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アイスが溶けるまで、異世界  作者: 黒猫と珈琲


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7/8

七日目 最後のアイス

 翌日。


 コンビニの自動ドアが開く。


 むっとした熱気が、一気にマリを包んだ。


「……今日も暑い」


 いつもなら、それだけでうんざりする。


 けれど今日は、少しだけ立ち止まって空を見上げた。


 真っ青な空。白い入道雲。じりじりと照りつける日差し。


 そして。


 じーじーじーじー。


 蝉の声。


 どこからどう見ても、夏だった。


 マリは手に持ったコンビニの袋を見る。


 中に入っているのは、ソーダ味のアイスバー。


 最初の日と同じものだ。


 昨日までは、毎日違う味を選ぶのが少し楽しみだった。今日は迷わなかった。


 これがいいと思った。


 最初の日。


 何も知らずにアイスを食べながら歩いて、角を曲がったら異世界にいた。


 そして、エミールと出会った。


 あの時と同じアイス。


「……行こう」


 マリは袋を開けた。


 青いアイスバーが現れる。


 一口齧る。


 しゃり。


 甘いソーダ味。


 最初の日と何も変わらないはずなのに、なぜか少しだけ違う味がする気がした。


 いつもの道を歩く。


 いつもの角へ向かう。


 昨日、エミールは言った。


『君が来られなくなるから夏を戻さない、とは言えないよ』


 マリも、それでいいと思った。


 夏は戻るべきだ。この世界に本来あった季節なのだから。


 分かっている。


 それでも。


 角が近づくにつれて、胸の奥が少しだけ重くなった。


「……今日も、行けるよね」


 小さく呟く。


 そして、曲がった。


 景色が変わる。


 アスファルトが消えた。


 石畳。白い家。青い空。


 マリは一歩進み、止まった。


「……暑い」


 思わず口から出た。


 今までとは違う。


 完全に、日本の夏と同じような熱気が町を包んでいる。


 日差しは強く、木々は深い緑。道端には色鮮やかな花が咲き、空には大きな白い雲が浮かんでいる。


 そして。


 ジジジジジジジジ――。


 蝉が鳴いている。


 一匹や二匹ではない。


 町中から聞こえる。


「……夏だ」


 マリは呟いた。


 本当に、夏が来ている。


「マリ」


 声がした。


 顔を上げる。


 エミールがいた。


 いつもの場所。


 けれど今日は、額にうっすら汗を浮かべている。薄手の生成り色のシャツは袖を少しまくり、いつもより暑そうな顔で立っていた。


 マリは思わず笑った。


「暑そう」

「暑い」


 エミールが即答する。


「これが夏」

「君は毎年これを?」

「毎年」

「大変な世界だね」

「昨日も似たようなこと言ってなかった?」

「昨日はまだ、ここまでじゃなかった」


 エミールは額の汗を拭った。


「朝からずっと暑いんだ」

「夜は?」

「昨日の夜も少し寝苦しかった」

「おめでとう」

「何が?」

「夏っぽい」

「それ、褒めてる?」

「たぶん」

「やっぱり便利な言葉だね」


 二人とも笑った。


 いつもと同じ。


 でも、少しだけ違う。


 マリはエミールの顔を見る。


「……戻った?」


 何を、と言わなくても分かったらしい。


 エミールは静かに頷いた。


「うん。ほぼ完全に」

「そっか」

「季節の魔力が、今朝から安定してる」

「夏として?」

「そう」


 マリは町を見る。


 蝉。強い日差し。色鮮やかな花。


 昨日まで暑さに戸惑っていた人たちは、今日は店先に日除けを張ったり、水を撒いたりしている。子どもたちは相変わらず蝉を追いかけていた。


 みんな、初めての夏を過ごしている。


「よかったね」


 マリは言った。


「うん」

「エミールも、夏を知った」

「知ったね」

「暑いでしょ」

「すごく」

「蝉うるさいでしょ」

「かなり」

「それでも?」


 エミールが少し考える。


「……嫌いじゃない」


 マリは目を瞬いた。


「ほんと?」

「うん」

「昨日まであんなに文句言ってたのに」

「君が嬉しそうだったからかな」

「え?」


 エミールは何でもないことのように続けた。


「蝉が鳴いた時も、花が咲いた時も、空の色が変わった時も。マリが毎回、夏だって笑うから」


 風が吹く。


 熱を含んだ風。


 木々が揺れ、蝉の声が重なる。


「これが君の好きな季節なんだと思ったら、悪くない気がしてきた」


 胸の奥が、ぎゅっとなる。


「私、夏が好きって言ったっけ?」

「言ってない」

「暑いって文句ばっかりだったよね」

「そうだね」

「じゃあなんで」

「好きじゃなかったら、あんなに嬉しそうに説明しないと思う」


 言われて、マリは少し考えた。


 暑い。蝉はうるさい。外に出るのも嫌になる。


 それでも、海も、花火も、入道雲も、夕立も、アイスも、夏の夕方も。


 なくなったら、きっと寂しい。


「……そうかも」

「うん」

「好きなのかも、夏」

「今気づいた?」

「うるさいな」


 エミールが笑った。


「それ」


 彼の視線が、マリの手元へ落ちる。


「最初の日と同じだね」


 マリは青いアイスバーを見る。


「覚えてた?」

「覚えてるよ」

「青い食べ物って言ってたやつ」

「さすがにもうソーダ味って覚えた」

「成長したね」

「誰のせいだと思ってるの?」

「私?」

「ほかにいる?」


 二人で笑う。


「今日、一緒に食べようと思って」


 マリはアイスを少し持ち上げた。


「一つを?」

「うん」

「前にもしたね」

「最初の頃」


 エミールは少し笑う。


「いいよ」


 二人は町外れへ歩いた。


 以前、最初の夏の花を見つけた場所。


 今ではそこ一面に、色鮮やかな花が咲いている。橙、黄色、白、淡い赤。


 風に揺れる景色を見て、マリは立ち止まった。


「すごい」

「最初は一輪だったのにね」

「あそこだったよね」

「うん」


 二人は木陰に腰を下ろした。


 そこでも暑い。


 けれど、風が吹くと少し気持ちいい。


 マリはアイスを見た。


「溶けるの早い」


 もう端が柔らかくなっている。


「今日はずいぶん早く溶けるね」


 エミールも覗き込む。


「夏だからね」

「……なるほど」

「何?」

「今回は説明になってる気がする」

「でしょ?」


 二人で笑う。


 でも、その笑いは少しだけ短かった。


 マリは青いアイスを見つめる。


「エミール」

「うん?」


「今日で最後かな」


 静かに尋ねる。


「……たぶん」


「そっか」


 エミールは何も言わない。


 ただ、隣にいる。


「食べよっか」

「うん」


 マリが一口齧る。


 それから、エミールへ差し出した。


「はい」

「僕も?」

「一緒に食べるって言ったでしょ」

「そうだった」


 エミールが少し身をかがめて、一口齧る。


「……冷たい」


 マリが笑った。


「それ、最初にアイス食べた時も言ってた」

「そうだっけ」

「『冷たい』『甘い』って」

「初めてだったからね」

「今は?」

「ソーダ味」

「ちゃんと分かるようになった」

「かなり詳しくなったよ」

「チョコミントは?」

「それはまだいいかな」

「最後まで駄目だったか」

「嫌いじゃないって言っただろう?」

「好きでもないでしょ」

「そうだね」


 いつもの会話。


 いつものように笑う。


 アイスは、少しずつ小さくなっていく。


 ◇


「そうだ」


 マリは立ち上がった。


「ちょっと待って」

「何?」

「渡したいものがある」


 斜めがけバッグを開け、中から小さな包みを取り出した。


「これ」


 エミールへ差し出す。


「僕に?」

「うん」

「開けていい?」

「もちろん」


 エミールが包みを開く。


 出てきたのは、小さなガラスの風鈴だった。


 透明なガラスには淡い青い模様が入り、下には細長い紙が下がっている。


 エミールは不思議そうに持ち上げた。


「これは?」

「風鈴」

「フウリン」

「うん」

「どう使うの?」

「吊るすの」

「それで?」

「風が吹くと鳴るの」


 エミールが風鈴を見る。


「何のために?」

「……夏っぽいから?」

「説明になってないね」


 マリは吹き出した。


「これだけ説明しても分からない?」

「実用品ではない?」

「まあ、音を楽しむものかな」

「なるほど」


 マリは風鈴を指で少し揺らした。


 ちりん。


 小さく澄んだ音がした。


 蝉の声の合間に、ほんの一瞬、涼しい音が混ざる。


 エミールは目を細めた。


「きれいな音だね」

「でしょ?」

「これが夏の音?」

「私の中ではね」

「また曖昧だ」

「いいの。そういうものなの」


 エミールは風鈴をしばらく眺めた。


「ありがとう」

「うん」

「大事にする」


 その言い方が思ったよりずっと優しくて、マリは少しだけ視線を逸らした。


「……エミールも何かくれる?」

「要求するんだ」

「冗談」

「残念」

「え?」


 エミールが立ち上がった。


 少し離れた、花の咲いている場所へ歩く。


 そして戻ってきた。


 手には、小さなものが乗っている。


「これ」

「何?」


 受け取る。


 細い栞だった。


 透明に近い薄い素材の間に、一輪の橙色の花が閉じ込められている。


「……これ」


 マリはすぐに分かった。


「あの花?」

「うん」

「最初に見つけた?」

「そう」

「でも、咲いてたやつは?」

「少し前に一輪だけ摘んで、保存しておいた」

「いつの間に?」

「調べるためにね」

「調査?」

「最初は」


 エミールが少し笑う。


「途中から、マリに渡そうと思った」


 マリは栞を見る。


 あの日。


 緑の中に、一輪だけ咲いていた花。


 夏が戻り始めた最初の証。


「もらっていいの?」

「もちろん」

「枯れない?」

「色が褪せないように、簡単な保存の魔法をかけてある」

「すごい」

「それくらいならね」


 マリは栞を光に透かした。


 鮮やかな橙色。


 あの日と、ほとんど変わらない。


「ありがとう」

「うん」

「大事にする」

「僕も」


 エミールが風鈴を見る。


 高価なものではない。


 でも、それでよかった。


 風鈴と、押し花の栞。


 それぞれの世界の夏だった。


 ◇


 アイスは、もう半分も残っていなかった。


「……早い」

「本当に今日は早いね」

「なんか悔しい」

「天気に文句を言っても仕方ないよ」

「エミール、もっと魔法使って涼しくできないの?」

「今さら季節の魔力に干渉したくないな」

「確かに」


 二人で笑う。


 マリは、残ったアイスを見た。


 言わなければ。


 きっと後悔する。


「エミール」

「うん?」

「私……」


 言葉が詰まった。


 好き。


 そう言えばいい。


 けれど、どうしても続きが出てこない。


「……マリ?」

「ううん」


 マリは少し笑った。


「なんでもない」


 エミールは何も聞かなかった。


 しばらくして。


「僕は」


 今度は彼が口を開いた。


「マリに会えてよかった」


 マリは顔を上げる。


 エミールはまっすぐこちらを見ていた。


「最初は、本当に驚いたけど」

「青い食べ物持ってたから?」

「それもある」

「まだ言う」


 少し笑う。


「でも、マリが来るようになって、この町も僕も変わった」


「エミールも?」


「うん。アイスの味を覚えた。蝉のうるささも、暑い日に冷たいものがおいしいことも」


 エミールは少しだけ空を見た。


「夕方の空を見て、夏っぽいって言う意味も」


 マリの目が少し熱くなる。


「分かるようになった?」

「少しだけ」

「……そっか」


 マリは笑おうとした。


 でも、少しだけ失敗した。


「私も」


 声が震える。


「私も、エミールに会えてよかった」


 エミールは何も言わず、少し笑った。


 アイスはあと少し。


 青い部分が、棒の先に小さく残っている。


「エミールのこと」


 マリは言った。


「きっと忘れない」


「僕も」


「風鈴、ちゃんと飾ってよ」

「もちろん」

「分からないからって、箱にしまわないでね」

「そんなことしないよ」

「ほんと?」

「毎日、風が吹くところに吊るす」

「うん」

「それで」


 エミールが少し笑った。


「夏っぽいか確認する」


 マリは笑う。


 今度は、少しだけ泣きながら。


「絶対、そのうち分かるから」

「そうだといいな」


 アイスが溶ける。


 青い雫が、棒を伝う。


「……マリ」

「うん」


 エミールが手を伸ばした。


 一瞬、マリの頬に触れそうになって。


 途中で止まる。


 その代わり、ほんの少しだけマリの髪に触れた。


「元気で」

「エミールも」

「暑さには気をつける」

「初めての夏だからね」

「マリに言われたくない気もする」

「私は慣れてるから」

「毎日暑いって言ってたのに?」

「それとこれとは別」

「そういうもの?」

「そういうもの」


 最後まで、いつもの会話だった。


 ぽたり。


 最後の一滴が落ちた。


 景色が揺れる。


「あ」


 マリの身体が薄くなる。


 もう、戻る。


「エミール」

「うん」


「またね」


 さよならとは、言いたくなかった。


 エミールは一瞬だけ目を細めた。


「……またね、マリ」


 次の瞬間。


 すべてが消えた。


 ◇


 じーじーじーじー。


 蝉が鳴いている。


 マリは、いつもの住宅街に立っていた。


 強い日差し。熱いアスファルト。白い塀。自動販売機。


 何も変わっていない。


 手の中には、アイスの棒。


 そして、もう片方の手には一枚の栞。


 橙色の押し花。


「……夢じゃない」


 今さら確認する必要なんてない。


 それでも、声に出さずにはいられなかった。


 マリは栞をそっと指でなぞる。


 花の色は、あの日と同じだった。


 蝉が鳴く。


 夏の風が吹く。


 マリはいつもの角を振り返った。


 そこにあるのは、ただの住宅街。


「……またね」


 小さく呟く。


 誰にも届かない。


 それでも。


 そう言いたかった。


 マリは栞を大切にバッグへしまい、真夏の道を一人で家へ向かって歩き出した。


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