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アイスが溶けるまで、異世界  作者: 黒猫と珈琲


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8/8

一年後 夏が来たから

 また、夏が来た。


 じーじーじーじー。


 蝉が鳴いている。


 窓の外には青い空と、大きな入道雲。庭の木々は濃い緑に染まり、強い日差しを浴びている。


「……今年も暑い」


 マリは机に頬杖をつきながら、ぼんやり窓の外を見た。


 去年と同じ夏。


 けれど、もう以前と同じ夏ではなかった。


 机の上には、一冊の本が開かれている。その間から、細い栞が覗いていた。


 マリはそっと引き抜く。


 橙色の押し花。


 一年前、エミールがくれたものだ。


 あの世界に夏が戻り始めた時、最初に咲いた花。色褪せないように魔法をかけてもらったそれは、一年経った今もあの日のままだった。


「本当に変わらないなあ」


 本を読むたびに、この栞を見る。


 そして、そのたびにエミールを思い出した。


 初めてアイスを食べて、


『……冷たい』


 と言ったこと。


 蝉が鳴いた時、


『木が鳴いている』


 と言ったこと。


 チョコミントを食べた時の、なんとも言えない顔。


 腰に巻いた白いシャツを見て、


『似合ってるよ』


 と言った声。


 そして最後の日。


『マリに会えてよかった』


 そう言ってくれたこと。


 マリは栞を指先でそっと撫でる。


「向こうにも、今年の夏が来てるのかな」


 夏が戻ったのなら、あの町にも蝉が鳴いて、花が咲いて、暑い風が吹いているはずだ。


 エミールは、少しは暑さに慣れただろうか。


「……風鈴、ちゃんと使ってるかな」


 思わず笑う。


 あの時、


『何のために?』


 と真顔で聞いた人だ。


「夏っぽいって、分かるようになったかな」


 もちろん、答えは返ってこない。


 マリは栞を本へ戻した。


 ◇


 異世界にも、二度目の夏が来ていた。


 去年とは違う。


 今年は町の人たちも、少しだけ夏というものを知っている。


 店先には日除けが張られ、井戸のそばには水を汲みに来る人が増えた。子どもたちは朝から蝉を追いかけている。


「エミール! あそこ!」

「見えてるよ」

「取って!」

「自分で取った方が楽しいんじゃない?」

「届かない!」

「じゃあ網を長くして」

「魔法使ってよ!」

「蝉を捕まえるために魔法を使うのは、ちょっと違うと思うな」


 エミールは困ったように笑った。


 少し前まで、町中が蝉の声に驚いていた。


 今では、


「夕立が来そうだから洗濯物を入れておこう」

「今日は暑いから、畑仕事は夕方にしよう」


 そんな言葉まで聞こえる。


 夏はもう、この町の季節になり始めていた。


 そして、エミールの家の窓辺には。


 一つ。


 透明なガラスの風鈴が吊るされている。


 淡い青の模様。その下に揺れる、細長い紙。


 風が入る。


 ちりん。


 エミールは机に向かっていた手を止めた。


 また風が吹く。


 ちりん。


 目を細める。


「……夏っぽい、か」


 最初は、本当に意味が分からなかった。


 風が吹くと鳴る。


 それで、何のために?


 そう思っていた。


 けれど今は、暑い日に風が入ってこの音が鳴ると、少し涼しく感じることを知っている。


 そして何より。


 この音を聞くと、マリを思い出す。


『……夏っぽいから?』


 困ったように答えた顔。


『説明になってないね』


 そう返すと、笑っていた。


 エミールは風鈴を見る。


「ちゃんと使ってるよ」


 誰に聞かせるでもなく呟いた。


 ちりん。


 風鈴が、もう一度鳴る。


 その時。


 机の上に置いていた魔力計の針が、ふっと揺れた。


「……?」


 エミールが顔を上げる。


 風のせいではない。


 魔力計の針が、ゆっくりと一方向を指している。


 去年、何度も見た反応だった。


「まさか」


 エミールは立ち上がった。


 ◇


 その日の午後。


 マリは、去年と同じコンビニへ向かっていた。


 暑かった。


 アイスが食べたかった。


 それだけ。


 ……ということにしている。


 本当は、夏になったら一度くらい、あの道を歩いてみたかった。


 コンビニへ入る。


 冷房の風が身体を包む。


「涼しい……」


 アイス売り場へ向かう。


 チョコレート。


 苺ミルク。


 バニラ。


 チョコミント。


 目に入るたび、一年前の会話が浮かんでくる。


「……やだなあ」


 マリは小さく笑った。


 最後に手に取ったのは、ソーダ味のアイスバー。


 最初の日と同じ。


 最後の日とも同じ。


 会計を済ませ、外へ出る。


 じーじーじーじー。


 蝉が鳴いている。


 袋を開け、一口齧る。


 しゃり。


 甘いソーダ味。


「変わってない」


 当たり前なのに、少しだけ安心する。


 マリは歩き出した。


 いつもの住宅街。


 そして、あの角。


 遠くから見ただけで、胸の奥が少し騒がしくなる。


「……何やってるんだろ、私」


 もう行けない。


 分かっている。


 夏が戻ったから、道は閉じた。


 去年、そう聞いた。


 それでも、マリは歩いた。


 角へ近づく。


 アイスは少しずつ溶けている。


 そして。


 曲がった。


 石畳はない。


 白い家もない。


 いつもの住宅街。


「……そっか」


 分かっていたはずなのに、少しだけ胸が沈む。


 マリはそのまま歩き続け、アイスを一口齧った。


「やっぱり、もう無理か」


 小さく呟く。


 その時。


「それ、今年も溶けるのが早そうだね」


 足が止まった。


 声も。


 息も。


 一瞬、全部止まった気がした。


 後ろから聞こえた声。


 忘れるはずがない。


 マリはゆっくり振り返った。


 そこに。


 エミールがいた。


 淡い金茶色の髪。青緑色の瞳。


 一年前と変わらない。


 少し暑そうな顔で、それでも穏やかに笑っている。


「……エミール?」


「久しぶり」


「……」


「マリ?」


「え?」


「うん」


「なんで?」


 マリは何度か瞬きをする。


「なんでいるの?」

「それは」


 エミールが少し困ったように笑う。


「僕もまだ完全には説明できない」

「来られなくなったんじゃなかったの?」

「マリはね」

「え?」

「去年は、夏のないこちらの世界が君の世界を求めたから、道が開いた」

「うん」

「そして夏が戻った」

「うん」

「今年」


 エミールは空を見上げる。


「こちらにも、また夏が来た」


 強い日差し。


 蝉の声。


 青い空。


「マリの世界にも夏がある」

「……うん」

「同じ季節が、両方の世界にある」


 エミールは少し笑った。


「その間だけ、また道がつながるみたいなんだ」


 マリは何も言えなかった。


「今度は」


 エミールが続ける。


「僕の方から来られた」


「……ほんとに?」

「目の前にいるけど」

「触っていい?」

「え?」

「だって、まだちょっと信じられない」


 エミールが目を丸くする。


 それから、片腕を差し出した。


「どうぞ」


 マリは恐る恐る触れた。


 温かい。


 ちゃんと、いる。


「……本物だ」

「幻だったら、僕もちょっと困る」


「エミール」

「うん?」

「エミール」

「うん」


 名前を呼ぶ。


 返事が返ってくる。


 それだけで、目の奥が熱くなった。


 マリは泣きそうになりながら、それでも笑う。


「一年ぶりだね」

「うん。一年ぶりだね」


「風鈴」


 唐突に聞く。


「使ってる?」


 エミールが一瞬きょとんとした。


 それから、少し笑った。


「使ってるよ」

「ほんと?」

「窓辺に吊るしてる」

「ちゃんと鳴る?」

「風が吹けばね」


 マリは少しだけ息を吸った。


「……夏っぽい?」


 去年。


 何度説明しても、よく分からないと言われた言葉。


 エミールは少し考えた。


 それから。


「うん、夏っぽい」


 マリの目が大きくなる。


「言った!」

「そんなに驚く?」

「だって、去年は全然分かってなかったのに!」

「一年あったからね」

「成長した」

「ずいぶん上からだなあ」


 二人で笑った。


 去年と同じ。


 でも今日は、アイスが溶けても別れの日ではない。


「ねえ」


 マリが聞く。


「どれくらいいられるの?」

「それがまだ分からない」

「また?」

「異世界を行き来する現象なんて、すぐ全部分かるものじゃないよ」

「町付き魔術師なのに」

「町付き魔術師に期待しすぎじゃない?」

「じゃあ、夏の間は?」

「たぶん行き来できる」

「毎日?」

「たぶん」

「また『たぶん』」

「慎重なんだよ」

「知ってる」


 マリは笑った。


 ふと思いつく。


「じゃあ今年は、私の世界の夏を見せられるんだ」

「そうなるね」

「海」

「見たい」

「花火」

「それも」

「スイカ」

「かなり気になってる」

「夕立」

「それはできれば避けたい」

「蝉」


 エミールが黙る。


 じーじーじーじー。


 すぐ近くで、蝉が大声で鳴いている。


「……こっちの方がうるさいね」

「でしょ?」

「君が毎日暑いって言ってた理由も分かる」


「でも」


 マリは少し笑う。


「夏っぽいでしょ?」


 エミールは周囲を見る。


 強い日差し。


 白い雲。


 蝉の声。


 そして、マリ。


「うん」


 今度は迷わなかった。


「夏っぽい」


 マリは嬉しくなって笑った。


 その時、エミールがマリの手元を見る。


「ところで」

「なに?」

「去年から気になってたんだけど」

「うん」

「ほかには、どんなアイスがあるの?」


 マリは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。


「いっぱいあるよ」

「どのくらい?」

「選べないくらい」

「それは困るな」

「じゃあ見に行こう」

「どこへ?」

「コンビニ」

「コンビニ」

「私が毎日アイス買ってたところ」


 エミールが少し目を輝かせる。


「行ってみたい」

「じゃあ決まり」


 マリは来た道を戻り始める。


 エミールも隣へ並んだ。


「チョコ系いっぱいあるよ」

「それは楽しみだ」

「チョコミントも」

「それはいいかな」

「一年経っても?」

「一年経っても」

「もう一回食べたら好きになるかもしれないのに」

「その話、まだ続いてたんだ」

「もちろん」


 二人で笑う。


 じーじーじーじー。


 蝉が鳴いている。


 手の中では、ソーダ味のアイスが今日も少しずつ溶けていた。


 けれど。


 マリはもう、急いで食べなかった。


「ねえ、エミール」

「なに?」

「コンビニ、涼しいよ」

「それは助かる」

「アイスもいっぱいある」

「うん」

「たぶんびっくりするよ」

「それは楽しみだな」


 二人は並んで。


 真夏の道を。


 コンビニへ戻っていった。


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