オルセア町
翌日の昼過ぎ。陽剣旅団は、オルセア町に到着した。遠くからでも、その町の大きさは分かった。平原の先に広がる外壁。行き交う荷馬車。門へ続く道には、人と荷が列を作っている。木箱を積んだ馬車、布で覆われた荷車、香辛料らしき匂いを漂わせる小さな商隊。干物の匂いもあれば、革の匂いもある。人の声、馬の嘶き、車輪の軋む音が、近づくほど大きくなっていった。
「でかいな」
アルドが言った。隣で、ハインが頷く。
「南の交易地点ですからね。王都からは遠いですが、海の荷と内陸の荷が交わる場所です」
「キレイナより大きい?」
セレスが聞く。
「倍はあると思います」
「町っていうより、都市だね」
「実際、都市と言っても過言ではありません。王都からこれだけ離れた土地で、ここまで発展している町は珍しいです」
ハインの声には、商人らしい感心が混じっていた。だが、珍しいものは町の大きさだけではなかった。門を抜け、入場の手続きを終えて町の中へ入ると、アルドたちは自然と足を止めた。町の中央に、巨大な石造りの塔が立っていた。堅牢な石を積み上げたような塔。空へ向かって伸びるその姿は、派手ではない。だが、遠くから見ても分かるほどの荘厳な存在感があった。周囲の建物よりはるかに高く、町のどこにいても目に入るだろう。
アルドは、その塔を見上げた。
「……天祈塔か」
レイスが横から言う。
「知っているのか」
「資料で読んだことがある」
アルドは塔から目を離さない。
「王都にある白祈塔の小さい版みたいなものだ。といっても、あれの三分の一くらいはありそうだな」
「三分の一でこれ?」
セレスが目を丸くする。
「白祈塔がでかすぎるんだよ」
ノルは塔を見上げたまま、短く言った。
「ちょっと白い」
「灰色よりだな」
「高い」
「見れば分かる」
エディンがくすりと笑う。
「ノルちゃん、珍しく感想が多いわねぇ」
「大きいから」
「分かりやすい理由ねぇ」
ハインが静かに説明する。
「天祈塔は、大きく発展し、王国の流通や発展に大きく寄与している町にのみ建立されます。天祈像と同じく、夜骸を遠ざける効果があるとされています」
「町全体を守るための塔か」
レイスが言う。
「はい。ですから、こうした町では毎日の祈りを欠かしません。今日も守ってくださったことに感謝し、明日も守ってくださるように祈るのです」
塔の周囲には、人が集まっていた。商人。荷運び。子供を連れた女。旅人らしき男。それぞれが塔の前で足を止め、静かに手を合わせている。長い祈りではない。だが、誰もが当たり前のように祈っていた。アルドたちも、自然と足を向けた。天祈塔の前で、立ち止まる。アルドは目を閉じた。祈る相手の顔など、見えない。それでも、祈ることには慣れていた。夜を祓う者として。夜に奪われた者として。今もなお、夜の先にいる仲間を取り戻そうとしている者として。
祈らずにはいられなかった。ルシアンが生きているように。ルカとゴードが、どこかで安らかであるように。そして、自分たちがまだ進めるように。祈りを終えると、セレスが小さく息を吐いた。
「……大きい町だね」
「ああ」
「少し、安心する」
「そうだな」
アルドはもう一度塔を見上げた。安全な町。夜骸を遠ざける塔。人が祈り、商人が行き交い、荷が集まる場所。ここまで来た。そう思った。
◇
その日は、宿を取ることになった。部屋は二つ。アルド、レイス、ハイン。エディン、ノル、セレス。荷は宿の裏手に預け、岩丸はセレスの魔力を解いて土へ戻した。長く働いた土の身体は、崩れる時だけ少し寂しそうに見えた。
「岩丸、お疲れさま」
セレスが小さく言う。宿の部屋は、思ったより清潔だった。町が大きいだけあって、旅人の扱いにも慣れているのだろう。床は磨かれ、寝台には乾いた布がかけられている。窓の外には、まだ人の行き交う通りが見えた。その夜、一行は簡単な食事を取り、同じ部屋に集まっていた。干し肉ではない肉。薄い豆の汁ではない温かいスープ。少し硬いが、焼きたてのパン。それだけで、セレスはしばらく無言だった。
「セレス、食べながら固まるな」
アルドが言う。
「温かい」
「昨日も温かいものは食べただろ」
「これは宿の味」
「違いがあるのか」
「ある」
ノルがパンを割りながら言う。
「セレス、食べ物には細かい」
「食べ物だけじゃないよ」
「岩丸にも細かい」
「そう」
ハインはそのやり取りを見て、少しだけ笑った。
「ここまで来られて、本当に良かったです」
その一言で、部屋の空気が少し変わった。誰もすぐには返さなかった。ここまで。その言葉には、重さがあった。森を抜けた。灰冠に追われた。赤鎖に襲われた。討祓軍に追われた。ルシアンを連れ去られた。他にも、数えきれないほどの出来事があった。命が繋がっていること自体が、不思議なくらいだった。アルドはパンを手にしたまま、少しだけ視線を落とした。
「ハインが俺たちを見つけなかったら、カリオス村で終わってたかもしれないな」
ハインは驚いたように顔を上げた。
「私が、ですか」
「ああ」
「私は、皆さんに護衛をお願いしただけです」
「それがなかったら、俺たちはまだ逃げるだけだった」
アルドは言った。
「どこへ行くかも決められず、誰を頼るかも分からず、たぶんどこかで詰んでた」
レイスが静かに続ける。
「陽剣旅団という看板もなかった」
「はい」
ノルが短く言う。
「名前、大事」
セレスはスープの器を両手で包んでいた。
「ハインさんがくれたんだよね。新しい生き方」
ハインは困ったように眉を下げた。
「そこまで大げさなことをしたつもりはありません」
「大げさじゃない」
セレスは首を横に振る。
「黒豹じゃなくなって、何者でもなくなりそうだった。でも、陽剣旅団って名乗れるようになった」
エディンが窓の外を見た。
「ただの逃亡じゃない、って思えるものねぇ」
「そうだな」
アルドは頷く。逃げている。それは事実だった。王国から。討祓軍から。灰冠から。それでも、ただ逃げているだけではない。荷を守った。人を助けた。赤鎖を追っている。ルシアンを取り戻す道を探している。夜を祓い、国を変えるための道を歩いている。その道が正しいのかは分からない。けれど、意味はある。意味があると思えることが、今は何よりも大きかった。
「陽剣旅団か」
アルドは呟いた。
「まだ慣れねぇな」
「でも、少し似合ってきた」
セレスが言う。
「少しかよ」
「最初よりは」
「最初どれだけ似合ってなかったんだ」
「すごく」
「そこまで言うか」
空気が少し緩んだ。ハインは、その中で静かに頭を下げた。
「私こそ、皆さんに救われています。あの荷をここまで運べたことも、私一人では絶対にできませんでした」
「明日、売るんだろ」
アルドが聞く。
「はい。西の山脈地帯で手に入れた工芸品を、オルセア商会へ持ち込みます」
「オルセア商会?」
ノルが首を傾げる。
「この町の商流を管理している商会です。町長が代表を務めています」
「町長が商会の代表なの?」
セレスが聞く。
「はい。オルセア町では、町に集まる品はまずオルセア商会が買い上げます。その後、一般の商会がそこから買い付け、市場や各地へ流す仕組みです」
レイスが腕を組む。
「町そのものが大きな荷受け場ということか」
「その認識で間違いありません」
「なら、ハインがここを目指した理由も分かる」
「ここなら、量があっても、値が張っても、品さえ良ければ確実に買い手がつきます」
ハインは少しだけ笑った。
「もっとも、買い叩かれなければ、ですが」
「商人っぽい顔になった」
ノルが言う。
「商人ですので」
その夜、一行は長く話し込まなかった。身体が、休息を求めていた。ここまで来た。けれど、まだ終わりではない。明日からまた、動かなければならない。それでも、その夜だけは、寝台の上で眠れた。森でもなく、荷車のそばでもなく、追手の気配に耳を尖らせるだけの夜でもなく。オルセア町の宿で。天祈塔に守られた町の中で。陽剣旅団は、短い休息を得た。
◇
翌朝、ハインの動きは早かった。荷の確認を終えると、すぐに出発の支度を始める。
「私はオルセア商会へ行きます。皆さんはご自由に過ごしてください。ここなら赤鎖も灰冠も来ませんし、万が一来てたとしても戦闘にはならないかと」
アルドは町を眺めながら答える。
「そうだな、久々の休息と行こうか」
「その商談、俺もついて行っていいか?」
「私も興味ある」
レイスとセレスが手を挙げる。
「ええ、構いませんよ。ついでにオルセア商会に陽剣旅団を売り込みましょう」
「そうだな」
アルドは眠そうに寝台に身を投げる。
「俺は眠気が覚めたら町をぶらつく」
「私も」
「じゃあおねぇさんも」
「分かりました」
ハイン、レイス、セレスはボロボロの荷車を押し、オルセア商会へ向かった。オルセア商会の建物は、町の中央通りに面していた。天祈塔から少し離れた場所。大きな石造りの建物で、表にはいくつもの荷受け口が並んでいる。商人らしき人々が帳簿を持って行き交い、荷運びたちが木箱を積み上げている。看板には、はっきりと刻まれていた。オルセア商会。ハインはその看板を見上げ、静かに息を吐いた。
「ここまで来ましたね」
「緊張してる?」
セレスが聞く。
「しています」
ハインは素直に答えた。
「ここでの取引が成功すれば、今回の行商は大きな成果になります」
「失敗すると?」
「おかげさまで、織物を売れた時点で既に成功はしています」
ハインは少しだけ笑う。
「ですが、できれば正当な価値で売りたいですね」
レイスは建物の出入りを見ていた。
「警備は多いな」
「金と荷が集まる場所ですから」
「中に入れば、余計な騒ぎは起こせないか」
「それは私たちも同じです」
「分かっている」
三人は受付へ向かった。受付の女が、丁寧に頭を下げる。
「本日はどのようなお取引でしょうか」
ハインが一歩前に出た。
「西の山脈地帯で仕入れた工芸品の買取をお願いしたく参りました。量がありますので、可能であれば鑑定をお願いしたい」
受付の女は慣れた手つきで帳簿を開いた。
「商会名をお願いいたします」
「ハイン商会です」
「ハイン商会様ですね。品の産地は」
「西の山脈地帯、フィランツ村です」
その名を聞いた瞬間、受付の女の筆が止まった。
「フィランツ村、ですか」
「はい」
受付の女は、少しだけ表情を改めた。
「確認の者を呼びます。少々お待ちください」
ハインは頷く。
「お願いいたします」
受付の女が奥へ消えると、セレスが小声で聞いた。
「フィランツ村産って、そんなに珍しいの?」
「すごく珍しいです」
ハインは低い声で答える。
「工芸品の質は高いのですが、あの渓谷を通ることになるので、ほとんど品が動いていないはずです」
「だから驚いた」
「はい」
レイスが言う。
「なら、買い叩かれる危険は少ないか」
「需要が高ければ、高く売れます。ただし、相手が価値を正しく認めれば、です」
「商人は大変だな」
「ええ」
ハインは微笑んだ。
「だから面白いのです」
しばらくして、若い男が現れた。茶色の髪を短く整えた、まだ二十代前半ほどの男だった。手には小さな鑑定用の道具箱を持っている。
「お待たせしました。オルセア商会鑑定係のラクトと申します」
「ハイン商会のハインです」
「フィランツ村の工芸品と伺いましたが」
「こちらです」
ハインが布を外す。木箱の中から、丁寧に包まれた工芸品が現れた。石と金属を組み合わせた小さな細工物。山脈地帯特有の鉱石を磨いた装飾品。古い模様を彫り込んだ器。ラクトの目が、明らかに変わった。彼は手袋をはめ、一つをそっと取り上げる。光にかざし、角度を変え、裏面の刻印を見る。
「……これは」
次の品を見る。さらに次。ラクトの表情から、若さが消えていく。職人の品を見る鑑定係の目になっていた。
「間違いありません。フィランツ村の品です。それも、かなり質がいい」
ハインは静かに頷く。
「ありがとうございます」
「少々、お待ちください」
ラクトは品を慎重に戻すと、道具箱を抱えたまま勢いよく奥へ走った。セレスが瞬く。
「走った」
「走ったな」
レイスが言う。
「大丈夫なの?」
ハインは少しだけ苦笑した。
「悪い反応ではないと思います」
ほどなくして、今度は年配の男がラクトを伴って現れた。丸い眼鏡をかけ、落ち着いた身なりをした男だった。だが、その足取りはやや早い。
「失礼いたします。鑑定主任のモローです」
「ハイン商会のハインです」
「品を拝見しても?」
「もちろんです」
モローは一礼し、木箱の前へ膝をついた。ラクトとは違い、焦ってはいない。だが、一つ目の品を手に取った時点で、目が細くなった。二つ目。三つ目。箱の奥まで確認していく。やがて、モローは静かに息を吐いた。
「ラクト」
「はい」
「応接室を用意してもらいなさい。代表に報告を」
「はい!」
ラクトは再び走った。セレスがまた瞬く。
「また走った」
「若いな」
レイスが言う。
「そこ?」
モローはハインへ向き直った。
「失礼いたしました。こちらの品は、通常の受付で扱うには少々大きい取引になります。応接室へご案内いたします」
「ありがとうございます」
「品はこちらで責任を持って鑑定を続けます。ラクトと私が確認いたしますので、ご安心ください」
「お願いいたします」
三人は受付の女に案内され、奥の応接室へ通された。応接室は広く、落ち着いた部屋だった。壁にはオルセア町周辺の地図が掛けられている。海沿いの集荷場から町へ伸びる道。そこから北と西へ分かれる交易路。いくつもの小さな村や休憩地点の印。レイスは地図を見ていた。
「海沿いではないんだな」
「はい」
ハインが答える。
「オルセア町は、海から少し内陸に入った場所にあります。直接海に面した港町ではありません。その分、内陸へ荷を流しやすい」
「だから交易地点か」
「ええ」
セレスは椅子に座り、少し落ち着かない様子で部屋を見回していた。
「こういう部屋、慣れない」
「私も最初はそうでした」
「ハインさんは慣れてるように見える」
「慣れているように見せるのも、商人の仕事です」
「大変」
「ええ。ですが、楽しいですよ」
しばらくして、扉が叩かれた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、少し長い白髪を後ろで束ねた男だった。年は六十に近いだろうか。だが、背筋は伸び、仕立てのよい服を隙なく着こなしている。顔立ちは柔らかい。だが、目には商人特有の鋭さがあった。丁寧な老紳士。そんな印象の男だった。男は静かに頭を下げる。
「オルセア商会代表、オラリクと申します」
ハインも立ち上がり、頭を下げた。
「ハイン商会のハインです。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
「こちらこそ」
オラリクは穏やかに微笑む。
「西の山脈地帯から、よくぞあれほどの品をここまで運んでくださいました。まずは、そのことに感謝を」
「恐れ入ります」
「質も量も、想像以上でした。フィランツ村の工芸品は、この町でも長く不足しています。職人の腕は確かですが、道が厳しい」
オラリクの目が、少しだけ細くなる。
「正直に申し上げて、驚いております。どうやって、あれだけの品をここまで?」
ハインは、待っていたように頷いた。
「私一人の力ではありません」
そして、レイスとセレスを見る。
「こちらの陽剣旅団の力があってこそです」
オラリクの視線が、レイスとセレスへ移る。
「陽剣旅団」
「はい。私が現在、護衛を依頼している旅の護衛団です」
ハインの声は落ち着いていた。
「彼らがいなければ、私は確実にこの町へ辿り着けませんでした。道中、赤鎖を始めとする盗賊団と何度も遭遇しています。盗賊も、中級以上の夜骸も出ました。それでも荷を失わずにここまで来られたのは、陽剣旅団が守ってくれたからです」
セレスは少しだけ目を伏せた。褒められるのに慣れていない顔だった。レイスは黙って会釈をする。オラリクは、静かに息を吐いた。
「赤鎖を相手に、荷を守り切ったと」
「はい」
「夜骸も」
「はい。何度も討祓しています」
オラリクは、今度ははっきりと驚いた顔をした。
「それは……護衛団と呼ぶには、随分と頼もしい」
「私もそう思います」
ハインは微笑んだ。
「ですので、もし今後オルセア商会で護衛が必要な際は、陽剣旅団への依頼もご検討ください」
「依頼は可能なのですか?」
オラリクがすぐに聞いた。ハインは頷く。
「窓口は私が務めます。依頼内容、期間、荷の量、危険地域、報酬。必要な情報を私へお送りいただければ、陽剣旅団へ取り次ぎます」
レイスがそこで口を開いた。
「一つ補足します」
「どうぞ」
オラリクが視線を向ける。
「俺たちは一つの町や商会に常駐する護衛団ではありません。国中を回ることになります。依頼を出されても、すぐに動けるとは限らない」
「なるほど」
「だから、必要なら早めに出して頂きたいのです。出発地、目的地、危険の種類、荷の内容。分かる範囲で先に欲しい」
ハインが少しだけ嬉しそうにレイスを見た。
「その通りです。特に危険情報は重要です。夜骸か、盗賊か、赤鎖か。それによって準備が変わります」
オラリクは頷いた。
「分かりました。依頼の際は、まずハイン商会へ。そこから陽剣旅団へ取り次いでいただく。早めに、詳しく」
「はい」
ハインはレイスを見る。
「こんな感じでよろしいでしょうか」
レイスは短く頷いた。
「ああ。問題ない」
「ありがとうございます」
セレスが小声で言う。
「ハインさん、売り込み上手いね」
「商人ですから」
「レイスも、ちゃんと護衛団っぽかった」
「ちゃんと、とはなんだ」
「ちゃんと」
「説明になっていない」
オラリクがそのやり取りを見て、静かに笑った。
「良い関係のようですな」
「はい」
ハインは迷わず答えた。
「私の大切な取引相手であり、命の恩人です」
そこで、扉が叩かれた。入ってきたのはモローだった。両手で、大きな布袋を抱えている。袋は重そうだった。机の上に置かれると、鈍い音がした。セレスがびくりと肩を揺らす。モローはハインへ向き直る。
「鑑定が終わりました。こちらが買取額です。改めてご確認ください」
「ありがとうございます」
ハインは布袋の口を解いた。中を確認する。その表情は、大きく変わらなかった。だが、セレスとレイスは違った。二人は、横からそっと中を覗いた。そこには、一万セリオ金貨がぎっしりと詰まっていた。数え切れないほどの金貨。袋の奥まで、金色が詰まっている。セレスの顔から、すっと血の気が引いた。
「……え」
次の瞬間、椅子の上で身体が傾いた。
「セレス」
レイスが反射的に支える。セレスは目を開けたまま、固まっていた。
「多すぎる……」
「大丈夫か」
「お金……お金が……たくさん……」
レイスは袋の中をもう一度見た。そして、珍しく顔をしかめた。
「これは、引くな」
「レイスさんまで」
ハインが苦笑する。オラリクとモローは、楽しそうに笑っていた。
「正当な額で買取らせて頂きます」
モローが続ける。
「むしろ、こちらとしてはありがたい取引です。この量と質のフィランツ村の品がまとまって入ることは、滅多にありません」
オラリクも頷く。
「市場に出せば、すぐに買い手がつくでしょう。王都方面へ流してもよい。南の商会も欲しがるはずです」
レイスはしばらく布袋を見ていた。そして、低く言う。
「ハイン」
「はい」
「俺たちに対する報酬は正当な額だと言っていたな」
「言いました」
「今、やっと納得がいった」
ハインは少し困ったように笑った。
「だから申し上げたでしょう」
「本当に哀れみや慈悲ではなかったんだな、商人の金銭感覚は分からない」
ハインは少し笑いながら答える。
「最初から違うと言ってるじゃないですか、皆さんの働きはそれだけの価値があります」
セレスはまだ袋を見ないようにしていた。
「私、しばらく金貨見たくない」
「珍しい反応だな」
レイスが言う。
「多すぎるお金は怖い」
「分からなくもない」
「レイスも?」
「管理を考えると頭が痛い」
「そっちなんだ」
ハインは金額を確認し、袋の口を丁寧に縛った。
「問題ありません。確かに受け取りました」
「ありがとうございます」
オラリクが頭を下げる。
「今後とも、良い取引を」
「こちらこそ」
取引は、それからもしばらく続いた。品の内訳。今後フィランツ村の工芸品が入る可能性。西の山脈地帯の道の状態。赤鎖の動き。ハインは、話せる範囲で答えた。今は情報を売り、信頼を買っているらしい。しかし、陽剣旅団については、必要以上には語らない。だが、頼れる護衛団であることは、十分に伝えた。やがて、話が一段落した時。ハインは姿勢を正した。
「オラリクさん」
「はい」
「一つ、ご相談があります」
オラリクの表情が、わずかに改まった。
「伺いましょう」
「今日は取引の件で長くお時間をいただきました。もしよろしければ、明日、改めて伺ってもよろしいでしょうか」
オラリクは少しだけ考えた。そして、穏やかに頷く。
「もちろんです。ハイン商会と陽剣旅団には、こちらも興味があります。明日、時間を空けましょう」
「ありがとうございます」
ハインは深く頭を下げた。レイスは、その横顔を見ていた。何を相談するつもりなのか。まだ分からない。だが、ハインの目は商人の目だった。そして同時に、まだ勝負が終わっていないことを表情が語っていた。
◇
オルセア商会を出る頃には、昼を過ぎていた。町の通りには、朝よりも人が増えている。荷馬車の列、商人の呼び声、遠くに見える天祈塔。セレスはしばらく無言だった。レイスが言う。
「まだ金貨のことを考えているのか」
「考えないようにしてる」
「なら考えているな」
「言わないで」
ハインが布袋を抱え直す。
「宿に戻ったら、きちんと分けて保管します。全部を持ち歩くつもりはありません」
「持ち歩かないでください」
セレスが即答した。
「絶対に狙われる」
「ええ。私もそう思います」
レイスが周囲を見る。
「オルセア商会から出た直後だ。尾行がないかは見る」
「大丈夫だとは思いますが、お願いします」
セレスも表情を戻し、周囲を確認する。人が多い。荷も多い。紛れるには良い町だ。
「ハインさん」
セレスが言う。
「明日の相談って、何?」
ハインは少しだけ笑った。
「今夜、皆さんにもお話しします」
「今じゃなくて?」
「今話すと、通りの真ん中で立ち止まることになります」
「そんな話?」
「ええ」
レイスが短く言う。
「なら宿で聞く」
「はい」
三人は宿へ向かって歩き出した。オルセア町の通りは賑やかだった。ハインは布袋を抱え、行き交う商人たちの間をまっすぐ宿へ向かった。
お読みいただきありがとうございます。
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