王家の影
森の中を、荷車が進んでいた。背後には、眠った灰冠八人と、気絶した赤鎖の幹部ケリーを残している。あのまま長く留まるわけにはいかなかった。灰冠が目を覚ます前に、赤鎖が戻る前に、できるだけ距離を取る必要がある。蒼炎の檻はもう消えていた。森には、また夜の気配が戻り始めている。空は少しずつ暗くなっていた。岩丸が荷車を引く音だけが、しばらく続く。誰もすぐには話さなかった。アルドは歩きながら、何度かセレスの方を見た。
セレスは荷車の横を歩いている。表情は戻っているように見えるが、どこかまだ空気が尖っていた。無理もない。あれは、きつい。アルドは息を吸った。
「セレス」
「何?」
セレスが振り返る。アルドは少しだけ言葉に詰まった。
「その……さっきはありがとう。助かった」
セレスは目を瞬かせた。
「いいの」
そして、笑った。さっきまでの冷たい笑顔ではない。いつもの、少しだけ照れたような笑みだった。
「みんなの役に立てたのなら、それでいい」
アルドは、胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
「いや、本当に助かった。お前が聞き出してくれなかったら、あいつ、たぶん朝まで断り続けてたぞ」
「朝まで……」
セレスの顔が一瞬で嫌そうになる。
「やめて。思い出したくない」
「悪い」
レイスが隣から言う。
「事実として助かった。こちらの尋問では情報が取れなかった。お前が出たからあっさり過ぎるほど話が動いた」
「うん」
セレスは少しだけ胸を張る。
「でも、二度とやりたくない」
「それは全員同じだ」
ノルが淡々と言った。
「ケリー、怖い」
「ノルが怖いって言うの珍しいな」
「あれは違う怖さ」
「分かる」
エディンがふうと息を吐く。
「セレスちゃん、本当によく我慢したわぁ。おねぇさんなら途中で首ごと持っていってたかもしれないものぉ」
「それは駄目」
「だから我慢したセレスちゃんは偉いのよぉ」
セレスの頬が、少しだけ緩んだ。ハインも荷車の反対側から頭を下げる。
「セレスさん、ありがとうございました。あの場で話を進められたのは、間違いなくセレスさんのおかげです」
「ハインさんまで」
「本心です。ですが……」
ハインは少しだけ言葉を探した。
「次に似たようなことがあれば、できれば私が先に倒れておきたいです」
「ハインさん?」
「怖かったので」
真面目な顔で言われて、セレスは思わず笑った。それを見て、アルドたちの空気も少し緩む。ノルが小さく頷く。
「機嫌、戻った」
「ノル」
「戻ってよかった」
「……うん」
セレスは小さく息を吐いた。そして、荷車を引く岩丸の背を軽く叩く。
「行こう。早く離れた方がいい」
「ああ」
陽剣旅団は、森の奥へ進んだ。足取りは重くない。傷はある。疲労もある。だが、進める。灰冠から得た情報は少なかった。赤鎖から得た情報も、不安定だった。それでも、ルシアンが生きていることは分かった。赤鎖の団長が陽剣旅団を殺す気でいることも分かった。そして、細すぎるとはいえ、団長へ伝言を送る道も作った。十分とは言えない。だが、何もないよりはいい。
やがて、夜が落ちた。森の影が濃くなり、枝葉の隙間から細い月明かりが差し込む。先頭を歩いていたノルが、足を止めた。
「来る」
レイスが剣を抜く。
「数は」
「三」
アルドが緋喰刃へ手をかける。
「低級か」
「低級」
ノルが短く答える。森の奥から、湿った音が近づいてきた。枝が折れる。土を引きずる。獣とも人ともつかない低い呻き声。低級夜骸が三体、木々の間から現れた。大きさは人より少し大きい程度。泥と骨と黒い肉が雑に混ざったような姿で、目らしい穴から薄い光が漏れている。アルドが一歩出ようとした。だが、レイスが手で制した。
「俺がやる」
「一人でか」
「低級三体だ」
「今はお前が動く必要はない」
「分かった」
アルドは素直に下がった。レイスは前へ出る。夜骸三体が同時に動いた。遅い。だが、夜の森では十分に危険だった。レイスの魔力が地面へ流れる。
「雷流弐式 絡縛」
細い雷が夜露を拾い、湿った土を走った。白い筋が三方へ分かれる。夜骸たちの足元に絡みつき、泥のような脚を一瞬だけ縛った。低級夜骸が呻く。
「雷流参式 雷鎖」
雷が鎖のように伸びた。一体目の首を巻き取り、地面へ引き倒す。二体目の腕に絡み、動きを止める。三体目が横から飛びかかろうとした瞬間、レイスは半歩だけ下がり、雷鎖を引いた。三体の夜骸が、互いにぶつかった。骨が砕ける音。黒い肉が潰れる音。レイスは表情を変えない。雷鎖が強く光る。夜骸の核へ、雷がまっすぐ走った。一体。二体。三体。低級夜骸は、ほとんど同時に崩れた。森に、静けさが戻る。ノルが翠穿を下ろした。
「早い」
「低級だ」
レイスは短く返す。エディンが笑う。
「レイスちゃん、こういう時は頼もしいわねぇ」
「こういう時以外も頼もしいつもりだ」
「そうねぇ」
アルドは夜骸の残骸を見た。
「助かった。今は余計な戦闘したくなかった」
「同感だ」
レイスは剣を収める。
「進むぞ。森を抜ける」
一行は再び歩き始めた。そこからしばらく進むと、木々の密度が薄くなった。月明かりが広がる。枝葉の影が途切れ、湿った土の匂いが少しずつ薄れていく。そして、森を抜けた。目の前には平原が広がっていた。草が風に揺れている。遠くには低い丘があり、その向こうは暗く沈んでいる。見通しはいい。隠れる場所は少ないが、夜骸や人の接近には気づきやすい。
「ここで野営だな」
アルドが言う。ハインは周囲を見回して頷いた。
「荷車も置きやすいです。見張りを立てれば、森の中よりは安全でしょう」
「岩丸も休ませる」
セレスが言った。ノルが岩丸を見る。
「土だよ」
「土でも休ませるの」
「出た」
セレスは岩丸の頭らしき部分を軽く叩いた。
「今日の岩丸は頑張った」
セレスは少しだけ笑った。ようやく、いつもの声だった。平原の端に荷車を寄せ、簡単な野営の準備をする。焚き火は小さく。見張りは交代。灰冠と赤鎖を残した森から、できるだけ離れた。それでも、油断はできない。夜は長い。だが、少なくとも今は、進めていた。
◇
王都討祓軍本部。総隊長室。部屋の中で、ローグレスは机の前に立っていた。机の上には報告書が積まれている。王都周辺の夜骸発生記録。各部隊の配置。赤鎖関連の治安報告。第五部隊から上がってくる月酔い患者の引き渡し記録。そのすべてが、今は遠く感じられた。部屋には、四人がいた。ローグレス。ジーク。第二部隊隊長ヴァルム。そして、第二部隊副隊長エルヴィナ。エルヴィナは背筋を伸ばし、報告を終えたところだった。
「以上が、パタス村での低級夜骸討祓任務、および現地で確認した件の報告です」
ローグレスは目を閉じる。しばらくして、ゆっくり開いた。
「つまり、アルドたちに会ったんだな」
「はい」
エルヴィナの声は揺れなかった。
「宿の二階で、直接会話をしました」
「なぜ捕縛しなかった」
ヴァルムが問う。声は硬い。責めているというより、職責として確認している声だった。エルヴィナはすぐに答える。
「現地にいた第二部隊員の戦力では、捕縛は不可能と判断しました。強行すれば村に被害が出ます。また、アルド隊長たちは村を巻き込む意思を見せませんでした。私は低級夜骸討祓と村の保護を優先し、接触時の情報収集に切り替えました」
ヴァルムは目を細めた。少しの沈黙。その後、頷いた。
「最善だ」
エルヴィナの目がわずかに揺れた。
「ありがとうございます」
ローグレスも言った。
「私も同じ判断をした。いや、その場で即座にそう判断できたなら、見事だ」
「い、いえ」
エルヴィナの表情が、ほんの少しだけ崩れた。頬に薄く赤みが差す。背筋は伸びたままだが、目元だけが少し嬉しそうだった。
「私は、副隊長として当然の判断をしただけです」
「当然を正しく選ぶのは難しい」
ローグレスは静かに言った。
「よくやった、エルヴィナ」
「……はい」
エルヴィナは深く頭を下げた。真面目なままだった。けれど、その声には隠しきれない嬉しさが少し混じっていた。ヴァルムはそれを見て、ほんのわずかに表情を緩める。
「浮かれるな。報告は続いているぞ」
「はい、隊長」
エルヴィナはすぐに顔を上げた。その切り替えは早かった。
「現在の彼らは、黒豹ではなく、陽剣旅団と名乗っているようです」
ジークの手元の筆が、静かに動く。ローグレスは眉を動かした。
「陽剣旅団」
「はい。ハインという商人の護衛という形で行動していました。荷の運搬も伴っており、表向きは旅の護衛団として振る舞っています」
「ハイン……」
ローグレスは名前を反芻する。以前の報告書にあった商人。黒豹に巻き込まれたとされていた男。
「巻き込まれている様子だったか」
「最初はそうだったのかもしれません。ですが、少なくとも私が見た限り、現在は自分の意思で同行しているように見えました」
「そうか」
「また、彼らは赤鎖を追っていると話していました」
ヴァルムが反応する。
「赤鎖を?」
「はい。正式名称は赤鎖の獅子団だそうです。彼らは、ただの盗賊団ではない可能性が高いと」
「黒豹が赤鎖を追う理由は」
「完全には話しませんでした。ただ、荷と情報、そして王国への敵意に関わるものだと推測します」
ジークの筆が、わずかに止まった。だが、すぐにまた動き出す。ローグレスはエルヴィナを見た。
「他には」
エルヴィナは一瞬だけ言葉を止めた。それから、静かに続ける。
「その場にいたのは、アルド隊長、レイス副隊長、ノルさん、セレスさん、エディンさん、そしてハインさんです」
ローグレスの顔から、ゆっくりと血の気が引いた。
「ルシアンは」
「いませんでした」
「ルカは」
「いません」
「ゴードは」
「……いませんでした」
室内が沈黙した。ローグレスは机に手を置いた。指先に力が入る。
「そうか」
声は低かった。
「いなかったか」
エルヴィナは目を伏せる。
「アルド隊長は、ルカさんとゴードさんは任務で亡くなったと話しました」
ローグレスは目を閉じた。ルカ。ゴード。二人の顔が浮かぶ。よく笑う少年。寡黙に前へ立つ男。どちらも、黒豹だった。どちらも、自分の部下だった。
「ルシアンについては」
エルヴィナは続ける。
「逃走中にはぐれた、と」
ローグレスは目を開けた。
「はぐれた?」
「はい」
「アルドが、そう言ったのか」
「はい」
ローグレスは黙った。部屋の空気が、重くなる。エルヴィナは少しだけ視線を動かした。ジーク。ヴァルム。そして、ローグレス。彼女は一歩前へ出る。
「総隊長」
「なんだ」
「ここから先は、私個人の推測になります。公式報告ではありません」
ローグレスが目を細めた。
「構わない。話せ」
「恐れ入りますが」
エルヴィナは姿勢を正した。
「ジークさんと、ヴァルム隊長には、一度席を外していただけませんでしょうか」
ヴァルムが眉を動かす。
「私もか」
「はい、隊長」
「理由は」
「今は申し上げられません」
ヴァルムはしばらくエルヴィナを見た。エルヴィナは目を逸らさない。やがて、ヴァルムは小さく息を吐いた。
「分かった」
ジークは筆を置く。
「では、私は外で控えております」
ローグレスは二人を見た。
「すまない。少し外してくれ」
「承知しました」
ジークが頭を下げる。ヴァルムも短く礼をして、扉へ向かった。二人が部屋を出る。扉が閉まった。総隊長室に、ローグレスとエルヴィナだけが残る。ローグレスは机から手を離した。
「何を言うつもりだ」
エルヴィナは、まっすぐローグレスを見た。
「彼らは嘘をついていました」
「嘘」
「任務に失敗した、と言っていました。ですが、私は彼らがキレイナにいたことを知っています」
ローグレスの目が鋭くなる。
「続けろ」
「おそらく、部外者に言うための嘘を、咄嗟に関係者の私にも使ってしまったのだと思います。つまり、彼らは私にも真相を言えなかった」
「……」
「キレイナで何かが起きた。そこで、彼らは王国の秘密と呼ぶものを知ってしまった。そこでルカさんとゴードさんを失った。そして、逃げた」
ローグレスは黙って聞いている。エルヴィナの声は、落ち着いていた。だが、その奥には現場を見た者の確信があった。
「ルシアンさんについて、彼らは逸れたと言っていました」
「ああ」
「ですが、もし単純に逸れただけなら、彼らなら死に物狂いで探し回っているはずです。アルド隊長も、レイス副隊長も、ノルさんも、セレスさんも、エディンさんも。誰か一人が逸れたまま、あの落ち着き方はしません」
「そうだな」
ローグレスは低く答えた。
「そして彼らは、討祓軍ではない何者かに追われています」
エルヴィナは一度だけ息を吸った。
「そこから導き出される推測としては、その何者かに、ルシアンさんは連れ去られた」
ローグレスの指が、机の縁を叩いた。一度だけ。
「第三部隊ではありません」
エルヴィナは続ける。
「国軍でもない。少なくとも、私が知る討祓軍内の他の部隊でもありません」
「私でも知らない人間」
ローグレスが呟いた。
「いや、組織か」
「総隊長でも知らない。そして、あの黒豹からルシアンさんを奪える実力を持つ組織」
エルヴィナは問いかける。
「心当たりはありますか」
ローグレスは答えなかった。思考が沈む。黒豹を追う影。王国の秘密。知った者を消す力。自分でも、国軍でも、討祓軍でもない経路からもたらされる情報。第三部隊へ下りた暗殺任務。それは、時にローグレス自身の判断を飛び越えて届く。どこから来た。誰が持ってきた。誰が、王家の意向としてそれを通した。いつも、自分のそばにいた男。冷静に資料を揃え、報告を運び、必要な情報を差し出す男。ローグレスは、ゆっくり顔を上げた。
「ジークか……」
エルヴィナの目がわずかに揺れる。
「ジークさん?」
「ジークはよく私を補佐してくれている」
ローグレスの声は低い。
「だが、厳密には私の部下ではない」
「どういうことですか」
「陛下から派遣された男だ」
エルヴィナは息を呑んだ。
「では、その組織というのは、ジークさんが所属している、王家直下の組織ということですか?」
「分からない」
ローグレスはすぐに否定した。断定してはいけない。まだ何も掴んでいない。だが、否定もできない。
「王国の秘密を守る。そして、秘密を知った者を捕らえる王家の組織か」
声が重くなる。
「いや、捕らえるだけではないな」
ローグレスは目を伏せた。
「処理か……?」
沈黙が広がった。エルヴィナは何も言わない。ローグレスも、しばらく動かなかった。部屋の外には、ジークがいるかもしれない。ヴァルムも待っている。この部屋の中で交わした言葉が、どこまで安全なのかも分からない。
「エルヴィナ」
「はっ」
エルヴィナは背筋を伸ばした。ローグレスは総隊長の顔に戻った。
「これ以上、この件に関わるな」
エルヴィナの目が動く。
「総隊長」
「命令だ」
声は静かだった。だが、拒否を許さない重さがあった。
「ヴァルムにも伝えるな」
「ですが、隊長は聞いてくると思います」
「私から口止めされていると言え。ヴァルムなら、それで引き下がるはずだ」
エルヴィナは唇を結んだ。本当は、何か言いたいのだろう。それでも、命令を受け止めた。
「……はっ」
「ご苦労だった」
「失礼いたします」
エルヴィナは深く礼をした。そして、扉へ向かう。扉が開き、閉まる。総隊長室に、ローグレスだけが残った。ローグレスはしばらく動かなかった。机の上には、報告書がある。黒豹不在。キレイナ町。ルカ。ゴード。ルシアン。陽剣旅団。赤鎖。そして、王国の秘密。知ったら追われる。ならば、それはただの不祥事ではない。誰か一人の罪でもない。国そのものを揺らす何かだ。ローグレスは、静かに目を閉じた。
「お前たちは、何を知ったんだ」
声は、誰にも届かない。
「アルド……」
部屋に、沈黙だけが残った。
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