088 受け止められない現実
夜勤明け。朝9時。
日勤の千花がまだ出社していない、そう事務所から連絡を受けた。
やっぱり寝坊したのかな。そんなことを思いながら、退勤まで一人で大丈夫です、そう伝えた。
そして定時になり、着替えを済ませ事務所に向かった。すると施設長が、困惑気味に電話の応対をしているのが見えた。
「濱口リーダーと連絡はとれました?」
電話を終えた施設長に夕子が声をかける。施設長は複雑な表情を浮かべ、今にも消え入りそうな声で答えた。
「濱口さんなんだけど、ご主人から電話があって、その……事故にあったみたいで」
「え……」
言葉の意味が理解できず、夕子が声を漏らした。
「それでその、濱口さん……亡くなられたって……」
目の前が真っ暗になった。
この人、何を言ってるの?
誰の話をしてるの?
私が聞いてるのは千花さんのことだよ?
昨日深夜にここに来て、私に道を示してくれた千花さんのことだよ?
施設長、誰かと勘違いしてません? そう思った。
呆然としている夕子を気遣いながら、施設長が続ける。
「昨日の夜中、スマホを施設に忘れたから取りに行く、そう言ってこっちに向かったみたいなの。詳しいことは分からないけど、その時に車にはねられたみたいで」
「……」
状況が理解できない。
どういうこと?
千花さんはあの後、事故にあったってこと?
私は千花さんの最後の話し相手だったってこと?
頭の中がぐちゃぐちゃになっていた。
あんなに元気で、いつも自分を気にかけてくれた千花さんが。
あの笑顔を最後に、この世界から旅立っていった。
私に勇気を与えてくれて、励ましてくれた。
その千花さんはもういない。
その現実を突きつけられ、夕子は肩を震わせた。
施設長の言葉はもう、聞こえなかった。
夕方。
千花の遺体が葬儀場に到着したと、施設長から連絡を受けた。
明日の夜、通夜が執り行われるらしい。
自分は夜勤なので、通夜に参加することができない。葬儀は近親者のみで行うとのことで、お別れできるのは今日しかないと言われた。
夕子はシャワーを浴びて着替えると、國澤の運転する車に乗り込み、葬儀場へと向かった。
話を聞いた國澤も、
「俺がお会いしたのはあの日だけだったけど、夕子が信頼するのがよく分かるって思ったんだ。それに濱口さん、夕子のことを気遣って、まるで姉のような目で夕子を見ていて……俺も濱口さんとお別れしたい。そして感謝を伝えたい」
そう言って、仕事を調整して駆けつけてくれたのだった。
葬儀場に着くと、千花の遺影が目に入った。
グループホーム「ゆめ」の制服を着て、笑顔いっぱいでこちらを見ている。それを見て、これが夢じゃないんだと告げられているような気がした。
震える足で、親族の控室に向かう。國澤はそんな夕子を支え、寄り添った。
「……」
中には数人の親族が、テーブルを囲んで座っていた。
その中の一人が夕子に気づき、慌てて立ち上がった。
「わざわざありがとうございます。濱口千花の夫でございます」
そう言って静かに頭を下げる。
いつも千花さんが自慢してた旦那さんだ。そう思い、夕子も頭を下げた。
「グループホーム『ゆめ』でお世話になった、朝霧夕子と申します。この度は、その……急なことで驚いてます。シフトの関係で明日来ることができませんので、失礼とは思いましたが今日来させていただきました。その……千花さんとお別れ、させていただいてもよろしいでしょうか」
「勿論です。どうぞこちらに」
中に通されると、部屋の奥に安置された白い棺桶が目に入った。
夕子が正座し、中を見つめる。
「……」
穏やかな笑みを浮かべ、眠りについている千花。
その顔を見て、心の中で何かが壊れたような気がした。
肩が震え、涙で視界が歪む。
「千花さん、どうして……一方的に私に言葉を投げつけて、無理やり笑顔を引きずり出したくせに……心の靄を、問答無用で取り払ったくせに……
ねえ千花さん。私まだ、結論が出てないんですよ? これからどうするべきか、もう一度千花さんに相談したいって思ってたんですよ? それなのに……勝手にいなくなるなんて、ひどいじゃないですか……」
感情が言葉となり、どんどんあふれてくる。
そんな夕子の肩を抱き、國澤も沈痛な表情を浮かべたのだった。
千花の夫に挨拶しようと声をかけると、喫煙室に誘われた。
「あなたのこと、千花からよく聞かされてました。施設に入ったばかりの頃、ストレスいっぱいの顔をしてたあなたが気になって、煙草を勧めてみたって。そうしたら朝霧さん、立派なスモーカーになってしまって。私は一人の少女を悪の道に誘ってしまった、そう言って笑ってました」
そう言われ、確かにこの習慣、千花さんの影響で始めたんだと思い出した。
白い息を吐き、千花と感覚を共有しているような錯覚を覚え、瞼が濡れた。
「どうしてか分からないけど、あなたのことが気になって仕方がない、そう言ってました。特に最近、あなたの元気がないことを気にしてたみたいで、いつも出社前、私にネタのすり合わせをしてきたんです。くだらないネタ話を披露して、『今日はこれで夕子ちゃんを笑わせようと思うの。どうかな?』そう聞いてきました。で、それに私がダメ出しをする、そんなことを続けてました」
ははっと声を上げ、寂しげな笑みを浮かべる。
そう言えば安城さんの件以降、やたらと話を振ってきていたなと思った。場が凍り付くようなくだらないネタを持ち掛けて、「うーん、失敗! また別のネタ、仕込んできます! こうご期待!」そう言って笑っていた。
正直あの頃は、そうやって絡んでくる千花のことを迷惑に感じていた。どんな話を聞かされても、今は笑えるような状態じゃない。できれば少し、放っておいてほしい、そう思っていた。
しかし今の話を聞いて、彼女は自分のことを気遣い、少しでも元気になってほしいと思い、絡んでくれてたんだと理解した。
そんな千花の優しさに、また涙が溢れてきた。




