しかない。
「賭けて……みる」
「え?」
「胡散……臭いのに……賭ける」
セレスが寝台のそばへ寄る。
「ノル、もう喋らないで」
「……うん」
小さく頷き、ノルはまた目を閉じた。袖から指が滑り落ちる。アルドはその手を取った。冷たい。しばらく握ってから、寝台へ戻した。
立ち上がる。
「便利屋」
「はい」
「お前に賭ける」
男の表情が一瞬だけ消えた。すぐに深く頷く。
「何かあっても、僕のせいにしないでくださいね」
「分かってる」
エディンがノルを抱き上げる。セレスもすぐ傷口へ清癒膜を張り直した。休ませたばかりの身体へ、また魔力を流していく。
「場所は」
レイスが聞く。
「付いてきてください。人通りの少ない道を使います!」
便利屋の男が扉へ走る。アルドたちも続いた。
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