正義の背中
夜の森は、静かだった。ただ、その静けさは穏やかなものではない。風が枝葉を揺らすたび、乾いた葉が擦れる。遠くで獣の鳴き声がし、すぐに途切れる。焚き火の火は小さく抑えられ、橙の光は幹の影を低く揺らしていた。その火のそばに、崩れかけた土の塊が二つ置かれている。一つは、荷車を引いていた岩丸だった。太かった腕は半ばから欠け、片脚は膝のあたりで崩れ、顔のように見えていた凹凸も、今はただの土の盛り上がりに近い。もう一つは護衛用の岩儡だった。廃倉庫で熊型の夜骸を止めたものとは別の個体だが、ここ数日の移動と警戒で形を保つのが難しくなっていた。
セレスは膝を抱えて、それらを見つめていた。
「……ごめんね」
小さな声だった。土の塊は頷いている。それでも、セレスはしばらく目を離せなかった。ノルが隣から言う。
「謝る相手、多いね」
「うん」
「土にも謝る」
「守ってくれたから」
ノルは何も返さなかった。レイスが焚き火の前で留帳を閉じた。
「セレス。新しく作る余力はあるか」
「小さいのなら、頑張れば一つくらいは作れるかもしれない。でも、見張りに使えるほどは無理。今作っても、途中で崩れると思う」
「なら作らなくていい」
セレスが顔を上げる。
「でも」
「魔力を削ってまで作る状況じゃない。今日は人が立つ」
アルドは緋喰刃を傍らに置き、火を見ていた。
「俺が立つ」
「アルドちゃん、当然みたいに言わないの」
エディンが大剣を肩に預けたまま、ひらひらと手を振る。
「今日はおねぇさんも立つわよぉ」
「エディンも消耗してるだろ」
「消耗してるから寝ていい、なんて言い出したら、今ここに起きてていい子はいないわぁ」
その言い方に、ハインが苦笑する。
「私は、見張りには向きませんね」
「ハインさんは寝てください」
セレスがすぐに言った。
「荷の整理も、交渉も、明日また必要になります」
「……では、甘えます」
「ノルも寝ろ」
アルドが言うと、ノルは少しだけ目を細めた。
「私も見張れる」
「知ってる。でも、お前の感知は明日使う」
「アルドも使う」
「俺は起きてても使える」
「雑」
「雑で悪かったな」
ノルは不満そうに唇を結んだが、それ以上は言わなかった。レイスが短くまとめる。
「アルド、俺、エディンの順で立つ。異常があれば起こす。セレスは魔力を使うな。ノルは感知を広げたまま寝ようとするな。ハインは荷の心配を一度やめろ」
「最後だけ難題ですね」
「できないなら、努力しろ」
ハインは小さく肩をすくめた。それでも、空気は少しだけ緩んだ。火は小さい。食事も簡単なものだった。硬い干し肉と、残っていた薄いパン。湯でふやかした豆。パラクス村でもらった野菜の切れ端を少し煮ただけの汁。それでも、温かいものがあるだけで違った。やがて、一人ずつ横になる。荷を壁にして、木々の間に身を寄せるようにして、陽剣旅団は夜を越す準備をした。アルドは火の前に残った。森の奥を見る。
アルドは周囲へ意識を向ける。空気中に漂う微細な魔力を拾い、近くの輪郭だけを確かめる。異常はない。少なくとも、今は。背後で、誰かが寝返りを打った。アルドは振り返らない。以前なら、そこにルシアンがいた。寝る前に誰かの傷を確認して、アルドに野菜を食べたかと聞いて、セレスに毛布を一枚余分に渡していた。今は、いない。死んだわけではない。それでも、手が届かない場所にいる。
「……生きてろよ」
火に向かって、アルドは呟いた。答えはなかった。枝が爆ぜる音だけがした。しばらくして、レイスが起き上がった。
「交代だ」
「まだ少し早くないか」
「寝ろ」
「はいはい」
アルドが立ち上がると、レイスは火のそばに座った。すれ違いざま、レイスが低く言う。
「異常は」
「ない。近くに人も夜骸もいない。獣が何匹か。南東方向に沢の気配」
「分かった」
アルドは横になりかけて、少しだけ足を止めた。
「レイス」
「なんだ」
「明日、村に着いたら、まずセレスを休ませるぞ」
「言われるまでもない」
「あと、ハインにもちゃんと寝かせる」
「それは本人の努力次第だ」
「努力で寝られるなら苦労しねぇだろ」
「なら気絶させるか」
アルドは小さく笑った。
「お前、たまに雑だよな」
「必要な雑さだ」
アルドは少しだけ息を抜いた。
「頼む」
「ああ」
レイスは森へ目を向けた。アルドは横になり、目を閉じる。眠りは浅かった。けれど、眠れないよりはましだった。次に目を開けた時には、エディンが火のそばに座っていた。長い髪を片側に流し、大剣を膝元へ置き、暗い森を見ている。レイスはもう横になっていた。エディンは、アルドが起きたことに気づいたのか、視線だけを向ける。
「まだ寝てなさいな、アルドちゃん」
「起きた」
「起きただけなら寝られるわよぉ」
「異常は」
「ないわぁ。強いて言うなら、セレスちゃんが寝ながら岩儡に謝ってたくらい」
「……そっか」
「いい子ねぇ」
エディンの声は軽かった。だが、その目は笑っていない。アルドはしばらく黙ってから、寝返りを打った。
「エディン」
「なぁに」
「お前、こういうの慣れてんのか」
「何に?」
「夜に起きて、誰かを見てること」
エディンは少しだけ首を傾けた。
「どうかしらねぇ」
「答える気ねぇな」
「おねぇさんにも、言いたくない夜くらいあるのよぉ」
アルドはそれ以上聞かなかった。エディンもそれ以上言わなかった。森の夜は長かった。それでも、朝は来た。白み始めた空の下で、セレスは崩れた岩丸の前に座り込み、両手を地面につけた。土がゆっくりと震え、崩れた部分が最低限の形へ戻っていく。完全ではない。荷車を長く引けるほどではない。それでも、少しの間なら動ける。
「無理するなよ」
アルドが言うと、セレスは額の汗を袖で拭った。
「無理はしてない。応急処置」
「顔色が応急処置じゃない」
「アルドにだけは言われたくない」
「俺は今、顔色いいだろ」
「態度が悪い」
「それは元からだな」
ノルが淡々と言う。
「治らない」
「そこまで言うか」
ハインが荷をまとめながら笑った。ようやく、朝の空気らしいものが戻ってきた。一行は森を出た。岩丸は荷車の前に立ち、ぎこちなく進む。途中で崩れそうになるたび、セレスが土を補強し、ハインとアルドが荷を支えた。昼頃。木々の間から、村の屋根が見えた。パタス村。周囲に近い村はなく、森と丘に囲まれた、陸の孤島のような中規模の村だった。村道に入ると、最初に目に入ったのは天祈像だった。
若い男が走っている像だった。片足は地面を蹴り、もう片方の足は前へ出ている。腕は大きく振られ、衣の裾は風を受けたように後ろへ流れている。顔立ちはどこか猿に似ていた。鼻が低く、口元が前へ出ていて、目は細い。だが、不思議と滑稽ではない。前だけを見て、走っている。その姿には、迷いがなかった。像の台座には、古びた文字が刻まれている。ハインが目を細めた。
「この村の功労者でしょうね」
「走ってる」
ノルが言う。
「見れば分かる」
レイスが返す。
「すごく走ってる」
「二回言う必要はない」
村の入口近くにいた老人が、陽剣旅団を見て警戒した。だが、ハインが前へ出て丁寧に挨拶すると、少しだけ表情が緩む。荷車と岩丸には何度も視線が向いた。それでも、パラクス村ほどの露骨な恐怖ではない。珍しいものを見る目だった。村の中には、鉱石を扱う小屋がいくつかあった。西の山脈で採れるという鉱石が、木箱に詰められている。黒いもの、赤茶けたもの、青みを帯びたもの。質はばらばらだが、村の大事な収入源らしい。
別の通りには、干物が吊るされていた。南の海から運ばれてきた魚を干したものだ。塩の匂いが薄く漂い、山の鉱石と海の保存食が、同じ村の市場に並んでいる。
「変わった村だな」
アルドが言う。ハインは頷いた。
「近隣に村が少ない分、ここが中継地になっているのでしょう。山の品も、海の品も、一度ここへ集まる。道を作った人間がいたはずです」
その言葉に、セレスが天祈像を振り返る。
「あの人?」
「おそらく」
村長の家へ案内される途中で、案内役の男が教えてくれた。パタス様は、昔、この村から方々の村へ走り回り、道と取引の縁を作った人物らしい。近くに村のないパタス村にとって、外との繋がりは命綱だった。彼は山へ行き、海へ行き、村々を巡り、交易の足がかりを作った。その結果、この村は発展した。猿顔で、足が速く、人懐っこく、どこへでも走っていく男だったという。
「猿顔は伝える必要あったのかな」
セレスが小声で言う。
「大事だったのかもしれない」
ノルが返す。
「顔が?」
「親しみ」
「そうかな……」
アルドは天祈像をもう一度見た。走る男。誰かのために、外へ繋がる道を作った男。村の中央に立つには、よく似合う姿だった。村長の家は、村の中央通りから少し奥へ入ったところにあった。広いが、豪華ではない。壁には村周辺の簡単な地図が掛けられており、棚には鉱石の見本と、干物を包むための紙束が置かれている。村長は白髪の混じった男だった。年は五十を少し越えたくらい。警戒はしているが、商人のハインが間に入ると、話は進んだ。
「陽剣旅団、と申します」
ハインが丁寧に頭を下げる。
「旅の護衛と運搬の仕事をしております。今日は宿をお借りしたく、また、少量ですが荷の取引もできればと」
村長はハインを見て、次にアルドたちを見る。
「……護衛にしては、随分と物々しい」
「危険地帯を通っておりますので」
「その土の人形は?」
セレスが少しだけ背筋を伸ばした。
「私の大地魔法です。村の中では動かしません。荷のそばで待機させます」
「暴れたりは」
「しません」
村長はしばらく考えた。その時だった。扉が叩かれた。
「村長、失礼します」
女の声。村長が返事をする前に、扉が開く。入ってきた女性を見て、アルドたちは固まった。向こうも、同じだった。淡い色の髪を後ろでまとめ、動きやすい討祓軍の服を着た女性。腰には武器。背筋は伸び、表情は穏やかだが、その目は一瞬で部屋の全員を捉えた。王都討祓軍第二部隊副隊長。エルヴィナ。数秒、誰も動かなかった。村長だけが、状況を知らずに声を上げる。
「おお、討祓軍の方ですな。ちょうど今、旅の方々が――」
エルヴィナの視線が、アルドに止まる。次に、レイス。ノル。セレス。エディン。最後にハイン。彼女は息を吸った。だが、声を荒げなかった。
「……村長」
穏やかな声だった。
「先に、この方々とのお話を終えてください」
「え?」
「私は待ちます。ただし」
エルヴィナはアルドたちへ視線を戻す。
「皆さんは、今はこの家から出ないでください」
レイスの手が、わずかに動いた。アルドはそれを視線で止める。エルヴィナはアルドに耳打ちをする。
「ここで騒ぎを起こせば、村に迷惑がかかります。私も、それは避けたい」
アルドは短く頷いた。
「分かった」
村長は状況がよく分かっていないようだったが、ハインがすぐに話をまとめた。宿の手配。荷の一時預かり。取引は翌朝以降に改めて相談すること。挨拶は、予定よりずっと短く終わった。それから、アルドたちは部屋の端に控えた。エルヴィナが村長の前へ進む。
「王都討祓軍第二部隊副隊長、エルヴィナと申します。本日は、村周辺で確認されている低級夜骸の討祓、および夜間警備のために参りました」
「付近で低級が出たと聞いておりましたが、本当に討祓軍が来てくださるとは……」
「村の外周を中心に確認します。住民の方々には、日没後の外出を控えるようお伝えください。討祓は夜に行います。村内で戦闘を起こさないよう、こちらで誘導します」
エルヴィナの声は、落ち着いていた。村長に不安を与えない声。必要なことを、必要な順番で伝える声。アルドは、黙ってそれを聞いていた。第二部隊。巨象。踏み止まる部隊。ルカが、何度かそこへ行った。生きて戻ってきた。左目を失って、それでも笑って戻ってきた。その時、エルヴィナも生き残っていた。そのことを、アルドは思い出していた。挨拶が終わると、エルヴィナは村長へもう一度頭を下げ、外へ出た。
扉の前で、振り返る。
「少し待ってください」
誰も逆らわなかった。家の外には、第二部隊の隊員たちが数名待機していた。エルヴィナは短く指示を飛ばす。
「村の外周警備へ。東西の出入り口を確認。村内では住民を刺激しないこと。私が戻るまで、報告は副班長へ」
隊員たちが離れていく。エルヴィナは、それを見届けてからアルドたちへ向き直った。
「宿に泊まる予定ですか」
「ああ」
アルドが答える。
「では、私も同行します。そこで話しましょう」
「ここで捕まえないのか」
エルヴィナは困ったように微笑んだ。
「捕まえられると思いますか?」
アルドは答えなかった。エルヴィナも、答えを求めてはいなかった。宿は、村の中央通りに面した二階建ての建物だった。ハインが部屋を取り、荷を裏手の倉庫へ入れる手続きを済ませる。岩丸は倉庫脇で崩れるように座り込んだ。セレスが小さく謝り、土を撫でた。宿の二階。広めの客室に、全員が集まった。窓の外にはパタス村の通りが見える。干物を取り込む女。鉱石箱を運ぶ男。夕方に備えて戸を閉め始める店。その平穏の中で、王都討祓軍第二部隊副隊長と、国に追われる陽剣旅団が向かい合っていた。
最初に口を開いたのは、エルヴィナだった。
「出頭するつもりはありますか」
「ない」
アルドは即答した。エルヴィナは小さく息を吐く。
「ですよね」
「軽いな」
「重く言っても、答えは変わらないでしょう」
レイスがエルヴィナを見る。
「なら、どうするつもりですか」
「別に、何もしません」
エルヴィナははっきり言った。
「ここで戦闘したとしても、今の私と連れてきた隊員では、皆さんにあっという間に制圧されて終わりです。村にも被害が出る。意味がありません」
「見逃すのか」
ノルが短く問う。
「隊員たちの手前、見逃したとは言えません」
エルヴィナは視線を窓へ向けた。
「ですから、今日は宿から出ないでください。私たちは夜骸の討祓に来ています。あなたたちは宿にいた。私は任務を優先した。あなたたちを見たのは私だけ。それで通します」
「優しいわねぇ」
エディンが柔らかく笑った。エルヴィナは、少しだけ困った顔をした。
「優しさではありません。現場判断です」
「そういうことにしておいてあげる」
「助かります」
そのやり取りに、セレスが少しだけ目を瞬かせた。エルヴィナは椅子に座らず、立ったまま続けた。
「こちらから、先に伝えます」
部屋の空気が変わる。
「王国は現在、第一部隊について、原因不明の夜骸増加に対する長期遠征任務中と発表しています」
セレスが息を呑んだ。ハインもわずかに眉を動かす。エルヴィナは続ける。
「民間には、失踪とも逃亡とも発表されていません。討祓軍内部でも、詳細を知る者は限られています。捜索は内密に行われています」
「主担当は第三部隊か」
レイスが言う。
「はい。主に第三部隊です。ただ、現在は動けません」
アルドの目が細くなる。
「ロザリアか」
「前回、第三部隊が皆さんを追い詰めた件です。あれはロザリア隊長の独断でした。報告を上げずに動き、失敗した。その結果、現在ロザリア隊長は謹慎処分。第三部隊の隊員も、多くが怪我から復帰できていません」
アルドが呟く。
「独断だったのか、あれ」
ノルが無表情に言った。
「殺してない」
「分かっています」
エルヴィナはすぐに返した。
「だからこそ、問題になっています。皆さんは第三部隊を殺せたはずなのに、殺さなかった。捕まえる側としては、そこを無視できません」
アルドは黙っていた。エルヴィナは少しだけ声を落とした。
「第二部隊は、夜骸討祓のついでに各地を回りながら、情報があれば確認する程度です。王都と作戦地点を行き来する中で、皆さんの痕跡がないか探している。今回も、あなたたちを探すためだけに来たわけではありません」
「低級夜骸の討祓」
「はい。村の外に出ています。今夜、処理します」
レイスが言う。
「ローグ様は」
エルヴィナの表情が、少しだけ柔らかくなった。
「心配しています」
その一言は、思ったより重かった。
「怒ってもいます。焦ってもいます。でも、一番は心配です。生きて連れ戻す。その方針は変わっていません」
アルドは視線を落とした。ローグレスの顔が浮かぶ。あの人は、きっとそう言う。総隊長として追う。それでも、生きて戻せと言う。そういう人だった。
「では、こちらからも聞きます」
エルヴィナは姿勢を正した。
「なぜ、消えたのですか」
沈黙が落ちた。誰もすぐには答えない。答えられることと、答えられないことがある。言えば、エルヴィナを巻き込む。知らなければ、彼女はまだ戻れる。アルドはゆっくり息を吐いた。
「任務に失敗した」
エルヴィナは黙って聞いている。
「その場で、王国が隠してきたものを知った。俺たちは、それを知ったまま王都に戻れなかった。戻れば、処理されると思った」
「処理」
「それ以上は言えない」
エルヴィナの目がわずかに揺れた。だが、問い詰めなかった。
「今まで何をしていたのですか」
「逃げながら、赤鎖を追っていた」
「赤鎖を?」
「正式名称は赤鎖の獅子団ってことが分かった。目的は王国の滅亡。盗賊団じゃ済まない連中だ」
エルヴィナは驚いた表情で固まる。
「王国の滅亡……国家転覆……」
ハインが補足する。
「私は現在、陽剣旅団に護衛を依頼している形です。赤鎖から奪われた荷の回収、危険地帯の移動、そうした実務も兼ねています」
エルヴィナはハインを見る。
「あなたは確かハインさんですね、報告にありました、アルド隊長たちに巻き込まれましたか?」
ハインは少し考えてから、首を横に振った。
「最初はそうだったかもしれません。ですが、今は自分で同行を選んでいます」
「危険ですよ」
「承知しています」
「商人として?」
「商人としても、人としてもです」
エルヴィナは、それ以上言わなかった。次の問いは、少し間が空いた。
「そういえば、ルカさんと、ゴードさんと、ルシアンさんはどこにいますか」
空気が止まった。ノルの指が、膝の上でわずかに曲がる。セレスは唇を噛んだ。エディンの目から、笑みが消えた。アルドは、まっすぐエルヴィナを見た。
「ルカとゴードは、任務で死んだ」
エルヴィナは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。
「ルシアンは、逃げている途中ではぐれた」
「はぐれた、ですか」
「ああ」
嘘ではない。全部でもない。エルヴィナは、その境目に気づいているようだった。それでも、踏み込まなかった。
「……ルカさんは、第二部隊の戦場にも立ちました」
静かな声だった。
「あの子は、怖がっていました。でも、最後まで下がらなかった。左目を失っても、倒れなかった」
アルドは拳を握る。レイスは目を伏せた。ノルは床を見たまま動かない。
「ゴードさんは、共同任務では何度も第二部隊の隊員を助けてくれました。無口でしたが、前にいるだけで安心できる人でした」
エルヴィナは、そこで言葉を切った。そして、深く頭を下げた。
「お悔やみを申し上げます」
誰も返せなかった。しばらくして、レイスが低く言った。
「ありがとうございます」
エルヴィナは顔を上げる。
「目的地はどこですか」
「言えない」
アルドが答える。
「王国の秘密とは何ですか」
「言えない」
「私の身が危うくなるからですか」
アルドは少しだけ目を細めた。
「そうだ、知らない方がいい」
エルヴィナは、小さく頷いた。
「分かりました」
「分かるのか」
「分かりません」
エルヴィナは苦笑した。
「でも、皆さんが軽い理由で消えたわけではないことは分かります。ロザリア隊長たちを殺さなかったことも、今日ここで私たちを襲わないことも、村を巻き込まないようにしていることも」
彼女は窓の外を見た。夕暮れが村を染めている。
「だからといって、討祓軍として見逃していい理由にはなりません」
「そうだな」
アルドは頷いた。
「あなたたちは、戻るべき人たちです」
エルヴィナの声は、優しいだけではなかった。そこには職責があった。正しさがあった。
「でも、今日の私は、低級夜骸の討祓に来た第二部隊副隊長です。村を守るのが任務です。だから、今はそちらを優先します、当然上に報告はさせていただきますが」
外で鐘が鳴った。日没を知らせる鐘だった。エルヴィナは扉の方へ歩く。
「時間です」
アルドたちも立ち上がる。だが、エルヴィナは手で制した。
「出ないでください。今夜は宿の中に。隊員たちの目もありますので」
「分かった」
エルヴィナは扉の前で、一度だけ振り返った。
「帰還まで、もう会いに来ません」
その言葉に、セレスが顔を上げる。
「それって」
「私があなたたちを見なかったことにする、という意味ではありません」
エルヴィナは少し困ったように笑った。
「私は、宿から出るなと言いました。あなたたちは従った。私は村の外で夜骸を討つ。翌朝、任務を終えて帰還する。それだけです」
レイスが静かに言う。
「報告の内容は」
「今日伺ったことは全て上にあげます。悪く思わないでください、これも任務のうちですので」
彼女は、アルドを見た。
「でも」
そして、レイス、ノル、セレス、エディンを順に見た。
「五人だけでも、生きていて良かった」
その言葉は、静かに落ちた。誰も、すぐには返せなかった。
「本当に」
エルヴィナはそう言って、頭を下げた。
「生きていてくれて、良かったです」
扉が閉まる。階段を下りる足音が遠ざかる。宿の外で、第二部隊の号令が聞こえた。やがて、複数の足音が村の外へ向かっていく。アルドたちは、しばらく動かなかった。最初に息を吐いたのは、ハインだった。
「……まっすぐな方ですね」
「そうだな」
アルドは窓の外を見た。
「まっすぐすぎる」
ノルが言う。
「撃ちにくい」
「撃つ前提で話すな」
セレスが小さく言った。ノルは否定しない。
「敵になったら、撃つ」
「ならないでほしい」
「私も」
レイスは壁にもたれ、腕を組んだ。
「第二部隊は、ああいう部隊だ。勝つために派手なことをするわけじゃない。必要な場所に立って、必要な分だけ踏み止まる」
エディンが窓枠に指を置く。
「正しいわねぇ」
「正しいな」
アルドが答える。
「だから、きつい」
外で、低い咆哮が響いた。夜骸の声。続いて、第二部隊の号令。足音。金属のぶつかる音。魔法が走る音。村の中の灯りが、いくつか消えた。住民たちは家の中で息を潜めているのだろう。宿の部屋で、陽剣旅団は動かなかった。出れば、話が変わる。戦えば、エルヴィナの判断を壊す。だから、動かない。それが今夜の約束だった。
「低級なら、大丈夫だよな」
セレスが言った。
「第二部隊を舐めるな」
レイスが返す。
「舐めてない。ただ……」
「心配になる」
ハインが引き継ぐ。セレスは小さく頷いた。戦闘音が続く。短い悲鳴が一度聞こえた。誰かの声が、それをすぐに指示へ変える。エルヴィナの声だった。落ち着いている。負傷者の位置、夜骸の進路、隊列の修正。村へ流さないための誘導。声だけで分かった。彼女は、現場を見ている。レイスは目を閉じて聞いていた。
「副隊長の仕事だ」
「レイスもあんな感じ?」
ノルが聞く。
「俺はもう少し口が悪い」
「知ってる」
「聞くな」
ノルは少しだけ口元を緩めた。戦闘音は、やがて村の外へ遠ざかっていった。低級夜骸を村から引き離しているのだろう。しばらくして、強い衝撃音。それから、静寂。夜はまだ深い。だが、戦闘は終わった。誰も歓声を上げなかった。第二部隊らしい、とアルドは思った。勝っても、騒がない。守るべきものを守ったら、次の確認へ移る。ただ、それだけ。宿の部屋に、静かな時間が戻った。
「俺たちは」
アルドが口を開いた。
「戻れると思うか」
誰もすぐには答えなかった。レイスが目を開ける。
「戻る気あるのか」
「どうだろうな、ふと思っただけだ」
「今のままでは無理だ」
「だよな」
「だが、戻れないと決まったわけでもない」
レイスは窓の外を見た。
「少なくとも、向こうには戻そうとしている者がいる。ローグ様も、エルヴィナ副隊長も」
「でも、戻るとしても全部片付いてからじゃないかな」
セレスが言う。
「そうだな」
「嫌な道だね」
「そうだな」
セレスは膝を抱えた。エディンがその隣に腰を下ろす。
「嫌な道でも、選んだのはおねぇさんたちよぉ」
「そうだね」
窓の外では、第二部隊の足音が少しずつ遠ざかっていった。翌朝。第二部隊は、陽剣旅団と顔を合わせなかった。夜明け前に負傷者の確認を終え、村長へ討祓完了を伝え、村の外周をもう一度確認し、そのまま帰還準備に入ったらしい。宿の二階の窓から、アルドたちはその背を見ていた。エルヴィナは隊列の後方にいた。前を歩く隊員たちを見て、左右を確認し、遅れる者がいないかを確かめている。誰かに肩を貸し、誰かの報告に頷き、また前を向く。
一度も、宿を見上げなかった。約束通りだった。見なかった。会わなかった。ただ、任務を終えて帰る。それだけだった。
「行っちゃうね」
セレスが呟く。
「ああ」
アルドは窓枠に手を置いた。朝日が昇る。森の向こうから差した光の中を、第二部隊は王都へ向かって歩いていく。村を守り、任務を終え、帰るべき場所へ帰っていく背中だった。アルドは窓枠に手を置いたまま、その姿が見えなくなるまで見ていた。
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