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女心

 赤鎖の男は、幸せそうな顔で気絶していた。顔面を蹴られた直後とは思えないほど、口元が緩んでいる。セレスは、その顔を見ないようにして木陰へ離れていた。ハインがその隣に立ち、何かあればすぐ間に入れるようにしている。灰冠八人は眠らせた。赤鎖の男も、今は気を失っている。蒼炎の檻はまだ消していない。外へ逃がすわけにはいかない。灰冠も、赤鎖も、苦労して掴んだ相手だ。アルドは傷口を押さえながら、深く息を吐いた。


「もう一回起こすぞ」


「大丈夫なの?」


 セレスが遠くから聞いた。


「近づかなくていい」


「近づかない」


 即答だった。ノルが水袋を持ち上げる。


「かける?」


「頼む」


 ノルは頷き、赤鎖の男の顔へ水をぶっかけた。


「うぅはっ!」


 男は勢いよく顔を上げた。濡れた髪が額に貼りつき、泥と水が顎から落ちる。それでも、最初に出た言葉は変わらなかった。


「セレスは?」


 アルドは額に手を当てた。


「お前の顔を見たくないから離れたよ」


 男の表情が、はっきり固まった。


「なんだと!?」


「残念だったな」


 アルドが言う。男はしばらく黙った。目を伏せる。そして、何かに気づいたように小さく頷いた。


「……そうか」


「そうだ」


「やっぱり、恥ずかしいんだな」


 アルドの動きが止まった。


「……は?」


「いや、それもそうだ。少し考えれば分かることだった」


 男は真剣だった。ふざけている様子はない。むしろ、深く反省しているような顔をしていた。


「お前……何言ってるんだ……」


「こんな大勢の前で求婚したら、そりゃあ、はいとは言えない」


 沈黙が落ちた。レイスが留帳《とどめちょう》を閉じた。ノルは水袋を持ったまま固まっている。エディンは目元を指で押さえた。ハインは遠くで、セレスの方をそっと見た。セレスは木陰で両手を握りしめている。男は静かに息を吐いた。


「女心ってやつだ……俺はまだまだだ」


 アルドは少しだけ空を見た。蒼炎の檻越しに、枝葉が揺れている。こんな時でなければ、誰かが笑っていたかもしれない。だが、誰も笑えなかった。怖かった。思い込みが、あまりにも真っ直ぐすぎた。


「そうだな」


 アルドは、なんとか声を出した。


「だから、セレスが喜ぶことをしないか?」


 男の目が、ぱっと明るくなった。


「喜ぶこと?」


「ああ」


 アルドは男の前にしゃがむ。


「なんでお前が俺たちを襲ったのか、教えてくれ」


「断る」


 即答だった。


「何故」


「今吐いても、セレスに俺が伝えたことにならない。俺が直接セレスに教える」


 アルドは頭を抱えた。


「俺からちゃんと伝えるから」


「断る」


「伝えるって言ってるだろ」


「駄目だ。愛は人づてにするものじゃない」


「愛じゃねぇよ!情報だよ!」


 アルドの声が森に響いた。男は真っ直ぐアルドを見た。


「セレスに関わることだ。俺が直接話す」


「お前が話すと話が進まねぇんだよ」


「俺は真剣だ」


「こっちが真剣なんだよ!」


 アルドの右手に蒼炎が灯った。セレスが遠くでぴくりと動く。レイスが止めようと一歩出かけたが、止まった。アルドは男の首を軽く掴み蒼炎を押し付ける。


「あづづづづっ!」


「教えろ!」


 男の顔が歪んだ。だが、目は折れない。


「断る!」


「死ぬまで続くぞ!」


「本望だ!」


 アルドは手を離した。男が荒く息を吐く。アルドは両手で頭を掻いた。


「なんなんだこいつは!」


「愛だ」


「うるせぇ!」


 次の瞬間、エディンの足が男の顔面に入った。


「がっ」


 男の頭が横へ跳ねる。エディンは大剣を担いだまま、にっこり笑った。


「話しなさい」


「断る!」


「いい根性ねぇ」


「セレスへの愛に比べれば、この程度の痛みは痛みじゃない」


「その愛、本人が嫌がってるのよぉ」


「今はまだ伝わっていないだけだ」


 エディンの笑顔が固まった。アルドが再び男の首を掴む。蒼炎の火力が少し上がった。


「答えろ!」


「ぎゃああああっ!」


 男が叫ぶ。叫びながら、それでも目は妙に澄んでいる。


「断る!」


「言え!」


「断る!」


 エディンがもう一度蹴る。


「話しなさい!」


「断る!」


 アルドが蒼炎を押し付ける。


「言え!」


「断る!」


 エディンが蹴る。アルドが締める。男が叫ぶ。断る。また蹴る。また締める。また断る。レイスは額を押さえた。


「こいつ、本当に話さないぞ……」


 ノルがぽつりと言う。


「すごい根性」


「褒めるな」


「褒めるしかない」


 エディンは肩で息をしていた。


「なんなの、この子……こんな意思固い子、久々よぉ……」


 アルドも息が上がっている。戦闘後の傷が痛む。それなのに、目の前の男はまだ折れない。


「言え!」


「はぁ……はぁ……断る!」


「ああああ! もうなんなんだこいつ!」


 その時だった。


「もういい」


 セレスの声がした。全員が振り返る。セレスが木陰から歩いてきていた。ハインがその後ろから恐る恐るついてくる。怯えているのは、赤鎖の男にではない。セレスにだった。セレスの顔は、笑っていた。にっこりと。綺麗に。だからこそ、怖かった。


「セレス!」


 男の顔が一瞬で明るくなる。


「やっと会えた!」


 セレスは男の前にしゃがんだ。アルドが止めようとした。だが、セレスは片手でそれを制した。声は優しかった。


「あなたの名前は?」


 男は目を輝かせた。


「俺の名前はケリーだ、セレス」


「そう、よろしくケリー」


 セレスは微笑む。


「ケリーは、赤鎖の幹部なの?」


「そうだよ」


 ケリーは誇らしげに頷いた。


「だから、セレスに不自由な思いはさせない。俺は幹部だ。君を守るだけの力も、居場所も用意できる」


「ありがと」


 セレスのこめかみが、わずかに動いた。アルドはそれを見た。レイスも見た。ノルも見た。エディンも見た。誰も何も言わなかった。


「ケインとは、どっちが強いの?」


「どうだろう」


 ケリーは少しだけ考えた。


「アイツの方が頭はいい。戦場を見る目もセンスもある。でも、身体能力なら俺の方が上だ」


「そうなんだ」


「ああ。だから男として魅力があるのは俺だよ」


 ノルが小さく呟く。


「何の比較?」


 レイスが目だけで黙れと言った。セレスは笑顔を崩さない。


「今回、なんで私たちを襲ったの?」


「団長からの命令だよ」


 ケリーはあっさり答えた。


「陽剣旅団を殺せって」


 空気が少しだけ締まる。ケリーはそれに気づかず、セレスとの会話を楽しむように続けた。


「でもね、セレスのことは妻にするから殺したくないって言ったら、団長は好きにしろって言ってくれたんだ」


 セレスのこめかみが、また動いた。


「そう」


「今度、俺の妻として団長に挨拶する時は、お礼を言った方がいいよ。団長は怖い人だけど、意外と話の分かる人だからさ!」


「……そうなんだね」


 アルドたちは、少し離れた場所で小声になった。


「セレスがそろそろ限界だ」


 アルドが言う。


「あともう少し我慢してくれることを願う」


 レイスが低く返す。


「頑張って」


 ノルが真顔で言う。


「あとちょっとよぉ」


 エディンの声にも余裕がなかった。ハインは両手を胸の前で握っている。


「セレスさんが暴れませんように……」


 セレスは、まだ笑っていた。


「……そうね。ケインが団長さんに会ってもらえるように話を通してくれるはずだったんだけど、それはどうなってるの? ケリー」


 ケリーは不思議そうに瞬いた。


「そうだったのかい?」


「うん」


「ごめんよ。それは知らないな」


 ケリーは申し訳なさそうに眉を下げた。


「俺はただ、団長から殺せと命令を受けただけだし」


「そう」


「さっきの人数を見ただろう? 多分、本気だったと思うよ」


 アルドが腕を組み、空を仰いだ。


「交渉決裂か……」


 レイスが留帳へ短く書き込む。


「少なくとも、ケイン経由の接触は潰されたと見ていい」


「団長が俺たちを殺す方へ切り替えた」


 アルドが言う。


「あるいは、最初からそうだった」


 エディンが続ける。セレスは、まだケリーを見ていた。


「ねぇ、ケリー」


「なんだい? セレス」


「ケリーからも、団長に頼んでくれない?」


 ケリーは首を傾げた。


「何をだい?」


「私たち、団長さんと話したいことがたくさんあるの」


「そうなんだね」


 ケリーは迷わなかった。


「分かった。団長に聞いてみるよ!」


 アルドたちが一斉にケリーを見た。ケリーは、本当に何でもないことのように言った。


「セレスのお願いだからね」


 セレスはにこりと笑った。


「ありがと」


「いいんだよ、セレス」


 ケリーも笑った。幸せそうだった。セレスはゆっくり立ち上がった。そして、ケリーの背後へ回る。ケリーの顔が、ぱっと明るくなる。


「セレス?」


 セレスは後ろから近づいた。その両腕が、ケリーの首へ回される。一瞬、ケリーの表情が夢を見るように緩んだ。


「だめだよセレス……こんなに身体を密着させて……あいつらが見てーー」


 次の瞬間、セレスの腕に力が入った。抱きついたのではない。締めた。全力で。


「るっ」


 ケリーの顔色が変わる。だが、抵抗はできない。両腕は縛られたままだ。アルドは止めようとした。レイスも一歩出かけた。だが、止まった。止められなかった。セレスの目が、本気だった。


「目が覚めたら」


 セレスの声は、優しかった。優しいからこそ、怖かった。


「団長さんのところに帰って、ちゃんと私たちが話したがってるって伝えてね」


「わ……かった……よ……」


「忘れないでね、約束」


「忘れ……ない……セレスとの……約束……だから……」


 ケリーの身体から力が抜けた。頭が落ちる。意識を失った。セレスはゆっくり腕を離した。ケリーは地面に崩れ落ちる。口元は、また幸せそうに笑っていた。アルドはしばらく黙っていた。


「……い、生きてるだろうな」


 レイスが膝をつき、ケリーの首元へ指を当てる。脈を確認する。


「ああ。大丈夫だ。生きてる」


「よかった」


 ハインが小さく呟いた。それがケリーに対してなのか、セレスに対してなのかは分からなかった。セレスは振り返った。笑顔はもう消えていた。目だけが、まだ少し冷たい。


「行こう」


 誰も逆らわなかった。アルドが頷く。


「ああ」


 レイスが留帳を閉じる。


「灰冠はこのまま置いていく。縛りは解かない。だが、死なない程度にはしておく」


「赤鎖は?」


 ノルがケリーを見る。


「こいつは帰す」


 アルドは言った。


「団長への伝言役だ」


 エディンが肩をすくめる。


「ちゃんと伝えてくれるといいわねぇ」


「絶対伝えるよ」


 セレスが淡々と言った。


「私との約束だから」


 誰も否定しなかった。不気味な確信だった。だが、おそらく正しい。ハインが荷車の方へ向かう。


「急ぎましょう。赤鎖も灰冠も、このまま長く放置できる相手ではありません」


「ああ」


 アルドは炎枷牢へ視線を向けた。蒼炎の檻が、少しずつ低くなる。逃げ道を塞いでいた炎の鎖がほどけ、森の空気が戻ってくる。灰冠から得た情報は少なかった。赤鎖から得た情報も、十分とは言えない。だが、分かったことはある。赤鎖の団長は、陽剣旅団を殺す気でいる。ケインの話は、もう当てにならない。それでも、ケリーという奇妙すぎる伝言役を通して、団長へ接触する道が一本だけ残った。頼りない。不安定で、気持ち悪くて、信じたくないほど真っ直ぐな道。


 それでも、道ではあった。セレスは荷車へ向かって歩く。


「早く行こう」


 誰も、彼女の前には出なかった。


「はい」


 アルドが短く答える。レイスも頷く。


「はい」


 ノルも続く。


「はい」


 エディンが小さく笑う。


「はぁい」


 ハインは少し遅れて、深く頭を下げた。


「はい」


 陽剣旅団は、森の奥へ向かって歩き出した。背後には、眠る灰冠たちと、幸せそうに気絶した赤鎖の幹部が残された。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新です。

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