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鉄環護衛団

 夜が落ちた森の中で、古い石造りの小屋だけが息を潜めていた。中には血と汗、焦げた木片の臭いがこもっている。半ば壊れた扉の前には荷箱や板が積み上げられ、歪んだ蝶番ごと押し破られないよう、何人もの男たちが身体を預けていた。


 石壁の外を、硬い爪が擦る。ぎり、ぎり、と耳障りな音が続くたび、壁際に座る青髪の女の指が荷布へ食い込んだ。ミュレナ。


 東方面の商いに詳しく、オルセア商会から捜索を依頼された商人だった。


「ガルディンさん……」


 入口に立つ男は振り返らなかった。


「大丈夫です。まだ持ちます」


 鉄環護衛団の団長、ガルディン。


 片手剣と大盾を構えた身体には、もう無傷の場所を探す方が難しい。額の古傷を横切るように新しい血が流れ、盾を支える腕も震えている。左脚を庇いながら立っているにもかかわらず、ミュレナとの間だけは決して空けなかった。


「ヴァルドス、右だ」


「分かってる」


 副団長のヴァルドスが欠けた槍を構え直す。後ろではエルディオが壊れかけた盾を押さえ、ダルノは重い剣を握っていた。


 フェルクは壁際で片膝をつき、矢筒へ指を入れる。ティナラは短槍を構え、リセアは残った投げナイフを確かめている。そのさらに奥では、ネリカが倒れた仲間の傷口へ布を押し当てていた。


 八人全員が生きている。だが、まともに戦える者はほとんど残っていなかった。どん、と扉が鳴った。


 積み上げた荷箱が揺れる。続けて二度、三度。人間が叩いている音ではない。


「昨日は……一体でも朝まで持たせるのがやっとだったのに……」


 ネリカの声が震えた。


 誰も何も言わなかった。


 昨日の夜、鉄環護衛団は一体の夜骸を相手に、扉を押さえ、隙間から槍を突き、火で遠ざけ、盾で受けながら朝まで耐えた。そして今日の昼には、盗賊団が戻ってきた。


 荷を奪うためか、生き残った者まで片づけるためか。理由など確かめる余裕はなく、鉄環護衛団は傷を抱えたままミュレナの前へ立ち、どうにか相手を退かせた。その日の夜に、今度は二体。


 ガルディンは盾を握り直した。


「フェルク。矢は」


「三本」


「リセア」


「ナイフは二本。近づかれたら投げる意味は薄いと思う」


「ティナラ」


「槍は折れてない。私もまだ立てる」


「分かった」


 それだけ確認すると、ガルディンは奥へ声を飛ばした。


「ミュレナさん。壁際から動かないでください」


「でも、皆さんが……」


「依頼人を守るのが俺たちの仕事です」


 静かな声だった。ミュレナは荷布を握ったまま唇を噛んだ。彼らはずっとそうだった。


 取引が予定より延びた時も、帰路の街道が土砂で塞がれていた時も、古い迂回路へ入るしかなくなった時も。そこが盗賊団の縄張りだと気づき、荷馬車を壊され、この小屋へ逃げ込んでからも、八人は一度もミュレナを置いていかなかった。だから分かる。


 もう次は持たない。


 扉が大きく軋み、荷箱が一つ崩れた。


「押さえろ!」


 ガルディンとエルディオが同時に身体を入れる。開いた隙間から白く濁った腕が滑り込み、異様に長い指が床板を掻いた。黒い爪が目の前まで伸びたところへ、ティナラの短槍が突き刺さる。


 腕を貫いても止まらない。


「下がって!」


 リセアのナイフが突き立ち、動きが僅かに鈍った。そこへダルノが重い剣を叩きつけると、骨の砕ける音とともに腕が扉の外へ引っ込んだ。


 誰も息をつく暇はなかった。


 今度は側面の石壁が鳴った。


「もう一体、横に回ってる!」


 フェルクの声と同時に石壁が外から押され、小さな欠片が床へ転がった。一度。二度。


 古い石組みが耐えるたび、継ぎ目から砂が落ちる。三度目で大きく罅が走った。ネリカが負傷者の前へ身体を入れる。


 ガルディンの視線が入口と壁を往復した。どちらかへ人を回せば、もう片方が薄くなる。


「団長!」


 ヴァルドスが叫んだ。入口の荷箱が崩れた。板の向こうから濁った目が覗き、裂けた口が押し広げられる。


 ミュレナの呼吸が止まった。入ってくる。そう思った瞬間、小屋の外を蒼炎が走った。


 暗かった森が一瞬だけ蒼く染まり、入口へ頭を突っ込もうとしていた夜骸が横から弾き飛ばされる。


 誰も動けなかった。


「多分、間に合ったな」


 壊れた荷箱の向こうから男の声がした。赤黒い髪の男が蒼炎を纏った手を下ろす。その横を藤色の髪が抜けた。


 エディンの大剣が、壁を破ろうとしていたもう一体へ横薙ぎに走る。振り向く間すら与えず胴を斜めに裂き、その巨体を石壁から引き剥がした。


 重い身体が地面へ崩れる。入口を破ろうとしていた方も、蒼炎に吹き飛ばされた先で倒れたまま起き上がらない。鉄環護衛団が昨夜一晩かけても討てなかった夜骸だった。


 今夜二体に増えた時、誰もが終わりを覚悟した。その二体が、もう小屋へ迫ってこない。


「ノル、他は?」


 アルドが聞いた。小屋の外にいたノルが森へ意識を向ける。


「近くに人はいない。夜骸も他にはいない」


「分かった」


 アルドは壊れた入口から中を覗いた。


「すまない。ミュレナって商人は中にいるか?」


 ガルディンは盾を構えたまま固まっていた。ヴァルドスも槍を下ろせない。しばらく誰も声を出せず、やがて壁際から震える声が返った。


「……私が、ミュレナです」


「俺たちは陽剣旅団。オルセア商会から依頼を受けた。助けに来た」


 ミュレナの膝から力が抜けた。


「た、助かった……」


 その場へ座り込み、荷布を握っていた手がようやく開く。セレスとレイスがすぐに小屋へ入った。


 レイスは入口の破損、床の血痕、立っている者と倒れている者を順に確認する。セレスは迷わず重傷者の方へ向かった。


「動ける人は、重傷者を奥へ寝かせて。出血が多い人から見るわ」


「ネリカ、手伝え」


「はい!」


 ガルディンに呼ばれたネリカがすぐにセレスの横へ入る。治療を担当していただけあって、手元は止まらない。布と水を揃え、傷の深い者から順に身体を横たえていった。


 エディンも大剣を収め、治療道具を持って加わった。傷口を一つ確認すると、ネリカへ視線を向ける。


「よくここまで持たせたわねぇ」


「……守らないと、いけなかったので」


「そう」


 エディンはそれ以上何も言わず、次の傷へ手を移した。アルドは入口の近くから鉄環護衛団を見ていた。


 全員が傷だらけだ。それでもミュレナの前にはガルディンが立ち、ヴァルドスたちもまだ護衛の位置を崩していない。


「いい護衛団だな」


 ガルディンが戸惑ったように顔を向ける。


「俺たちは……依頼人を危険に晒しました」


「それでも生かしてる」


 アルドはそれだけ返した。ガルディンの口が閉じた。外を確認していたレイスが戻ってくる。


「夜骸は小屋から離した。火は使えるか?」


「少しなら」


 ティナラが答えた。


「なら明かりを確保しよう。今夜はここを動かない方がいい」


「戻らないんですか?」


 ミュレナが顔を上げる。


「ああ。怪我人が多すぎる」


 レイスは奥で治療を受ける者へ目を向けた。


「この状態で夜道を歩かせる方が危険だ」


「でも……また夜骸が来たら……」


 ミュレナの指がまた荷布を掴んだ。昨日も来た。今日も来た。


 外が静かになったからといって、次が来ないとは思えない。


「ノル」


「うん」


 アルドに呼ばれたノルが入口へ立ち、森へ感知を広げる。


 空気中の魔力が通らない輪郭を拾っていく。木々、岩、崩れた荷馬車、小動物。人の形も、近くに夜骸らしい輪郭もない。


「大丈夫。近くには何もいない」


「なら今は安全だ」


 アルドが言った。ガルディンの盾が、そこで初めて床へ下りた。ヴァルドスも槍の石突きをつき、壁へ背を預ける。


「……助かったのか」


 誰へ向けたわけでもない声が落ちた。


         ◇


 治療が一段落する頃には、小屋の中へ小さな火が灯っていた。入口は荷箱と布で塞ぎ直され、重傷者は奥へ寝かされている。壁際では鉄環護衛団の面々が治療を受けた傷を庇いながら座り、エディンとネリカが横になった者たちの様子を見ていた。


 ミュレナは両手で杯を包んでいた。中身は薄い湯だったが、一口飲むたびに握っていた指の力が少しずつ抜けていく。


「改めて、ありがとうございます。私はミュレナです」


 ミュレナが頭を下げる。


「改めて、陽剣旅団のアルドだ」


「レイスだ」


「ノル」


「セレスよ」


「エディンよぉ」


 五人が名乗ると、ガルディンも姿勢を正した。


「鉄環護衛団、団長のガルディンです。こちらは副団長のヴァルドス。それからエルディオ、ダルノ、フェルク、ティナラ、リセア、ネリカです」


 名前を呼ばれた者たちがそれぞれ頭を下げる。


「全員、あなた方に命を救われました。本当にありがとうございます」


 ガルディンが深く頭を下げると、団員たちも続いた。アルドは少し困った顔をした。


「頭下げるのは後でいい。それより、何があったか教えてくれ」


 レイスも留帳を開く。


「オラリクさんへの報告が必要になる。順番に確認したい」


「はい」


 ミュレナは杯を膝へ置いた。


「東方面での取引が、予定より長引きました。相手方の荷の確認に時間がかかって、出発が遅れたんです」


「どのくらい?」


「三日ほどです」


「その時点で帰りも遅れていたわけか」


「はい。ただ、道中で少し急げば大きな問題にはならないと思っていました」


 ミュレナはそこで杯から手を離した。


「でも、帰りの街道が土砂崩れで塞がれていました」


「俺たちも見た」


 アルドが言う。


「あれじゃ荷馬車は通れないな」


「はい。それで、古い迂回路を使いました。昔は商人も使っていた道だと聞いていたので」


 ガルディンが引き継ぐ。


「俺たちも道を確認しました。危険はあるが、荷馬車なら通れる。そう判断しました」


「そこが盗賊団の縄張りだった」


 レイスが言うと、ミュレナの視線が僅かに動いた。


「……はい」


 レイスは何も補足せず、留帳へ書き込む。


「最初の襲撃で荷馬車を壊されました。車輪をやられて、荷を積んだまま動かせなくなって……護衛の方も一人大怪我をしました」


 奥で眠る仲間へ、エルディオが目を向けた。ネリカが続ける。


「出血がひどくて、すぐに移動できる状態ではありませんでした」


「それで、この小屋へ逃げ込んだのか」


「はい」


 ガルディンが頷く。


「古い道沿いの休憩所です。石造りなら立てこもれると判断しました」


「良い判断だ」


 レイスの筆先が動く。


「木造だったら、昨夜まで持たなかっただろうな」


「ですが、その日の夜に夜骸が来ました」


 ミュレナの声が少しだけ低くなった。


「一体?」


 セレスが聞く。


「はい」


 ガルディンが答えた。


「俺たちでは倒せませんでした。扉を押さえて、火で近づけず、槍で突き返して……朝まで耐えるのが精一杯でした」


「討祓はできなかったのね」


「できませんでした」


 ガルディンの手が膝の上で握られる。


「それでも一晩、全員を生かしたんでしょ」


 セレスが言った。ガルディンが顔を上げる。


「普通の護衛団が夜骸を相手に、依頼人と重傷者を抱えたまま朝まで耐えるなんて簡単じゃないわ」


「ああ。十分すげぇよ」


 アルドも頷いた。ガルディンは何も返さなかった。握っていた拳だけが少し緩む。


「翌日、また盗賊団が来ました」


 今度はヴァルドスが口を開いた。


「向こうも、俺たちが弱ってると分かってた。荷も人もまとめて奪うつもりだったんだと思う」


「数は?」


「二十以上。森に隠れてた奴もいたから、正確には分からない」


「それを退かせたのか」


「撃退なんて綺麗なもんじゃない」


 ヴァルドスは短く息を吐いた。


「何人か倒して、こっちもさらに怪我人を出した。向こうが一度引いただけだ」


「それでも引かせた」


 アルドが言う。ヴァルドスは一度だけアルドを見て、それ以上は否定しなかった。


「それで今夜、二体の夜骸が来たんですね」


 レイスの確認に、ミュレナが頷いた。


「はい」


 杯の縁に置かれた指が止まる。


「もう、終わりだと思いました」


 小屋の中で誰も言葉を挟まなかった。アルドは天井を見上げ、息を吐いた。


「ふぅ……間に合ってよかった」


 ミュレナが俯いた。


「本当に……ありがとうございます」


 ガルディンも再び頭を下げようとする。


「この礼は、必ず」


「気にするな」


 アルドが止めた。


「まず生きて帰るぞ」


「……はい」


 ガルディンが頷いた。


         ◇


 夜はさらに深くなった。石壁の隙間から冷たい風が入り、小さな火を揺らしている。それでも入口の前で武器を握り続ける者は、もういなかった。


 レイスは留帳を閉じた。


「戻るのは朝だな」


「そうねぇ。今動かすには怪我人が多すぎるわぁ」


 エディンの横でネリカも頷く。


「夜道を移動させたら、傷が開く人がいます」


「なら、ここで一泊だ」


 アルドが決めた。ガルディンが顔を上げる。


「しかし、盗賊団がまた来るかもしれません」


「夜に?」


「可能性は低いですが、ないとは言えません」


 言いながら、ガルディンの手はもう盾へ伸びかけていた。アルドはノルを見る。


「周りに人は?」


 ノルが感知を広げ、少しして首を横に振る。


「いない」


「夜骸は?」


「近くにはいない」


「なら今日は休める」


 ガルディンの視線がノルへ向いた。


「周囲の状態が分かるんですか?」


「うん。近くなら、人とか木とか建物とか、形が分かる。夜骸も分かるよ」


 フェルクが思わず身を乗り出した。


「そんな広く……?」


「そこそこ」


 ノルはすぐ隣のアルドを指した。


「距離なら、こっちの方がもっと広い」


「団長に向かってこっちとか言うな」


 セレスの口元が少し緩んだ。


「ノルは精度が高いのよ」


 リセアが小さく呟く。


「護衛団に一人いたら、道中の危険がまるで変わると思う」


「ああ」


 レイスが頷いた。


「感知役がいる部隊は、それだけで取れる選択肢が増える」


 ノルは少しだけ胸を張った。アルドは入口近くへ腰を下ろす。


「見張りは俺たちで回す。あんたたちは寝ろ」


「しかし――」


「明日歩いてもらわなきゃ困るんだ。休める時に休んでくれ」


 ガルディンはしばらくアルドを見た。やがて、盾から手を離す。


「……分かりました」


「それでいい」


 レイスが言う。


「ここまで耐えたんだ。次は無事に帰ることを優先しろ」


 鉄環護衛団の者たちは、ようやく身体を休め始めた。武器を手元へ置いたまま壁へ背を預ける者もいれば、横になった仲間の近くへ座る者もいる。すぐには眠れなくても、少なくとも扉を睨み続ける必要はなくなった。


 ミュレナも壁際で毛布を掛けられた。セレスがその横へ腰を下ろす。


「眠れそう?」


「分かりません」


 ミュレナは小さく息を吐いた。


「でも……目は閉じられそうです」


「それで十分よ」


 少し離れた入口では、アルドが外を見ていた。夜の森は静かだった。


「何か考えてるのぉ?」


 隣へ来たエディンが聞く。


「明日、また盗賊が来たら面倒だなって」


「あらぁ」


 エディンは外へ目を向けた。


「それは明日考えましょ。今夜は、この子たちを朝まで休ませるのが先よぉ」


「ああ」


 アルドも壁へ背を預けた。小さな火が石壁を照らしている。ガルディンは横になった仲間の方を一度確かめてから目を閉じ、ミュレナも毛布を握ったまま動かなくなった。


 外で枝が風に擦れた。


 誰も武器を取らなかった。


 今夜初めて、小屋の中で人が眠り始めた。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新です。

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