届いた手紙
その夜、一行は元赤鎖の拠点で休むことにした。廃倉庫は、決して快適ではない。壁の一部は崩れ、床には古い木箱の破片が散らばり、赤鎖の末端たちが使っていた粗末な寝床も残っている。酒の匂いと湿った土の匂いが染みついていて、宿とは比べものにならなかった。それでも、屋根がある。外から見えにくい。周囲の見通しも悪くない。荷を置ける広さもある。何より、夜が近かった。移動を続けて夜の森の中で野営するよりは、この場所を使った方がまだ安全だった。
セレスは入口の近くに座り込み、頬を膨らませていた。彼女の横では、戦闘前に作った護衛用の岩儡が、ずしりと構えている。大きな岩の塊に腕と脚を生やしたような姿で、入口の外と荷車の周囲を見張っていた。
「まだ怒ってる」
ノルが言った。
「怒ってない」
セレスは即答した。
「怒ってる」
「怒ってない」
「顔が怒ってる」
「これは元から」
「違うと思う」
セレスはノルを睨んだ。ノルは翠穿を抱えたまま、少しだけ首を傾げる。
「ケイン、感じ悪かったね」
「感じ悪かったなんてもんじゃないよ!」
セレスが一気に声を上げた。
「あれ、絶対私にだけ態度おかしかったでしょ! エディンには急に丁寧になるし、ノルにも気持ち悪いくらい優しくなるし、私には『女』って! 名前あるんだけど!」
「うん」
ノルは頷いた。
「セレス」
「そう! セレス!」
「かわいい名前」
「ありがとう! でも今それじゃない!」
少し離れた場所で、エディンが楽しそうに笑っていた。
「あらぁ、でも分かりやすくて良かったじゃない」
「良くない!」
「ケインちゃんの中では、女の子の扱いに基準があるのねぇ」
「最低な基準でしょ!」
「そうねぇ」
エディンは頷いた。
「最低ねぇ」
「エディンが言うと、なんか楽しんでるように聞こえる!」
「実際、少し楽しかったわぁ」
「もう!」
セレスが頭を抱える。ハインは苦笑しながら、湯を入れた器を差し出した。
「セレスさん、温かいものをどうぞ」
「ありがとう、ハインさん……」
「こういう時は、飲み物で落ち着くのが一番です」
「うん……」
セレスは器を受け取り、ふう、と息を吹きかけた。だが、まだ眉間の皺は消えない。レイスが腕を組んだまま、低く言った。
「セレスの怒りは妥当だ」
「レイス!」
セレスの顔が明るくなる。
「そうでしょ!」
「ああ。あの男の態度は不快だ。特に女性相手の基準が下品すぎる」
「そう! そうなの!」
「それに俺への態度も悪い」
「そこも怒ってたんだ」
ノルが言う。レイスは即答した。
「当然だ」
アルドは苦笑した。
「お前、途中で本当に下がったもんな」
「下がらなければ斬っていた」
「そこまでかよ」
「そこまでだ」
セレスは器を両手で持ったまま、大きく頷いた。
「やっぱりレイスは分かってる」
「俺は常識を言っているだけだ」
「その常識が大事なの」
エディンがゆるく手を叩いた。
「あらぁ、今日はレイスちゃんがセレスちゃんの味方ねぇ」
「今日だけじゃない」
レイスは静かに返した。
「基本的に、あの男に対してはセレス側に立つ」
「心強い」
セレスが真顔で頷く。アルドは木箱に腰掛け、廃倉庫の奥を見る。ケインたちは去った。武器も持たず、毒も持たず。だが、完全に無力化できたとは思っていない。ケインという男は、軽かった。腹立たしかった。だが、強かった。
「で」
アルドは話を切り替えた。
「あいつらを信用していいと思うか?」
空気が、少しだけ変わった。セレスの怒りも、ノルの小さな笑みも、エディンの柔らかな空気も、少し奥へ下がる。レイスが答える。
「信用はできない」
「だよな」
「ああ。赤鎖の獅子団は、ただの盗賊ではなく反王国組織だった。規模も大きい。目的も過激だ。しかも清廉な貴族を殺すことまで肯定している」
レイスは淡々と並べた。
「俺たちが信用していい相手ではない」
「でも、情報は持ってる」
ノルが言った。
「それも確かだ」
レイスは頷く。
「月酔い患者の資料を集めていたこと、団長なら国の秘密について何か知っている可能性があること。それは無視できない」
ハインが口を開いた。
「こちらから赤鎖の獅子団に近づくのは、かなり危険です」
「分かってる」
アルドが答える。
「赤鎖と関われば、皆さんは完全に反逆者扱いされる可能性があります。今でも十分危ういですが、王国打倒を掲げる組織と接触すれば、言い逃れは難しくなります」
「もう言い逃れする気もないけどな」
アルドの声は静かだった。ハインは少しだけ目を伏せた。
「ですが、周囲を巻き込みます。陽剣旅団として名を売ると決めたばかりです。赤鎖と関係があると見られれば、依頼人にも危険が及ぶかもしれません」
「それは避けたい」
セレスが言った。
「赤鎖に頼るのと、赤鎖と同じになるのは違うよね」
「ああ」
レイスはセレスを見る。
「俺たちは、赤鎖の仲間になるべきではない」
「仲間にはならない」
アルドはすぐに言った。
「ケインも、赤鎖も、信用する相手じゃない。だが、使える道なら使う」
ノルが翠穿を撫でる。
「敵の敵は味方」
「ケインはそう言ったな」
「でも、味方って言葉は雑すぎる」
「その通りだ」
レイスは頷く。
「正確には、一時的に利害が重なる相手だ」
「長い」
「正確に言うと長くなる」
ノルは少しだけ考えた。
「じゃあ、仮味方」
「軽すぎる」
「仮敵?」
「敵寄りすぎる」
「面倒な相手」
「それが近い」
エディンが小さく笑う。
「おねぇさんは、嫌いじゃないわよぉ」
セレスが目を丸くする。
「え、ケインを?」
「ええ」
「なんで!?」
「腹立たしいけれど、嘘が少ないもの」
エディンは指先で髪を払った。
「あの手の男は、分かりやすく自分の欲と基準で動くでしょう? だからこそ、何を嫌がり、何に乗るかも見えやすいわぁ」
「私は見えた上で腹立つ」
「それは正しいわぁ」
セレスは少しだけ納得しかけて、すぐに首を横に振った。
「でも腹立つ」
「それも正しいわねぇ」
アルドは小さく息を吐いた。
「団長に会えるなら、会う」
誰もすぐには反対しなかった。反対できるだけの理由はある。危険。不信。反王国組織。盗賊。貴族殺し。どれも十分だった。だが、それでも、月酔いの情報を持っている可能性がある。ルシアンを取り戻すための交換材料になるかもしれない。王国の秘密へ近づく道になるかもしれない。
「会うとしても、条件は必要だ」
レイスが言った。
「場所、人数、逃走経路、ハインを同行させるかどうか。事前に決めることが多い」
「ハインは危ないなら外す」
アルドが言う。ハインはすぐに首を横に振った。
「いえ。交渉なら、私がいた方がいい場面もあります」
「でも危ない」
「危険は承知しています」
ハインは真っ直ぐ答えた。
「ですが、赤鎖の獅子団が組織である以上、話は力だけでは進みません。取引、条件、約束、言質。そういうものが必要になるはずです」
「頼もしいね」
セレスが言う。
「でも無理はしないでね」
「はい」
ハインは柔らかく笑った。
「無理をしない範囲で、最大限頑張ります」
「それ、結構危ない言い方だぞ」
アルドが言う。
「商人ですので」
「便利な言葉だな」
少しだけ、空気が緩んだ。外では、岩儡が静かに立っている。大きな護衛用の岩儡が入口に一体。荷車のそばに二体。小型の巡回用が廃倉庫の周囲を歩いている。セレスが作ったものだ。戦闘前にハインと積荷を守るために生み出した岩儡たちを、夜の見張りにも使うことにした。
「今夜の見張り、本当に岩儡だけで大丈夫かな」
ハインが少し不安そうに言う。セレスは頷いた。
「大丈夫。近づくものがあれば、私に信号が来る。壊されても分かるよ」
「それでも、誰か起きていた方がいいんじゃないか?」
アルドが聞く。
「今日は全員寝た方がいい」
レイスが言った。
「戦闘後だ。明日以降、赤鎖から接触がある可能性もある。休める時に休むべきだ」
「今回のゴーレムたち、強いよ」
セレスが少しだけ胸を張る。
「護衛用だから、荷引き用より頑丈にしてる」
入口の岩儡が、任せろと言うように少しだけ胸を張った。ノルがそれを見て呟く。
「かわいい」
「でしょ」
「強そうでかわいい」
「分かる」
レイスは呆れたように見た。
「見張りをかわいさで評価するな」
「でも大事」
「何がだ」
「士気」
「岩儡に士気があるのか?」
入口の岩儡が、ゆっくりと頷いた。レイスは目を閉じた。
「……あるらしいな」
セレスは少しだけ笑った。その夜、一行は廃倉庫の中で休むことにした。荷は奥にまとめる。ハインは帳面を抱えたまま、壁際で眠る。ノルは翠穿を抱えたまま横になる。エディンは大剣を手の届く場所に置き、毛布を肩にかける。レイスは入口に近い位置を選んだが、セレスに「見張りは岩儡」と言われ、少しだけ中へ押し戻された。アルドは最後まで外を見ていた。赤鎖の獅子団。王国の打倒。団長。月酔いの資料。ルシアン。
考えることは多い。だが、夜は待ってくれない。アルドはゆっくりと目を閉じた。
◇
アルドたちがケインと話していた頃。王都討祓軍本部の総隊長室では、ローグレスが書類に目を通していた。机の上には、国軍との合同会議に関する資料が並んでいる。夜骸の出現範囲。警備線。国軍側の巡回経路。王都周辺の村から上がってきた不安の声。どれも軽くはない。だが、ローグレスの目は何度も同じ行をなぞっていた。黒豹のことが、頭から離れない。アルド。レイス。ノル。セレス。エディン。ルシアン。
ルカ。ゴード。彼らは生きている。そう信じている。だが、手元に確かな報告はない。扉が叩かれた。
「入れ」
ジークが静かに入室した。いつものように、手には書類の束を持っている。だが、その上に一通のかわいらしい封筒があった。
「ローグレス様」
「どうした」
「第一部隊の隊舎に届いていた手紙です。第五部隊が回収し、こちらへ回してきました」
ローグレスの手が止まる。
「第一部隊の隊舎に?」
「はい」
ジークは封筒を差し出した。封筒の宛名には、レイスの名があった。差出人の名を見た瞬間、ローグレスの表情がわずかに変わる。ミリナ。レイスの妹。
「……開けたのか」
「封は開いておりません。ただ、第五部隊からは、差出人が身内であるため総隊長判断に委ねると」
ローグレスは封筒を見つめた。本来なら、部下宛の手紙を読むべきではない。だが、レイスは今ここにいない。隊舎にもいない。そして、差出人は、彼の身を案じる家族だった。ローグレスは少しだけ目を伏せた。
「……すまない、レイス」
小さく呟き、封を開けた。中には、丁寧な文字で書かれた手紙が入っていた。内容は短い。最近、兄が見舞いに来なくなったこと。いつもなら、忙しくても短い言葉くらいは届けてくれること。煤鳩亭や隊舎の話も途切れてしまったこと。黒豹がどこかへ行ったという噂を聞いたこと。自分は元気だから、兄が無理をしていないか心配だということ。ローグレスは、最後まで読んだ。読み終えても、すぐには手紙を戻せなかった。
ジークは何も言わない。ただ、静かに控えている。
「ジーク」
「はい」
「この後の予定は」
「一時間後に、国軍との会議が入っております。それまでは予定はありません」
「そうか」
ローグレスは手紙を封筒へ戻した。それから、立ち上がる。
「行くぞ」
「どちらへ」
「ミリナちゃんの療養院だ」
ジークは一瞬だけ目を伏せた。
「承知しました。同行いたします」
「ああ」
ローグレスは上着を取った。
「これは、私が行くべきだ」
◇
療養院の病室は、静かだった。窓から入る光は柔らかく、白い布のカーテンがわずかに揺れている。部屋には小さな机と椅子、花の入った瓶、数冊の本、そして丁寧に整えられた寝台があった。ミリナは寝台の上に座っていた。細い身体。穏やかな顔。だが、目には不安が残っている。突然訪ねてきた二人が誰なのか、すぐには分からないようだった。ローグレスは病室の入口で足を止め、ゆっくりと頭を下げた。
「突然すまない」
声は低い。だが、いつもの会議室で響く声とは違っていた。硬さを抑え、相手を驚かせないようにしている。
「私はローグレス。君のお兄さん、レイスの上司にあたる者だ」
ミリナの目が大きくなる。
「あなたが、ローグ様……?」
「ああ。レイスからはそう呼ばれている」
ミリナは慌てて姿勢を正そうとした。ローグレスが片手で制する。
「そのままでいい。身体に障る」
「す、すみません」
「謝ることではない」
ローグレスは少しだけ表情を和らげた。
「こちらはジーク。私の補佐をしている」
ジークも丁寧に頭を下げる。
「ジークと申します。突然お邪魔して申し訳ありません」
「い、いえ。兄がお世話になっています」
ミリナは二人へ頭を下げた。
「兄さんから、お話は聞いています。ローグ様は、とても怖いけど、とても優しい方だって」
ローグレスの眉がわずかに動く。
「怖い、か」
ジークが静かに視線を逸らした。ミリナは慌てる。
「あっ、悪い意味ではなくて。兄さんは、信頼している人の話をする時ほど、少し言い方が硬くなるので……」
「分かっている」
ローグレスは小さく息を吐いた。
「レイスらしい」
ジークが持っていた小さな包みを差し出した。
「お見舞いの品です。よろしければ」
「え……?」
ミリナが受け取る。包みを開くと、中には細身のペンが入っていた。黒い軸に、銀色の細い飾りが入っている。いかにも高価そうだった。
「わ……綺麗……」
ミリナの顔が、少しだけ明るくなる。
「ありがとうございます。でも、こんな高そうなもの……」
「手紙を書くと聞いた」
ローグレスが言う。
「使ってくれ」
ミリナはペンを両手で持ち、そっと胸元へ寄せた。
「大切にします」
その笑みを見て、ローグレスの胸の奥が少しだけ痛んだ。この子は、レイスを待っている。何も知らずに。ただ、兄を信じて。
「手紙を読んだ、覗くような真似をして申し訳ない」
ローグレスは静かに言った。ミリナの顔から、少しだけ笑みが消える。
「いえ、それで、兄さんは……」
声が小さくなる。
「兄さんは、無事なんですか?」
ローグレスは、すぐには答えなかった。嘘は言いたくない。だが、真実を言うこともできない。レイスが国に追われている。黒豹は逃亡している。それを、病室にいる彼女へ伝えることはできない。
「最近、原因の分からない夜骸の出現が増えている」
ローグレスは言葉を選んだ。
「第一部隊は、その対処のために国内を広く回っている。長期の遠征になっている」
「遠征……」
「ああ。急に決まった任務だ。君に連絡する余裕もなかったのだと思う」
ミリナは唇を噛む。
「でも、黒豹が消えたって噂が……」
「内密の任務だ」
ローグレスは静かに言った。
「噂が出るのは、その任務の性質上避けられなかった。だが、消えたわけではない」
「……本当ですか?」
「私は、レイスの上司だ」
ローグレスはミリナを見る。
「本来なら、身内である君には、もっと早い段階で私から説明するべきだった。心配をかけた。すまない」
ミリナは慌てて首を横に振った。
「やめてください。ローグ様が謝ることでは……」
「ある」
ローグレスの声は静かだった。
「部下を預かる者として、君に不安を抱かせた。それは私の責任だ」
ミリナの目に、薄く涙が滲んだ。
「兄さんは、元気ですか?」
その問いに、ローグレスは胸の奥が重くなるのを感じた。元気だ。そう言いたかった。だが、言えない。今のレイスが、どこで、どんな顔をしているのか。何を抱え、何に傷ついているのか。ローグレスには分からない。
「危険な任務だ」
ローグレスは言った。
「だから、元気かどうかまでは分からない」
ミリナの指が、ペンを強く握る。
「だが」
ローグレスは続けた。
「少なくとも、死んだという報告はない。レイスは君が思っているよりも強い兄だ、生きているよ」
ミリナは目を閉じた。深く息を吸う。それから、小さく頷いた。
「……はい」
「レイスは、そう簡単に倒れる男ではない」
「兄さん、昔から無理をするんです」
ミリナは少しだけ笑った。
「自分は平気な顔をして、後で一人で熱を出すような人で」
「分かる」
ローグレスは即答した。ミリナが少し驚く。ジークも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「レイスは昔からそうだ。自分の負担を勘定に入れない」
「やっぱり、今もそうなんですね」
「そうだな」
「困った兄です」
「ああ」
ローグレスは頷いた。
「困った部下だ」
ミリナが初めて、少しだけ声を出して笑った。その笑い声は細く、すぐに消えた。だが、確かに病室の空気を柔らかくした。
「ミリナちゃん」
「はい」
「身体はどうだ」
「最近は少し落ち着いています。長く歩くのはまだ難しいですけど、本を読んだり、手紙を書いたりはできます」
「そうか」
「このペンで、兄さんにまた手紙を書きます」
「届くように手配する」
ジークが静かに言った。
「ありがとうございます、ジークさん」
ミリナはジークを見る。
「ジークさんは、普段何をしているんですか?」
「ローグレス様の補佐です。資料の整理、記録、通達、会議の準備などを行っています」
「大変そうです」
「ローグレス様ほどではありません」
ジークの返答に、ミリナは少しだけ笑った。
「ローグ様は、こんなところに来ていて大丈夫なんですか? 偉い方なんですよね」
「一時間後に会議がある」
「えっ」
「それまでは空いていた」
「それ、空いているって言うんですか?」
ローグレスは少しだけ考えた。
「ジークがそう言った」
ミリナがジークを見る。ジークは静かに頷く。
「予定上は空いておりました」
「予定上……」
ミリナは困ったように笑った。
「兄さんが聞いたら、絶対に怒ります」
「その通りだな」
ローグレスは立ち上がる。
「だから、レイスには内緒にしておいてくれ」
「はい」
ミリナはペンを胸元で抱えたまま、微笑んだ。
「でも、兄さんに会えたら言ってしまうかもしれません」
「まいったな」
ローグレスは病室の扉の前で振り返った。
「また来る」
ミリナの目が丸くなる。
「いいんですか?」
「ああ」
ローグレスは少しだけ間を置いた。
「レイスが戻るまで、私が様子を見に来る、むさ苦しいおじさんで悪いが、我慢してくれ」
ミリナは何かを言おうとして、うまく言葉にできないようだった。それから、深く頭を下げた。
「嬉しいです。ありがとうございます」
ローグレスは短く頷き、ジークと共に病室を出た。
◇
療養院を出ると、王都の空は少し傾き始めていた。会議までは、まだ間に合う。ジークはローグレスの半歩後ろを歩いていた。いつもの距離。いつもの沈黙。だが、ローグレスの足取りは、普段よりわずかに重かった。
「ジーク」
「はい」
「私は嘘をついたな」
ジークはすぐには答えなかった。人の流れが、二人の横を過ぎていく。王都はいつも通り動いている。商人が荷を運び、子どもが走り、どこかの店から焼いたパンの匂いがする。その中で、ローグレスの声だけが低く落ちていた。
「正確には、全てを話さなかった。です」
ジークが言った。
「同じことだ」
「そうかもしれません」
「レイスが聞けば怒るだろうな」
「怒るでしょう」
「……そうだな」
ローグレスは小さく息を吐いた。病室で見たミリナの笑顔が、頭から離れなかった。兄を心配しながらも、兄が生きていると聞いて少しだけ笑った顔。ペンを嬉しそうに抱えた顔。レイスの話をする時の、穏やかな声。それを守るために、嘘をついた。それが正しいのかどうか、ローグレスには分からなかった。
「黒豹を見つけなければならない」
ローグレスは言った。
「はい」
「生きて連れ戻す」
「はい」
「少なくとも、彼女に顔を見せられる場所まで」
ジークは静かに頭を下げた。
「そのために、動きます」
ローグレスは歩き出した。会議の時間が近づいている。国軍との話し合い。夜骸の出現増加。王都の警備。第三部隊の独断。黒豹の行方。やるべきことは山ほどあった。だが、今は一つだけ、胸の奥に残っていた。レイス。お前の妹は、待っている。
◇
深夜。廃倉庫の中は静かだった。アルドたちは眠っている。完全に深い眠りではない。戦場の中で眠る者の浅い眠り。すぐに起きられるよう、武器は手の届く場所に置いてある。それでも、身体は休息を求めていた。入口には、大きな岩儡が座っている。荷車のそばには二体。廃倉庫の周囲には、小型の岩儡がゆっくりと歩いていた。月は雲に隠れている。森は暗い。風が木々を揺らし、古い廃倉庫の屋根がかすかに鳴った。
その時。入口にいた岩儡が、ぴくりと動いた。顔のない頭が、森の方を向く。小型の岩儡の一体が、外周を歩いていた足を止める。次の瞬間、その身体が横へ弾けた。音は小さかった。潰されたのではない。何かに触れられた瞬間、岩儡の胴体が砕けた。土と石が散る。セレスの目が開いた。
「……!」
信号が来た。壊された。それも、一体ではない。彼女は飛び起きる。胸の奥に、岩儡から届く信号が残っている。
「アルド」
声を出すより早く、入口の大きな岩儡が立ち上がった。重い足音。廃倉庫の床が震える。その音で、レイスが目を開けた。ノルも翠穿へ手を伸ばす。エディンが大剣の柄に触れる。アルドはすでに上体を起こしていた。
「セレス?」
「何か来た」
セレスは入口を見る。
「小さい岩儡が壊された」
ハインが息を呑む。外から、音がした。ずるり、と。土を踏む音。重いものが、ゆっくり歩く音。入口の岩儡が、両腕を広げた。その向こう。月のない暗がりの中に、影が立っていた。一体ではない。二体。大きな熊のような輪郭。だが、普通の獣ではない。背中からは黒い枝のような骨が突き出し、前脚は長すぎるほど長い。爪は白く、濡れた石のように光っている。首は熊にしては妙に細く、顔だけが歪んでいた。裂けた口。
左右に広がった牙。その顔は、笑っているように見えた。不敵に。待っていたとでも言うように。入口の前に、二体の熊型の夜骸が並んでいた。セレスの背筋に、冷たいものが走る。夜骸は、ただ立っていた。唸りもしない。すぐに襲いかかりもしない。ただ、廃倉庫の入口を塞ぐように並び、その裂けた顔をこちらへ向けている。アルドは緋喰刃を掴んだ。レイスが低く言う。
「全員、起きろ」
ノルが翠穿を構える。エディンの目が、細くなる。入口の岩儡が、一歩前へ出た。その瞬間。二体の夜骸の口が、さらに広がった。笑ったように見えた。
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