一年後 夏が来たから
また、夏が来た。
じーじーじーじー。
蝉が鳴いている。
窓の外には青い空と、大きな入道雲。庭の木々は濃い緑に染まり、強い日差しを浴びている。
「……今年も暑い」
マリは机に頬杖をつきながら、ぼんやり窓の外を見た。
去年と同じ夏。
けれど、もう以前と同じ夏ではなかった。
机の上には、一冊の本が開かれている。その間から、細い栞が覗いていた。
マリはそっと引き抜く。
橙色の押し花。
一年前、エミールがくれたものだ。
あの世界に夏が戻り始めた時、最初に咲いた花。色褪せないように魔法をかけてもらったそれは、一年経った今もあの日のままだった。
「本当に変わらないなあ」
本を読むたびに、この栞を見る。
そして、そのたびにエミールを思い出した。
初めてアイスを食べて、
『……冷たい』
と言ったこと。
蝉が鳴いた時、
『木が鳴いている』
と言ったこと。
チョコミントを食べた時の、なんとも言えない顔。
腰に巻いた白いシャツを見て、
『似合ってるよ』
と言った声。
そして最後の日。
『マリに会えてよかった』
そう言ってくれたこと。
マリは栞を指先でそっと撫でる。
「向こうにも、今年の夏が来てるのかな」
夏が戻ったのなら、あの町にも蝉が鳴いて、花が咲いて、暑い風が吹いているはずだ。
エミールは、少しは暑さに慣れただろうか。
「……風鈴、ちゃんと使ってるかな」
思わず笑う。
あの時、
『何のために?』
と真顔で聞いた人だ。
「夏っぽいって、分かるようになったかな」
もちろん、答えは返ってこない。
マリは栞を本へ戻した。
◇
異世界にも、二度目の夏が来ていた。
去年とは違う。
今年は町の人たちも、少しだけ夏というものを知っている。
店先には日除けが張られ、井戸のそばには水を汲みに来る人が増えた。子どもたちは朝から蝉を追いかけている。
「エミール! あそこ!」
「見えてるよ」
「取って!」
「自分で取った方が楽しいんじゃない?」
「届かない!」
「じゃあ網を長くして」
「魔法使ってよ!」
「蝉を捕まえるために魔法を使うのは、ちょっと違うと思うな」
エミールは困ったように笑った。
少し前まで、町中が蝉の声に驚いていた。
今では、
「夕立が来そうだから洗濯物を入れておこう」
「今日は暑いから、畑仕事は夕方にしよう」
そんな言葉まで聞こえる。
夏はもう、この町の季節になり始めていた。
そして、エミールの家の窓辺には。
一つ。
透明なガラスの風鈴が吊るされている。
淡い青の模様。その下に揺れる、細長い紙。
風が入る。
ちりん。
エミールは机に向かっていた手を止めた。
また風が吹く。
ちりん。
目を細める。
「……夏っぽい、か」
最初は、本当に意味が分からなかった。
風が吹くと鳴る。
それで、何のために?
そう思っていた。
けれど今は、暑い日に風が入ってこの音が鳴ると、少し涼しく感じることを知っている。
そして何より。
この音を聞くと、マリを思い出す。
『……夏っぽいから?』
困ったように答えた顔。
『説明になってないね』
そう返すと、笑っていた。
エミールは風鈴を見る。
「ちゃんと使ってるよ」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
ちりん。
風鈴が、もう一度鳴る。
その時。
机の上に置いていた魔力計の針が、ふっと揺れた。
「……?」
エミールが顔を上げる。
風のせいではない。
魔力計の針が、ゆっくりと一方向を指している。
去年、何度も見た反応だった。
「まさか」
エミールは立ち上がった。
◇
その日の午後。
マリは、去年と同じコンビニへ向かっていた。
暑かった。
アイスが食べたかった。
それだけ。
……ということにしている。
本当は、夏になったら一度くらい、あの道を歩いてみたかった。
コンビニへ入る。
冷房の風が身体を包む。
「涼しい……」
アイス売り場へ向かう。
チョコレート。
苺ミルク。
バニラ。
チョコミント。
目に入るたび、一年前の会話が浮かんでくる。
「……やだなあ」
マリは小さく笑った。
最後に手に取ったのは、ソーダ味のアイスバー。
最初の日と同じ。
最後の日とも同じ。
会計を済ませ、外へ出る。
じーじーじーじー。
蝉が鳴いている。
袋を開け、一口齧る。
しゃり。
甘いソーダ味。
「変わってない」
当たり前なのに、少しだけ安心する。
マリは歩き出した。
いつもの住宅街。
そして、あの角。
遠くから見ただけで、胸の奥が少し騒がしくなる。
「……何やってるんだろ、私」
もう行けない。
分かっている。
夏が戻ったから、道は閉じた。
去年、そう聞いた。
それでも、マリは歩いた。
角へ近づく。
アイスは少しずつ溶けている。
そして。
曲がった。
石畳はない。
白い家もない。
いつもの住宅街。
「……そっか」
分かっていたはずなのに、少しだけ胸が沈む。
マリはそのまま歩き続け、アイスを一口齧った。
「やっぱり、もう無理か」
小さく呟く。
その時。
「それ、今年も溶けるのが早そうだね」
足が止まった。
声も。
息も。
一瞬、全部止まった気がした。
後ろから聞こえた声。
忘れるはずがない。
マリはゆっくり振り返った。
そこに。
エミールがいた。
淡い金茶色の髪。青緑色の瞳。
一年前と変わらない。
少し暑そうな顔で、それでも穏やかに笑っている。
「……エミール?」
「久しぶり」
「……」
「マリ?」
「え?」
「うん」
「なんで?」
マリは何度か瞬きをする。
「なんでいるの?」
「それは」
エミールが少し困ったように笑う。
「僕もまだ完全には説明できない」
「来られなくなったんじゃなかったの?」
「マリはね」
「え?」
「去年は、夏のないこちらの世界が君の世界を求めたから、道が開いた」
「うん」
「そして夏が戻った」
「うん」
「今年」
エミールは空を見上げる。
「こちらにも、また夏が来た」
強い日差し。
蝉の声。
青い空。
「マリの世界にも夏がある」
「……うん」
「同じ季節が、両方の世界にある」
エミールは少し笑った。
「その間だけ、また道がつながるみたいなんだ」
マリは何も言えなかった。
「今度は」
エミールが続ける。
「僕の方から来られた」
「……ほんとに?」
「目の前にいるけど」
「触っていい?」
「え?」
「だって、まだちょっと信じられない」
エミールが目を丸くする。
それから、片腕を差し出した。
「どうぞ」
マリは恐る恐る触れた。
温かい。
ちゃんと、いる。
「……本物だ」
「幻だったら、僕もちょっと困る」
「エミール」
「うん?」
「エミール」
「うん」
名前を呼ぶ。
返事が返ってくる。
それだけで、目の奥が熱くなった。
マリは泣きそうになりながら、それでも笑う。
「一年ぶりだね」
「うん。一年ぶりだね」
「風鈴」
唐突に聞く。
「使ってる?」
エミールが一瞬きょとんとした。
それから、少し笑った。
「使ってるよ」
「ほんと?」
「窓辺に吊るしてる」
「ちゃんと鳴る?」
「風が吹けばね」
マリは少しだけ息を吸った。
「……夏っぽい?」
去年。
何度説明しても、よく分からないと言われた言葉。
エミールは少し考えた。
それから。
「うん、夏っぽい」
マリの目が大きくなる。
「言った!」
「そんなに驚く?」
「だって、去年は全然分かってなかったのに!」
「一年あったからね」
「成長した」
「ずいぶん上からだなあ」
二人で笑った。
去年と同じ。
でも今日は、アイスが溶けても別れの日ではない。
「ねえ」
マリが聞く。
「どれくらいいられるの?」
「それがまだ分からない」
「また?」
「異世界を行き来する現象なんて、すぐ全部分かるものじゃないよ」
「町付き魔術師なのに」
「町付き魔術師に期待しすぎじゃない?」
「じゃあ、夏の間は?」
「たぶん行き来できる」
「毎日?」
「たぶん」
「また『たぶん』」
「慎重なんだよ」
「知ってる」
マリは笑った。
ふと思いつく。
「じゃあ今年は、私の世界の夏を見せられるんだ」
「そうなるね」
「海」
「見たい」
「花火」
「それも」
「スイカ」
「かなり気になってる」
「夕立」
「それはできれば避けたい」
「蝉」
エミールが黙る。
じーじーじーじー。
すぐ近くで、蝉が大声で鳴いている。
「……こっちの方がうるさいね」
「でしょ?」
「君が毎日暑いって言ってた理由も分かる」
「でも」
マリは少し笑う。
「夏っぽいでしょ?」
エミールは周囲を見る。
強い日差し。
白い雲。
蝉の声。
そして、マリ。
「うん」
今度は迷わなかった。
「夏っぽい」
マリは嬉しくなって笑った。
その時、エミールがマリの手元を見る。
「ところで」
「なに?」
「去年から気になってたんだけど」
「うん」
「ほかには、どんなアイスがあるの?」
マリは一瞬きょとんとして、それから吹き出した。
「いっぱいあるよ」
「どのくらい?」
「選べないくらい」
「それは困るな」
「じゃあ見に行こう」
「どこへ?」
「コンビニ」
「コンビニ」
「私が毎日アイス買ってたところ」
エミールが少し目を輝かせる。
「行ってみたい」
「じゃあ決まり」
マリは来た道を戻り始める。
エミールも隣へ並んだ。
「チョコ系いっぱいあるよ」
「それは楽しみだ」
「チョコミントも」
「それはいいかな」
「一年経っても?」
「一年経っても」
「もう一回食べたら好きになるかもしれないのに」
「その話、まだ続いてたんだ」
「もちろん」
二人で笑う。
じーじーじーじー。
蝉が鳴いている。
手の中では、ソーダ味のアイスが今日も少しずつ溶けていた。
けれど。
マリはもう、急いで食べなかった。
「ねえ、エミール」
「なに?」
「コンビニ、涼しいよ」
「それは助かる」
「アイスもいっぱいある」
「うん」
「たぶんびっくりするよ」
「それは楽しみだな」
二人は並んで。
真夏の道を。
コンビニへ戻っていった。




