〔3〕
ハイシーズンを迎えた海辺のペンション『ゆりあらす』だが、人気の海水浴場や観光スポットからは離れた所にあるため、週末を除き平日はのんびりとした営業を続けていた。
「うちは、もともと海釣りやサーフィン目的の常連さんが多いから、春と秋の方が忙しいんだよ」
オーナーの田村が言った通り、ツインタイプ四室とグループタイプ一室の全てが満室になるのは金曜日か土曜日くらいだ。
宿泊客の少ない日、リュシーは客室掃除や家事手伝いをしながらサエコから菓子作りを習ったり、キョーコやその友人達と過ごしたりと穏やかな日々を過ごしていた。
ユーキには避けられているらしく、夕食のテーブルで一緒になる以外は会う事がなかった。アレクセイに監視……ではなく友人になるように命令されているのに、これでは任務が達成できない。
課せられた仕事の一つである「朝食前のハーブガーデン水撒き」をやりながら、朝日に煌めく水飛沫を見つめリュシーは考える。
アレクセイは何故、これほどまでにユーキに関心があるのだろう?
任務以外の事に興味を持つべきではないと理解しているが、二人が対峙した時の空気には異様な緊迫感があった。
真っ二つに割れた、コーヒー・ソーサー。アレクセイの意味深な言動と、ユーキの動揺……。
親切で優しく明るいキョーコとは、かなり親密になれた気がする。しかしユーキと接点を持つには、どうしたら良いだろう?
時間が限られている。計画的になにか、仕掛けるべきか?
ゴムホースに付いた散水用ヘッドを霧状からシャワーに切り替え、砂利道に水を撒いてから栓を止めたリュシーは、公道から『ゆりあらす』に続く細い専用道路を上がってくる赤い軽自動車に気が付いた。
朝食を摂るため勝手口から厨房に入ると、待ち構えていたようにキョーコがリュシーの手を取りリビングに引っ張りこむ。
「あのね、リュシー! 昨日の夜、父さんから聞いたんだけど、あさって木曜日の昼からクルーザーを借りてリュシーの歓迎会をやるんだって! 友達も誘って船上バーベキュー!」
「船上バーベキュー?」
クルーザーの船上バーベキューとは、どういったモノなのか? リュシーには、大型船のクルー達がデッキで行うバーベキューしか思い付かない。木曜日までに調べておきたいところだが、この国独自のイベントならネットでヒットしても日本語説明だけだ。会話に不自由はなくても、文面を理解するのは簡単ではなかった。
困惑顔のリュシーに気付いて、キョーコが慌てた。
「アタシばっかりテンション上がっちゃってゴメンね! 水着……スイムウェアのことなら心配しないで。昨日の夜、友達に頼んでおいたから!」
キョーコが指さした方を見ると、リビングの床に大きなボストンバッグが二つ置かれていて、その傍らには見知らぬ若い女性が立っていた。
「この人は美加のお姉さん。館山にある大型ショッピングモールのスポーツ店で働いてて、旧モデルの水着を安く譲ってくれるそうなの」
紹介された小柄でふっくらとしたショートボブの女性が、柔らかく微笑む。
「おはよう。丁度バーゲン用の在庫がたくさんあったから、昨夜のうちに用意して出勤前に寄ったのよ。本当は美加も一緒に来るはずだったのに、早く起きられなかったから琴美ちゃんと一緒にあとから来るって」
リュシーの脳裏に、キョーコの友人であるミカ・マキハラとコトミ・ムラカミの顔が浮かんだ。二人はリュシーが『ゆりあらす』でホームステイを始めた翌日に会いに来て、すぐに打ち解け親切にしてくれた。
しかし三人はリュシーを巻き込んで、これから何を始めるつもりだろう?
ミカの姉という人がバックを置いて出て行き、キョーコとリュシーが朝食を摂っていると、しばらくして玄関から明るく楽しそうな声が聞こえてきた。
キョーコがリュシーに片付けを頼み迎えに出たあと、厨房で洗い物を終わらせたところに名を呼ばれた。リビングに戻ったリュシーが目にしたのは、大きなディナーテーブル一面に広げられた色とりどりのスイムウェア。
「ママが今日はもう、お手伝いしなくて良いって。だから三人で水着の試着会するよ! リュシーには、これ似合うと思う!」
キョーコが嬉しそうに差し出したのは、胸元に大きなリボンが付いた鮮やかなレモン色のセパレートタイプ……。
他の二人も「あれもいい」「これが似合いそうだ」と大騒ぎだ。
また、自分にとって経験の無い事案に対応しなくてはならない。一般的なジョシコーセーとして、どのような顔をすれば良いのだろう?
リュシーは途方に暮れながらも取り敢えず笑顔を作り、三人の輪に加わった。
試着はシャワールームのあるグループタイプ客室を使って良いと言われたので、大型の姿見ミラーを持ち込んで順番にシャワールームで着替え、互いに感想を言う事になった。
キョーコのママ、サエコが仲間に入れて欲しいと言い出したが、キョーコは絶対にダメだと譲らない。いつも親切にしてくれるサエコの残念そうな顔に、リュシーの心は少し痛んだ。
母と娘とは、こういう関係なのだろうか……?
「ほら、リュシーも早く着替えて!」
気が付くと、キョーコもミカもコトミも、それぞれお気に入りの水着に着替え終わっている。キョーコが一番最初に選んでくれたレモン色のセパレートを胸に抱えてリュシーは、更衣室代わりのシャワールームに入った。
数日、共に過ごしていたからかキョーコの選んだサイズはぴったり合った。側面の壁に設置されているバストアップサイズの鏡を不思議な気分で眺めてからシャワールームを出る。
キョーコが急かすようにリュシーの手を取り、部屋の中央まで引っ張った。
「オッケー! これで全員がイチ押しに着替えたわけだけど、やっぱりリュシーはスタイル良いなぁ……その水着、よく似合って……る……」
突然、キョーコは困ったような悲しいような複雑な表情になり言いかけた言葉を飲んだ。その変化に疑問を抱いたリュシーは、視線の先に気がつくと自らの右脇腹を手で隠す。
「ゴメンナサイ……醜いでしょう? みんなを、イヤな気持ちにしてしまいました」
へその少し上、十五センチほどの長さで脇腹を割いた白い傷跡。
任務時には特殊メイクで隠しているが、今回は必要ないとアレクセイに言われたので気にしていなかった。水着になる機会があるとは、思わなかったのだ。
慌ててキョーコが両手を振る。
「あっ、違うの! 誰だって傷の一つや二つあるんだから気になんかしないよ! ただ……私が勝手にテンション上げて水着試着会を始めちゃったの……本当はリュシーは嫌だった? 嫌だけど、断れなかったんじゃないかなって……その……私の方こそ、ゴメンナサイ」
涙目のキョーコに驚いてリュシーは首を振り、微笑みを返した。
「問題ありません。私が生まれたのはアフリカの紛争地域で、たくさんの人に大きな傷がありました。この傷は私が五歳の頃、物資と食料を貰うため母と難民支援団体のキャンプに向かう途中、戦闘に巻き込まれて負ったものです。腕には銃創もあります」
左肩の下にある、丸く抉られた傷を指さした途端、日本の女子三人が息を飲んだのが解った。
この生い立ちは作られたものではなく真実だ。
リュシーの一番古い記憶には、母と幼い弟妹がいた。父親が誰かは解らない。崩れた教会の片隅で、同じ境遇の女子供たちと肩を寄せ合って生きていた。男達は皆、老人でさえも戦いに赴き、彼女たちの安全を守ってはくれなかったのだ。
「赤十字の医療用テントで目が覚めた時、母と弟、妹は死んだと聞きました。私にはどうする事も出来ないまま支援団体に保護され、アメリカの養親に引き取られたのです」
正確にはリュシーが引き取られたのは一般家庭ではないが、真実を混ぜたショッキングな経歴は、彼女たちの同情をひく事に成功したようだ。
ミカもコトミも唇を震わせ、目に涙が溢れている。
ただキョーコだけは、先ほどまでの同情的な表情が変わって、怒っているような顔つきになっていた。
生い立ちを話したのは、失敗だったか?
しばらく黙っていたキョーコは、いきなりバッグの中に入っていた水着を床に広げ始めた。
「アタシには何も言えないし、何か言ったとしても自分の想いを全部伝える事なんか出来ない。だから……私に出来る事をするよ」
水着の中からキョーコは、バストからウエストにかけて斜めにフリルの切り返しが付いたターコイズブルーのワンピースを引っ張り出しリュシーに渡した。確かにこの水着なら、脇腹の傷は隠れる。
「これからリュシーは、いっぱい楽しい事をして、いっぱい幸せになるんだよ。私も美加も琴美も、リュシーの事が大好き。だから一緒に、いっぱい遊ぼうね!」
キョーコの言葉で我に返ったコトミが、自分のリュックからバンダナを取り出しリュシーの腕に巻く。
「三人で色違いのバンダナ巻いたら可愛いんじゃないかな? お揃いのアイテム、身に付けたいな」
「いいね!」
ミカが同意して笑った。
アレクセイが言った通り、この国の女子達は何と素直で純粋なのだろう……。
彼女たちは優しく、親切で、毎日が楽しく幸せそうだ。
リュシーは自分の生き方に疑問を持った事もないし、異なる生き方に何かしらの感情を抱いた事もなかった。
しかし何故か、いまは胸の奥でチリチリと焼けるような不快感を感じている。
嫌な感じだと思った時……何故か頭の隅にユーキの顔が浮かんだ。
ユーキの瞳の奥には、世の中の理不尽に対する抑えた怒りや憤りがあった。それなのに優しくて、とても寂しい。
アレクセイが時折見せる瞳に似ていたのだ。
キョーコと親密になれば、ユーキの内面を知る切っ掛けが掴めるだろう。内面を知れば距離を縮め、友人になれる。
もしかしたら、それはアレクセイにも近付くという事だろうか?
「ねっ、リュシー! それ着て見せてよ!」
キョーコに急かされたリュシーは笑顔を返し、シャワールームに入った。