笑う熊
「全員、起きろ」
レイスの声が、廃倉庫の中を走った。眠気は一瞬で消えた。ノルは翠穿を抱えたまま起き上がり、三つの銃口を入口へ向ける。エディンは毛布を跳ねのけ、大剣の柄を握った。ハインは帳面を胸に抱えたまま、壁際で息を呑む。アルドは緋喰刃を抜き、入口へ向かった。セレスは地面に片手を当てていた。岩儡からの信号を、もう一度確かめる。壊された。小型の岩儡が、一体。続けて、もう一体。
痛みはない。ただ、自分の魔力で作ったものが壊されたという事実だけが、はっきりと伝わってくる。
「小型が二体壊された」
セレスが言った。
「速い。かなり」
「敵の数は」
レイスが聞く。
「見える範囲では、二体」
セレスは入口を見た。そこに、大きな護衛用の岩儡が立っている。腕を広げ、廃倉庫の入口を塞ぐように構えていた。その向こう。夜の暗がりに、二体の熊型夜骸が並んでいる。大きい。だが、大級ではない。身の丈は岩儡と同じか、少し低い程度。しかし、身体の密度が違った。熊に似た輪郭。黒い泥を固めたような肉。背中から突き出す、黒い枝のような骨。長すぎる前脚。濡れた石のように光る白い爪。そして、裂けた口。
二体とも、笑っていた。そう見える顔をしていた。
「中級だ」
レイスが低く言う。
「ただし、ただの中級じゃない。二体とも、恐らく知性持ちだ」
「中級が二体で、この感じかよ」
アルドは緋喰刃を構えた。胸の奥で蒼炎が静かに熱を持つ。夜骸は動かない。ただ、こちらを見ている。目らしい目はない。それなのに、見られていると分かる。誰が前に出るか。誰が後ろで支えるか。誰が荷とハインを守るか。それを測っているようだった。
「ハインさん、奥へ」
セレスが言う。
「はい」
ハインはすぐに荷の陰へ下がった。その前に、荷車のそばにいた岩儡が一体動く。重い足音を響かせ、ハインの前で盾のように立った。セレスは息を整える。
「入口の子で一体を止める。もう一体をこっちで迎える」
「分かった」
アルドが前へ出た。
「ノル、足と顔を狙え」
「了解」
「セレスはハインを守りつつ、岩儡の補助」
「うん」
「エディン」
「はぁい」
「抜けてきたら頼む」
「任せなさいなぁ」
レイスは入口の地面を見た。廃倉庫の床は土と木板が混ざっている。水を通すには悪くない。ただし、敵の足も速い。一瞬でも判断を間違えれば、後衛が潰される。
「出るぞ」
アルドが低く言った。その瞬間。二体の夜骸が動いた。片方が、入口の岩儡へ飛びかかる。速さではない。重さでもない。その両方だった。熊型夜骸の前脚が、岩儡の両腕に叩きつけられる。轟音。入口の床が沈み、廃倉庫の壁が揺れた。岩儡は倒れなかった。両足を地面に食い込ませ、夜骸の前脚を受け止める。岩と黒い肉が軋む。夜骸の口が開く。牙が、岩儡の肩へ噛みついた。石が砕ける。だが、岩儡も黙っていない。
太い腕で夜骸の胴を抱え、壁へ押し返す。入口の外で、岩儡と一体の夜骸が組み合った。もう一体は、その脇をすり抜けるように沈んだ。
「来る!」
ノルが叫ぶ。熊型夜骸が、地を這うように突っ込んできた。大きな身体に似合わない低い姿勢。まるで、岩儡と仲間の戦闘を遮蔽物にしていたかのような動きだった。アルドは前へ出る。緋喰刃に蒼炎を纏わせた。
「蒼炎壱式 蒼火球!」
蒼い火球が、夜骸の顔面へ叩き込まれる。青い爆ぜ火が夜を照らした。だが、夜骸は止まらない。顔面の黒い肉が焼け崩れ、白い骨が覗く。それでも、首を横へ振るだけで炎を散らし、そのまま前脚を振り抜いた。アルドは横へ跳ぶ。爪が床を裂いた。木板が弾け、土が噴き上がる。エディンが大剣を構えて前へ出ようとした。しかし、レイスが先に手を伸ばす。
「水流参式 護水壁!」
厚い水壁が、夜骸の前脚とエディンの間に立ち上がる。爪が水壁へ突き刺さった。水が弾ける。だが、受け止める。その一瞬を、ノルは逃さなかった。
「旋風壱式 導弾」
翠穿が三度鳴った。三発の弾丸が、まっすぐではなく弧を描いて飛ぶ。一発目は夜骸の右前脚の関節へ。二発目は肩の付け根へ。三発目は裂けた口の端へ。風に誘導された弾丸が、黒い肉へ食い込む。夜骸の身体が、わずかに傾いた。
「効いてるけど浅い」
ノルが言った。
「なら深く入れる!」
アルドは踏み込む。足元で風が爆ぜた。
「旋風壱式 踏風!」
身体が前へ伸びる。蒼炎を纏った緋喰刃が、夜骸の前脚を斬りつけた。青い火が黒い肉を裂く。骨に当たる。硬い。中級とは思えない密度だった。アルドの刃が弾かれる。その瞬間、夜骸のもう片方の前脚が、横から来た。速い。受けるには近すぎる。
「アルド!」
セレスが叫び、地面へ魔力を流した。
「大地参式 岩杭!」
夜骸の足元から、岩の杭が突き上がる。腹を貫くほどではない。だが、夜骸の胴を下から押し上げ、ほんの一瞬だけ軌道を狂わせた。前脚がアルドの肩をかすめる。布と皮膚が裂けた。アルドは後ろへ転がる。すぐに起き上がる。
「助かった!」
「まだ来る!」
セレスの声と同時に、夜骸が跳んだ。大きな身体が、天井近くまで浮く。ありえない高さ。重さを感じさせない跳躍。そして、落ちてくる場所はアルドではない。後ろ。ノルとハインの方だった。
「こいつ、見てる」
レイスが低く言った。戦いやすい相手を狙っていない。崩せば全体が崩れる場所を狙っている。
「ノル!」
「分かってる!」
ノルは翠穿を上へ向ける。だが、夜骸は落下しながら身体を捻った。弾道を読んだような動き。ノルの一発目が肩を削る。二発目は外れる。三発目は爪に弾かれた。
「三発目を弾いた!」
ノルが目を見開く。夜骸が落ちる。ハインの前にいた岩儡が、両腕を上げた。衝突。岩儡の腕がひび割れた。夜骸の爪が、岩の腕へ深く食い込む。岩儡は倒れない。だが、膝が沈む。ハインの顔から血の気が引いた。
「ハイン、下がれ!」
アルドが走る。レイスも同時に動いた。
「雷流弐式 絡縛!」
雷を帯びた水糸が床を走る。夜骸の脚へ絡みつく。黄色い雷が黒い肉を跳ねた。夜骸の動きが、一瞬だけ止まる。その隙に、エディンが横から入った。大剣を低く構え、夜骸の胴へ叩き込む。刃ではない。重さ。大剣の腹で、夜骸を横へ押し飛ばした。
「よいしょ」
軽い声。だが、衝撃は軽くない。夜骸の巨体が横へずれ、岩儡から爪が外れた。ハインの前に空間ができる。アルドがそこへ滑り込んだ。
「大丈夫か!」
「は、はい!」
ハインは震えながらも頷いた。その時、外で轟音が響いた。入口側。岩儡と組み合っていたもう一体だ。夜骸が、岩儡の片腕を噛み砕いていた。石の腕が崩れ、床へ落ちる。岩儡は残った腕で夜骸の頭を押さえつけようとする。だが、夜骸は頭を下げた。押さえられる前に身を沈め、岩儡の足元へ潜り込む。肩で岩儡の膝を押す。爪で足首を砕く。腕ではなく、支えを狙った。岩儡の巨体が傾く。
「駄目!」
セレスが叫ぶ。岩儡は踏ん張る。だが、夜骸は笑うように口を裂いた。次の瞬間、もう片方の前脚が、岩儡の胴を横から抉った。岩が砕ける。入口の岩儡が崩れ落ちた。土と石の塊になって床へ沈む。壊されたという信号が、セレスへ届く。痛みはない。それでも、胸が冷える。
「入口の子がやられた」
セレスが言った。その声は震えていなかった。だが、怒りがあった。倒した一体目の夜骸が、廃倉庫の入口からゆっくり入ってくる。これで二体。二体が、内側へ揃った。挟まれた。正面に一体。入口に一体。しかも、二体とも同じ顔で笑っている。
「ここからが本番か」
アルドは緋喰刃を握り直した。
「こいつら、完全に連携してる」
レイスが言う。
「片方が押し、片方が崩す。狙いも後衛と足場だ」
「知性持ちが連携するとこうなるのね」
セレスが言う。
「厄介」
ノルが答えた。エディンが大剣を肩に担ぎ、薄く笑う。
「賢い熊さんねぇ」
「かわいくない」
「そうねぇ。かわいくはないわねぇ」
二体が、同時に動いた。一体がアルドへ。もう一体が、レイスへ。狙いを分けた。アルドは蒼炎を纏わせ、正面の夜骸を迎える。レイスは水を走らせ、入口側の夜骸の足元へ泥を作る。
「水地参式 泥蓮陣!」
床に泥が広がる。踏み込むほど沈む拘束陣。夜骸の前脚が泥へ入った。だが、沈まない。夜骸は前脚を大きく開き、体重を四方へ逃がした。さらに、爪で床を裂いて泥を外へ飛ばす。
「対応した」
レイスが歯を噛む。
「一度見ただけでか」
ノルの翠穿が火を吹く。三発の弾丸が入口側の夜骸へ向かう。夜骸は顔を逸らさない。代わりに、もう一体が横へ動いた。アルドと戦っていた夜骸が、身体を半歩ずらす。その背中の黒い骨が、弾丸の軌道に入った。一本目。二本目。弾丸が骨に弾かれる。三本目だけが、横から回り込んで入口側の夜骸の首へ刺さった。浅い。二体が、互いの盾になった。
「今の、庇った?」
ノルの声が少し低くなる。
「庇ったというより、使ったんだろうな」
レイスが言う。
「体の位置まで計算してる」
アルドが舌打ちする。目の前の夜骸が、爪を振るう。アルドは刃で受ける。重い。大級ほどではない。だが、鋭い。腕ではなく、刃の根元を狙ってくる。武器を折るつもりか。アルドは力で押し返さず、右へ流した。そのまま左手を前へ出す。
「雷荷弐式 迅雷!」
雷が夜骸の前脚へ走る。黒い肉が一瞬だけ硬直した。アルドはそこへ斬り込む。蒼炎が前脚を裂く。だが、切り落とす前に、入口側の夜骸が横から突っ込んできた。仲間の硬直を補う動き。速い。アルドの横腹へ、爪が迫る。
「アルドちゃん!」
エディンが入った。大剣で爪を受ける。火花ではなく、骨と金属が擦れる嫌な音がした。エディンの足が床を削る。
「重いわねぇ……!」
珍しく、声に力が入っている。ノルがすかさず撃つ。
「旋風弐式 圧空弾」
圧縮した風の弾丸が、夜骸の横顔へ叩き込まれた。顔が弾ける。裂けた口の片側が吹き飛んだ。だが、夜骸はすぐに頭を戻す。その顔は、まだ笑って見えた。
「顔、気持ち悪い」
ノルが言う。
「同感だ」
レイスが返す。
「一体ずつ潰すぞ!」
アルドが叫んだ。
「まず右だ!」
「右、了解」
ノルが翠穿を構え直す。セレスも両手を床へついた。
「足を止める!」
土が盛り上がる。
「大地弐式 岩枷!」
右側の夜骸の足元から岩がせり上がり、足首を挟む。夜骸は即座に足を捻った。岩枷が割れる。だが、一瞬だけ止まった。レイスがその隙へ魔力を流す。
「雷流参式 鳴瀑!」
泥と水に雷が走り、夜骸の脚元で爆ぜた。黒い肉が跳ね、動きが乱れる。ノルが撃つ。
「旋風参式 三牙穿」
三発の弾丸が纏まって放たれる。風が三発を噛み合わせる。一本の牙のような軌跡。それが夜骸の肩を貫いた。骨を砕く音がした。夜骸の右前脚が、肩から大きく裂ける。アルドが踏み込む。
「蒼炎弐式 蒼炎蛇!」
地面を這う蒼い炎が、蛇のように伸びる。一本。二本。三本。裂けた肩へ巻きつく。燃える。縛る。夜骸が初めて大きく身体を揺らした。叫び声はない。唸りもない。ただ、裂けた口がさらに広がる。
「笑ってんじゃねぇ!」
アルドは緋喰刃を振り上げた。
「蒼炎参式 蒼火閃!」
蒼い線が走る。斬撃は、夜骸の肩から胴へ抜け、同時に蒼炎蛇が爆発した。黒い肉が裂け、白い骨が割れ、青い炎が内部を焼いた。夜骸の巨体が崩れる。だが、倒れきる前に、もう一体が動いた。倒れかけた仲間の身体を、盾ではなく踏み台にした。その背中を蹴り、アルドへ飛ぶ。
「嘘だろ」
アルドの目が見開かれる。倒れる仲間ごと利用した。夜骸の爪が、アルドの頭上から落ちる。レイスが水壁を立てるには、少し遅い。ノルの銃口も、角度が悪い。その時、エディンが横から走った。大剣を両手で握り、身体ごと回す。
「おねぇさん、そういうの嫌いよぉ!」
大剣が夜骸の横腹へ叩き込まれる。空中の軌道がずれた。爪がアルドの肩をかすめ、床を抉る。アルドはその場で踏ん張った。後退しない。緋喰刃を握り直す。
「助かった!」
「後でお礼ちょうだいねぇ!」
残った夜骸が着地する。一体目はまだ完全には消えていない。胴を裂かれ、肩を焼かれながら、床を掻いている。動けない。だが、まだ核が残っている。残った一体は、それを見た。そして、動いた。アルドたちは一瞬、身構えた。庇うのか。利用するのか。逃げるのか。夜骸は、倒れた仲間の胸へ爪を突き刺した。黒い肉が引き裂かれる。中にある核めいた硬い塊を、爪で掴む。
「何してるの」
ノルが呟く。夜骸は、その塊を口へ運んだ。噛み砕いた。嫌な音が響いた。倒れた一体の身体が、急速に崩れ始める。残った一体の黒い肉が、脈打った。背中の骨が伸びる。前脚がさらに長くなる。裂けた口が、耳元まで広がる。
「喰った……」
セレスの声が震える。
「まずい!」
アルドが走る。だが、夜骸はすでに動いていた。さっきより速い。姿が揺れる。アルドの斬撃が空を切る。横から爪。アルドは緋喰刃で受ける。重さはさっきと同じ。だが、角度が違う。刃を逸らし、腕を狙い、足場を削る。まるで、さっきまでの戦いを覚えているようだった。
「こいつ、さらに賢くなってる!」
レイスが叫ぶ。
「ハインを下げろ!」
セレスがすぐに動く。ハインの前に残っていた岩儡をもう一歩前へ出す。だが、夜骸はハインを狙わなかった。今度は、セレスを見た。岩儡を動かしている者。足場を作る者。防御を支える者。そこを崩せば、守りが崩れると判断したように。
「セレス!」
ノルが撃つ。弾が夜骸の横顔へ向かう。夜骸は避けない。前脚を上げ、弾丸を爪で叩き落とした。一発。二発。三発目だけが、爪の隙間を抜けて首へ刺さる。浅い。夜骸は止まらない。セレスへ迫る。セレスは逃げない。両手を床へ叩きつける。
「大地参式 岩杭!」
岩杭が三本、床から突き出す。夜骸はそれを見ていた。一本目を跳ぶ。二本目を爪で砕く。三本目を踏み台にする。さらに加速した。
「やば――」
セレスの前に、レイスが入った。
「水流参式 護水壁!」
厚い水壁が立つ。夜骸の爪が突き刺さる。水が裂ける。だが、完全には割れない。レイスの肩が震える。
「長くは持たん!」
エディンが横から回る。大剣を振る。夜骸は水壁に爪を入れたまま、後ろ脚だけで身体を捻った。背中の黒い骨がエディンへ向かう。骨の槍。エディンは大剣で受けた。だが、一本ではない。背中の骨が三本、角度を変えて伸びる。
「器用ねぇ……!」
エディンが後ろへ下がる。ノルが歯を噛んだ。
「撃つ場所が少ない」
「作る!」
アルドは蒼炎を大きく広げた。
「蒼炎壱式 乱火!」
蒼い火が不規則に弾けた。夜骸の足元。背後。爪の横。顔の近く。いくつもの火が同時に爆ぜる。夜骸は全てを避けられない。左前脚が焼ける。顔の片側が弾ける。背中の骨が一本焦げ落ちる。その一瞬、夜骸の身体が開いた。
「ノル!」
「見えた」
翠穿が鳴る。
「旋風参式 三牙穿」
三発が噛み合う。一本の牙が、夜骸の胸へ向かう。夜骸は爪で払おうとした。だが、その爪へレイスの雷が絡む。
「雷流弐式 絡縛!」
水糸と雷が、前脚を縛る。ほんの一瞬。それで十分だった。三牙穿が胸へ突き刺さる。黒い肉が裂ける。奥に硬いものが見えた。核。アルドが走る。夜骸は胸を庇おうとする。エディンがその腕を大剣で叩き落とす。
「行きなさい、アルドちゃん!」
「おう!」
アルドは緋喰刃を両手で握った。蒼炎が刃を覆う。夜骸が口を開いた。笑うように。その顔が、真正面に迫る。アルドは逃げなかった。むしろ、口の内側へ踏み込むように距離を詰めた。刃へ蒼炎が圧縮され、青い線になる。
「蒼炎参式 蒼火閃!」
一閃。蒼い火が、夜を裂いた。緋喰刃は夜骸の胸を断ち、その奥の核を裂き、背中の骨まで抜けた。青い炎が内部から噴き上がる。夜骸の巨体が止まる。裂けた口が開いたまま、動かない。そして、崩れた。黒い肉が泥のように落ち、白い爪が床へ転がり、背中の骨が灰のように砕ける。廃倉庫の中に、朝の気配が差し込んだ。誰も、すぐには動けなかった。荒い呼吸だけがある。アルドは緋喰刃を下ろした。肩から血が流れている。
太腿にも裂傷がある。レイスは水壁を維持していた手を下ろし、膝に手をついた。ノルは翠穿を構えたまま、しばらく崩れた夜骸を見ていた。セレスは壊れた岩儡の残骸へ目を向ける。エディンは大剣を肩に担ぎ直したが、息は少し荒かった。ハインは荷の陰から、ようやく顔を上げる。外が、明るい。戦っているうちに、夜が明けていた。廃倉庫の入口から、薄い朝日が差し込んでいる。
「……長かった」
ノルが呟いた。
「ああ」
レイスが答える。
「中級二体で、ここまでか」
「知性持ちが二体になるとここまで…」
セレスが言う。
「完全に連携してた」
「しかも、最後は喰った」
アルドは崩れた夜骸の残骸を見る。夜骸同士の捕食。以前にも見た。だが、何度見ても慣れるものではなかった。
「大級にならなくてよかった」
「ええ」
エディンが静かに言った。
「嫌な熊さんだったわぁ」
「熊に謝れ」
レイスが言う。
「確かに、本物の熊に失礼ねぇ」
セレスは壊れた岩儡のそばへ歩いた。入口を守っていた大きな岩儡は、もう形を残していない。土と石に戻っている。セレスはしゃがみ、そっとその残骸に手を置いた。
「守ってくれてありがとう」
土は答えない。けれど、セレスは少しだけ息を吐いた。アルドは朝の光を見る。
「ここはもう駄目だな」
「そうだな」
レイスが頷く。
「夜骸が来た以上、長く留まるべきじゃない」
「出よう」
アルドは言った。
「南東へ進む」
「了解」
ノルが短く返す。ハインはすぐに荷を確認し始めた。セレスは動ける岩儡を見た。荷引き用の岩儡はまだ無事だった。護衛用も、一体は大きく欠けていたが、まだ動く。
「この子は連れていける」
セレスが言う。
「頼めるか」
「うん」
岩儡は、少しぎこちなく頷いた。
◇
朝の林は、夜の戦場が嘘のように静かだった。一行は廃倉庫を離れ、南東へ進んでいた。荷車は荷引き用の岩儡が引いている。その横には、片腕の欠けた護衛用の岩儡が歩いていた。昨夜の戦いで傷ついた姿のままだが、まだ十分に動ける。それがいるだけで、少しだけ気が抜けた。全員、疲れている。傷もある。眠れていない。それでも、朝の光の下で歩いているというだけで、夜の廃倉庫よりはましだった。
「護衛用なのに、片腕ないね」
ノルが言った。セレスは岩儡を見上げる。
「片腕でも強いよ」
岩儡が、任せろと言うように胸を張った。欠けた肩から、小さな土の欠片がぽろりと落ちる。レイスが言う。
「胸を張ると崩れるぞ」
岩儡が、そっと胸を戻した。
「聞き分けがいい」
ノルが言う。
「かわいいでしょ」
セレスが少しだけ得意げに笑った。アルドは肩を回し、顔をしかめる。
「いてて……」
「肩、まだ痛む?」
セレスが聞く。
「まあな。でも動く」
「動くから大丈夫は信用しない」
「昨日も似たようなこと言われたな」
「アルドはずっと言われる側」
ノルが淡々と言う。
「俺の扱い、最近雑じゃないか?」
「元から」
「元からかぁ」
エディンが笑う。
「元気そうで何よりねぇ」
「元気ではない」
レイスが即答した。
「全員かなり消耗している。軽口で誤魔化しているだけだ」
「そういうこと言うと急に疲れるだろ」
アルドが言う。ハインは苦笑しながら、荷車の横を歩いていた。
「皆さん、本当に大丈夫ですか?」
「大丈夫」
ノルが答える。
「たぶん」
「たぶんを付けるな」
レイスが言う。
「じゃあ、大丈夫かもしれない」
「悪化した」
少しだけ笑いが起きた。疲れている。重いものは、まだいくつも抱えている。赤鎖の獅子団。団長との接触。月酔いの情報。昨夜の夜骸。何一つ片付いていない。それでも、朝の林の中では、少しだけ軽い会話ができた。荷引き用の岩儡が、ぎし、ぎし、と荷車を引く。護衛用の岩儡が、その横を歩く。葉の隙間から、朝日が細く落ちている。その時だった。
「ん?」
アルドが足を止めた。同時に、エディンも少しだけ目を細める。
「あらぁ」
レイスがすぐに顔を上げた。
「どうした」
アルドは黙って、林の奥を見た。右手側。三時の方向。木々が続いている。普通に見れば、ただの林だった。だが、アルドの感知には、そこだけ妙に引っかかった。何かがいるわけではない。夜骸の気配でもない。人の反応でもない。むしろ、逆だった。そこだけ、空気が変だった。
「向こうに、なんか変な空間がある」
「変な空間?」
ノルが聞き返す。
「うまく言えない。何かいるって感じじゃない。そこだけ、抜けてるみたいな……」
アルドは言葉を探した。
「林の中なのに、林じゃない場所がある」
ノルは目を閉じた。翠穿を抱えたまま、意識を薄く広げる。空気の流れ。木々の隙間。葉の震え。土の湿り。鳥の動き。その奥。三時の方向。そこだけ、確かにおかしかった。風が入っていくのに、戻り方が違う。木々があるはずの場所に、木々の揺れがない。魔力の濃淡も、そこだけ四角く途切れているように感じる。
「……ある」
ノルが目を開けた。
「変な空間」
エディンも首を傾ける。
「なにかしらねぇ。隠れているというより、抜け落ちている感じだわぁ」
「危険か?」
レイスが聞く。
「分からない」
アルドは答える。
「でも、見過ごすには気持ち悪い」
セレスが岩儡を見る。
「迂回する?」
「いや」
アルドは首を横に振った。
「寄る。何かあるなら、背中に置いたまま進みたくない」
「同感だ」
レイスが頷いた。
「ただし、慎重に行く。ハインと荷は後ろだ」
「分かりました」
ハインはすぐに頷いた。護衛用の岩儡が、ハインの前へ少しだけ出る。一行は、三時の方向へ進路を変えた。林の中へ入る。木々は普通に生えている。足元も普通の土だ。枝葉の間から朝日が差し、鳥の声も聞こえる。だが、進むほど違和感は強くなる。ある地点を境に、木の密度が変わった。自然に薄くなっているのではない。切り取られている。それも、雑にではなく、線を引いたように。アルドは足を止めた。目の前の茂みを抜ける。
その先で、視界が開けた。全員が、言葉を失った。林が、綺麗に正方形に切り開かれていた。小さな村ひとつ分ほどの広さ。地面は平らで、周囲を囲む木々は、まるで壁のように一直線に並んでいた。その中に、小さな家がぽつぽつと建っている。木の家。石を積んだ小屋。朽ちかけた柵。だが、人の気配はない。煙もない。声もない。足跡も、生活の匂いもない。村の形だけが、そこに残されていた。ハインが息を呑む。
セレスは無意識に短剣の柄へ触れた。ノルは翠穿を少し上げる。レイスは、周囲の木々の並びを見ていた。エディンは、珍しく笑っていなかった。アルドは一歩だけ前へ出た。朝の光が、空っぽの家々を照らしている。誰もいない。それなのに、ここはただの廃村ではない。そう感じた。
「なんだ? ここ……」
アルドの声だけが、四角く切り取られた林の中に落ちた。
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