二日目 今日もアイスを持ってきました
翌日。
マリは、昨日と同じコンビニのアイス売り場の前に立っていた。
「……どれにしよう」
昨日のことが夢だった可能性は、まだ捨てきれていない。家に帰ってから何度考えても、あまりにも現実離れしていた。
アイスを食べながら角を曲がったら異世界。そこで魔術師に会って、アイスが溶けたら元の世界へ戻ってきた。
そんな話を誰かから聞いたら、たぶん最初に熱中症を疑う。
けれど。
「夢にしては、エミールの顔まではっきり覚えてるんだよね」
あの涼しい空気も、石畳も、見知らぬ町も、青緑色の瞳も。夢だったと言い切るには、妙に鮮明だった。
だから、確かめることにした。
昨日と同じ時間。昨日と同じコンビニ。
そして、アイス。
「ソーダ味だと昨日と同じだし……」
少し迷って、苺ミルク味のアイスバーを手に取る。白と淡い桃色の二層になっているものだ。
「これでいいかな」
誰に確認するでもなく呟いて、レジへ向かった。
コンビニを出ると、今日も暑い。じーじーと蝉が鳴き、日差しは容赦なくアスファルトを照らしている。
「昨日より暑くない?」
そんな気さえする。
マリは昨日と同じようにその場でアイスの袋を開け、冷たい苺ミルク味を一口齧った。
「おいしい」
やっぱり、暑い日のアイスは最高だ。
――と、そこで思う。
「でも、全部食べたら駄目なんだよね」
昨日の仮説が正しければ、アイスが溶けきった瞬間にこちらへ戻ってくる。つまり、異世界にいる間はなるべくゆっくり食べた方がいい。
マリはアイスを見つめた。
「……ゆっくり食べるって、難しいな」
何しろ暑い。食べなくても勝手に溶ける。
それでも昨日より慎重に歩きながら、例の角へ向かった。
近づくにつれて、少し緊張してくる。
本当にまた行けるだろうか。もし何も起きなかったら、昨日のことはやっぱり夢だったのかもしれない。
「まあ、その時は普通に帰ればいいか」
苺ミルク味のアイスを一口齧る。
角を曲がる。
そして。
「……あ」
アスファルトが消れた。
代わりに現れたのは石畳。白や薄茶色の壁をした家々。そして、少し涼しい風。
昨日と同じ町だった。
「来た……」
本当に。
胸の奥が、少しだけ弾んだ。
その時。
「本当に来た」
聞き覚えのある声がした。
マリが顔を上げる。
道の少し先に、エミールが立っていた。
昨日と同じ淡い金茶色の髪。今日は生成り色のシャツに、薄い茶色の上着を羽織っている。
「エミール」
思わず笑う。
エミールもこちらへ歩いてきた。
「こんにちは、マリ」
「こんにちは」
「昨日、突然消えたから驚いたよ」
「あれ、私も驚いた」
「だろうね」
エミールの視線が、すぐにマリの手へ落ちる。
「今日は違うね」
「何が?」
「それ」
アイスだった。
「分かるんだ」
「昨日は青かったから」
「今日は苺ミルク」
「イチゴミルク」
「苺って分かる?」
「苺は分かるよ」
「あ、苺はあるんだ」
マリは少し笑って、それからエミールを見た。
「待ってた?」
「調査のためにね」
即答だった。
「ふーん」
「何?」
「別に」
「その顔は何か言いたそうだね」
「昨日一回会っただけなのに、本当に同じ場所で待ってるんだなって」
「君がまた来る可能性はあったから」
「調査のために?」
「そう」
「ふーん」
「だから、その反応は何?」
マリは笑った。エミールも、少し困ったように息を吐く。
「それより、昨日はどこへ戻ったの?」
「家の近く。こっちに来る前に歩いてた道」
「時間は?」
「たぶん、ほとんど経ってなかったと思う」
「なるほど」
エミールは少し考え込む。昨日よりも、魔術師らしい顔だ。
「消える直前、何か変わったことは?」
「アイスがなくなった」
「それだけ?」
「たぶん」
「昨日持っていた青いものが全部なくなった瞬間に?」
「うん」
エミールはマリの手のアイスを見る。
「じゃあ、それが関係している可能性は高そうだね」
「私もそう思った。だから今日も買ってきたの」
「ずいぶん行動が早いね」
「気になるでしょ?」
「普通はもう少し怖がるものじゃない?」
「昨日、何もされなかったし」
「それだけで安心していいのかな」
「エミールいるし」
何気なく言った。
エミールが一瞬だけ黙る。
「……昨日会ったばかりの人を、そんなに信用していいの?」
「だって町の魔術師なんでしょ?」
「そうだけど」
「それに、悪い人っぽくない」
「判断が早いなあ」
「違う?」
「自分で悪い人だとは言わないよ」
「ほら」
「何が『ほら』なのか分からない」
そんなやり取りをしながら、二人は道の端へ寄った。
マリはふと、手にしているアイスを見る。表面が少し柔らかくなっている。
「……食べる?」
エミールを見る。
「僕が?」
「うん」
「いいの?」
「昨日から気になってたでしょ」
「そんなに顔に出てた?」
「かなり」
「それはちょっと恥ずかしいな」
エミールは苦笑した。
マリはアイスを見つめる。棒アイスをどう分ければいいだろう。
「一口なら、この辺から齧る?」
「君が食べかけだけど」
「嫌ならやめる」
「嫌とは言ってないよ」
エミールが少し迷ったあと、身をかがめた。
「じゃあ、一口だけ」
「どうぞ」
マリが差し出す。エミールが端を少し齧った。
しゃり、と小さな音がする。
「……冷たい」
「うん」
「すごく冷たい」
「アイスだからね」
「それは昨日聞いた」
エミールは口の中の冷たさを確かめるように、ゆっくり飲み込んだ。
「甘い」
「苺ミルクだから」
「冷たくて、甘くて、柔らかいのに少ししゃりっとする」
「感想が細かい」
「初めて食べるからね」
エミールはもう一度アイスを見る。
「不思議だね」
「おいしい?」
「うん」
素直な返事だった。
マリはなぜか少し嬉しくなる。
「よかった」
「君が作ったわけじゃないよね?」
「そうだけど」
「どうして嬉しそうなの?」
「勧めたものがおいしいって言われたら嬉しいでしょ」
「そういうものか」
「そういうもの」
マリも一口齧る。
昨日より、ほんの少し日差しが明るい気がした。けれど、日本の夏ほどではない。風はまだ涼しい。
「そういえば」
マリは辺りを見回した。
「こっちって、今何月なの?」
「何月?」
「季節は?」
「今なら春の終わりくらいかな」
「春?」
「うん」
「じゃあ、もうすぐ夏が来る?」
エミールが首を傾げる。
「夏?」
マリも首を傾げた。
「……夏」
「それは何?」
「え?」
今度はマリが止まる番だった。
「夏、知らないの?」
「聞いたことがない」
「嘘でしょ」
「嘘をつく理由がないよ」
エミールは本当に分からない顔をしている。
マリは辺りを見回した。そういえば昨日から、妙に涼しいと思っていた。
蝉もいない。入道雲もない。真夏らしい強い日差しもない。
「じゃあ、このあと暑くならないの?」
「多少暖かくなることはあるけど、今より極端に暑くなることはないかな。そのあとは秋になる」
「春の次が秋?」
「そうだよ」
「冬の次は?」
「春」
「夏がない……」
「だから、その夏というのは何?」
マリは考えた。
夏。
説明しろと言われると、意外と難しい。
「暑い季節」
「暑い?」
「すごく暑い」
「どのくらい?」
「外に出た瞬間、帰りたくなるくらい」
「それは嫌だね」
「嫌だけど、夏なの」
「すでによく分からない」
「あと、海」
「海ならあるよ」
「夏になると海へ行くの」
「今でも行けると思うけど」
「そうなんだけど、夏の海は違うの」
エミールの眉が少し上がる。
「どう違うの?」
「……夏っぽい」
「説明になってないね」
「じゃあスイカ」
「それは?」
「大きくて丸くて、外が緑で、中が赤くて、甘い果物」
「へえ」
「冷やして食べるとおいしい」
「それは少し興味ある」
「花火もある」
「花火?」
「夜に空で、どーんって光るの」
「魔法?」
「魔法じゃない」
「魔法じゃないのに空で光る?」
「そう」
「危なくない?」
「ちゃんとやれば大丈夫」
「君の世界、思ったより大胆だね」
「あと夕立」
「雨?」
「急にすごい雨が降るの。さっきまで晴れてたのに」
「それは困らない?」
「困る」
「夏のいいところを説明してるんじゃないの?」
「そうだった」
エミールが笑う。マリもつられて笑った。
「じゃあ、蝉」
「それは?」
「虫」
「どんな?」
「すごくうるさい虫」
「…………」
「何その顔」
「そんなものが、なぜ夏の思い出になるの?」
「うるさいけど、夏だから」
「君の夏の説明、時々すごく曖昧だね」
「しょうがないでしょ。ずっと普通にあるものだったんだから」
そう言ってから、マリは少しだけ考えた。
夏は、毎年来るものだった。暑くて、汗をかいて、蝉がうるさくて、早く涼しくなればいいのにと思う。
なくなることなんて、考えたこともなかった。
「でも、ないのは変な感じ」
「僕からすると、ある方が変な感じだけどね」
「そっか」
「うん」
二人の常識が、まるで違う。
それが少し面白かった。
エミールはふと空を見上げた。
「ただ」
「何?」
「昔の記録で、今とは違う季節があったような記述を見たことはある」
「夏?」
「名前までは覚えてない。古い文献だから、今度調べてみるよ」
「ほんと?」
「町の季節や天候を記録するのも僕の仕事だからね」
「町の魔術師って何でもするんだね」
「小さな町だから」
「大変そう」
「慣れてるよ」
穏やかに言う。
その横顔を見ながら、マリは昨日より少しだけエミールのことを知った気がした。
魔術師で、異世界の人。
それだけではなく、ちゃんとこの町で働いて、暮らしている人なのだ。
「あ」
その時、エミールが言った。
「マリ」
「何?」
「また小さくなってる」
「え?」
見る。
苺ミルク味のアイスは、もう三分の一ほどしか残っていなかった。
「うそ、早くない?」
「話してたからじゃない?」
「もっとゆっくり食べるつもりだったのに」
「食べなくても溶けるんだろう?」
「そうなんだよね」
「やっぱり不便な食べ物だ」
「でもおいしかったでしょ」
「それは認める」
エミールが笑う。マリも笑った。
けれど、昨日のことを思い出すと、少しだけ惜しくなる。
これがなくなったら帰る。
「ねえ」
「うん?」
「明日も来てもいい?」
聞いてから、自分でも少し驚いた。
まだ二日目なのに。
けれど、エミールはすぐに答えた。
「もちろん」
「調査のため?」
昨日の仕返しのつもりで聞く。
エミールは一瞬だけ黙った。
「……まあ、それもあるね」
「それも?」
「原因が分からないままなのは困るから」
「ふーん」
「またその顔」
「何でもない」
少しだけ笑って、残ったアイスを齧る。
甘い苺の味。冷たいミルクの味。
そして最後に、棒の根元へ残った雫。
「あ」
「そろそろ?」
「たぶん」
エミールが少しだけ真面目な顔になる。
「戻ったら、何か変わったことがないか確認してみて」
「分かった」
「それと――」
「うん?」
「明日も同じ時間?」
マリは目を瞬いた。
それから笑う。
「たぶん」
「じゃあ、その頃にこの辺りにいるよ」
「調査のために?」
「……そういうことにしておいて」
ぽたり。
最後の雫が落ちた。
景色が揺れる。
「また明日、エミール」
「うん。また明日、マリ」
次の瞬間。
じーじーじーじー。
蝉の声が戻ってきた。
熱気。アスファルト。見慣れた住宅街。
マリは手の中の棒を見つめる。昨日と同じ。本当に、アイスがなくなると帰ってくる。
「……やっぱり夢じゃないんだ」
そして。
明日も、エミールが待っている。
そう思ったら、家へ向かう足取りが少し軽くなった。
「次は何味にしようかな」
家に着くより先に、もう明日のアイスを考えていた。




