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アイスが溶けるまで、異世界  作者: 黒猫と珈琲


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1/8

一日目 アイスを食べていただけなのに、異世界でした

 じーじーじーじー。


 蝉が鳴いている。


 暑い。暑すぎる。


「……溶ける」


 誰に言うでもなく呟いて、マリは額に浮いた汗を手の甲で拭った。


 八月の午後二時過ぎ。空は腹が立つくらい青く、雲は真っ白で、住宅街のアスファルトからは陽炎が立っている。こんな日に外へ出るものではない。分かっている。分かってはいるのだけれど。


「アイスがなかったんだから、仕方ないよね」


 家から徒歩五分のコンビニまで来てしまった。


 服装は、ゆったりした白いTシャツに、ひざ丈の緩いパンツ。足元はサンダルで、こげ茶色の髪は低い位置で一つに結んでいる。完全に近所着だ。誰か知り合いに会ったら少しだけ困るけれど、この暑さの中でおしゃれをする気にはなれなかった。


 右手には、小さなコンビニの袋。中には追加で買ったお菓子と飲み物。


 そして左手には――。


「やっぱり夏はこれだよね」


 青いソーダ味のアイスバー。


 家までたった五分なのだから、帰ってから食べればいい。そう思っていたのは、コンビニを出るまでだった。


 自動ドアが開いた瞬間、むわっと熱気に包まれ、マリは三歩で諦めた。袋を破り、その場でアイスを取り出す。


 しゃり。


 一口齧る。


「冷た……おいしい」


 口の中に広がる甘いソーダ味に、生き返った気がした。


 じーじーじー。


 蝉の声。遠くで遊ぶ子どもたちの声。どこかの家から聞こえる掃除機の音。


 いつもの夏。いつもの住宅街。


 マリはアイスを食べながら、のんびり家へ向かった。


 もっとも、のんびりしている場合ではない。アイスは端から少しずつ溶け始めていた。


「あ、やば」


 青い雫が棒を持つ指まで流れてくる。マリは慌てて舐め取った。


「暑すぎでしょ、今日」


 誰に文句を言っているのか、自分でも分からない。


 コンビニから自宅までは、まっすぐ歩いて二つ目の角を右へ曲がり、そこからさらに少し。もう何百回と歩いている道だ。


 マリは残り半分ほどになったアイスを齧りながら、いつもの角を曲がった。


 そして。


「…………え?」


 立ち止まった。


 目の前にあるはずのものが、なかった。


 白い塀も、向かいの家の赤い屋根も、道路脇の自動販売機も、電柱も。


 全部、ない。


 代わりに広がっていたのは、石畳の道だった。


 左右には白や薄茶色の壁をした見知らぬ建物が並び、窓には木製の鎧戸がついている。軒先には見たことのない花が植えられ、道の向こうには尖った屋根の塔まで見えた。


「……え?」


 もう一度言った。それしか出てこなかった。


 マリは後ろを振り返る。そこにも住宅街はなく、同じ石畳の道が続いている。


「ええ……?」


 夢?


 いや。


 手に持っているアイスは冷たい。


 というか、溶けている。


「あっ」


 また青い雫が指に落ちた。反射的に舐め取る。


 夢の中でこんなにアイスの心配をするだろうか。


 マリは辺りを見回した。人はいる。通りの向こうを籠を持った女性が歩き、少し離れた店先では年配の男性が木箱を積み上げている。


 服装はどこか古風だった。女性は足首まで隠れる長いスカートを穿き、男性はシャツの上からベストのようなものを着ている。


 少なくとも、日本の住宅街ではない。


「……異世界?」


 つい口に出した。


 自分で言っておいて、ものすごく馬鹿馬鹿しい。けれど、それ以外に説明のしようがない。


 マリはもう一度周囲を見て、ふと気づいた。


「涼しい」


 さっきまでの、息をするだけで体力を奪われるような暑さがない。日差しはあるのに、空気はさらりとしていて、春の終わりくらいの気温だ。


 蝉の声もしない。


「……何これ」


 怖い。


 そう思うべきなのかもしれない。けれど今のところ、魔物らしきものも襲ってこないし、剣を持った兵士に囲まれてもいない。


 ただ、知らない町に立っている。


 どうしよう。


 交番。


 ないだろうな。


 スマホ。


「あ」


 マリは慌ててポケットを探った。


 ――ない。


「置いてきた……」


 近所のコンビニだったからだ。財布だけ持って出てきた。


「こういう時に限って……」


「何か困ってる?」


 突然、横から声をかけられた。


「わっ!」


 マリは飛び上がって振り向く。


 そこに、一人の青年が立っていた。


 二十代半ばくらいだろうか。背が高く、細身。淡い金茶色の髪は、きっちり整えるというより柔らかく自然に流れている。瞳は青とも緑ともつかない、澄んだ色だった。


 生成り色のシャツに、淡い青灰色の上着。腰には小さな鞄が下がっている。


 第一印象は、爽やか。


 次に、優しそう。


 少なくとも、いきなり剣を抜いてきそうな人ではない。


 青年はマリを見ていた。


 いや。


 正確には、マリの手元を見ていた。


「……それ、食べ物?」


「え?」


 青年が指したのは、青いアイスバーだった。


「これ?」

「うん」

「アイス」

「アイス」


 初めて聞く言葉を確かめるように、青年が繰り返す。


「食べ物なの?」

「そうだけど」

「青いね」

「ソーダ味だから」

「ソーダ」

「あ……それも分からない?」

「分からない」


 青年は少し考えたあと、またアイスを見る。


「それに」

「うん」

「溶けてるけど」


 アイスの先端から、ぽたり、と青い雫が落ちた。


「アイスだからね」


 マリは答えた。青年が黙る。


「……何?」

「いや。食べ物が溶けていることを、そんなに当然みたいに言われても」

「だってアイスって溶けるものだし」

「そうなんだ」

「そうなの」

「不便な食べ物だね」

「そこがいいんだよ」

「溶けるところが?」

「いや、それはよくない」


 青年が一瞬だけ目を丸くし、それから少し笑った。マリもつられて笑う。


 何だろう。知らない場所にいるはずなのに、この人と話していると少しだけ落ち着く。


 青年は改めてマリの姿を見た。


「君、この町の人じゃないね」

「分かる?」

「分かるよ」


 まあ、そうだろう。


 Tシャツに緩いパンツ、サンダル姿。この町では、どう見ても浮いている。


「どこから来たの?」

「それが、私にもよく分からなくて」

「分からない?」

「さっきまで家の近くを歩いてたんだけど」

「うん」

「角を曲がったら、ここだった」


 青年は少し黙った。笑われるかと思ったが、そうはならなかった。


「家の近くというのは?」

「日本」

「ニホン」

「……知らない?」

「聞いたことがない」


 やっぱり。


 マリは小さく息を吐いた。


「じゃあ、本当に異世界なのかな……」

「異世界?」

「私がいたところとは、別の世界ってこと」

「なるほど」


 青年は意外にもあっさり頷いた。


「信じるの?」

「少なくとも、君の服も、その食べ物も、この辺りでは見たことがないからね」


 彼はアイスを指した。


「それに、さっき君が現れた時、少しだけ魔力が揺れた」

「魔力」

「うん」

「魔法あるの?」

「あるよ」

「本当に?」


 思わず身を乗り出す。


 青年が少し笑った。


「そこは驚くんだね」

「そりゃ驚くよ」

「異世界に来たことより?」

「それも驚いてる」

「見えないなあ」

「今、だんだん驚いてるところ」

「遅いね」


 軽く返され、マリはむっとしたふりをした。


「じゃあ、あなた魔法使い?」

「魔術師」

「違うの?」

「細かく言えばね」

「へえ」


 マリは青年をまじまじと見る。


 杖は持っていない。三角帽子もない。ローブでもない。


「もっと魔法使いっぽい格好を想像してた」

「どんな格好?」

「長いローブとか」

「仕事の邪魔だね」

「杖とか」

「必要なら使うよ」

「尖った帽子とか」

「何のために?」

「……魔法使いっぽいから?」


 青年は少し間を置いた。


「君の世界の魔術師は大変そうだね」

「たぶん、私の世界にもいないけど」

「いないの?」

「うん」

「なのに服装にはこだわるんだ」

「イメージは大事だから」

「そういうもの?」

「そういうもの」


 話している間にも、アイスは着実に小さくなっていた。マリは慌てて一口齧る。


「あ、そうだ。名前」

「名前?」

「あなたの名前」

「ああ」


 青年は穏やかに答えた。


「エミール。エミール・アスマン」

「私はマリ」

「マリ」


 エミールは確認するように呼んだ。


 自分の名前なのに、知らない世界の人に呼ばれると少し不思議な感じがした。


「エミールは、ここで何してるの?」

「町付きの魔術師をしてる」

「町付き?」

「この町で魔法に関係する仕事をするんだ。魔法具を直したり、畑を見たり、結界を点検したり」

「へえ」


 もっと派手に魔物を倒したりするのかと思った。けれど話を聞く限り、ずいぶん生活に近い仕事らしい。


「じゃあ、異世界から来た人も担当?」

「それは初めてだね」

「初めてなんだ」

「かなり」

「どうしよう」

「とりあえず、少し調べてみようか」

「元の世界に帰れる?」

「まだ何とも言えないけど――」


 エミールの言葉が止まった。


 彼の視線が下がる。


「マリ」

「なに?」

「それ」


 指差された先を見る。


 アイスは、もうほとんど残っていなかった。棒の先に、ほんの一欠片。


「あ。やば、溶ける」

「そんなに大事なの?」

「大事だよ。これ食べるために外に出たんだから」

「異世界に来た理由より?」

「それは別問題」

「君、意外と大物だね」


 最後の一欠片を口に入れる。


 冷たい。甘い。


 そして。


 棒の根元に残っていた青い雫が、ぽたりと落ちた。


 その瞬間。


「え?」


 景色が揺れた。


 石畳が霞む。白い家々も、エミールの姿も薄れていく。


「マリ?」


 エミールの声が遠くなる。


「待って、何これ――」


 次の瞬間。


 じーじーじーじー。


「…………」


 蝉が鳴いていた。


 目の前には、見慣れた住宅街。電柱。白い塀。アスファルト。遠くには、いつもの自動販売機。


 むっとする熱気が全身を包む。


「……暑っ」


 思わず呟いた。


 戻っている。


 マリはその場で固まった。


 左手を見る。


 持っているのは、ソーダ味のアイスが刺さっていた木の棒だけ。


「…………」


 夢?


 でも。


 エミールの顔も、青緑色の瞳も、石畳の感触も、さっきまでいた涼しい町の空気も。


 妙にはっきり覚えている。


 マリはゆっくり振り返った。角の向こうには、いつもの道がある。


「……アイスが溶けたら、戻ってきた?」


 まさか。


 そんな馬鹿な。


 けれど、ほかに思い当たることもない。


 マリは木の棒を見つめた。


 じーじーじー。


 蝉がうるさい。汗が額を伝う。


 さっきまであんなに嫌だった暑さが、少しだけ違って感じられた。


「……明日」


 ぽつりと呟く。


 家までは、あと数分。


 マリは一歩踏み出して、それからもう一度だけ角を振り返った。


「もう一回、買ってみようかな」


 明日は。


 違うアイスを。


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