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炎枷牢

 パタス村を出てから、三日が経っていた。パタス村の宿では身体を休め、荷を整え、食事を取り、眠れる時に眠った。そしてこの三日間、盗賊にも、灰冠にも、夜骸にも遭遇しなかった。おかげで、アルドたちの体力・魔力は戻っていた。セレスの魔力も、十分に回復している。ノルの集中も鈍っていない。レイスも留帳《とどめちょう》を片手に、いつも通り周囲を見ていた。エディンは軽い足取りで森道を歩いている。


 ハインも、顔色は悪くない。休める時に休む。逃亡中であっても、それができなければ先には進めない。荷車を引く岩丸も、新しく作り直されていた。土と岩でできた丸い身体に太い腕と短い脚。何日かごとに作り直すため、形は毎回少しずつ違う。今日の岩丸はやや頭が平たく、歩くたびに腹のあたりがぽこぽこと揺れていた。


「今日の岩丸、なんか眠そう」


 セレスがぽつりと言った。ノルが横目で見る。


「土だよ」


「土でも眠そうな形ってあるでしょ」


「ない」


「ある」


「ない」


 岩丸は返事をしない。ただ、荷車を引いて森の道を進んでいく。エディンがくすりと笑った。


「セレスちゃん、毎回ちゃんと感想つけるのねぇ」


「だって、毎回ちょっと違うから」


「昨日の子は?」


「真面目そうだった」


「土よ?」


 ノルが言う。


「土でも真面目そうな形ってある」


「ない」


「ノルは岩丸を見る目が浅い」


「深く見たくない」


 アルドはそのやり取りを聞きながら、緋喰刃《ひくいじん》に手を添えて歩いていた。森は深い。昼だというのに、頭上を覆う枝葉が陽を細かく裂き、道の上にはまだらな影が落ちている。人の踏み固めた道はある。だが、整えられた街道ではない。根が浮き、湿った土が靴裏にまとわりつき、荷車の車輪は何度も小石に取られた。それでも、進みは悪くない。岩丸が荷を引き、ハインが荷の揺れを見て、必要があればアルドかエディンが車輪を押す。セレスが地面の状態を見て、危なそうな場所だけ土を固める。


 手慣れてきていた。陽剣旅団。まだ名乗り始めて間もないその名前も、少しずつ形になり始めている。


「次の村までは、あとどれくらいだ」


 アルドが聞く。ハインは手元の地図を確認した。


「道が正しければ、夕方前には着くはずです」


「道が正しければ、ねぇ」


 エディンが周囲の木々を見た。


「こういう森って、だいたい嫌なことが起きるのよねぇ」


「言うな」


 レイスが短く返す。


「口にすると寄ってくる」


「レイスちゃん、そういうの信じるの?」


「信じてはいない。だが、今は余計なものを呼びたくない」


「それは同感ねぇ」


 ノルが前を歩きながら、ふと足を止めた。アルドも同時に止まる。


「どうした」


 ハインが小声で問う。ノルはただ、森の奥を見る。


「音がない」


 レイスの目が細くなる。


「鳥か」


「虫も」


 風が止まっていた。枝葉の揺れもない。さっきまで遠くで鳴いていた鳥の声も、地を這う虫の気配も、すべてが一瞬で落ちたように消えている。森の中で、静けさは安全の証ではない。何かが、息を潜めている。


「ハイン、荷から離れるな」


「はい」


「セレス」


「分かってる」


 セレスは岩丸のそばへ寄り、短剣に手を添えた。その時だった。前方の茂みが揺れた。赤い短鎖が、木漏れ日の中で揺れる。一人。二人。十人。最初に現れた男たちは、下卑た笑みを浮かべていた。まとまりはあるが、構えが甘い。服も武器も不揃いだが、唯一同じものがある。腰にぶら下げた、赤い短鎖。赤鎖の獅子団。アルドは緋喰刃を抜いた。


「お迎えじゃ…なさそうだ」


 男の一人が笑う。


「そんなわけないだろう? 陽剣旅団」


 レイスの目が細くなる。


「末端か」


「口が悪いなぁ。こっちは大歓迎してるってのに」


「歓迎にしては、殺気が雑だ」


 レイスが言い終える前に、左右の茂みも揺れた。さらに奥。さらにその奥。木の陰から、赤い短鎖を持つ者たちが次々と現れる。数が増える。十数人では終わらない。二十。三十。五十。やがて、森の道は前後左右を赤鎖に塞がれた。全員が強いわけではない。むしろ大半は、喧嘩慣れした盗賊程度だ。だが、その中に混じっている気配が違った。約二十人。立ち方が違う。視線が違う。武器の持ち方が違う。おそらく、赤鎖本体の人間。


 アルドは数を見て、舌打ちした。


「百はいるか」


 ノルが短く返す。


「弱いの込みで、それくらい」


「面倒だな」


「面倒で済めばいい」


 エディンが笑う。


「人気者は大変ねぇ」


「笑ってる場合かよ」


「笑ってないと、やってられないものぉ」


 その軽口の向こうで、赤鎖たちが道を開けた。奥から、一人の男が歩いてくる。派手な赤い外套を肩にかけ、腰に曲刀を二本差している。体は細いが、足運びに無駄がない。笑顔は柔らかい。だが、その笑みの奥にある目は、獲物を眺める獣のそれだった。セレスの肩が、わずかに強張る。アルドは、その反応だけで思い出した。前に出会った男。セレスに、ふざけた求婚をしてきた赤鎖。男はにこやかに手を振った。


「やあ、セレス。久しぶりだね」


 セレスは露骨に顔をしかめた。


「……最悪」


「そんな顔をしないでほしいな。俺はずっと君に会いたかった」


「私は会いたくなかったし、なんで名前知ってるの」


「照れ隠しにしては鋭いね」


「本気で嫌がってる」


 ノルが淡々と言う。男はノルを見て、少しだけ笑みを深めた。


「君も相変わらず口が短い」


「お前は相変わらず気持ち悪い」


「傷つくなぁ」


「傷つけてる」


 アルドが一歩前に出た。


「何の用だ」


 男は、やっとアルドを見る。笑顔のままだった。


「団長から命令を受けた」


「ケインか」


「違う。団長だよ。君たちをぶっ殺せってさ」


 森の空気が、さらに重くなる。赤鎖たちが武器を構えた。


「ただし」


 男はセレスへ視線を戻す。


「セレスだけは殺さない。妻として連れ帰る許可は団長からもらっている」


 セレスの顔から血の気が引いた。次の瞬間、アルドの足元で土が焦げた。蒼い火が、緋喰刃の刃に薄く走る。


「もう一回言ってみろ」


 アルドの声は低かった。男は楽しそうに笑う。


「怖いな。けど、君より俺の方が速いと思うよ」


「試すか」


「もちろん」


 その言葉と同時に、男の姿が消えた。速い。ケインとは違う。ケインの動きには、戦場全体を読む嫌な間があった。どこかこちらの手を先に見ているような、不気味なずらし方があった。この男は違う。ただ、速い。ただ、鋭い。ただ、人を斬るためだけに研がれている。曲刀がアルドの喉へ走る。アルドは緋喰刃で受けた。火花が散る。次の刃が腹を狙う。アルドが半歩下がる。刃先が服を裂いた。皮膚までは届かない。だが、浅いとはいえ、近い。


「っ、速ぇな」


「褒められると照れるよ」


 男が笑う。その背後で、赤鎖たちが一斉に動いた。


「来るぞ!」


 レイスの声が飛ぶ。ノルの翠穿が鳴った。三つの銃声が、森に重なる。弾丸が風をまとい、木々の隙間を縫って曲がる。一発は前列の盗賊の武器を弾いた。別の一発は足元を撃ち、土を跳ね上げる。最後の一発は、横から回り込もうとした男の肩当てを砕いた。命は取らない。だが、動きは止める。エディンが大剣を振るう。刃ではなく、腹で殴る。人が木の幹へ叩きつけられ、呻き声を上げて崩れた。


「悪いけど、道を開けてちょうだいねぇ」


「殺す気ねぇのかよ!」


「今のところはねぇ」


 横から本体の男が踏み込む。エディンは笑みを消し、大剣で受けた。重い音が響く。レイスは留帳を片手に、盗賊たちの足元へ魔力を走らせる。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 細い雷が湿った土を拾い、地面を走った。足元に散った夜露と泥を伝い、数人の脚へ絡みつく。盗賊たちが膝をついた。その背後から、さらに別の赤鎖が飛び出す。多い。弱い者は多い。強い者も混じっている。そして、最悪なのは、全員が勝つためではなく、削るために動いていることだった。こちらの消耗。足止め。荷の分断。セレスへの接近。目的がはっきりしている。アルドは男の曲刀を受けながら、視界の端でセレスとハインを見た。


 セレスは岩丸のそばで短剣を構えている。ハインは荷車の陰に身を寄せ、状況を見ていた。逃げ場は、後方の森道にまだ細く残っている。今なら抜けられる。だが、それは同時に、分かれるということだった。あの時と同じように。ルシアンが消えた時と、似た形になる。セレスも分かっているのだろう。アルドの視線に気づいた瞬間、セレスの顔が強張った。ハインも息を呑む。緋喰刃を振り上げ、曲刀を弾く。そのまま一歩引いて、森に響く声で叫んだ。


「セレス! ハイン! 分かってるな!」


 セレスの肩が震えた。一瞬だけ、迷うように見えた。けれど、すぐに歯を食いしばる。


「分かってる!」


 ハインも荷車の取っ手を掴んだ。


「はい! 分かってます!」


「気をつけろ!」


 アルドが叫ぶ。セレスは岩丸に手を当てた。土の身体が軋み、荷車が大きく揺れる。ハインが飛び乗り、セレスも後方へ走った。岩丸が強引に森道へ踏み出す。車輪が根を越え、荷が跳ねる。赤鎖の数人がそちらへ向かった。ノルの翠穿が再び鳴る。風をまとった弾丸が足元を撃ち抜き、赤鎖たちが転ぶ。


「行って!」


 セレスは振り返らなかった。ハインも振り返らない。岩丸と荷車は、森の奥へ消えていった。赤鎖の男の笑顔が消えた。


「……逃がしたね」


「見りゃ分かるだろ」


 アルドが剣を構える。男の目に、初めて怒りが宿った。


「俺の妻を」


「お前のじゃねぇ」


「団長の許可は得た」


「関係ねぇよ」


「関係あるさ。俺は許された。殺さずに連れて帰っていいと。なのに、君は逃がした」


 男の曲刀に魔力が走る。赤い短鎖が、腰で揺れた。


「じゃあ、先に君を切り刻む」


 次の踏み込みは、さっきより速かった。アルドは蒼炎を刃にまとわせる。


「蒼炎参式 蒼火閃《そうかせん》」


 蒼い斬撃が森の影を裂く。男は低く身を沈め、それを避けた。背後の木が蒼く焼け、幹の表面が黒く焦げる。


「綺麗だね」


「避けんな」


「避けるさ。死にたくないからね」


 男の曲刀が下から跳ね上がる。アルドは柄で受け、膝で男の腹を狙う。男は身体をひねってかわし、逆の刃でアルドの肩を狙う。アルドは避けきれず、浅く切られた。血が散る。


「アルド!」


 レイスの声。


「こっち見てる暇あるのか」


 赤鎖本体の男が、レイスへ踏み込む。


「雷流弐式 絡縛《らくばく》」


 細い雷が足元を走った。相手は跳ぶ。だが、雷は跳んだ先の湿った根を拾い、足首に絡んだ。男が舌打ちする。そこへエディンの大剣が横から迫る。


「よそ見は駄目よぉ」


 鈍い音。男は受けたが、腕ごと持っていかれ、後方へ弾かれた。ノルは息を殺して撃ち続ける。弱い赤鎖は近づかせない。強い赤鎖は足を止める。殺しはしない。だが、手加減できる余裕もない。森の道は乱戦になっていた。叫び声。金属音。蒼炎の熱。雷の閃き。大剣が枝を折り、翠穿の銃声が木々の間を跳ねる。アルドの肩から血が流れる。レイスの頬にも浅い傷が入っていた。ノルの袖が裂け、エディンの髪にも土がついている。


 相手は数で押し、本体の連中が隙を突く。アルドは曲刀の男を押し返しながら、森の奥を一瞬だけ見た。セレスとハインの姿は、もう見えない。それが良いことなのか。悪いことなのか。今は、分からなかった。


         ◇


 荷車が跳ねた。ハインは手綱の代わりに岩丸の背に固定した縄を掴み、身体を低くする。


「右です!」


「分かってる!」


 セレスは荷車の後ろから走りながら、短剣を抜いた。追ってきた赤鎖は少数だった。五人。いや、木の陰にもう二人。その程度なら、倒せる。倒さなければ、追いつかれる。セレスは地面に手をかざす。土が盛り上がる。泥と石が赤鎖の足元へ絡み、一人の脚を取った。転んだ男の武器を、セレスの短剣が弾く。毒は使わない。使わずに済むなら、その方がいい。ハインが荷車から小瓶を投げた。割れた瓶から、強い匂いのする粉が散る。赤鎖の一人が目を押さえて呻いた。


「商人の護身具です!」


「助かる!」


 セレスは残る男の懐へ踏み込み、短剣の柄で顎を打った。男が崩れる。岩丸がさらに進む。森道を外れ、細い獣道へ入る。赤鎖の気配は薄れた。セレスは息を整えながら、周囲を見た。静かだ。だが、さっきとは違う静けさだった。鳥の声が戻っていない。風もない。なのに、肌の奥だけが冷えている。ハインが荷車の上で、顔を上げた。その目は、森のさらに奥を見ていた。


「……多分、来ました」


 セレスは一瞬でハインの近くへ寄った。ぴたりと隣に立ち、短剣を構える。岩丸は荷車の前で止まっている。荷は重い。逃げるには遅い。森は深い。道は狭い。そして、黒灰色の外套が現れた。一人ではない。二人でもない。木の陰から、音もなく出てくる。十人以上。顔は深いフードに隠れている。武器は見えにくい。だが、空気が違う。赤鎖のような怒りや雑な殺気ではない。何かを消すためだけに立っている、冷えた気配。


 灰冠《はいかん》。セレスは喉が乾くのを感じた。一人が言う。


「黒豹のセレスだな」


 声に抑揚はなかった。セレスは答えない。短剣を握る手に力を込める。別の灰冠が、ハインを見る。


「また会ったな、ハイン」


 ハインはセレスから離れなかった。


「私は陽剣旅団の依頼主です」


「陽剣旅団」


 灰冠の一人が、わずかに首を傾ける。


「名前を変えれば、追跡から逃れられるとでも思ったか」


 セレスが睨む。


「私たちは陽剣旅団よ」


「黒豹ではないと?」


「今は違う」


「都合のいい名だ」


 別の灰冠が言った。


「しかし、よく気づいたな」


 ハインの指が、荷車の縁を握る。


「……商人は、人の気配に敏感でないと生き残れませんので」


「それだけで気づかれたら我々はクビだ」


 灰冠は一歩近づく。セレスは動かない。ハインを背に庇う。


「近づかないで」


「抵抗するのか」


「する」


「一人でか」


 灰冠の声には、わずかな嘲りが混じった。


「二回も仲間を自分から離すとは、馬鹿な隊長だな」


 セレスの胸が、嫌な音を立てた。ルシアン。森。拘束具。連れていかれた背中。手が届かなかった記憶。あの時と、形が似ている。似すぎている。セレスは奥歯を噛んだ。


「……アルドは、馬鹿じゃない」


「では、何だ」


 灰冠は淡々と言う。


「また一人、守るべき者を切り離した。こちらとしては助かる」


 ハインがセレスの横顔を見る。


「セレスさん」


 セレスは答えない。ゆっくりと、膝をついた。ハインが目を見開く。


「セレスさん?」


 セレスは短剣を地面に置いた。そして、両手を土についた。頭を下げる。


「見逃して」


 灰冠たちが、わずかに動きを止めた。ハインが息を呑む。


「セレスさん、何を」


「お願い」


 セレスの声は震えていた。


「ハインさんは関係ない。商人で、ただ巻き込まれただけ。荷も必要なら置いていく。だから、ハインさんだけは見逃して」


「セレスさん、頭を上げてください」


 ハインはセレスから離れないまま、かがみ込んだ。その肩に手を伸ばす。だが、セレスは地面から手を離さない。


「こうするしかない」


「ありません。何か手はあるはずです」


「ないよ」


「あります」


「ない」


「あります。私はそういうものを探して生きてきました」


 ハインの声は静かだったが、必死だった。


「荷を失っても構いません。金を失っても構いません。ですが、あなたが自分を差し出す必要はありません」


「ある」


「ありません」


「あるの!」


 セレスの声が強くなる。その体勢は変わらない。膝をつき、両手を地面につき、頭を低くしたまま。ハインだけが、その近くにいる。灰冠の一人が、ため息を吐いた。


「茶番は終わったか」


 セレスは顔を上げない。


「お願い。ハインさんだけは」


「いいだろう」


 ハインの手が止まる。灰冠は続けた。


「お前がついてくるなら、その商人は見逃す」


「セレスさん」


「黙って、ハインさん」


「黙れません」


「お願い」


 灰冠が冷たく言う。


「ルシアンとやることは同じだな」


 その名が出た瞬間。セレスの空気が変わった。震えが止まる。呼吸が静かになる。伏せた顔の下で、目が冷たく開く。


「あの時とは違う」


 セレスの声は、低かった。灰冠がわずかに眉を動かしたように見えた。


「何?」


「私たちの団長は」


 セレスの両手の下で、地面が深く鳴った。


「馬鹿じゃない」


 ハインが、弾かれたように顔を上げる。セレスは叫んだ。


「陽剣旅団を、舐めるな!」


 その声を合図に、ハインが動いた。迷わなかった。セレスから離れず、しかし一瞬で荷車の側面へ手をかける。そのまま飛び乗る。荷台の中央へ身を滑り込ませ、荷を押さえるように身を低くした。灰冠たちが動く。遅い。セレスの両手から、ずっと地面へ流し込み続けていた魔力が、一気に噴き上がった。


「大地参式 岩儡生成《がんらいせいせい》!」


 森が揺れた。土が割れる。根が裂ける。岩が持ち上がる。セレスの周囲から巨大な土と岩の腕が生え、荷車を抱き込むように組み上がった。岩丸の身体も崩れ、その土がさらに加わる。地面の奥から引きずり出された石塊が、骨のように積み重なる。セレスの足元が持ち上がった。ハインと荷車ごと、土と岩の胸の奥へ飲み込まれる。いや、閉じ込めるのではない。包み込む。守るために。巨大な岩儡が、森の中に立ち上がった。


 高さは、周囲の木々の倍を超えていた。頭は歪み、腕は太すぎ、足は短く不格好だった。人の形をしているとは言い難い。洗練された像ではない。戦場で急造された、土と岩の塊。だが、その胸の奥には空洞があり、そこにセレスとハインと荷車が収まっている。厚い。異常なほど厚い。魔力のほとんどが、外殻の耐久に注ぎ込まれている。岩儡が拳を振り上げた。灰冠たちが散る。拳が地面を叩いた。森が跳ねた。地面が波打ち、根が裂け、木々が軋む。衝撃だけで近くにいた灰冠の数人が体勢を崩した。


「巨大岩儡……!」


「離れろ!」


 灰冠たちが一斉に距離を取る。岩儡の動きは遅い。とてつもなく遅い。腕を振るうだけで、枝を折り、土を削り、周囲の木を巻き込む。だが、灰冠に直撃させるには鈍すぎた。灰冠の一人が横へ跳び、岩儡の腕に刃を叩き込む。刃は浅く刺さっただけで止まった。別の灰冠が短い魔法を撃つ。岩の表面が砕ける。しかし、砕けたのは外側の薄い層だけだった。内側にはさらに固められた土と石があり、亀裂はすぐに埋まる。


「作る人形を間違えたな」


 灰冠の一人が言う。


「そんな鈍重なものでは、我々には当たらない」


 岩儡がもう一度拳を振るう。灰冠たちは難なく避ける。拳が空を切り、地面に沈む。衝撃で土が跳ねる。だが、当たらない。灰冠たちは岩儡の周囲を回り込み、関節らしき場所、胸部、脚の付け根を狙って攻撃を重ねた。刃。短槍。魔法。爆ぜる光。黒灰色の外套が木々の間を縫う。それでも、岩儡は崩れなかった。遅い。当たらない。だが、壊れない。胸の奥で、ハインは荷台の縁を掴んでいた。周囲は土と岩に覆われ、外の様子はわずかな隙間からしか見えない。息苦しい。暗い。地面が揺れるたび、身体が浮きそうになる。


 セレスはその中央で、両手を壁に当てていた。顔色は白い。だが、目は逸らしていない。


「セレスさん」


「大丈夫」


「大丈夫には見えません」


「でも、守れてる」


 外で衝撃が走る。岩儡の胸部が大きく揺れる。ハインは倒れかけた荷を押さえた。


「これでは、いつか削られます」


「分かってる」


「では」


「それまで持たせる」


 セレスは歯を食いしばった。


「持たせるの」


 灰冠たちの攻撃が激しくなる。岩儡の肩が欠けた。腕の表面が削れる。脚に亀裂が入る。だが、芯は折れない。守るためだけの巨体。動きは鈍く、攻撃は当たらない。それでも、灰冠はセレスにもハインにも届かない。


「面倒な」


 灰冠の一人が吐き捨てた。


「胸を割れ。中にいる」


「分かっている」


「時間をかけるな」


 黒灰色の外套が、岩儡の胸部へ集まっていく。その時だった。森の奥から、声が響いた。


「蒼炎肆式 炎枷牢《えんかろう》」


 青い火が、地面を走った。灰冠たちの足元をすり抜け、木々の根をなぞり、岩儡の周囲を円形に囲う。次の瞬間、蒼炎が一斉に立ち上がった。檻だった。炎の柱が連なり、枝葉を焦がさず、しかし逃げ道だけを塞ぐように組み上がる。蒼い炎は鎖のように横へ伸び、柱と柱を繋いだ。熱が空気を歪ませる。戦場全体が、蒼炎の檻に閉じ込められた。灰冠たちが動揺する。


「蒼炎……!」


「黒豹か!」


「いつの間に」


 森の奥から、アルドが歩いてきた。緋喰刃を肩に担いでいる。肩口の服は裂け、血が滲んでいた。頬にも浅い傷がある。だが、足取りは崩れていない。アルドは蒼炎の檻の外側から、灰冠たちを見た。その目は、燃えていた。怒りで。悔しさで。そして、もう奪わせないという意思で。岩儡の胸の奥で、セレスが小さく息を吐いた。


「間に合った……」


 ハインも、隙間から外を見る。アルドは緋喰刃を肩から下ろした。蒼い炎が、刃に絡む。


「仲間を」


 その声は、森の中で低く響いた。


「そう何度も連れ去られる訳にはいかねぇんだよ」

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新です。

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