行き場のない怒り
穴の中には、二つの遺体が折り重なるように転がされていた。一人は旅装の男だった。荷袋はなく、片方の靴が脱げかけ、腕を胸元へ引き寄せたまま固まっている。
もう一人は質素な服を着た女だった。裾は土に汚れ、胸の前で止まった手は何かを掴もうとしているように見えた。二人とも、目を閉じていない。
大きな外傷は見当たらなかった。喉を裂かれたわけでも、腹を抉られたわけでもない。手足も不自然には曲がっていない。
それなのに、二人の顔には苦しんだ跡だけが残っていた。
「……ひどい」
セレスの声が小さく落ちた。ノルは穴の中を見たまま息を呑み、エディンも何も言わない。
レイスだけが一歩近づいて膝をついた。遺体の顔、手足、服の乱れ、土の状態へ順に視線を動かしていく。アルドは立ったまま動かなかった。
右手の指先に、蒼い火が灯る。最初は穴の縁を照らすほどだった炎が、呼吸を重ねるたびに膨らんでいく。手の甲を覆い、指の隙間から漏れ、やがて手首まで蒼炎が這い上がった。
近くで拘束されていた赤鎖の男たちが、その手を見た。アルドが振り向く。先ほど尋問した男の顔から血の気が引いた。
「ま、待て……俺は……」
アルドは答えず、男の胸ぐらを掴んだ。蒼炎を纏った指が服へ触れ、焦げた臭いが立つ。両腕を縛られた身体が、そのまま地面から引き上げられた。
「なんなんだ」
低い声だった。
「……え」
「なんなんだ、あれは!」
怒鳴り声が森を叩いた。赤鎖の男たちが一斉に身を強張らせる。ノルが翠穿を握り直し、セレスも一歩出かけて足を止めた。
「し、知らねぇ……!」
「知らない?」
「本当に知らねぇんだよ!」
「知らないはずがないだろ!」
アルドは男を地面へ叩きつけた。
「ぐっ……!」
頭を押さえ込み、その頬のすぐ横へ蒼炎を近づける。熱を受けた土が黒く焦げた。
「言え」
「し、知らな――」
もう一度、頭が土へ当たる。
「言え! なんなんだ、あれは! テメェら、何しやがった!」
「知らねぇんだよ! 本当に知らねぇ! あんなもん、今初めて見たんだ! 存在も今知ったんだよ!」
「嘘をつくな!」
「嘘じゃねぇ! 嘘じゃねぇんだよ!」
男はもう泣いていた。涙と土で顔を汚し、まともに息も吸えないまま首を振っている。
それでもアルドの手から炎は消えない。
「あんな顔で死んでるんだぞ!」
男の頭を押さえる指に力が入る。
「何をされたかも分からないまま、あんな狭い穴に放り込まれてるんだぞ! 言え! 誰がやった! 何をした!」
「知らねぇ! 知らねぇよぉ……!」
「アルドちゃん」
エディンの声にも、アルドは振り向かなかった。次の瞬間、襟首を後ろから掴まれた。
「っ……!」
強い力で身体ごと引かれ、男から手が離れる。行き場を失った蒼炎が地面を舐め、土を焦がした。首根っこを掴んでいたのはエディンだった。
「その子は本当に知らないわ」
声は低い。怒鳴りもしなければ、いつものように甘く伸ばしもしない。
「気持ちは分かるけど、抑えなさい」
アルドは荒い息のまま、まだ男を見ていた。
「知らないはずが――」
「今のままだと、あなたは答えじゃなくて、死体を増やすだけよぉ」
アルドの目が止まった。エディンは手を離さない。アルドは穴を見た。二人の遺体。次に、自分の右手を見る。
まだ蒼炎が残っている。
「……くそ」
掠れた声が落ちた。
「アルド」
穴の前からレイスが呼んだ。
「こっちを見ろ」
「……何だ」
「遺体を見た。目立った外傷はない」
アルドの眉が寄る。
「何?」
「服も大きく乱れていない。骨を折られた様子もない。少なくとも、殴り続けられて殺されたようには見えない」
レイスはもう一度、二人の顔へ目を向けた。
「毒殺が怪しい」
「毒……」
セレスも穴の前へしゃがむ。
「じゃあ、あの顔は」
「苦しんだんだろう」
レイスの声は低かった。
「何を使われたかまでは分からない。飲まされたのか、自分で飲んだのかも断定できない。ただ、今見える範囲では毒を疑う」
アルドは黙った。蒼炎が小さく揺れ、やがて指先から消えていく。エディンがそこでようやく襟首から手を離した。
アルドは土に伏せたまま泣いている男を見る。
「……知ってるやつはいるか」
誰も答えない。
「答えろ」
声にはまだ怒りが残っていた。
「あの二人は苦しんで死んだ。痛めつけられたんじゃないとしても、あんな顔で死んだんだ。そんなことを一般人にやるやつを、お前らは知らないのか」
赤鎖の男たちは互いの顔すら見なかった。
「赤鎖以外に、誰がいる」
沈黙が続く。アルドの拳が握られた。
「知ってるやつはいないのか!」
「ま、待ってくれ!」
一人の若い男が声を上げた。拘束されたまま身体を縮め、地面へ額がつきそうなほど頭を下げている。
「知ってる……少しだけ、知ってる!」
アルドがその男の前まで歩いた。男の肩が跳ねる。アルドはしゃがんだ。
「教えてくれ」
掴まない。炎も出さない。ただ、その言葉だけを待った。
「お、俺が……頼まれたんだ」
「何を」
「あの二人の、処理を」
セレスの顔が強張り、ノルの目が細くなる。レイスは留帳を開いた。
「詳しく話せ」
「二日前だ。夜だった。酒を飲んで、一人で道を歩いてたら、男に声をかけられた」
「どんな男だ」
「外套を着てた。顔も隠してた。暗かったし、よく見えなかった。本当だ!」
「声は」
「低かった。若いのか年寄りなのかも分からねぇ。変な話し方でもなかった。普通の男だった」
「場所は」
「コンデンス村から少し離れた道だ。森へ入ったところで、荷車を渡された」
「荷車?」
「ああ。そこに……あの二人が乗ってた」
アルドの目が穴へ動く。
「その時には?」
「死んでた。もう死んでたんだ。俺は殺してない。本当に殺してない!」
「金は受け取ったのか」
「ああ……二万セリオ。死体を処理したらくれるって。先に渡された」
男は顔を伏せた。
「小遣い稼ぎのつもりだった。今回が初めてだ。死体なんて森に埋めればいいと思った。赤鎖なら、そういうのもあるだろって……」
「埋めなかったのは?」
「できなかった」
声が震える。
「仲間の目があった。急に死体なんて運んでたら怪しまれる。夜に一人で埋めようと思ったけど、怖くなった。だから、とりあえず隠した。岩で塞いで……後で埋めるつもりだった」
アルドの顔が僅かに歪んだ。
「その男は赤鎖か」
「分からねぇ! 少なくとも短鎖は見てない。外套で隠れてた。赤鎖の連中みたいな感じでもなかった。でも、俺たちに声をかけてきたんだから、こっちを知ってたんだと思う」
「他に何か言っていたか」
「何も。ただ処理しろ、見つかるなって。それだけだ」
「荷車は」
「壊して捨てた。車輪は燃やした。板なら奥に少し残ってるかもしれない」
レイスの筆が動く。
「二人の荷物は?」
「なかった。男の靴が片方脱げかけてたくらいで、荷袋も何もなかった」
「受け取った二万は?」
「まだ使ってない。俺の袋にある。荷箱の下だ」
ノルがすぐに立ち、荷箱の下を探る。やがて小さな袋を見つけ、レイスへ渡した。
「これと拠点内の金を合わせて七万セリオだ」
アルドは袋を一度見た。
「没収だ」
「積荷も全部回収する。武器と毒も置いていかない」
赤鎖の一人が恐る恐る顔を上げる。
「……殺さないのか」
「殺さない」
アルドは短く答えた。
「本体に伝えろ。陽剣旅団が話したがってる。返事がないなら拠点を潰す。それは変わらない」
一度、穴へ目を向ける。
「それと、この二人を殺したやつを知っているなら次に会った時に話せ。知らないなら探せ。赤鎖の拠点に死体があった以上、お前らにも関係がある」
返事はなかった。セレスは拘束が時間で崩れるよう調整し、レイスとノルが荷をまとめ始める。アルドはもう一度、穴の前へ戻った。
苦しみの残る二人の顔を見れば、胸の奥へまた熱が戻ってくる。今度は右手を握っただけだった。
「コンデンス村に戻る」
レイスが頷く。
「身元を確認しよう」
「ああ」
アルドは二人へ顔を向けた。
「帰りましょう……」
◇
コンデンス村へ戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。陽剣旅団が村へ入ると、道を行く者たちの足が止まった。朝に出ていった五人が戻ってきた。
荷を積んだ岩儡と、赤鎖から回収した物資。そして、布で覆われた二つの身体を連れて。村長はすぐに姿を見せた。
二つの身体へ目を止めると、何も聞かず村の奥にある空き家へ案内した。戸を閉め、人目を避けてから布を外す。村長の顔が変わった。
「……この方は」
「分かりますか」
レイスが聞く。村長は女の前へ膝をついた。
「はい。村の者です。昨日お話しした行方不明者の一人です」
アルドの息が止まる。
「誰だ」
「村の者の、妻です」
村長は次に男を見る。
「こちらの方は村の者ではありません。ただ……泊まっていた旅人の男性に、聞いていた特徴が近い」
レイスが留帳を開く。
「三日前に宿を出たまま戻っていない旅人だ。年齢、服装、髪色も一致する」
「じゃあ……」
「おそらく、二人とも行方不明者だ」
村長は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
「……そうですか」
「赤鎖の拠点にあった」
アルドが言う。村長が顔を上げる。
「ただ、赤鎖が殺したかはまだ分からない」
アルドは、分かったことだけを順に話した。何者かが二人の遺体を荷車で運び、赤鎖の末端へ処理を頼んだこと。報酬は二万セリオ。
末端の男は埋めることができず、岩で塞いだ穴へ隠していたこと。外套の男の顔も名前も分からないこと。
「二人とも大きな外傷はない。毒殺の可能性が高い」
レイスが補足する。
「ただし、俺たちだけでは断定できません」
村長はしばらく二人を見つめた。やがて立ち上がる。
「……夫を呼びます」
◇
呼ばれた男は、空き家へ入ってからもしばらく状況を理解できずにいた。陽剣旅団。村長。
床に横たえられ、布を掛けられた身体。その前まで来ても、足は止まったままだった。村長が布へ手を伸ばす。
女の顔が見えた。
「……ハリィ」
声はほとんど息だった。男の膝が床へ落ちる。
「ハリィ……」
這うように近づき、妻の頬へ手を触れた。冷たさを確かめた指が止まる。
「う、あ……」
喉が鳴った。男は妻の身体を抱き寄せる。
「ハリィ……ハリィ……」
何度呼んでも返事はなかった。
「どこに、いたんだよ……」
妻の頭を胸へ抱える。
「探したんだぞ……ずっと、探したんだぞ……」
アルドは何も言えなかった。レイスも留帳を開かない。
ノルは俯き、セレスは握った拳を解けずにいた。エディンもただ目を伏せている。
「なんで、こんな……」
男は叫ばなかった。妻を抱く腕に、ただ力が入っていく。どれほど経ったのか分からない頃、男がようやく顔を上げた。
目は赤く、頬には涙が残っている。
それでも陽剣旅団へ頭を下げた。
「……妻を、見つけてくれて、ありがとう」
アルドの喉が詰まった。もっと早く。そんな言葉が浮かぶ。
だが、それを口にしても目の前の男には何も返らない。
「……すまない」
男は首を横に振った。
「あなたたちのせいじゃない」
震えた声で、もう一度妻を抱き直す。
「分かってる。分かってるんだ。でも……」
言葉が止まった。
「誰を憎めばいいのか、分からない」
誰も答えられなかった。
男は妻を抱き上げ、そのまま空き家を出た。外では村人たちが待っていた。
誰も近づかない。
妻を抱いた男が家へ帰っていく背中を、皆が黙って見送った。アルドも、その背中が見えなくなるまで動かなかった。
◇
旅人の男の遺体は、コンデンス村で預かってもらうことになった。身元も身寄りも分からない。村長は共同墓地へ仮に埋葬し、後から身元が判明した時のために記録を残すと約束した。
レイスも留帳へ男の特徴、発見場所、所持品がなかったこと、遺体の状態を書き残す。
「旅人の方も、こちらで丁重に弔います」
「頼む」
アルドは七万セリオの入った袋を取り出し、村長へ差し出した。
「これは……」
「赤鎖の拠点から没収した金だ」
村長の手が止まる。
「この中には、あの女性が持ってた金もあるかもしれない。旅人の金や、他の被害者から奪った金が混じってるかもしれない」
「ですが、これを私が……」
「全部、村で預かってくれ」
アルドは袋を差し出したまま続けた。
「旅人の埋葬や記録、知らせを出すのに必要なら使ってくれ。残った分は、落ち着いたらあの人に渡してほしい」
村長は両手で袋を受け取った。
「……よろしいのですか」
「ああ。この金は、あの二人のために使ってくれ」
「必ず。必要な分だけ使い、残りはご遺族へお渡しします」
「頼む」
アルドは今度は回収してきた物資へ顔を向けた。
「積荷も置いていく」
「え?」
「食料、布、薬、包帯、工具。村で使えるなら使ってくれ」
村長は慌てた。
「では、代金を――」
「いらない」
アルドは即答した。
「ですが」
「……いらないんだ」
「あの二人が見つかった以上、金を取る気にはなれない」
ノルが小さく頷き、セレスも何も言わなかった。村長は深く頭を下げる。
「ありがとうございます」
アルドは少し困ったように視線を外した。
「俺たちは次に行く」
「もう行かれるのですか」
「ああ。カッカ村へ行く。途中の赤鎖の拠点も調べる」
村の外へ続く道を見る。
「この件は、まだ終わってない」
「どうか、お気をつけて」
「ああ」
アルドは歩き出した。レイスとノルもその後へ続く。セレスとエディンだけが、少しその場に残った。
◇
「村長さん」
まだ頭を下げていた村長へ、セレスが声を掛けた。村長が顔を上げる。
「そんなに頭を下げなくて大丈夫です。アルド、ああいうの苦手だから」
「そう、なのですか」
「はい」
エディンがゆるく笑う。
「礼を言われるより、さっさと次へ行く方が楽な子なのよぉ」
セレスも小さく頷いた。
「さっき遺体を見つけた時、アルド、怖いくらい怒ってたんです」
「アルドさんが……」
「はい。正直、あのままだったらやりすぎてたと思います」
セレスは一度、村の外へ続く道を見た。
「でも、エディンが襟首を掴んだら止まった。レイスが遺体を調べ始めたら、ちゃんと話を聞いた」
「あらぁ。セレスちゃん、厳しいのか褒めてるのか分からないわねぇ」
「両方です」
「ふふ。そうねぇ」
村長は、妻を抱いて帰った男の家がある方へ目を向けた。
「私は……村長です。この村の者を守る立場にあります。けれど何が起きているのかも分からず、国軍にも頼り、商会にも頼り、それでも何もできなかった」
「何もしてないわけじゃないです」
セレスはすぐに返した。
「情報を集めて、私たちに隠さず話してくれた。それで一歩進みました」
「ですが、彼女は……戻ってきたのに、生きてはいなかった」
セレスは何も言わず、村長が顔を上げるまで待った。
「それでも、見つかったことには意味があります」
ようやく言う。
「家に帰れた。弔える。それに、事故じゃないことも分かった。誰かが殺して、隠そうとしてる」
村長の目に涙が滲む。
「……はい」
セレスは村長をまっすぐ見た。
「だから、お願いしていいと思います」
一度息を吸う。
「この行方不明事件を、陽剣旅団に任せてください」
村長の顔が歪んだ。やがて、深く頭を下げる。
「お願いします」
声は震えていた。
「この村で何が起きているのか。誰が、何のために人を奪っているのか。どうか、突き止めてください」
「はい。必ず」
「おねぇさんたちに任せておきなさいな」
村長はもう一度、深く頭を下げた。
◇
村の外では、アルドたちが待っていた。レイスは地図を広げ、ノルは翠穿を肩へ掛けたまま村の方を見ている。セレスとエディンが戻ると、アルドが顔を上げた。
「遅かったな」
「村長さんと話してた」
「何を」
「内緒」
アルドは頭を掻いたが、それ以上は聞かなかった。レイスが地図を指す。
「次はカッカ村だ。ただ、赤鎖から聞いた拠点のうち、カッカ村の北と古い炭焼き場が近い」
「先に拠点か?」
「村へ入る前に潰すか、村で情報を集めてから潰すかだ」
アルドは少し考えた。
「先に村で話を聞こう。また何かあるなら、潰す前に拾っておきたい」
「妥当だな」
レイスが地図を畳む。
「外套の男」
ノルが言った。
「ああ」
アルドの表情から笑みが消える。
「そいつが鍵だ」
アルドは一度だけコンデンス村を振り返った。
「行くぞ」
前を向く。
「カッカ村だ」
陽剣旅団は歩き出した。
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