第81話 ヨウがいなかったわけ①
テン絡みの出張から戻って以降、ヨウは頻繁にピッチへ顔を出している。理由は誰にも言っていない。
ユミが怖がる、あのおばちゃんの果物屋だ。
わさびたちは、ヨウが何をしに通っているのか気になっていた。だが、あえて聞こうとはしなかった。
あの日……ヨウがいなくなった日々のことには、きっと何か大きな意味がある。
そう感じ取り、誰も踏み込まないことを、それぞれが静かに選んでいた。
「またあんたかい。」
いつもの時間の訪問に、ピッチのおばちゃん――高崎美登里が、ぶっきらぼうに言う。
「そりゃ来ますよ。僕はテンさんより、ピッチさんの方が信頼できますから。」
ヨウは、さらりと答えた。
高崎美登里。
“みどり”……芝の色。
その連想から、アリスの祖母が店名を“ピッチ”と名付けた。
果物屋とサッカーのグラウンド。
何の関係もないのだが、商店街の面々は、若い彼女をピッチちゃんと呼んでかわいがった。
美登里はこの町で生まれ、この町で恋をし、夫とともに果物屋を始めた。
駅前育ちのため、果物の知識などなかった。
果物農家の三男坊である夫に学び、夫の実家に頭を下げ、必死に店を切り盛りしてきた。
子宝にも恵まれ、男の子が生まれた。
“登”と名付けた。
のちに、テンと呼ばれる男である。
ピッチちゃんの毎日は、忙しくはあったが、確かに幸せだった。
登もすくすくと育ち、青空高校を卒業すると、高校時代のサッカー部のつながりで本山造園という造園会社に入社した。イレは高校時代の同級生であり、登とともに本山造園へ入った。
そんなある日……。
とある大手化学メーカーが、大規模工場を青空市に建設するという話が舞い込んできた。
予定地は青空湖のほとり……
いまの『あおい庭園』があるあたりだ。
町は沸いた。
工場ができれば雇用が生まれ、住民が増え、商店街が潤う。
だが、住民総出で歓迎……とはならなかった。
古くから造園業を営む、町の名士・本山造園の社長が反対を表明したからだ。理由は環境保護。
そして彼は、建設予定地の地主でもあった。
本山造園は、環境影響を抑えた代替案を企業側に提示した。しかし受け入れられず、土地の買収を強く迫られる。
町は賛成派と反対派に割れた。
二分する騒動へと発展していった。
美登里……ピッチちゃんは、賛成派だった。
息子を大学に行かせてやりたかった。
いい暮らしをさせてやりたかった。
だが、現実は甘くなかった。
登がこの工場で働くことができたなら、幸せな未来が訪れるに違いない。
ピッチちゃんは、そう信じて疑わなかった。
彼女は企業の説明会に通い、反対派を糾弾する集会にも参加した。
一方、本山造園の社長は、圧力に屈することなく反対を貫いた。
結果、企業は別の候補地を選び、青空市を去っていった。
賛成派の失望は大きく、本山造園への非難と衝突が相次いだ。
騒動は全国ニュースにまで発展し、本山造園は“悪徳企業”として扱われた。
このとき、イレと登は21歳。
2人は、本山造園で働きながら、サッカーに夢中になっていた。
23年前の出来事だ。
わさびは、本山造園社長の孫として生まれ、この騒動のときは2歳だった。
マスコミの追及は厳しく、家族の安全を案じた本山社長は、わさびとその両親をこの町から離れさせた。
そして3年後。
全国を震撼させるニュースが流れる。
青空市を去り、別の候補地に建設されたその工場から、高濃度の劇物が流出。地域住民が深刻な健康被害に見舞われた。
もし青空市で操業していたら……。
同じ結果になったかは分からない。
だが、本山造園が訴えた“リスク”は現実となった。
町は、ようやく理解した。
本山造園は、青空市を守ったのだと。
その後、本山社長は会社をイレに託す。
そして全国に広がった悪名を断ち切るため、社名を坂本造園へと改めた。
守った代償は、あまりにも大きかった。




