四日目 この国で初めて蝉が鳴いた日
今日もマリはコンビニのアイス売り場で、腕を組んでいた。
「チョコ系が好きって言ってたけど……」
昨日、エミールはバニラよりチョコレートの方が好きだと言っていた。だから今日はチョコ系。そこまでは決めている。
問題は、その先だ。
普通のチョコレート。チョコチップ。チョコモナカ。
そして。
「……チョコミント」
マリは緑色のパッケージを手に取った。
チョコレートが好きだからといって、チョコミントまで好きとは限らない。むしろ好みが分かれる。
「初めて食べるなら、面白いかな」
エミールがどんな顔をするのか、少し見てみたい。
そう思ったところで、昨日の帰り道を思い出した。
――いつから私は、自分が食べたい味じゃなくて、エミールが好きそうな味を考えるようになったんだろう。
「……まあ、いいか」
深く考えるほどのことでもない。
マリはチョコミントのカップアイスを籠へ入れた。今日は昨日ほど大きなものにはしない。
大容量なら長くいられることは分かったけれど、毎日巨大なアイスを買うのも何か違う。何より、昨日エミールに釘を刺されている。
『次はもっと大きいものを持ってきたりしないでよ』
「さすがにファミリーサイズは買わないって」
誰も聞いていないのに言い訳しながら、レジへ向かった。
コンビニを出る。
じーじーじーじー。
今日も蝉が元気だ。
「ほんと、うるさいなあ」
そう呟きながらも、マリは少し笑った。
昨日エミールに蝉の話をしたばかりだからだろう。いつもなら聞き流している声が、妙に耳につく。
カップアイスを開けて一口食べる。冷たくて甘い。そのあとに、すっとしたミントの風味が広がった。
「うん。おいしい」
いつもの角へ向かう。
もう、ここを曲がることに迷いはない。
角を曲がれば。
きっと今日も。
石畳。白い家。涼しい風。
そして。
「こんにちは、マリ」
「こんにちは、エミール」
今日も彼がいた。
エミールは道端に立ち、片手に何冊かの古そうな本を抱えている。
「今日は本持ってる」
「昨日の花を調べてたんだ」
「あ、分かった?」
「少しだけね」
マリは近づく。
するとエミールの視線が、いつものように手元へ向かった。
「今日は緑なんだ」
「チョコミント」
「チョコ……」
エミールが少し考える。
「昨日食べたもの?」
「それとミントを合わせた味」
「ミント?」
「薬草っぽいやつ」
「急に不安になってきたな」
「おいしいよ」
「本当に?」
「私は好き」
「その言い方だと、好きじゃない人もいる?」
「いる」
「先に言ってほしかった」
「まだ食べさせてないでしょ」
エミールが笑う。
「じゃあ、今日は少し覚悟しておくよ」
「大げさ」
二人は昨日と同じように町の中へ歩き出した。
数歩進んだところで、マリは気づく。
「あれ?」
「どうしたの?」
「やっぱり暖かくなってる」
昨日までより、はっきり分かる。風そのものは穏やかだが、日差しが強い。肌に当たる光が、以前より少し熱を持っている。
「うん」
エミールが空を見上げた。
「今朝から一段と気温が上がった」
「珍しい?」
「かなりね」
道を行く人たちの服装も、少し薄くなっている。店先では、年配の女性が扇子のようなもので顔を扇いでいた。
「今日は暖かいわねえ」
通りすがりに、エミールへ声をかける。
「こんな日は久しぶりじゃない?」
「そうですね」
「畑の野菜も驚いてるわよ」
女性はそう言いながらも、どこか楽しそうだった。
マリはエミールを見る。
「みんな気づいてるね」
「さすがにこれだけ変わればね」
「やっぱり変なんだ」
「変というより……」
エミールは少し言葉を選ぶ。
「初めてに近いかな」
「初めて?」
「少なくとも、僕が生まれてからこんなふうに毎日気温が上がり続けたことはない」
そう言う表情は穏やかだが、魔術師としては気になるのだろう。
マリは昨日の橙色の花を思い出した。
「花は?」
「見に行こうか」
「うん」
町を抜け、昨日の草地へ向かう。
途中、昨日は気づかなかった変化があった。
「あ」
「今度は何?」
「これ」
マリは道端にしゃがんだ。
小さな黄色い花が咲いている。一輪ではない。あちらにも、こちらにも。昨日まで淡い緑ばかりだった草地に、鮮やかな色が増えていた。
「また知らない花?」
「これは知ってる。ただ――」
エミールが隣にしゃがむ。
「咲く時期が違う」
「早いの?」
「かなり」
「暖かくなったから?」
「たぶん」
さらに進む。
昨日見つけた橙色の花は、まだそこにあった。
けれど。
「増えてる」
マリは目を丸くした。
一輪だったはずの花が、今日は三輪になっている。少し離れた場所にも、小さな蕾がいくつか見えた。
「昨日、一輪だったよね?」
「うん」
「一日で?」
「僕も朝に確認して驚いた」
エミールは持ってきた本を開いた。かなり古い本らしく、紙は黄ばんでいる。
「昨日の夜、この花に似た絵を見つけたんだ」
「何ていう花?」
「名前までは読めなかった。文字がかなり古くてね。ただ、記述の一部は分かった」
「何て書いてあったの?」
エミールはページを指でなぞる。
「『強き陽の季節に咲く』」
「強き陽?」
「たぶん、日差しが強い時期という意味だと思う」
マリは橙色の花を見る。
昨日、自分が何となく口にした言葉。
「夏っぽい」
「そう」
エミールがマリを見る。
「君の言っていた夏の花かもしれない」
「本当に?」
「まだ断定はできないよ」
「でも可能性はあるんでしょ?」
「ある」
なんだか嬉しくなった。
自分の世界では珍しくもない夏。それが、この世界にも昔はあったのかもしれない。
「じゃあ、本当に夏が戻ってきたりして」
軽い気持ちで言った。
エミールは答えなかった。
「エミール?」
「……まだ何とも言えない」
少し真面目な声だった。
マリは首を傾げたものの、それ以上は聞かなかった。
「そうだ。アイス食べる?」
「ここで?」
「溶けちゃうから」
「それは大問題だね」
「でしょ?」
「君にとってはね」
二人は近くの木陰へ移動した。
大きな木の根元に座り、マリはカップを開ける。今日は最初からスプーンを二本もらってきていた。
「はい」
一本をエミールへ渡す。
エミールはそれを見てから、マリを見る。
「最初から僕も食べる予定だった?」
「一人で食べてもいいけど」
「食べるよ」
「なら聞かないでよ」
エミールが小さく笑う。
マリはチョコミントを一口すくって渡した。
「どうぞ」
「緑……」
「まだ言ってる」
「食べ物としては少し珍しい色だから」
「昨日は茶色だったでしょ」
「茶色はまだ安心できる」
「何その基準」
エミールは少し警戒しながら口へ運んだ。
一口。
そして。
「…………」
止まった。
マリは吹き出しそうになるのを堪える。
「どう?」
「これは」
「うん」
「冷たいのに、さらに冷たい感じがする」
「ああ、分かる」
「口の中が不思議だ」
「ミントだからね」
「薬草を甘くして凍らせたみたいな」
「その言い方だと全然おいしくなさそう」
「でもチョコレートはおいしい」
「じゃあ好き?」
エミールは真剣に考えた。
「……嫌いではない」
「微妙」
「君は好きなんだろう?」
「好き」
「じゃあ残りはマリが食べて」
「遠慮しなくていいのに」
「遠慮じゃないよ」
「本当に?」
「本当に」
マリは笑いながら、自分で一口食べた。
「おいしいのに」
「好みは人それぞれだからね」
「昨日チョコ好きって言ってたから選んだのに」
言ってから。
あ。
と思った。
エミールも、一瞬だけ動きを止める。
「僕が好きそうだから?」
「……チョコが好きって言ってたから」
「うん」
「だから、その……せっかくならって」
なぜか言い訳のようになる。
別に、おかしなことではない。友達に食べ物を勧めることくらい普通だ。
エミールは少しだけ笑った。
「ありがとう」
「結局あんまり好きじゃなかったけどね」
「チョコレートのところは好きだよ」
「じゃあ明日は普通のチョコにする」
「明日の分まで決めるの?」
「嫌?」
「まさか」
穏やかに返される。
マリはアイスへ視線を落とした。
昨日までと同じ会話なのに、少しだけ落ち着かない。
その時だった。
ジジジジジ――。
「…………」
マリのスプーンが止まった。
エミールも顔を上げる。
ジジジジジジ。
木の上から聞こえる。
一度途切れ。
また。
ジジジジジ――。
エミールがゆっくり立ち上がった。
「……マリ」
「なに?」
「木が鳴いている」
一瞬、マリは何を言われたのか分からなかった。
それから。
「木じゃないよ」
「じゃあ何?」
マリも立ち上がる。
耳を澄ます。
間違いない。
「蝉!」
「……これが?」
「そう! 昨日言ったでしょ!」
ジジジジジ。
「ほんとにいる!」
マリは嬉しくなって、声のする木へ近づいた。
「どこだろ。上かな」
幹を見上げる。
「ほら、あそこ!」
枝の近くに、小さな影がある。
茶色がかった虫。見慣れた蝉とは少し形が違う気もする。けれど、鳴き声はよく似ていた。
「蝉だ……!」
思わず笑ってしまう。
「本当に蝉!」
エミールはそんなマリを見て、それから木を見上げた。
ジジジジジジジジ。
蝉は遠慮なく鳴き続けている。
「……君の言っていた通りだ」
「でしょ?」
「本当にうるさいね」
「でしょ?」
「なぜ嬉しそうなの?」
「夏だから!」
エミールがしばらくマリを見る。
「やっぱり分からないなあ」
「そのうち分かるって」
「昨日も聞いたよ、それ」
「でも本当に夏の音なんだよ」
日本では毎日聞いていた。
うるさい。暑苦しい。朝から鳴かれるとうんざりする。
それなのに、夏のない世界で聞く蝉の声は、どうしてこんなに懐かしいのだろう。
ジジジジジ。
さらに別の木からも声がした。
「一匹じゃない」
エミールが周囲を見る。
「増えてる?」
「たぶん」
二人で町へ戻る頃には、蝉の声はさらに増えていた。
そして当然、町の人々も気づいた。
「何だ、この音は?」
「朝はいなかったぞ」
「どこから鳴ってるの?」
「虫らしい!」
「虫?」
「うるさいなあ」
通りのあちこちで、人々が空や木を見上げている。子どもたちは面白がって走り回っていた。
「あそこにもいる!」
「捕まえられるかな!」
「触るなら気をつけて」
エミールが声をかける。
マリは笑いを堪えられなかった。
「何?」
「みんな同じ反応するんだなって」
「君の世界では違うの?」
「慣れてるから」
「こんなにうるさいのに?」
「慣れるよ」
「本当に?」
「たぶん」
エミールは信じられないような顔をした。
「夏って、なかなか大変な季節だね」
「まだ蝉しか来てないよ」
「これ以上あるの?」
「暑さとか、夕立とか」
「昨日聞いたもの、だいたい困ることばかりじゃない?」
「でもアイスがおいしい」
「それは認める」
二人で笑う。
けれど、ふとエミールの表情が変わった。
木々を見上げる。
昨日より濃くなった緑。咲き始めた花。強くなった日差し。
そして、今まで存在しなかった蝉の声。
「……マリ」
「何?」
「最初に君が来た日、この町に蝉はいなかった」
「うん」
「昨日まで、あの花もなかった」
「うん」
「気温が上がり始めたのも、君が来てからだ」
マリの笑顔が少し消える。
「それって……」
「まだ分からない」
エミールはそう言った。
けれど、その声は昨日までよりずっと真剣だった。
「ただ、偶然にしては重なりすぎてる」
彼の視線が、マリの手元へ落ちる。
カップの中では、チョコミントのアイスが少しずつ溶けている。
「私?」
「正確には」
エミールがアイスを見る。
「それかもしれない」
「アイス?」
「君自身からは魔力をほとんど感じない。でも、その食べ物には少し変わった力がある」
「昨日までそんなこと言ってなかったよね?」
「微弱すぎて、最初は気のせいだと思ったんだ」
エミールは指先をアイスへ近づける。
触れはしない。
青緑色の瞳が、じっとカップを見つめる。
「これは、この世界の魔力じゃない」
「じゃあ私の世界?」
「たぶん」
「でも、ただのコンビニのアイスだよ?」
「君の世界ではね」
エミールが顔を上げる。
「もしかしたら、こちらでは君の言う『夏』の何かを運んできてるのかもしれない」
マリは手の中のアイスを見る。
どこからどう見ても、ただのチョコミントアイスだ。
「……これが?」
「まだ仮説だよ」
「アイスが夏を?」
「僕だってかなり変なことを言ってる自覚はある」
「町付き魔術師が?」
「町付き魔術師でも、アイスが季節を運んでくるなんて習ったことはないからね」
マリは思わず笑った。
「そっか」
「笑うところ?」
「だってエミールでも分からないことあるんだなって」
「たくさんあるよ」
エミールも少し笑う。
その間にも。
ジジジジジジ。
町には、今までなかった音が響いている。
マリは空を見上げた。
昨日より青い。昨日より明るい。
そして確かに、少しだけ。
自分の知っている夏の空へ近づいている。
「本当に夏が来るのかな」
「分からない」
「来たらどうする?」
「まず」
エミールは蝉の鳴く木を見る。
「この音に慣れるところからかな」
マリは吹き出した。
「そのうち気にならなくなるよ」
「本当に?」
「たぶん」
「また『たぶん』」
二人で笑った。
その時、マリの手に冷たいものが触れた。
「あ」
アイスがかなり溶けている。
「やば」
「そろそろだね」
「今日は早かった気がする」
「蝉に夢中だったからじゃない?」
「だって本当にいたんだもん」
「僕としては、いない方が静かでよかった気もするけど」
「そのうち好きになるって」
「何を根拠に?」
「夏だから」
「またそれ?」
カップの底に、薄い緑色のアイスが残る。
マリは最後の一口を食べた。
「明日、もう少し調べておくよ」
「アイスのこと?」
「それと、季節の記録」
「分かった」
エミールが少し間を置く。
「マリ」
「うん?」
「明日も来る?」
聞かれて、マリは少しだけ目を丸くした。
昨日までは、自分から言っていた。
『明日も来てもいい?』
それが今日は。
エミールの方から聞いた。
ほんの小さな違いなのに、なぜか嬉しい。
「来るよ」
マリは笑った。
「今度は普通のチョコにする」
「それは楽しみにしてる」
「チョコミントもおいしいのに」
「マリが食べればいいよ」
「もう一回食べたら好きになるかもよ?」
「それは明日考える」
「逃げた」
「慎重なんだよ」
最後に残った一滴が、カップの底を滑った。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日」
景色が揺れる。
石畳が薄れる。
エミールの姿も。
そして。
最後まで、蝉の声だけが耳に残った。
◇
じーじーじーじー。
住宅街へ戻った瞬間、もっと大きな蝉の声に包まれた。
「……うるさ」
反射的に口から出る。
そしてマリは、一人で笑った。
さっきまであんなに喜んでいたのに、こちらではいつもの音だ。
でも。
あの町でも今頃、エミールが蝉の声を聞いている。
そう考えると、少し不思議だった。
「明日も来る、か」
さっきのエミールの言葉を思い出す。
マリは空になったカップを持ったまま、家へ向かう。
明日のアイスは、普通のチョコレート。
もう迷う必要はなかった。




