一日目 アイスを食べていただけなのに、異世界でした
じーじーじーじー。
蝉が鳴いている。
暑い。暑すぎる。
「……溶ける」
誰に言うでもなく呟いて、マリは額に浮いた汗を手の甲で拭った。
八月の午後二時過ぎ。空は腹が立つくらい青く、雲は真っ白で、住宅街のアスファルトからは陽炎が立っている。こんな日に外へ出るものではない。分かっている。分かってはいるのだけれど。
「アイスがなかったんだから、仕方ないよね」
家から徒歩五分のコンビニまで来てしまった。
服装は、ゆったりした白いTシャツに、ひざ丈の緩いパンツ。足元はサンダルで、こげ茶色の髪は低い位置で一つに結んでいる。完全に近所着だ。誰か知り合いに会ったら少しだけ困るけれど、この暑さの中でおしゃれをする気にはなれなかった。
右手には、小さなコンビニの袋。中には追加で買ったお菓子と飲み物。
そして左手には――。
「やっぱり夏はこれだよね」
青いソーダ味のアイスバー。
家までたった五分なのだから、帰ってから食べればいい。そう思っていたのは、コンビニを出るまでだった。
自動ドアが開いた瞬間、むわっと熱気に包まれ、マリは三歩で諦めた。袋を破り、その場でアイスを取り出す。
しゃり。
一口齧る。
「冷た……おいしい」
口の中に広がる甘いソーダ味に、生き返った気がした。
じーじーじー。
蝉の声。遠くで遊ぶ子どもたちの声。どこかの家から聞こえる掃除機の音。
いつもの夏。いつもの住宅街。
マリはアイスを食べながら、のんびり家へ向かった。
もっとも、のんびりしている場合ではない。アイスは端から少しずつ溶け始めていた。
「あ、やば」
青い雫が棒を持つ指まで流れてくる。マリは慌てて舐め取った。
「暑すぎでしょ、今日」
誰に文句を言っているのか、自分でも分からない。
コンビニから自宅までは、まっすぐ歩いて二つ目の角を右へ曲がり、そこからさらに少し。もう何百回と歩いている道だ。
マリは残り半分ほどになったアイスを齧りながら、いつもの角を曲がった。
そして。
「…………え?」
立ち止まった。
目の前にあるはずのものが、なかった。
白い塀も、向かいの家の赤い屋根も、道路脇の自動販売機も、電柱も。
全部、ない。
代わりに広がっていたのは、石畳の道だった。
左右には白や薄茶色の壁をした見知らぬ建物が並び、窓には木製の鎧戸がついている。軒先には見たことのない花が植えられ、道の向こうには尖った屋根の塔まで見えた。
「……え?」
もう一度言った。それしか出てこなかった。
マリは後ろを振り返る。そこにも住宅街はなく、同じ石畳の道が続いている。
「ええ……?」
夢?
いや。
手に持っているアイスは冷たい。
というか、溶けている。
「あっ」
また青い雫が指に落ちた。反射的に舐め取る。
夢の中でこんなにアイスの心配をするだろうか。
マリは辺りを見回した。人はいる。通りの向こうを籠を持った女性が歩き、少し離れた店先では年配の男性が木箱を積み上げている。
服装はどこか古風だった。女性は足首まで隠れる長いスカートを穿き、男性はシャツの上からベストのようなものを着ている。
少なくとも、日本の住宅街ではない。
「……異世界?」
つい口に出した。
自分で言っておいて、ものすごく馬鹿馬鹿しい。けれど、それ以外に説明のしようがない。
マリはもう一度周囲を見て、ふと気づいた。
「涼しい」
さっきまでの、息をするだけで体力を奪われるような暑さがない。日差しはあるのに、空気はさらりとしていて、春の終わりくらいの気温だ。
蝉の声もしない。
「……何これ」
怖い。
そう思うべきなのかもしれない。けれど今のところ、魔物らしきものも襲ってこないし、剣を持った兵士に囲まれてもいない。
ただ、知らない町に立っている。
どうしよう。
交番。
ないだろうな。
スマホ。
「あ」
マリは慌ててポケットを探った。
――ない。
「置いてきた……」
近所のコンビニだったからだ。財布だけ持って出てきた。
「こういう時に限って……」
「何か困ってる?」
突然、横から声をかけられた。
「わっ!」
マリは飛び上がって振り向く。
そこに、一人の青年が立っていた。
二十代半ばくらいだろうか。背が高く、細身。淡い金茶色の髪は、きっちり整えるというより柔らかく自然に流れている。瞳は青とも緑ともつかない、澄んだ色だった。
生成り色のシャツに、淡い青灰色の上着。腰には小さな鞄が下がっている。
第一印象は、爽やか。
次に、優しそう。
少なくとも、いきなり剣を抜いてきそうな人ではない。
青年はマリを見ていた。
いや。
正確には、マリの手元を見ていた。
「……それ、食べ物?」
「え?」
青年が指したのは、青いアイスバーだった。
「これ?」
「うん」
「アイス」
「アイス」
初めて聞く言葉を確かめるように、青年が繰り返す。
「食べ物なの?」
「そうだけど」
「青いね」
「ソーダ味だから」
「ソーダ」
「あ……それも分からない?」
「分からない」
青年は少し考えたあと、またアイスを見る。
「それに」
「うん」
「溶けてるけど」
アイスの先端から、ぽたり、と青い雫が落ちた。
「アイスだからね」
マリは答えた。青年が黙る。
「……何?」
「いや。食べ物が溶けていることを、そんなに当然みたいに言われても」
「だってアイスって溶けるものだし」
「そうなんだ」
「そうなの」
「不便な食べ物だね」
「そこがいいんだよ」
「溶けるところが?」
「いや、それはよくない」
青年が一瞬だけ目を丸くし、それから少し笑った。マリもつられて笑う。
何だろう。知らない場所にいるはずなのに、この人と話していると少しだけ落ち着く。
青年は改めてマリの姿を見た。
「君、この町の人じゃないね」
「分かる?」
「分かるよ」
まあ、そうだろう。
Tシャツに緩いパンツ、サンダル姿。この町では、どう見ても浮いている。
「どこから来たの?」
「それが、私にもよく分からなくて」
「分からない?」
「さっきまで家の近くを歩いてたんだけど」
「うん」
「角を曲がったら、ここだった」
青年は少し黙った。笑われるかと思ったが、そうはならなかった。
「家の近くというのは?」
「日本」
「ニホン」
「……知らない?」
「聞いたことがない」
やっぱり。
マリは小さく息を吐いた。
「じゃあ、本当に異世界なのかな……」
「異世界?」
「私がいたところとは、別の世界ってこと」
「なるほど」
青年は意外にもあっさり頷いた。
「信じるの?」
「少なくとも、君の服も、その食べ物も、この辺りでは見たことがないからね」
彼はアイスを指した。
「それに、さっき君が現れた時、少しだけ魔力が揺れた」
「魔力」
「うん」
「魔法あるの?」
「あるよ」
「本当に?」
思わず身を乗り出す。
青年が少し笑った。
「そこは驚くんだね」
「そりゃ驚くよ」
「異世界に来たことより?」
「それも驚いてる」
「見えないなあ」
「今、だんだん驚いてるところ」
「遅いね」
軽く返され、マリはむっとしたふりをした。
「じゃあ、あなた魔法使い?」
「魔術師」
「違うの?」
「細かく言えばね」
「へえ」
マリは青年をまじまじと見る。
杖は持っていない。三角帽子もない。ローブでもない。
「もっと魔法使いっぽい格好を想像してた」
「どんな格好?」
「長いローブとか」
「仕事の邪魔だね」
「杖とか」
「必要なら使うよ」
「尖った帽子とか」
「何のために?」
「……魔法使いっぽいから?」
青年は少し間を置いた。
「君の世界の魔術師は大変そうだね」
「たぶん、私の世界にもいないけど」
「いないの?」
「うん」
「なのに服装にはこだわるんだ」
「イメージは大事だから」
「そういうもの?」
「そういうもの」
話している間にも、アイスは着実に小さくなっていた。マリは慌てて一口齧る。
「あ、そうだ。名前」
「名前?」
「あなたの名前」
「ああ」
青年は穏やかに答えた。
「エミール。エミール・アスマン」
「私はマリ」
「マリ」
エミールは確認するように呼んだ。
自分の名前なのに、知らない世界の人に呼ばれると少し不思議な感じがした。
「エミールは、ここで何してるの?」
「町付きの魔術師をしてる」
「町付き?」
「この町で魔法に関係する仕事をするんだ。魔法具を直したり、畑を見たり、結界を点検したり」
「へえ」
もっと派手に魔物を倒したりするのかと思った。けれど話を聞く限り、ずいぶん生活に近い仕事らしい。
「じゃあ、異世界から来た人も担当?」
「それは初めてだね」
「初めてなんだ」
「かなり」
「どうしよう」
「とりあえず、少し調べてみようか」
「元の世界に帰れる?」
「まだ何とも言えないけど――」
エミールの言葉が止まった。
彼の視線が下がる。
「マリ」
「なに?」
「それ」
指差された先を見る。
アイスは、もうほとんど残っていなかった。棒の先に、ほんの一欠片。
「あ。やば、溶ける」
「そんなに大事なの?」
「大事だよ。これ食べるために外に出たんだから」
「異世界に来た理由より?」
「それは別問題」
「君、意外と大物だね」
最後の一欠片を口に入れる。
冷たい。甘い。
そして。
棒の根元に残っていた青い雫が、ぽたりと落ちた。
その瞬間。
「え?」
景色が揺れた。
石畳が霞む。白い家々も、エミールの姿も薄れていく。
「マリ?」
エミールの声が遠くなる。
「待って、何これ――」
次の瞬間。
じーじーじーじー。
「…………」
蝉が鳴いていた。
目の前には、見慣れた住宅街。電柱。白い塀。アスファルト。遠くには、いつもの自動販売機。
むっとする熱気が全身を包む。
「……暑っ」
思わず呟いた。
戻っている。
マリはその場で固まった。
左手を見る。
持っているのは、ソーダ味のアイスが刺さっていた木の棒だけ。
「…………」
夢?
でも。
エミールの顔も、青緑色の瞳も、石畳の感触も、さっきまでいた涼しい町の空気も。
妙にはっきり覚えている。
マリはゆっくり振り返った。角の向こうには、いつもの道がある。
「……アイスが溶けたら、戻ってきた?」
まさか。
そんな馬鹿な。
けれど、ほかに思い当たることもない。
マリは木の棒を見つめた。
じーじーじー。
蝉がうるさい。汗が額を伝う。
さっきまであんなに嫌だった暑さが、少しだけ違って感じられた。
「……明日」
ぽつりと呟く。
家までは、あと数分。
マリは一歩踏み出して、それからもう一度だけ角を振り返った。
「もう一回、買ってみようかな」
明日は。
違うアイスを。




