↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
110/165

正義の背中

 夜の森は、静かだった。ただ、その静けさは穏やかなものではない。風が枝葉を揺らすたび、乾いた葉が擦れる。遠くで獣の鳴き声がし、すぐに途切れる。焚き火の火は小さく抑えられ、橙の光は幹の影を低く揺らしていた。その火のそばに、崩れかけた土の塊が二つ置かれている。一つは、荷車を引いていた岩丸だった。太かった腕は半ばから欠け、片脚は膝のあたりで崩れ、顔のように見えていた凹凸も、今はただの土の盛り上がりに近い。もう一つは護衛用の岩儡《がんらい》だった。廃倉庫で熊型の夜骸を止めたものとは別の個体だが、ここ数日の移動と警戒で形を保つのが難しくなっていた。


 セレスは膝を抱えて、それらを見つめていた。


「……ごめんね」


 小さな声だった。土の塊は頷いている。それでも、セレスはしばらく目を離せなかった。ノルが隣から言う。


「謝る相手、多いね」


「うん」


「土にも謝る」


「守ってくれたから」


 ノルは何も返さなかった。レイスが焚き火の前で留帳を閉じた。


「セレス。新しく作る余力はあるか」


「小さいのなら、頑張れば一つくらいは作れるかもしれない。でも、見張りに使えるほどは無理。今作っても、途中で崩れると思う」


「なら作らなくていい」


 セレスが顔を上げる。


「でも」


「魔力を削ってまで作る状況じゃない。今日は人が立つ」


 アルドは緋喰刃《ひくいじん》を傍らに置き、火を見ていた。


「俺が立つ」


「アルドちゃん、当然みたいに言わないの」


 エディンが大剣を肩に預けたまま、ひらひらと手を振る。


「今日はおねぇさんも立つわよぉ」


「エディンも消耗してるだろ」


「消耗してるから寝ていい、なんて言い出したら、今ここに起きてていい子はいないわぁ」


 その言い方に、ハインが苦笑する。


「私は、見張りには向きませんね」


「ハインさんは寝てください」


 セレスがすぐに言った。


「荷の整理も、交渉も、明日また必要になります」


「……では、甘えます」


「ノルも寝ろ」


 アルドが言うと、ノルは少しだけ目を細めた。


「私も見張れる」


「知ってる。でも、お前の感知は明日使う」


「アルドも使う」


「俺は起きてても使える」


「雑」


「雑で悪かったな」


 ノルは不満そうに唇を結んだが、それ以上は言わなかった。レイスが短くまとめる。


「アルド、俺、エディンの順で立つ。異常があれば起こす。セレスは魔力を使うな。ノルは感知を広げたまま寝ようとするな。ハインは荷の心配を一度やめろ」


「最後だけ難題ですね」


「できないなら、努力しろ」


 ハインは小さく肩をすくめた。それでも、空気は少しだけ緩んだ。火は小さい。食事も簡単なものだった。硬い干し肉と、残っていた薄いパン。湯でふやかした豆。パラクス村でもらった野菜の切れ端を少し煮ただけの汁。それでも、温かいものがあるだけで違った。やがて、一人ずつ横になる。荷を壁にして、木々の間に身を寄せるようにして、陽剣旅団は夜を越す準備をした。アルドは火の前に残った。森の奥を見る。


 アルドは周囲へ意識を向ける。空気中に漂う微細な魔力を拾い、近くの輪郭だけを確かめる。異常はない。少なくとも、今は。背後で、誰かが寝返りを打った。アルドは振り返らない。以前なら、そこにルシアンがいた。寝る前に誰かの傷を確認して、アルドに野菜を食べたかと聞いて、セレスに毛布を一枚余分に渡していた。今は、いない。死んだわけではない。それでも、手が届かない場所にいる。


「……生きてろよ」


 火に向かって、アルドは呟いた。答えはなかった。枝が爆ぜる音だけがした。しばらくして、レイスが起き上がった。


「交代だ」


「まだ少し早くないか」


「寝ろ」


「はいはい」


 アルドが立ち上がると、レイスは火のそばに座った。すれ違いざま、レイスが低く言う。


「異常は」


「ない。近くに人も夜骸もいない。獣が何匹か。南東方向に沢の気配」


「分かった」


 アルドは横になりかけて、少しだけ足を止めた。


「レイス」


「なんだ」


「明日、村に着いたら、まずセレスを休ませるぞ」


「言われるまでもない」


「あと、ハインにもちゃんと寝かせる」


「それは本人の努力次第だ」


「努力で寝られるなら苦労しねぇだろ」


「なら気絶させるか」


 アルドは小さく笑った。


「お前、たまに雑だよな」


「必要な雑さだ」


 アルドは少しだけ息を抜いた。


「頼む」


「ああ」


 レイスは森へ目を向けた。アルドは横になり、目を閉じる。眠りは浅かった。けれど、眠れないよりはましだった。次に目を開けた時には、エディンが火のそばに座っていた。長い髪を片側に流し、大剣を膝元へ置き、暗い森を見ている。レイスはもう横になっていた。エディンは、アルドが起きたことに気づいたのか、視線だけを向ける。


「まだ寝てなさいな、アルドちゃん」


「起きた」


「起きただけなら寝られるわよぉ」


「異常は」


「ないわぁ。強いて言うなら、セレスちゃんが寝ながら岩儡に謝ってたくらい」


「……そっか」


「いい子ねぇ」


 エディンの声は軽かった。だが、その目は笑っていない。アルドはしばらく黙ってから、寝返りを打った。


「エディン」


「なぁに」


「お前、こういうの慣れてんのか」


「何に?」


「夜に起きて、誰かを見てること」


 エディンは少しだけ首を傾けた。


「どうかしらねぇ」


「答える気ねぇな」


「おねぇさんにも、言いたくない夜くらいあるのよぉ」


 アルドはそれ以上聞かなかった。エディンもそれ以上言わなかった。森の夜は長かった。それでも、朝は来た。白み始めた空の下で、セレスは崩れた岩丸の前に座り込み、両手を地面につけた。土がゆっくりと震え、崩れた部分が最低限の形へ戻っていく。完全ではない。荷車を長く引けるほどではない。それでも、少しの間なら動ける。


「無理するなよ」


 アルドが言うと、セレスは額の汗を袖で拭った。


「無理はしてない。応急処置」


「顔色が応急処置じゃない」


「アルドにだけは言われたくない」


「俺は今、顔色いいだろ」


「態度が悪い」


「それは元からだな」


 ノルが淡々と言う。


「治らない」


「そこまで言うか」


 ハインが荷をまとめながら笑った。ようやく、朝の空気らしいものが戻ってきた。一行は森を出た。岩丸は荷車の前に立ち、ぎこちなく進む。途中で崩れそうになるたび、セレスが土を補強し、ハインとアルドが荷を支えた。昼頃。木々の間から、村の屋根が見えた。パタス村。周囲に近い村はなく、森と丘に囲まれた、陸の孤島のような中規模の村だった。村道に入ると、最初に目に入ったのは天祈像《てんきぞう》だった。


 若い男が走っている像だった。片足は地面を蹴り、もう片方の足は前へ出ている。腕は大きく振られ、衣の裾は風を受けたように後ろへ流れている。顔立ちはどこか猿に似ていた。鼻が低く、口元が前へ出ていて、目は細い。だが、不思議と滑稽ではない。前だけを見て、走っている。その姿には、迷いがなかった。像の台座には、古びた文字が刻まれている。ハインが目を細めた。


「この村の功労者でしょうね」


「走ってる」


 ノルが言う。


「見れば分かる」


 レイスが返す。


「すごく走ってる」


「二回言う必要はない」


 村の入口近くにいた老人が、陽剣旅団を見て警戒した。だが、ハインが前へ出て丁寧に挨拶すると、少しだけ表情が緩む。荷車と岩丸には何度も視線が向いた。それでも、パラクス村ほどの露骨な恐怖ではない。珍しいものを見る目だった。村の中には、鉱石を扱う小屋がいくつかあった。西の山脈で採れるという鉱石が、木箱に詰められている。黒いもの、赤茶けたもの、青みを帯びたもの。質はばらばらだが、村の大事な収入源らしい。


 別の通りには、干物が吊るされていた。南の海から運ばれてきた魚を干したものだ。塩の匂いが薄く漂い、山の鉱石と海の保存食が、同じ村の市場に並んでいる。


「変わった村だな」


 アルドが言う。ハインは頷いた。


「近隣に村が少ない分、ここが中継地になっているのでしょう。山の品も、海の品も、一度ここへ集まる。道を作った人間がいたはずです」


 その言葉に、セレスが天祈像を振り返る。


「あの人?」


「おそらく」


 村長の家へ案内される途中で、案内役の男が教えてくれた。パタス様は、昔、この村から方々の村へ走り回り、道と取引の縁を作った人物らしい。近くに村のないパタス村にとって、外との繋がりは命綱だった。彼は山へ行き、海へ行き、村々を巡り、交易の足がかりを作った。その結果、この村は発展した。猿顔で、足が速く、人懐っこく、どこへでも走っていく男だったという。


「猿顔は伝える必要あったのかな」


 セレスが小声で言う。


「大事だったのかもしれない」


 ノルが返す。


「顔が?」


「親しみ」


「そうかな……」


 アルドは天祈像をもう一度見た。走る男。誰かのために、外へ繋がる道を作った男。村の中央に立つには、よく似合う姿だった。村長の家は、村の中央通りから少し奥へ入ったところにあった。広いが、豪華ではない。壁には村周辺の簡単な地図が掛けられており、棚には鉱石の見本と、干物を包むための紙束が置かれている。村長は白髪の混じった男だった。年は五十を少し越えたくらい。警戒はしているが、商人のハインが間に入ると、話は進んだ。


「陽剣旅団、と申します」


 ハインが丁寧に頭を下げる。


「旅の護衛と運搬の仕事をしております。今日は宿をお借りしたく、また、少量ですが荷の取引もできればと」


 村長はハインを見て、次にアルドたちを見る。


「……護衛にしては、随分と物々しい」


「危険地帯を通っておりますので」


「その土の人形は?」


 セレスが少しだけ背筋を伸ばした。


「私の大地魔法です。村の中では動かしません。荷のそばで待機させます」


「暴れたりは」


「しません」


 村長はしばらく考えた。その時だった。扉が叩かれた。


「村長、失礼します」


 女の声。村長が返事をする前に、扉が開く。入ってきた女性を見て、アルドたちは固まった。向こうも、同じだった。淡い色の髪を後ろでまとめ、動きやすい討祓軍の服を着た女性。腰には武器。背筋は伸び、表情は穏やかだが、その目は一瞬で部屋の全員を捉えた。王都討祓軍第二部隊副隊長。エルヴィナ。数秒、誰も動かなかった。村長だけが、状況を知らずに声を上げる。


「おお、討祓軍の方ですな。ちょうど今、旅の方々が――」


 エルヴィナの視線が、アルドに止まる。次に、レイス。ノル。セレス。エディン。最後にハイン。彼女は息を吸った。だが、声を荒げなかった。


「……村長」


 穏やかな声だった。


「先に、この方々とのお話を終えてください」


「え?」


「私は待ちます。ただし」


 エルヴィナはアルドたちへ視線を戻す。


「皆さんは、今はこの家から出ないでください」


 レイスの手が、わずかに動いた。アルドはそれを視線で止める。エルヴィナはアルドに耳打ちをする。


「ここで騒ぎを起こせば、村に迷惑がかかります。私も、それは避けたい」


 アルドは短く頷いた。


「分かった」


 村長は状況がよく分かっていないようだったが、ハインがすぐに話をまとめた。宿の手配。荷の一時預かり。取引は翌朝以降に改めて相談すること。挨拶は、予定よりずっと短く終わった。それから、アルドたちは部屋の端に控えた。エルヴィナが村長の前へ進む。


「王都討祓軍第二部隊副隊長、エルヴィナと申します。本日は、村周辺で確認されている低級夜骸の討祓、および夜間警備のために参りました」


「付近で低級が出たと聞いておりましたが、本当に討祓軍が来てくださるとは……」


「村の外周を中心に確認します。住民の方々には、日没後の外出を控えるようお伝えください。討祓は夜に行います。村内で戦闘を起こさないよう、こちらで誘導します」


 エルヴィナの声は、落ち着いていた。村長に不安を与えない声。必要なことを、必要な順番で伝える声。アルドは、黙ってそれを聞いていた。第二部隊。巨象。踏み止まる部隊。ルカが、何度かそこへ行った。生きて戻ってきた。左目を失って、それでも笑って戻ってきた。その時、エルヴィナも生き残っていた。そのことを、アルドは思い出していた。挨拶が終わると、エルヴィナは村長へもう一度頭を下げ、外へ出た。


 扉の前で、振り返る。


「少し待ってください」


 誰も逆らわなかった。家の外には、第二部隊の隊員たちが数名待機していた。エルヴィナは短く指示を飛ばす。


「村の外周警備へ。東西の出入り口を確認。村内では住民を刺激しないこと。私が戻るまで、報告は副班長へ」


 隊員たちが離れていく。エルヴィナは、それを見届けてからアルドたちへ向き直った。


「宿に泊まる予定ですか」


「ああ」


 アルドが答える。


「では、私も同行します。そこで話しましょう」


「ここで捕まえないのか」


 エルヴィナは困ったように微笑んだ。


「捕まえられると思いますか?」


 アルドは答えなかった。エルヴィナも、答えを求めてはいなかった。宿は、村の中央通りに面した二階建ての建物だった。ハインが部屋を取り、荷を裏手の倉庫へ入れる手続きを済ませる。岩丸は倉庫脇で崩れるように座り込んだ。セレスが小さく謝り、土を撫でた。宿の二階。広めの客室に、全員が集まった。窓の外にはパタス村の通りが見える。干物を取り込む女。鉱石箱を運ぶ男。夕方に備えて戸を閉め始める店。その平穏の中で、王都討祓軍第二部隊副隊長と、国に追われる陽剣旅団が向かい合っていた。


 最初に口を開いたのは、エルヴィナだった。


「出頭するつもりはありますか」


「ない」


 アルドは即答した。エルヴィナは小さく息を吐く。


「ですよね」


「軽いな」


「重く言っても、答えは変わらないでしょう」


 レイスがエルヴィナを見る。


「なら、どうするつもりですか」


「別に、何もしません」


 エルヴィナははっきり言った。


「ここで戦闘したとしても、今の私と連れてきた隊員では、皆さんにあっという間に制圧されて終わりです。村にも被害が出る。意味がありません」


「見逃すのか」


 ノルが短く問う。


「隊員たちの手前、見逃したとは言えません」


 エルヴィナは視線を窓へ向けた。


「ですから、今日は宿から出ないでください。私たちは夜骸の討祓に来ています。あなたたちは宿にいた。私は任務を優先した。あなたたちを見たのは私だけ。それで通します」


「優しいわねぇ」


 エディンが柔らかく笑った。エルヴィナは、少しだけ困った顔をした。


「優しさではありません。現場判断です」


「そういうことにしておいてあげる」


「助かります」


 そのやり取りに、セレスが少しだけ目を瞬かせた。エルヴィナは椅子に座らず、立ったまま続けた。


「こちらから、先に伝えます」


 部屋の空気が変わる。


「王国は現在、第一部隊について、原因不明の夜骸増加に対する長期遠征任務中と発表しています」


 セレスが息を呑んだ。ハインもわずかに眉を動かす。エルヴィナは続ける。


「民間には、失踪とも逃亡とも発表されていません。討祓軍内部でも、詳細を知る者は限られています。捜索は内密に行われています」


「主担当は第三部隊か」


 レイスが言う。


「はい。主に第三部隊です。ただ、現在は動けません」


 アルドの目が細くなる。


「ロザリアか」


「前回、第三部隊が皆さんを追い詰めた件です。あれはロザリア隊長の独断でした。報告を上げずに動き、失敗した。その結果、現在ロザリア隊長は謹慎処分。第三部隊の隊員も、多くが怪我から復帰できていません」


 アルドが呟く。


「独断だったのか、あれ」


 ノルが無表情に言った。


「殺してない」


「分かっています」


 エルヴィナはすぐに返した。


「だからこそ、問題になっています。皆さんは第三部隊を殺せたはずなのに、殺さなかった。捕まえる側としては、そこを無視できません」


 アルドは黙っていた。エルヴィナは少しだけ声を落とした。


「第二部隊は、夜骸討祓のついでに各地を回りながら、情報があれば確認する程度です。王都と作戦地点を行き来する中で、皆さんの痕跡がないか探している。今回も、あなたたちを探すためだけに来たわけではありません」


「低級夜骸の討祓」


「はい。村の外に出ています。今夜、処理します」


 レイスが言う。


「ローグ様は」


 エルヴィナの表情が、少しだけ柔らかくなった。


「心配しています」


 その一言は、思ったより重かった。


「怒ってもいます。焦ってもいます。でも、一番は心配です。生きて連れ戻す。その方針は変わっていません」


 アルドは視線を落とした。ローグレスの顔が浮かぶ。あの人は、きっとそう言う。総隊長として追う。それでも、生きて戻せと言う。そういう人だった。


「では、こちらからも聞きます」


 エルヴィナは姿勢を正した。


「なぜ、消えたのですか」


 沈黙が落ちた。誰もすぐには答えない。答えられることと、答えられないことがある。言えば、エルヴィナを巻き込む。知らなければ、彼女はまだ戻れる。アルドはゆっくり息を吐いた。


「任務に失敗した」


 エルヴィナは黙って聞いている。


「その場で、王国が隠してきたものを知った。俺たちは、それを知ったまま王都に戻れなかった。戻れば、処理されると思った」


「処理」


「それ以上は言えない」


 エルヴィナの目がわずかに揺れた。だが、問い詰めなかった。


「今まで何をしていたのですか」


「逃げながら、赤鎖を追っていた」


「赤鎖を?」


「正式名称は赤鎖の獅子団ってことが分かった。目的は王国の滅亡。盗賊団じゃ済まない連中だ」


 エルヴィナは驚いた表情で固まる。


「王国の滅亡……国家転覆……」


 ハインが補足する。


「私は現在、陽剣旅団に護衛を依頼している形です。赤鎖から奪われた荷の回収、危険地帯の移動、そうした実務も兼ねています」


 エルヴィナはハインを見る。


「あなたは確かハインさんですね、報告にありました、アルド隊長たちに巻き込まれましたか?」


 ハインは少し考えてから、首を横に振った。


「最初はそうだったかもしれません。ですが、今は自分で同行を選んでいます」


「危険ですよ」


「承知しています」


「商人として?」


「商人としても、人としてもです」


 エルヴィナは、それ以上言わなかった。次の問いは、少し間が空いた。


「そういえば、ルカさんと、ゴードさんと、ルシアンさんはどこにいますか」


 空気が止まった。ノルの指が、膝の上でわずかに曲がる。セレスは唇を噛んだ。エディンの目から、笑みが消えた。アルドは、まっすぐエルヴィナを見た。


「ルカとゴードは、任務で死んだ」


 エルヴィナは何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。


「ルシアンは、逃げている途中ではぐれた」


「はぐれた、ですか」


「ああ」


 嘘ではない。全部でもない。エルヴィナは、その境目に気づいているようだった。それでも、踏み込まなかった。


「……ルカさんは、第二部隊の戦場にも立ちました」


 静かな声だった。


「あの子は、怖がっていました。でも、最後まで下がらなかった。左目を失っても、倒れなかった」


 アルドは拳を握る。レイスは目を伏せた。ノルは床を見たまま動かない。


「ゴードさんは、共同任務では何度も第二部隊の隊員を助けてくれました。無口でしたが、前にいるだけで安心できる人でした」


 エルヴィナは、そこで言葉を切った。そして、深く頭を下げた。


「お悔やみを申し上げます」


 誰も返せなかった。しばらくして、レイスが低く言った。


「ありがとうございます」


 エルヴィナは顔を上げる。


「目的地はどこですか」


「言えない」


 アルドが答える。


「王国の秘密とは何ですか」


「言えない」


「私の身が危うくなるからですか」


 アルドは少しだけ目を細めた。


「そうだ、知らない方がいい」


 エルヴィナは、小さく頷いた。


「分かりました」


「分かるのか」


「分かりません」


 エルヴィナは苦笑した。


「でも、皆さんが軽い理由で消えたわけではないことは分かります。ロザリア隊長たちを殺さなかったことも、今日ここで私たちを襲わないことも、村を巻き込まないようにしていることも」


 彼女は窓の外を見た。夕暮れが村を染めている。


「だからといって、討祓軍として見逃していい理由にはなりません」


「そうだな」


 アルドは頷いた。


「あなたたちは、戻るべき人たちです」


 エルヴィナの声は、優しいだけではなかった。そこには職責があった。正しさがあった。


「でも、今日の私は、低級夜骸の討祓に来た第二部隊副隊長です。村を守るのが任務です。だから、今はそちらを優先します、当然上に報告はさせていただきますが」


 外で鐘が鳴った。日没を知らせる鐘だった。エルヴィナは扉の方へ歩く。


「時間です」


 アルドたちも立ち上がる。だが、エルヴィナは手で制した。


「出ないでください。今夜は宿の中に。隊員たちの目もありますので」


「分かった」


 エルヴィナは扉の前で、一度だけ振り返った。


「帰還まで、もう会いに来ません」


 その言葉に、セレスが顔を上げる。


「それって」


「私があなたたちを見なかったことにする、という意味ではありません」


 エルヴィナは少し困ったように笑った。


「私は、宿から出るなと言いました。あなたたちは従った。私は村の外で夜骸を討つ。翌朝、任務を終えて帰還する。それだけです」


 レイスが静かに言う。


「報告の内容は」


「今日伺ったことは全て上にあげます。悪く思わないでください、これも任務のうちですので」


 彼女は、アルドを見た。


「でも」


 そして、レイス、ノル、セレス、エディンを順に見た。


「五人だけでも、生きていて良かった」


 その言葉は、静かに落ちた。誰も、すぐには返せなかった。


「本当に」


 エルヴィナはそう言って、頭を下げた。


「生きていてくれて、良かったです」


 扉が閉まる。階段を下りる足音が遠ざかる。宿の外で、第二部隊の号令が聞こえた。やがて、複数の足音が村の外へ向かっていく。アルドたちは、しばらく動かなかった。最初に息を吐いたのは、ハインだった。


「……まっすぐな方ですね」


「そうだな」


 アルドは窓の外を見た。


「まっすぐすぎる」


 ノルが言う。


「撃ちにくい」


「撃つ前提で話すな」


 セレスが小さく言った。ノルは否定しない。


「敵になったら、撃つ」


「ならないでほしい」


「私も」


 レイスは壁にもたれ、腕を組んだ。


「第二部隊は、ああいう部隊だ。勝つために派手なことをするわけじゃない。必要な場所に立って、必要な分だけ踏み止まる」


 エディンが窓枠に指を置く。


「正しいわねぇ」


「正しいな」


 アルドが答える。


「だから、きつい」


 外で、低い咆哮が響いた。夜骸の声。続いて、第二部隊の号令。足音。金属のぶつかる音。魔法が走る音。村の中の灯りが、いくつか消えた。住民たちは家の中で息を潜めているのだろう。宿の部屋で、陽剣旅団は動かなかった。出れば、話が変わる。戦えば、エルヴィナの判断を壊す。だから、動かない。それが今夜の約束だった。


「低級なら、大丈夫だよな」


 セレスが言った。


「第二部隊を舐めるな」


 レイスが返す。


「舐めてない。ただ……」


「心配になる」


 ハインが引き継ぐ。セレスは小さく頷いた。戦闘音が続く。短い悲鳴が一度聞こえた。誰かの声が、それをすぐに指示へ変える。エルヴィナの声だった。落ち着いている。負傷者の位置、夜骸の進路、隊列の修正。村へ流さないための誘導。声だけで分かった。彼女は、現場を見ている。レイスは目を閉じて聞いていた。


「副隊長の仕事だ」


「レイスもあんな感じ?」


 ノルが聞く。


「俺はもう少し口が悪い」


「知ってる」


「聞くな」


 ノルは少しだけ口元を緩めた。戦闘音は、やがて村の外へ遠ざかっていった。低級夜骸を村から引き離しているのだろう。しばらくして、強い衝撃音。それから、静寂。夜はまだ深い。だが、戦闘は終わった。誰も歓声を上げなかった。第二部隊らしい、とアルドは思った。勝っても、騒がない。守るべきものを守ったら、次の確認へ移る。ただ、それだけ。宿の部屋に、静かな時間が戻った。


「俺たちは」


 アルドが口を開いた。


「戻れると思うか」


 誰もすぐには答えなかった。レイスが目を開ける。


「戻る気あるのか」


「どうだろうな、ふと思っただけだ」


「今のままでは無理だ」


「だよな」


「だが、戻れないと決まったわけでもない」


 レイスは窓の外を見た。


「少なくとも、向こうには戻そうとしている者がいる。ローグ様も、エルヴィナ副隊長も」


「でも、戻るとしても全部片付いてからじゃないかな」


 セレスが言う。


「そうだな」


「嫌な道だね」


「そうだな」


 セレスは膝を抱えた。エディンがその隣に腰を下ろす。


「嫌な道でも、選んだのはおねぇさんたちよぉ」


「そうだね」


 窓の外では、第二部隊の足音が少しずつ遠ざかっていった。翌朝。第二部隊は、陽剣旅団と顔を合わせなかった。夜明け前に負傷者の確認を終え、村長へ討祓完了を伝え、村の外周をもう一度確認し、そのまま帰還準備に入ったらしい。宿の二階の窓から、アルドたちはその背を見ていた。エルヴィナは隊列の後方にいた。前を歩く隊員たちを見て、左右を確認し、遅れる者がいないかを確かめている。誰かに肩を貸し、誰かの報告に頷き、また前を向く。


 一度も、宿を見上げなかった。約束通りだった。見なかった。会わなかった。ただ、任務を終えて帰る。それだけだった。


「行っちゃうね」


 セレスが呟く。


「ああ」


 アルドは窓枠に手を置いた。朝日が昇る。森の向こうから差した光の中を、第二部隊は王都へ向かって歩いていく。村を守り、任務を終え、帰るべき場所へ帰っていく背中だった。アルドは窓枠に手を置いたまま、その姿が見えなくなるまで見ていた。

お読みいただきありがとうございます。

引き続き毎日20時頃更新です。

続きが気になる!と思ってくださった方は、ぜひ【★評価】や【ブックマーク】で応援をよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。