六日目 夏が戻れば、君は来なくなる
次の日。
マリは、いつものコンビニで少し迷った末に、バニラとチョコのミックスアイスを選んだ。
昨日、エミールに「マリが好きなものでいい」と言われたからだ。だから今日は、自分が食べたいもの。
そう決めたはずなのに。
「……エミールもこれなら食べるよね」
結局、そんなことを考えている。
マリは自分で少し笑って、レジへ向かった。
外へ出ると、今日も暑かった。昨日よりさらに日差しが強く、空は真っ青だ。白い雲が大きく膨らんでいる。
「向こうにも、そろそろこういう雲出るのかな」
アイスを一口食べる。
冷たい甘さを味わいながら、いつもの角へ向かった。
もう何日も通っている。
最初は、本当にもう一度行けるのか確かめるためだった。
それが今では。
角を曲がれば、エミールがいる。
そのことを疑わなくなっている。
今日も同じように角を曲がった。
景色が変わる。
石畳。白い家々。強くなった日差し。
蝉の声。
そして。
「……あれ?」
マリは足を止めた。
いつもの場所に、エミールがいない。
「エミール?」
辺りを見回す。
いない。
毎日、先に待っていたのに。
「仕事かな」
そう思って歩き出す。
町の中へ入ると、すぐに違和感に気づいた。
暑い。
これまでとは明らかに違う。もう、日本へ戻った時ほどの気温差がない。
道行く人々も、慣れない暑さに戸惑っている。
「今日も暑いわね」
「昨日より上がってないか?」
「水を多めに汲んでおこう」
店先には水差しが並べられ、帽子をかぶる人も増えていた。
蝉はもう珍しくもないらしい。子どもたちは木の幹を探して回っている。
「いた!」
「こっちにも!」
マリはその様子を見て、少し笑った。
ほんの数日前までは、町中が「何の音だ」と騒いでいたのに。
「マリちゃん」
声をかけてきたのは、以前エミールに魔法灯の修理を頼んでいた女性だった。
「こんにちは」
「今日も来たのね」
「はい。エミール知りません?」
「朝から家にいるわよ。何か調べ物をしてるみたい」
「そうなんだ」
「ずいぶん難しい顔をしてたわ」
女性はそう言うと、店の奥へ戻っていった。
難しい顔。
昨日の記録の続きだろうか。
マリは少し気になりながら、エミールの家へ向かった。
扉を叩く。
「エミール?」
すぐに足音がした。
扉が開く。
「マリ」
「こんにちは」
「ごめん。今日は迎えに行けなかった」
「いいよ。仕事?」
「少しね」
エミールはいつもと同じように笑った。
けれど、やはり何か違う。
「入って」
「うん」
中へ入ると、机の上いっぱいに本や紙が広げられていた。古い記録。分厚い本。巻物。何枚もの魔力の記録。
「すごい量」
「少し調べすぎた」
「少し?」
「……かなり」
エミールが苦笑する。
マリは机へ近づいた。
「何か分かった?」
「うん」
返事は早かった。
それなのに、エミールは続きを言わない。
「悪いこと?」
「悪い、と言うべきかは分からない」
「じゃあ何?」
エミールは少し迷ってから、椅子を引いた。
「座る?」
「うん」
二人で机を挟んで座る。
マリは持ってきたアイスを端へ置いた。まだかなり残っている。
エミールは一冊の古い本を開いた。
「この国にも、昔は夏があった」
マリは目を見開いた。
「やっぱり?」
「うん。春、夏、秋、冬。本来は四つの季節が巡っていたらしい」
ページには、季節を円のように描いた図がある。
「じゃあ、どうして夏だけなくなったの?」
「詳しい理由までは残ってない。ただ、誰かが奪ったとか、封じたとか、そういうことではないみたいだ」
「じゃあ自然に?」
「長い年月の中で、季節を巡らせる魔力の均衡が崩れたんだと思う」
エミールは別の紙を見せた。
「そして今、その流れが戻り始めてる」
線は日を追うごとに大きくなっていた。
「最初にマリが来た日から」
「私が?」
「正確には、君が持ってくるアイスがきっかけになった可能性が高い」
花が咲いた。
蝉が現れた。
日差しが強くなった。
全部、マリがこちらへ来るようになってからだ。
「じゃあ、このままいけば」
マリは少し笑った。
「夏が戻るんだ」
「うん」
それなのに。
エミールは笑わない。
その瞬間、マリの胸の奥に小さな嫌な予感が生まれた。
「……待って」
「うん」
「私がここへ来られるようになったのも、夏がないことと関係ある?」
エミールが目を伏せる。
それだけで、答えが分かった。
「あるんだ」
「たぶん」
「どういうこと?」
エミールは少し間を置いた。
「この世界に何かが欠けると、まれに別の世界との境界が薄くなることがあるらしい」
「欠けたものを取り入れるため?」
「そう考えられてたみたいだ」
マリは、自分のアイスを見る。
「夏のない世界が」
「夏のある世界を求めた」
「それで、真夏にアイスを持ってた私が来た」
「おそらくね」
マリは小さく笑った。
「じゃあ私、選ばれし者とかじゃないんだ」
「かなり偶然だと思う」
「よかった」
「よかった?」
「そういうの面倒そう」
エミールが少し笑う。
「マリらしいね」
けれど、その先にはもう気づいていた。
「……夏が戻ったら?」
エミールは答えない。
「この世界は、もう外から夏を取り入れる必要がなくなるんだよね?」
「うん」
「じゃあ」
喉が少し詰まる。
「道は?」
「閉じる可能性が高い」
「私、来られなくなる?」
エミールは少しだけ間を置いて。
「たぶん」
そう答えた。
部屋が静かになった。
外では蝉が鳴いている。
ジジジジジジ――。
昨日まで嬉しかった音が、今日は少しだけ違って聞こえた。
「そっか」
マリはアイスを見る。
少しずつ溶けている。
これを持ってくるたび、世界は夏へ近づく。
そして夏が戻れば、ここへは来られなくなる。
「じゃあ」
考えるより先に、言葉が出た。
「もうアイス持ってこなければいいのかな」
エミールが顔を上げる。
「マリ」
「だって、これが夏を戻してるんでしょ?」
「きっかけにはなってると思う」
「だったら、来なければ」
道も閉じないかもしれない。
また明日も、その次の日も、エミールに会えるかもしれない。
けれど、エミールは首を振った。
「それはやめた方がいい」
「どうして?」
「一度動き始めた季節の流れを、途中で止めることになるから」
「止めたら駄目?」
「どうなるか分からない」
エミールの声は穏やかだった。
けれど、はっきりしている。
「長い間止まっていたものが、ようやく本来の流れへ戻ろうとしてる。ここで無理に止めれば、ほかの季節まで乱れるかもしれない」
「でも」
「うん」
「私、来られなくなるんでしょ?」
「そうだね」
胸が少し痛くなる。
マリは俯いた。
「エミールは、それでいいの?」
言ってから、少しずるい聞き方だと思った。
困らせたいわけではない。
でも、聞かずにはいられなかった。
エミールはすぐには答えなかった。
少しして。
「よくはないよ」
マリが顔を上げる。
「でも」
エミールは静かに続けた。
「君が来られなくなるから夏を戻さない、とは言えないよ」
やっぱり、エミールらしいと思った。
町の魔法灯を直して、畑を見て、結界を点検して。困っている人がいれば、自然に手を貸す人。
自分たちが会えなくなるからといって、この町の季節を止めるような人ではない。
「……そうだよね」
「ごめん」
「なんで謝るの」
「マリが残念そうだから」
「残念だよ」
素直に言った。
「私、ここに来るの楽しかったし」
「うん」
「エミールと話すのも」
少しだけ声が小さくなる。
「楽しかったから」
エミールは黙って聞いている。
「だから、来られなくなるのは嫌」
「僕も」
短い返事だった。
マリは顔を上げた。
「エミールも?」
「うん」
青緑色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「最初は、本当に調査のつもりだった」
「やっぱり?」
「突然、知らない格好の女の子が青い食べ物を持って現れたんだから」
「そこ、まだ覚えてるんだ」
「印象的だったからね」
「青い食べ物じゃなくて、ソーダ味」
「今は分かってるよ」
少しだけ、いつもの調子に戻る。
マリも笑った。
「でも」
エミールが続ける。
「いつの間にか、マリが来る時間になると外を見るようになった」
「……」
「仕事も、なるべくその前に終わらせるようになった」
「調査のため?」
マリは少しだけ笑って聞いた。
エミールも笑う。
「もう、それは使えないかな」
胸の奥が急に騒がしくなる。
エミールは、それ以上何も言わなかった。
マリも聞けなかった。
でも。
十分だった。
◇
その日は、あまり町を歩かなかった。
二人でエミールの家にいた。窓の外を眺めたり、古い記録を少し見たり、アイスを分けて食べたり。
いつもなら、何でもない時間だった。
今日は、その何でもない時間が少しだけ惜しかった。
「今日の、好き?」
マリがアイスを差し出す。
「うん」
「バニラとチョコ」
「結局、僕の好きなものも入ってるね」
「偶然」
「本当に?」
「……半分くらい」
「正直だね」
二人で笑う。
アイスは少しずつ減っていく。
マリはカップを見つめた。
「エミール」
「うん?」
「夏、いつ完全に戻るの?」
「分からない」
「明日かもしれない?」
「可能性はある」
「一週間後かも?」
「それもある」
「そっか」
確かな期限さえ分からない。
マリはアイスを一口食べた。
「じゃあ」
「うん?」
「毎日来る」
「うん」
「来られる間は、毎日」
「分かった」
エミールは少し笑った。
「僕も待ってる」
窓の外では蝉が鳴いている。
空は青い。
日差しは、また少し強くなっていた。
世界は確実に、夏へ近づいている。
◇
やがて、アイスは残りわずかになった。
「……早い」
「今日はあまり食べてなかったから、むしろ長かったよ」
「そう?」
「うん」
「でも早い」
エミールが少し笑う。
「時間の感じ方の問題だね」
「たぶん」
マリは残ったアイスを見る。
あと数口。
「エミール」
「うん?」
「明日もいる?」
聞いた瞬間、少しだけ胸が苦しくなった。
「いるよ」
エミールは迷わず答えた。
「どこにも行かない」
「そっか」
「うん」
その言葉に、少しだけ安心する。
マリは最後の一口を食べた。
カップの底に、溶けたアイスが残る。
「じゃあ」
マリはエミールを見る。
「また明日」
「……マリ」
「なに?」
エミールが何か言いかけた。
けれど少し迷ってから。
「明日も来る?」
そう聞いた。
マリは笑った。
「来るよ」
「うん」
「絶対来る」
「分かった」
最後の一滴が落ちる。
景色が揺れた。
エミールの姿が薄くなる。
「また明日」
「また明日、マリ」
◇
じーじーじーじー。
日本へ戻る。
真夏の住宅街。青い空。強い日差し。
いつもと同じ。
なのに、マリはしばらくその場から動けなかった。
手には空になったカップ。
蝉の声が、ずっと響いている。
今まで夏は、毎年当たり前に来るものだった。
暑くなって、蝉が鳴いて。
そして終わる。
でも今は。
夏が来るほど、エミールと会える時間が短くなる。
「……明日も行こう」
まだ終わっていない。
だったら。
会えるうちは、会いに行く。
マリは空になったカップを握り直して、家へ向かって歩き出した。




