空振り
蒼炎の檻の中に、血の匂いが残っていた。炎枷牢は、まだ森の一角を囲っている。蒼い炎の柱が木々の間に立ち、鎖のように伸びた炎が逃げ道を塞いでいた。その内側に、灰冠が八人。手足を拘束され、動けないまま地面に転がされている。意識がある者もいれば、薄く目を開けているだけの者もいた。全員、黒灰色の外套は裂け、武器は取り上げられている。少し離れたところには、赤鎖の男がいた。
セレスに求婚していた、あの男だ。レイスに襟を掴まれて引きずられたせいで、赤い外套は泥まみれになっている。両腕は後ろで縛られ、曲刀は二本ともノルが遠くへ蹴っていた。男は地面に膝をつかされたまま、それでも視線だけは落としていない。アルドはセレスに傷を押さえられながら、ゆっくり息を吐いた。
「灰冠八人。赤鎖本体の男が一人」
レイスが留帳を開いた。
「どっちから始める?」
「まずは灰冠だ」
アルドは即答した。赤鎖の男が、顔を上げる。
「俺は待っていてもいいよ。セレスと目を合わせられる時間が増えるなら、それも悪くない」
セレスの肩が、分かりやすく跳ねた。ノルが無言で翠穿の銃口を少しだけ男へ向ける。男は嬉しそうに微笑んだ。
「そんな顔をしなくてもいい。俺は君を傷つけたいわけじゃないんだ」
「エディン」
アルドが言った。
「そこのうざいのを眠らせてくれ」
「はぁい」
エディンは大剣を地面に軽く立てかけ、赤鎖の男の前にしゃがんだ。男はエディンを見た。怯えてはいない。むしろ、どこか困ったように笑っている。
「眠らせるのか」
「そうよぉ」
「なら、できれば穏やかな夢にしてほしい。セレスが笑っている夢がいいな」
セレスが一歩後ろへ下がった。
「気持ち悪い」
「そうか。今はまだ怖がっているんだね。無理もない。君はずっと危ない道を歩いてきた」
男の声は穏やかだった。下卑てはいない。ふざけてもいない。本気で、そう思っている声だった。
「でも大丈夫だ。俺は君を守れる。俺のところへ来れば、もう逃げなくていい。傷つかなくていい。誰にも追われずに――」
エディンの笑みが少しだけ薄くなった。
「あなた」
声は甘い。けれど、目は冷たかった。
「悪意がない分、余計に怖いわぁ」
男はきょとんとした。
「愛だよ」
「だからよぉ」
空気中の微細な魔力へ、エディンの魔力が繋がる。男はそれでも、視線をセレスから外そうとしなかった。
「セレス、目が覚めたら、また――」
冷たい圧が、一瞬だけ男へ集中した。男の瞳が揺れる。
「……せ、レス」
それでも口を動かそうとしたが、焦点が外れ、頭ががくりと落ちた。意識を失った。セレスは男からさらに少し離れた。ハインがその隣へ自然に立つ。
「セレスさん、大丈夫ですか」
「大丈夫。あれが寝てるなら」
「では、このまま少し距離を取りましょう」
「うん」
アルドは赤鎖の男から視線を外し、灰冠たちへ向き直った。灰冠は誰も騒がない。仲間が五人死に、八人が捕まっている。それでも、泣き叫びもしなければ、怒鳴りもしない。ただ、黙っている。その沈黙が、余計に気味悪かった。レイスが一人の灰冠の前に立つ。
「さて、代表して答えろ。無駄に全員へ同じ質問をする気はない」
灰冠の男は、地面に座らされたまま顔を上げた。フードは外されている。年は三十前後に見えた。目つきは鋭いが、表情は薄い。痛みを押し殺しているのか、それとも慣れているのかは分からない。
「答える義理があると思うか」
「ある」
アルドが言った。
「お前らは負けた」
「尋問に応じる理由にはならない」
「なら、黙っていればいい」
レイスが留帳を開いたまま続ける。
「答えないなら、こちらで判断する。答えた方がお前たちにとっても悪くない場合がある」
灰冠の男は、レイスを見た。
「脅しか」
「提案だ」
「似たようなものだ」
「そうだな」
レイスは否定しなかった。アルドは一歩前へ出る。傷が痛んだが、顔には出さない。
「ルシアンは無事か」
灰冠の男の目が、わずかに動いた。それだけで、アルドの指に力が入る。
「答えろ」
「無事だ」
短い答えだった。セレスが息を止める。ノルの指が、翠穿の銃身に触れた。アルドはもう一歩近づいた。
「拷問なんて真似はしてないだろうな」
「話はしてもらった」
灰冠の男は淡々と言った。
「だが、手荒い真似はしていない」
アルドの目が細くなる。
「どうやった」
「世の中には、お前が知る由もない魔法がいくつも存在している」
「答えになってねぇな」
「十分な答えだ」
レイスが低く言う。
「記憶や意識に触れる類か」
灰冠の男は答えなかった。その沈黙が、肯定にも否定にも見えた。アルドは歯を噛む。
「今どうしてる」
「地下牢で大人しくしてもらっている」
「様子は」
「そこまでは知らん」
「この後、殺されたりするのか」
灰冠の男は、初めてはっきり首を横に振った。
「それはない」
アルドの目が動く。
「本当だろうな」
「絶対に殺すなと命令がある。病になれば治療も受ける。十分な食事も水も与えられている」
「理由は」
「知らん」
「知らないことばかりだな」
「現場の人間が、すべてを知らされると思うか」
アルドは黙った。知らされるわけがない。分かっていた。それでも、聞かずにはいられなかった。セレスが小さく息を吐く。
「ルシアンは、生きてるんだね」
「少なくとも、今はな」
灰冠の言い方に、ノルの目が冷えた。アルドは片手を上げ、ノルを制した。
「そうか。ならいい」
よくはない。何一つ、よくはない。それでも、ルシアンが生きている。殺されない命令が出ている。その事実だけは、今ここで掴めた。アルドは息を整え、次の問いに移った。
「月酔い患者は、第五部隊に渡ったあとどうなる」
灰冠の男は、少しだけ目を細めた。
「どこまで知っている」
「質問してるのはこっちだ」
「……第五部隊から引き渡された患者は、その後、我々が教会の人間として回収する」
ハインの眉がわずかに動く。
「教会の人間として、ですか」
「そうだ」
「灰冠としてではなく」
「灰冠を名乗るわけがないだろう」
レイスが留帳に文字を書いた。
「回収後は」
「俺たちのような平の隊員ではなく、上に身柄が移される」
「その後はどうなる」
「知らん」
即答だった。アルドは灰冠の男を見据える。
「本当に知らないのか」
「国の秘密に関わることだ。上層部だけで扱っている」
「お前らはどこまで知ってる」
灰冠の男は、わずかに沈黙した。答えるべきか、測っている。だが、やがて口を開いた。
「王国には、表に出れば国を揺るがすほどの大きな秘密がある」
蒼炎の檻が、静かに揺れた。
「だが、それは民の安寧と国家の存続のために必要なことだ。だから、俺たちが守っている」
男の声は、揺れない。
「それだけ分かっていれば十分だ」
アルドは、しばらく黙っていた。レイスも、ノルも、エディンも。誰もすぐには返さなかった。灰冠は、ただの悪ではない。それは、分かっている。国を守っているつもりなのだろう。民を守っているつもりなのだろう。それでも。ルシアンは連れていかれた。ルカは夜骸になった。ゴードは死んだ。その事実は、何も軽くならない。アルドは低く言った。
「そうか」
そして、灰冠の男を見る。
「じゃあ、夜骸が元々人間だったことは知らねぇんだな」
灰冠の男の表情が、初めて崩れた。
「……は?」
その声には、明確な動揺があった。アルドは続ける。
「月酔いが進行すると、夜骸になるんだよ」
「なんだと」
灰冠の男が、身を起こそうとした。拘束が食い込み、動きは止まる。
「そんなはずがない」
「ある」
アルドは遮った。
「少なくとも、俺たちは見た」
灰冠の男は、息を呑んだ。周囲の灰冠たちも、わずかに動いた。痛みを押し殺していた沈黙が、別のものへ変わる。知らなかった。本当に。アルドはそれを見て、嫌な確信を得た。
「どうやら、本当に知らなかったようだな」
灰冠の男は、アルドを見た。その目に、先ほどまでの冷たさはなかった。
「じゃあ、まさか」
声が掠れる。
「キレイナで出現した夜骸は……ルカか?」
セレスが唇を噛んだ。ノルは目を伏せる。エディンの笑みが消えた。アルドは、短く答えた。
「そうだ」
灰冠の男は黙った。アルドは続ける。
「ルカが月酔いだったことを伏せて隠した。死ぬその時まで、平穏に暮らせるように」
言葉にすると、胸の奥が重くなる。だが、止めなかった。
「そしたら、夜骸になった」
灰冠の男は、しばらく何も言わなかった。蒼炎の音だけがする。風がなく、森は静かだった。
「……そうだったのか」
ようやく、灰冠の男が呟いた。
「上は、お前たちがそれを見たと判断した。だから、秘密を守るために処理しようとしたのか」
「そうだ」
「……」
灰冠の男は、視線を落とした。しばらく何も言わない。外套の縁を掴んだ指が一度だけ強く曲がり、すぐに離れた。アルドは深く息を吐いた。
「はぁ……何か得られると思ったら、空振りか」
「完全な空振りではない」
レイスが言った。
「ルシアンの安否は分かった」
セレスが頷く。
「ルシアンが生きてるって分かっただけでも、良かったよ」
「ああ」
アルドは低く返した。
「その通りだ。一先ず安心した」
だが、それだけだった。ルシアンは生きている。だが、どこにいるかは分からない。どうやって話させたかも分からない。月酔い患者がその後どうなるかも分からない。灰冠の上層部が何を知り、何を隠しているのかも分からない。捕まえた。それなのに、核心は遠い。レイスが留帳へ文字を刻む。
「灰冠も赤鎖も、同じか」
「同じ?」
ハインが問う。
「下の者には、核心的な情報を渡さない」
レイスは淡々と言った。
「赤鎖は団長。灰冠は上層部。どちらも末端は動けるだけの情報しか持たされていない」
ノルが小さく頷く。
「便利に使われる」
「そうだ」
レイスは灰冠の男を見る。
「最後に一応聞く。夜骸化条件は分かるか」
灰冠の男は顔を上げた。
「夜骸が元人間なのが初耳だと言ったはずだ」
「だろうな」
レイスは続ける。
「月酔いになっただけで夜骸になるわけではないはずだ。ルカのように第四段階を超えた時だけなのか。それとも、それは例外なのか」
「知っていると思うか」
「思わない」
「なら聞くな」
「確認だ」
レイスは留帳を閉じた。
「やはり、何も持っていない」
アルドは空を見上げた。蒼炎の檻越しに、枝葉が揺れている。
「超ハイリスク、ローリターンだったな」
「でも、ゼロではありません」
ハインが静かに言った。
「ルシアンさんが生きている。それを知れたのは、大きいです」
「そうだな」
アルドは頷いた。
「そこは間違いない」
レイスがエディンを見る。
「エディン。こいつらに用はない」
「はぁい」
灰冠の男が顔を上げた。
「殺すのか」
「今は殺さない」
アルドが答えた。
「今は、だ」
エディンが灰冠たちの前をゆっくり歩く。黒灰色の外套を着た者たちが、初めて警戒を見せた。エディンは笑っている。いつもの柔らかい笑みだった。だが、その笑みの奥にあるものを、灰冠たちは知っているのかもしれなかった。エディンは灰冠たちの前を順に歩いた。一人ずつ、空気中の微細な魔力へ自分の魔力を繋ぐ。実力差のある相手へだけ圧を集中させると、灰冠たちは歯を食いしばりながらも、次々と意識を落としていった。
最後に、代表して答えていた男の前でエディンが足を止める。男はエディンを見る。
「なぜ、それを知っている」
エディンは少しだけ目を細めた。
「人生にはいろいろあるのよぉ」
男の意識も落ちた。蒼炎の檻の中で、灰冠八人が沈黙した。アルドは赤鎖の男を見る。
「次だ」
ノルが荷車から水袋を取った。
「起こす?」
「頼む」
ノルは赤鎖の男の顔へ、遠慮なく水をかけた。
「んあ!?」
男が勢いよく目を開ける。泥と水で濡れた顔を上げ、最初に周囲を見る。次に、アルドを見る。そして、すぐにセレスを探した。
「セレス! セレスは!?」
一同の視線が、そろってセレスへ向いた。セレスは少し離れた場所に立っていた。ハインが隣にいる。セレスはものすごく嫌そうな顔をしていた。男はそれを見て、心底安心したように息を吐いた。
「良かった」
その声は、本当に安堵していた。
「無事だったんだね。怪我はない? 怖かっただろう。もう大丈夫だ。俺が――」
最後まで言い終える前に、セレスが動いた。短い踏み込み。迷いのない蹴り。男の顔面に、セレスの足が入った。
「がっ」
男の頭が後ろへ跳ねる。拘束されていたため倒れはしなかったが、そのまま意識が抜けた。それでも、口元は幸せそうに笑っていた。セレスはしばらくその顔を見下ろしていた。そして、静かに言った。
「私、離れてるから」
アルドは一拍遅れて頷いた。
「お、おう」
「ハインさん」
「はい。こちらへ」
ハインは即座にセレスの隣へ立ち、赤鎖の男から見えにくい木陰の方へ案内した。ノルが男を見下ろす。
「蹴られて喜んでる」
「言うな」
アルドが顔をしかめた。エディンが肩をすくめる。
「あれは、眠らせてた方が平和ねぇ」
「先にこいつから聞くべきだったか?」
レイスが言う。アルドは赤鎖の男を見る。気絶している。だが、目覚めればまたセレスを見るだろう。まっすぐに。恐ろしいほど、まっすぐに。アルドは深く息を吐いた。
「いや」
そして、緋喰刃を地面から抜いた。
「こいつは後で正解だ」
灰冠から得たものは少なかった。それでも、ルシアンが生きていることだけは分かった。
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