〔2〕
あらゆる環境への順応力を学び、想定される危機や不測の事態への対応を教えられた。
ミッション(任務)に、不安は無い……はずだった。
二日間で任務内容を頭に叩き込み、設定された自らの履歴の脳内シミュレーションを繰り返して迎えた月曜日。
早朝、ホテルのロビーで待つリュシーをアレクセイが車で迎えに来た。
トランクに小型のキャリーバックを積み、助手席に乗ろうとするリュシーをアレクセイは手で押しとどめた。
「うん……今日、私は保護者という筋書きだからね。後部座席に乗りなさい」
「はい」
素直に返事をしてリュシーは運転席後ろのドアを開けたが、内心では少し不満だった。
口答の指示が必要な場合、アレクセイは自身の車を使うことが多い。その時は助手席に乗せてもらえるので、アレクセイの端正な横顔を遠慮せずに近くで見つめることが出来るのだ。
どれほど過酷な指示が与えられようとも、リュシーにとっては幸せな時間だった。
確かに今回の任務は、アレクセイがリュシーの身を案じるほどでは無い単純で簡単なものだ。
それでも別れを惜しみ、再会を誓う時間が欲しかった……。
バックミラーに映ったアレクセイのサングラスから車窓に目を移し、朝日の煌めく海が遠離っていくのを眺めた。海が見えなくなると山間部をぬけ、房総半島の反対側に出る。事前に学習した情報で、学園のある館山湾側は海に沈む美しい太陽を観ることが出来ると知り楽しみにしていた。
学園を訪れた初日は雨で観ることが出来ず残念に思ったが、今回の二週間もある滞在期間中ならば資料で見た美しい夕日を眺める機会があるだろう。
二週間。
これほど長い期間、一介の女子学生として過ごすことにリュシーは戸惑っていた。
しかも任務は『派遣先のファミリー、及び関係者と信頼関係を築き友人になる』という、いままで経験した事のないモノだ。
過去の任務では、相手をした男達を満足させ操るのは容易だった。彼等は美しく教養のある若い女を服従させることしか考えていない。また、その対象としての任務だったからだ。
信頼、友人。
リュシーには、その定義も解らない。
ユーキはクールでストイックだ。リュシーが訓練や経験で培ってきたスキルは通用しないだろう。むしろオスカーならば同性だしスポーツを通じて親しくなれるのではないかとアレクセイに質問した所、アレクセイは「オスカーの経歴と人間性は、この任務に向いていない」と言って笑っていた。
人間性……それもよく理解できなかった。
山間を切り開いた小さなカーブの多い車道が下りになり、ゆるく大きなカーブに差し掛かった。カーブを抜けた先、視界いっぱいに飛び込んできた蒼い空と海。緑豊かな山々と美しい海岸線に目を奪われたリュシーは、少しの間だけ任務のことを忘れた。
「あっ……本当に水平線が、水平じゃ無い!」
真夏の太陽の強すぎる輝きで、やや薄い青になった空とコバルト色の海の境目に霞んだ白い帯状の水平線。思わずリュシーが声を上げると、運転席のアレクセイがサングラスを外し微笑んだ。
「そう……水平線を見たのは初めてか。横浜では、開けた海の景色を見ていなかったからね。リュシエンヌは、これからも多くのモノを見たり聞いたりして、多くの事を学ぶ必要がある。いまは、日本の一般家庭で二週間ホームステイする意味が解らないと思うが、君が未来を生きるためには必ず大切な経験になるはずだ」
この言葉をリュシーは、「与えられた任務を理解した上で、自らの能力や状況に応じ対処する訓練の一部」と理解した。
しかし、いままでの任務と違ってリュシーが一番不思議に思っていたのは、アレクセイの振る舞いだ。
日本に来てからのアレクセイは、とても楽しそうに見えるからだった。
やがて車は峠の下り坂から開けた雑木林の間を抜け、海岸沿いの主要道路に出た。
平日のためか海岸に海水浴客はまばらで、このポイントをホームにしているらしい数人のサーファーが波を楽しんでいる様子が見えた。
車中に低く流れる曲は、車窓からの眺めにあう優しい声の女性ボーカルだ。曲名を尋ねようとした時、車がスピードを落として左に曲がった。
車幅ほどしかない未舗装の坂を数十メートル上ったところに、広いハーブガーデンと色とりどりの花に囲まれたサンデッキ。その奥に、夏空に映える白い壁と鮮やかな青い屋根が美しいペンション『ゆりあらす』が建っていた。
タイヤが砂利を鳴らす音で待ち構えていたように玄関から出てきた主人の田村を見たリュシーは軽く頭を下げ、駐車場に止めた車のドアに手を掛ける。
「待ちなさい、君に渡すモノがある」
シートに座り直したリュシーの目の前でアレクセイは運転席のダッシュボードを開け、ピンクのリボンが掛かった小さな箱を取り出した。
「ニホンのジョシーコーセーが身に付けるようなアケセサリーを選ぶのは、骨が折れたよ。私が滞在している横浜校の友人達に相談出来て幸いだった。彼女たちのアドバイスでチェーンはやめて、丈夫なレザーチョーカーにしたんだ。夏らしく、トップは貝殻がモチーフになっている。首だけではなく、手首や足首に巻いても可愛いそうだ」
リボンを解いてパール光沢の白い箱を開くと、留め具が付いた細い革紐で編まれているチョーカーの先に、少し大きな天然石を小さな貝殻が彩るペンダント・トップ。いままでリュシーが身に付けた事のない、可愛らしいデザインに驚く。
「天然石は、オニキス。君に贈ると説明したら友人達が宝石言葉で選んでくれたんだが……お守りという意味らしい。肌身離さず、常に身に付けていなさい。君がどこにいても、直ぐに解るように。今回、定時連絡は必要ない。特筆事項があった時のみ、速やかに連絡したまえ。くれぐれも、一般的ジョシコーセーを逸脱した行動は控えるように。横浜では少し目立ってしまったからね」
「はい」
箱から取り出したレザーチョーカーを首に回しながら、アレクセイと親しげに話していた横浜校の女子学生数人を思い浮かべた。
若く美しく聡明な彼女たちは、自らの魅力を知っているからこそ最大限に活用し、さらにその価値を高めようとする。有能で魅力的な外国人英語教師と親しくなれば、学園内の地位は確実に向上するに違いない。
任務時には必ずアレクセイから、GPS機能搭載のアクセサリーを贈られる。任務完了後も返却不要と言われ、本部にあるリュシーの私室には高級ブランド時計やブレスレット、ネックレスなどが何点も大事に保管されていた。全てアレクセイが、任務内容に合わせ選んだモノだ。
しかし今回、女性に贈るアクセサリーを同じ年頃の女子学生に選んで貰った事が、リュシーに不思議な感情をもたらした。
心拍数の上昇……この感情は何だろう? 喜び? 戸惑い? 恥じらい?
分析不能だ。
先に車を降りたアレクセイが迎えに出てきた田村と挨拶を交わし、後部座席のドアを開けてくれた。
「やぁ、よく来てくれたねリュシーちゃん! また会えて嬉しいよ!」
雨の夜に迎え入れられ温かなもてなしを受けた『ゆりあらす』を、再び任務で訪れる事になった。オーナーの田村が人の良さそうな笑顔をリュシーに向けてからトランクの荷物を受け取り、先に立って建物に入る。先日、生活習慣の違う国でトラブルに遭った留学生を自然に振る舞うよう言われたのは、この日のための前準備だったらしい。
玄関を入ると正面奧に天井から床まで一枚ガラスになった窓があり、美しい海が広がっていた。窓の手前は食道兼リビングで、白い壁とミントグリーンのシェードカーテンで調節された日差しが心地よい明るさになっている。
リビング中央には自然の形を活かした大きなテーブルがあり、中央にはミニ向日葵が飾られていた。
田村はアレクセイに席を勧め、リュシーのために椅子を引いてくれた。
「すぐに、我が家自慢のコーヒーを用意します。少しお待ちくださいね」
本心から嬉しそうに厨房に向う田村の背を、アレクセイは穏やかに微笑みながら眺めている。厨房の中からはキョーコが顔を覗かせ、リュシーに小さく手を振った。
「うん、調査通り良い人のようです。安心してリュシーを預けられますね」
良い人……。アレクセイにとっては、この任務で何を意味するのだろうか?
やがて厨房から、コーヒーの芳ばしい香りが漂ってきた。
オーナー夫人の小枝子が焼き菓子とカップをリュシーとアレクセイの前に置き、田村がサーバーのコーヒーを注ぐ。
「このコーヒー豆は、私の友人が個人でキューバの農園から輸入してるモノなんですよ」
コーヒーを一口飲んだアレクセイは、感嘆の声を上げる。
「これは素晴らしい! バランスの良い酸味と渋み……そして、ほのかに甘い。私の住んでいるマサチューセッツの街には美味しいコーヒーを提供してくれる店が無いので、普段は故郷であるイギリスから取り寄せた紅茶を好んで飲むのですが……このコーヒーは手に入れたいな。是非その御友人を紹介して欲しいです」
「もちろんですとも! どうぞ焼き菓子も召し上がって下さい。妻の自慢のオレンジフィナンシェです。コーヒーに合うんですよ!」
アレクセイは焼き菓子を手に取りリュシーにも勧めてから、改めて田村に向き直った。
「ところで先日は、リュシエンヌを保護していただいて感謝しています。電話だけではなく直接、お礼を申し上げたいと思っていました。慣れない土地で途方に暮れていた彼女が大きなトラブルにあわず、無事ホテルに帰る事が出来たのはユーキという学生のおかげだと聞きました。彼にも是非、お礼を言いたいと思っているのですが……今日、会う事が出来るでしょうか?」
すると話を聞いていたらしいキョーコが田村に向かって頷き、姿を消した。
「優樹は困っている人がいれば誰であろうと、いつでも自分に出来る最大限の力で助けようとするんですよ。人によっては迷惑に思うかも知れませんが、真面目で正義感の強いアイツを私は信頼しています。いつもならこの時間は夏期講習で不在ですけど、今日はたまたま講師の先生が交通事故に巻き込まれて午前講習が休講になったので、娘が探して連れて来ます」
田村の様子だと、リュシーは保護すべき対象に認識されているようだ。横浜の件は知らされていないらしい。
ユーキが在宅なのは、おそらくアレクセイが会えるように仕掛けたのだ。
いままで、アレクセイがリュシーの任務に同行したことは一度も無かった。なぜ、これほどまでにユーキに興味があるのだろう?
彼はいったい、何者なのか?
田村とアレクセイの雑談に耳を澄ませ、オレンジの香りのフィナンシェを頬張りながらリュシーは、自分の気持ちの高揚に戸惑っていた。
自分は、この任務を楽しいと感じている……?
空になったカップに田村が二杯目のコーヒーを注いだ時、広い窓の向こうで海風に揺れる植え込みの影からキョーコが姿を現した。
その隣で、キョーコに何を言われたのか不機嫌そうに歩く青年。
「あぁ、やっと見つけたみたいだ。多分、ガレージでバイクを弄ってたんでしょう」
そう言って田村が、庭に直接出られるドアを開いた。
入り口に立つ、白いTシャツとジーンズの青年が眩しい夏の太陽を遮る。
ユーキはリュシーに目を留めると、優しい笑顔を向けた。
しかしアレクセイに視線を移し、表情を硬くする。
「やぁ、再会できて嬉しいよ、ユーキ」
微笑みながら立ち上がったアレクセイの前にキョーコがユーキを押し出すと、田村が意外そうな顔で二人を見比べた。
「えっ? 二人とも、知り合いなのかい? もう、学園で会ってたのか?」
「実は先日、横浜の『赤レンガ倉庫』でリュシーが素行の悪い人達に同行を強制されそうになりました。その時、近くにいたユーキが待ち合わせの友人を演じてくれたのでトラブルを回避できたのです」
アレクセイの説明に、不満そうな顔で田村はリュシーとユーキを見てからキョーコに詰め寄る。
「そうか……三人とも、なんで教えてくれなかったんだ?」
急いでユーキが、キョーコを庇うように前に出た。
「叔父さんが心配すると思ったから言わないで欲しいって、俺が頼んだんだ。まさか、また会う事になるとは思わなかったし……」
「だからアタシが呼びに行っても嫌がって、連れてくるの大変だったんだから!」
ユーキが後悔している事を、さり気なくキョーコは田村に伝えた。田村は小さく溜息を吐き、肩を竦める。
「……あの腕の怪我は、その時に負ったのか?」
『赤レンガ倉庫』でユーキの腕に怪我を負わせたのは、リュシーだ。しかしユーキは正直に話すつもりはないのだろう。床に目を落とし、無言のままだ。
「ミスター・タムラ。彼の怪我は、暴漢に殴られそうになったリュシーを庇ったときに負ったのでしょう……実に申し訳ない事です。ぜひ、治療費を出させて下さい。ユーキが助けてくれなければ、リュシーが大きな怪我をしていました」
タイミングを計りアレクセイが助け船を出すと、慌てて田村は頭を振った。
「ああ、いや、そういうつもりでは……治療費なんて、とんでもない。もともとコイツは頑丈なんで、湿布だけで三日後にはバイク乗り回していましたよ!」
「しかし、私の気が済みません……」
「アレクセイさん、これは優樹とリュシーちゃんの件です。二人には、しっかり働いて貰いますから、もう大人の介入はやめましょう。それより、そろそろランチの時間です。御一緒にいかがですか?」
にこやかに、気持ちよく言いきった田村にアレクセイは微笑んだ。
「うん……解りました。では、この件についてはミスター・タムラにお任せします。ランチのお誘いは、残念ですが御一緒できそうにありません。急いで横浜校に戻らないと担当クラスの講義に遅れてしまうんですよ。でも、もう一杯、あのコーヒーを飲みたかったですね……そうだ、コーヒー豆を少し売っていただけませんか? 出来れば粉に挽いたものが欲しいのですが」
「ええ、喜んで。二〇〇グラムくらいで良いですか?」
「十分です、お願いします。待つ間に、ユーキと話しています」
田村がコーヒー豆を取りに厨房に入るとアレクセイは優樹に椅子を勧め、自らも座り直す。
二人の間に流れる張り詰めた空気を破り、ユーキが口を開いた。
「一週間前、学園の武道館でオスカー・ナイセルに会いました」
「うん、彼は君に会いたがっていたからね。しかし、エゴイスティックな行動から君の友人を傷付けてしまって申し訳ない。須刈くんには十分な治療費を送金しておいたが、私が謝罪していたと伝えてもらえるかい?」
不愉快そうに、ユーキは眉を寄せる。
「そんなこと、アンタが自分で……」
「このコーヒーはアキラ・スカリくんがキューバでコーヒー農園を経営しているスペンサー氏から個人輸入しているようだね。アメリカで行方不明になった時、知り合ったらしい。そうそう、『赤レンガ倉庫』で君と一緒にいたリョウ・アキモトくんに横浜校で会ったよ。理知的で聡明な好青年だったな」
遮るように放たれたアレクセイの言葉で、ユーキの顔色が変わった。
「……いったい、何を企んでるんだ? 『赤レンガ倉庫』の件もオスカーの件も、アンタが故意に仕向けたのか? 仮に、そうだとして遼に……遼だけじゃない、俺のまわりで誰かが傷付けられるような事があれば、許さない」
低い声音には、抑えた怒りが滲んでいた。キョーコが不安そうにリュシーの隣に立ち、そっと手を重ねる。
アレクセイはユーキの敵意など気に留める様子も無く、残っていたコーヒーを飲み干すと優雅な所作でカップをソーサーに戻した。
「ふぅん……許さないとは、どういう意味かな? 例えば君が受講している物理の担当教師は、私が君を足止めするため意図的に起こした事故に巻き込まれたのだとしたら、どうする?」
突然、リュシーの背に戦慄が走った。
闘気とも殺意とも違う……まるで、そそり立つ崖の上から暗く深い谷底を覗き込むような得体の知れない感覚。
それは、凍り付くような恐怖だった。
次の瞬間、ピシリと、破裂音が聞こえた。
音のした方を見ると、アレクセイの手元にあるコーヒー・ソーサーが、真っ二つに割れている。アレクセイは少し驚いたように目を見張り、次に嬉しそうな顔で口元を緩めた。
「クッ……アッハッハハハ! リョウがいなくても君は、自分を制御できるのだね? これは計算外だった、面白い! 心配しなくても大丈夫ですよ、ユーキ。リョウには強力な後ろ盾があるので、我々は手出しできません。あぁ、それから君の受講している物理講師の事故は、先ほどミスター・タムラに聞いたばかりでね。私とは何の関係もないよ?」
アレクセイの白々しい嘘に合わせてリュシーは戸惑う表情を作り、キョーコの手を握り返した。キョーコとリュシーの不安そうな様子を察し、ユーキが表情を和らげる。
「悪ぃ……俺は、ただ……」
「随分、楽しそうな笑い声が聞こえてきたけど何を話してたんだい? 私も仲間に入れて欲しいな!」
厨房から戻った田村の介入で、空気が変わった。
「あっ、ソーサーが割れている……お客様に、ヒビが入っているモノを出してしまったようです、申し訳ない。お怪我はありませんか?」
詫びる田村に、アレクセイが微笑む。
「うん、大丈夫ですよ。では私は、そろそろ失礼して横浜に行かなくてはなりません。リュシエンヌを、よろしくお願い致します」
田村からコーヒーを受け取り代金を支払うとアレクセイは、ユーキに向き直った。
「いずれ、また」
車まで送ると言った田村を断り、アレクセイはリュシーに手を上げて別れの挨拶をしてから一人で駐車場に向かった。エントランスで、その背を名残惜しく見つめるリュシーの横に、いつの間にかユーキが立ち小さく呟く。
「次に会う時は、たぶん……」
たぶん……?
先の言葉を予想してリュシーは、複雑な思いで去りゆくアレクセイの車を見送った。




