ケイン
茶髪の男は、両手を上げていた。降参の姿勢だった。だが、その手は妙に軽かった。ひらひらと左右に揺れ、まるで捕まったというより、面倒な話し合いに付き合うために手を上げているだけのようにも見える。アルドは緋喰刃を下ろしたまま、男を見ていた。男の首筋には、蒼炎の熱がかすめた赤い跡が残っている。ほんの少し深ければ、首を落としていた。それを分かっているはずなのに、男は笑っていた。
「拘束しなくていいのかい?」
男は表情を変えずに両手を差し出す。レイスが近づいてきた。剣の先は下がっている。だが、警戒は解いていない。ノルも翠穿を構えたまま、男の手元を見ている。エディンは少し離れた場所で、武器を置いた三人を見張っていた。アルドは茶髪の男から目を逸らさないまま答える。
「どうせ抜け出せるだろ、お前なら」
茶髪の男は、嬉しそうに口角を上げた。
「まあな」
「開き直るな」
レイスが言う。
「褒められたかと思った」
「褒めてない」
「残念だ」
男は両手を上げ、肩をすくめた。その態度に、ノルがほんの少し目を細める。
「縛らなくて、本当に大丈夫?」
「大丈夫じゃないかもしれない」
アルドは言った。
「でも、縛って大丈夫になる相手でもない、それならまずは交渉相手を信用するさ」
「なるほど」
ノルは短く頷いた。
「嫌な納得」
その時、レイスが周囲を見回し、短く報告した。
「アルド、他の奴らの拘束は終わった」
末端の赤鎖たちは、レイスの魔法とノルの射撃で動けなくなっていた。腕や足は泥と水に絡め取られ、武器は遠くへ弾かれている。毒らしき小瓶や紙包みも、すでに回収済みだった。取り巻きの三人も、武器を置いたまま座っている。片刃の男は苛立った顔をしていた。両手短刃の男は腕を押さえたまま俯いている。湾曲刃の男だけは、どこか不満そうにエディンを睨んでいた。だが、誰も動かない。動けば撃たれる。それくらいは分かっている顔だった。
「私達も来たよ」
後方から声がした。セレスとハインだった。セレスはハインの前に立ち、周囲を警戒しながら歩いてくる。少し後ろでは、護衛用の岩儡が荷車のそばに残り、どっしりと構えていた。ハインは息を整えながら、倒れた赤鎖たちを見回した。顔には緊張が残っている。だが、逃げ腰ではなかった。アルドは頷く。
「分かった。じゃあ、話をしよう」
「いいねぇ」
茶髪の男は、両手を下ろした。
「俺も、殴り合いより話し合いの方が好きなんだ」
「嘘つけ」
「今のは嘘だ」
男はあっさり認めた。
◇
少し離れた岩の上に、茶髪の男は腰を下ろした。拘束はされていない。武器は取り上げてある。だが、それだけだった。男は首筋の赤い跡を指で触れ、少しだけ顔をしかめる。
「熱かったぞ、さっきの」
「殺さなかっただけ感謝しろ」
アルドが言う。
「感謝してるさ。綺麗に寸止めだった」
「軽いな」
「重くしても傷が治るわけじゃないからな」
ハインが水袋を差し出した。男はそれを受け取り、少し驚いたようにハインを見る。
「いいのか?」
「話をするなら、喉は必要でしょう」
「商人か?」
「はい」
「商人は怖いな。敵にも水を渡す」
「敵かどうかは、これから決めます」
ハインの声は震えていなかった。男は少しだけ目を丸くした後、楽しそうに笑った。
「いいねぇ」
水を飲む。喉が動く。
「運動後の水はうまいねぇ」
男は水袋を膝の上へ置き、改めてアルドを見た。
「お前と最後に会った日から、まだそこまで日が経ってないはずだ」
「そうだな」
「なんだ、その強さは」
男の目が細くなる。軽口の色が、少しだけ薄れた。
「炎も蒼かった。ありゃ確か魔法の覚醒だろ。何があった?」
アルドはすぐには答えなかった。蒼炎。その言葉だけで、思い出すものがある。逃亡。大級。ルシアン。守れなかったもの。取り戻せなかったもの。何度も燃えた痛み。
「色々あったよ」
アルドは手のひらを眺めながら短く言った。
「何度も地獄に片足を突っ込んだ。何度も死にかけた」
男は、ふっと笑った。今度の笑みは、からかいではなかった。
「なるほどな。どうりで強くなるわけだ」
「どういう意味だ?」
「これは個人的な見解だがな」
男は水袋を揺らしながら言う。
「魔力っていうのは、なんていうかな。経験っつうか、人の格ってもんに合わせて成長するんだよ」
「人の格?」
アルドが眉を寄せる。男は頷いた。
「そっ。だから、死線をくぐる度に魔力が強くなる。質も量もな」
アルドは自分の右手を見る。蒼炎は出していない。だが、その奥に、以前とは違う熱がある。ただ燃えるだけではない。内側に深く沈み、必要な時に噴き上がるような感覚。
「魔力量、だいぶ増えた感じしねぇか?」
「そう言われてみれば、確かに……」
アルドは小さく呟いた。以前より、魔力切れが遠い。大きな魔法を放っても、すぐに空になる感覚がない。蒼炎を出している間も、ただ消耗しているだけではなく、身体の奥から別の力が動いているような感覚がある。エディンが、楽しそうに目を細めた。
「なかなか的確なこと言うのねぇ。盗賊のくせに」
「俺も地獄はご近所なもんでね」
男は肩をすくめる。
「お前らほどじゃねぇが」
レイスが男を見る。
「実戦経験は多いのか」
「多くなきゃ、そこの兄ちゃんに首を飛ばされてる」
男は笑った。アルドは再び男の顔を見て、淡々と聞いた。
「それで、お前の名前は?」
「ああ、そうだったな」
男は水袋を持った手を軽く上げた。
「俺の名前はケインだ」
「ケイン」
アルドが繰り返す。ケインは頷いた。
「覚えやすいだろ?」
「顔と同じくらい軽い名前だな」
「顔はいいだろ」
アルドが話を戻す。
「ケイン。お前達はなんなんだ?」
「その前に、俺からも聞かせてくれ」
「なんだ」
ケインの笑みが少しだけ変わった。探るような目になる。
「俺は情報担当じゃねぇから、詳しくは知らねぇが」
そこで一度、アルドたち全員を見る。
「もしかしてお前ら、黒豹か?」
空気が、わずかに止まった。
「前やり合った時に討祓軍を仄めかした、そしてその強さ、巷で噂になってる黒豹の失踪、そこから導き出せる答えだ」
黒豹。その名は、もう名乗らないと決めたはずの名だった。王都討祓軍第一部隊。戻る場所。失った席。今はもう、胸の奥に置いたまま歩いている名。アルドは、短く答えた。
「……元、な」
「ははっ、正解。ん?元?」
「ああ」
アルドはケインを見る。
「今の俺たちは、国に追われる身だ。だから、陽剣旅団として動いてる」
ケインの顔から、軽さが少しだけ消えた。
「は?」
それは、初めて見せる素の反応だった。
「なんでそんなことになってる?」
「まあ、色々あってな」
「色々で国から追われるのかよ」
「追われる」
「重すぎる色々だな」
「それを話すほど、俺たちは仲良くない」
ケインは一瞬黙った。それから、納得したように笑う。
「それもそうか」
レイスが口を開く。
「こちらの話はそこまでだ。今度はお前達の話を聞かせてもらう」
「待て待て」
ケインは片手を上げた。
「その前にもう一つ」
アルドの眉が動く。
「なんだよ」
ケインは、水袋を膝の上へ置いた。軽い声ではなかった。
「……お前らにとって、国は敵か?」
誰もすぐには答えなかった。風が、林の中を通り抜ける。倒れた末端たちの呻き声が、遠くに聞こえた。国。王国。討祓軍。守ってきた場所。奪われた場所。追われることになった場所。その奥にあるであろう巨大な仕組み。アルドは、自分の中の言葉を探した。敵。そう言えば簡単だった。だが、それだけでは足りない。自分たちは、国を憎んでいるのか。潰したいのか。壊したいのか。違う。少なくとも、まだそうではない。
けれど、敵対しないとも言えない。ケインは静かに続けた。
「正直に答えてくれ。これは俺にとって大事な質問だ」
そこで、わずかに口角を上げる。
「嘘は分かる」
エディンが小さく笑った。
「便利ねぇ」
「おねぇさんほどじゃないですよ」
ケインはエディンへ軽く頭を下げた。アルドはしばらく黙った後、答えた。
「……敵対も厭わない。ってところだ」
ケインは何も言わなかった。ただ、アルドを見ている。レイスも、ノルも、セレスも、ハインも口を開かない。アルドの答えは、全員の答えでもあった。逃げるだけではない。必要なら国とぶつかる。それが今の陽剣旅団だった。
「そうか」
ケインは短く言った。沈黙が落ちる。その沈黙の後、ケインは周囲を見た。倒れている末端たち。拘束された男たち。武器を置いて座る三人。そして、陽剣旅団。ケインは息を吐く。
「そこの三人以外を、ここから叩き出せ」
アルドの目が細くなる。
「どういう意味だ」
「ここから先は、下っ端に聞かせる話じゃない」
ケインの声は、もう軽くなかった。アルドはレイスを見る。
「レイス」
「ああ」
レイスはすぐに動いた。拘束されていた末端たちの方へ歩いていく。ノルも翠穿を構えたまま、その後ろを見た。レイスは一人ずつ確認しながら、逃げられる程度に拘束を緩めていく。ただし、武器は返さない。毒も返さない。赤い短鎖も外させる。
「立て」
レイスが言う。末端の男たちは、互いに顔を見合わせた。
「行っていいのか?」
「今はな」
「本体に殺されるんじゃ……」
その声に、ケインが面倒くさそうに手を振った。
「俺が許す。出血大サービスだ」
末端たちは、さらに動揺した。だが、ケインの言葉には逆らわなかった。武器も持たず、毒も持たず、赤い短鎖を外された男たちは、小走りで林の奥へ散っていく。何人かは振り返った。何人かは、ケインへ頭を下げた。何人かは、陽剣旅団を怯えた目で見た。やがて、拠点の周囲から末端たちの気配が遠ざかった。レイスが戻ってくる。
「いなくなったぞ」
アルドはケインを見る。
「ケイン、話してくれ」
ケインは膝の上にあった水袋を持ち上げた。残っていた水を一気に飲み干す。喉が鳴る。それから、空になった水袋を軽く放った。ハインが慌てて受け取る。
「投げないでください」
「お?悪い悪い」
ケインは岩の上で姿勢を変えた。さっきまでの軽さは、まだ残っている。だが、その奥にあるものが少しだけ見え始めていた。ケインは言った。
「俺たちの名は、赤鎖の獅子団」
赤い短鎖を腰に下げていた盗賊たち。その奥にある、正式な名。今まで末端が知らなかった名。ケインは続ける。
「王国の打倒を目指す組織だ」
誰も、すぐには言葉を返さなかった。林の中で、風だけが鳴った。アルドは低く呟いた。
「王国の、打倒」
ケインは頷いた。
「ああ」
その声には、もう冗談の色はなかった。




