085 見えない出口
「石川の最後の言葉、もう一度思い出してほしい」
穏やかに微笑み、品沢が夕子を見つめる。
「お嬢ちゃん。君は誰よりも幸せにならないといけないんだよ」
その言葉に、涙が溢れてきた。
「でも……私にそんな資格はないんです」
「そうなのかい? それはどういう基準で言ってるんだろう」
「だって私は……安城さんに酷いことをして、そしてそのことで悩んでる振りをして……同情されることを期待してる、そんなずるい人間なんです」
「はははっ、なかなかに辛辣だね。自分のこととは言え、そこまでのことを思うとは。流石お嬢ちゃんだ」
「……」
「でも、誰かにそう言われた訳じゃないよね」
「言われてはいません。でも」
「言われていない。それが事実なんだ。でも、幸せになってほしいと言ったやつはどれだけいる? 数えてみるといい」
そう言われ、顔を思い浮かべる。
真っ先に、國澤の顔が浮かんだ。
品沢が、石川が。奈緒が、百合子が、和江が。
そして最後に、千花の顔が浮かんだ。
「それが答えなんじゃないかな」
「ですがみんな、私の本当を知らなくて」
「本当にそう思うのかい? みんながお嬢ちゃんのことをよく知らず、上っ面だけを見てそんなことを言ったと思うのかい? 幸せになってほしいなんて言葉を、そんな軽い気持ちで言ったと思うのかい?」
そう言われ、思わずうつむく。
確かにそれは、彼らに対して失礼だ。
みんな真摯に自分と向き合い、その言葉を送ってくれた。
その気持ちを否定してはいけない、そう思った。
「だからね、お嬢ちゃん。何度も言って申し訳ないが、お嬢ちゃんは真面目すぎるんだ。もっと肩の力を抜いて、適当に生きていくことも覚えるべきなんだ。そうしないといつか、本当に心が砕け散ってしまうよ」
顔を上げ、涙で歪んだ視界で品沢を見つめる。
品沢は慈愛のこもった眼差しで、夕子を見つめていた。
「わしも改めて言うとしよう。お嬢ちゃん、誰よりも幸せになっておくれ」
1月1日。元旦。
夜勤明けの夕子は、國澤と会った。
國澤は夕子の状態を案じ、初詣には誘わず家で新年を祝ってくれた。
おせち料理を手にして。
「ひょっとしてこれ、博幸くんが?」
「いやいや、流石にこんなのは無理だって。これは妹が作ってくれたんだ」
「そうなんだ、妹さんが」
「ああ。今度一緒にご飯、食べませんかって言ってたよ」
話しながら、國澤は夕子の様子を観察していた。
あの時よりは元気に見える。食欲も戻ったようで、顔色も悪くない。
だが、瞳の輝きだけは変わらない。絶望を感じさせる陰りが映っている、そう思った。
「仕事の方はどうなんだ? 年末年始、大変だったろ」
「そうだね。でも毎年のことだし、もう慣れたって感じかな。それに」
そう言って口元を歪めた。
「一人だけど利用者さんも少ないし、その分負担が少ないから」
「……」
國澤はあの日、千花から全てを聞いていた。
夕子が抱えている苦悩を知った。そしてそれが彼女にとって、今後の人生の大きな分水嶺になると感じていた。
今、彼女は自分を気遣い、笑顔を向けている。しかしその裏で、想像もつかないほど大きな葛藤と戦っているんだと思い、身震いを覚えた。
きっと彼女は自身のことを、醜く弱い存在だと思っているのだろう。
しかし自分に言わせれば、彼女ほど強い人間はいない。
この瞬間にも、どれだけの自己問答を続けていることだろう。
しかも笑顔で。何事もないような素振りで。
そんな彼女の力になりたい。でも、その方法が分からない。そう思い、自分の無力さを痛感した。
國澤は静かに夕子の肩を抱いた。
「どうしたの、博幸くん」
夕子が不自然なまでにおどけ、笑顔を向ける。
國澤はそのまま夕子を抱きしめ、囁いた。
「……なんでもないよ。ただこうして、夕子を感じたかっただけなんだ」
「変な博幸くん。でもありがとう、嬉しいよ」
「これからもずっと、俺は夕子と一緒だからな。それだけは忘れないでくれ」
國澤の言葉に、夕子は瞳の陰りを深くした。
「うん……ありがとう、博幸くん……」
日常が続く。
あっと言う間に日々は流れ、気がつけば1月が終わろうとしていた。
夕子はまだ、結論を出せずにいた。
しかしそれを理由に、日常をないがしろにする訳にはいかない。
毎日國澤とやりとりし、時間が合えば一緒に過ごす。職場に向かう道中で奈緒や百合子と語りあい、そして夜勤を始める。
利用者たちの介護に汗を流し、休憩時間に品沢と会う。
そう言えば最近、休憩所に他の幽霊たちが来ていない。そのことを尋ねてみたのだが、品沢は笑いながら言った。
「わしは何も言ってないよ。あいつらもあいつらなりに、思うところがあるのだろう。まあ、しばらくお嬢ちゃんに対し、成仏に関する依頼は控えるようにとは言ったけどね。今のお嬢ちゃんはそれどころじゃない。まずは自分のことをしっかり片づける、それが最優先なんだからね」
その言葉にうなずき。
幽霊たちの気遣いに感謝し。
早く結論を出さなくては、そう改めて思うのだった。
ただ、こうして誰かと接している時は問題ないのだが、一人になるとすぐ、自己否定の言葉が呪いのように脳裏を埋め尽くすのだった。
いつまでこの仕事にしがみついているんだ?
この偽善者め。
一人の人間の死を冒涜しておきながら、何をのうのうと暮らしているんだ?
今笑ったな? お前が殺した安城カスミは、二度と笑うことができないんだぞ。
お前のように歪な人間は、この世界から早々に消えるべきなんだ。
そもそもの話、生者と死者の境界で生きる存在なんて、いていい訳がない。
お前は異物なんだ。
消えてしまえ。
そう言った思考に支配され、絶望するのだった。
ある夜勤明けの日。
帰宅途中。人通りのない道で。
見知った顔の男たちを見つけた。
幽霊たちだった。
彼らは皆、沈痛な面持ちで夕子を見つめていた。
そんな彼らを直視できず、彼女はうつむき加減でそっと頭を下げた。
その時だった。
「夕子さん!」
突然の大声に、夕子が驚き顔を上げる。
見ると、何人かの男は目を真っ赤に腫らしていた。
「俺たちは夕子さんのことを、世界で一番大切に思ってます!」
夕子が呆然と、彼らを見つめる。
「夕子さんは俺たちの為、いつも心を配ってくれています! そんな夕子さんの真心に、どれだけ救われたか分かりますか!
夕子さんに出会えた、それだけ俺たちは、この理不尽な世界に戻ってきてよかったと思えるようになりました! あなたは俺たちにとって、最高の友人であり恩人なんです!」
その叫びが。一言一句が。
夕子の心を大きく揺さぶる。
気が付けば夕子の瞳に、涙が溢れていた。
「夕子さんがどんな選択をしようとも、この気持ちは変わりません! 俺たちはこれからも、夕子さんの幸せを願い、祈ってます! 夕子さん、誰よりも幸せになってください!」
涙が止まらなかった。
夕子は口を押さえ、嗚咽をこらえようとした。
「そして……夕子さん! 色々あったことは聞いています! 夕子さんがご自分のことをどう思っているか、それも理解してるつもりです! ですが、ですが! 言わせてください!
俺は、俺たちは! 何があっても夕子さんの味方です! 誰に何を言われようとも、この先何があろうとも! 俺たちは夕子さんのことを心から応援しています!
俺たちは何もできない、無力な死者です! でも、それでも! 夕子さんを信頼してます! それだけは信じてください! 夕子さんの為なら、俺たちは神にだって抗います!」
夕子はその場に跪き、泣き崩れた。
男たちも泣いていた。
泣きながら声を合わせ、最後に叫んだ。
「夕子さーん! 負けるなー!」




