084 日常の価値
自虐的に微笑む夕子を見つめ、品沢は思った。
今、彼女の中では様々な葛藤がせめぎあっている。
それは生者にのみ許されたもので、死者が立ち入るべきでない領域だ。
そう思い、何度も言葉を飲み込んだ。
しかし同時に、こう思った。
こんな時、石川なら。
高坂なら、山中なら。どうしたのだろうかと。
やつらは皆、お嬢ちゃんのことを慈しみ、守ろうとしていた。
お嬢ちゃんに幸せになってほしい、そう強く願っていた。
もしやつらがここにいたら、何かしらの行動を起こしたに違いない。
しかしやつらはもう、この世界に存在しない。それが残念に思えた。
こんな時こそ、やつらのようなお節介者が必要だと言うのに。
だが今、それを悔やんでも仕方ない。やつらは皆、お嬢ちゃんのおかげで未練を晴らし、旅立っていったのだから。
わしに全てを託して。
だからやはり、わしはわしとして。品沢昭典として。
自分にできることでお嬢ちゃんを守っていくべきだ、そう思った。
「お嬢ちゃん」
長い沈黙の中、ようやく品沢が口を開いた。
「は、はい。なんでしょう」
今にも消え入りそうなその声に、品沢が次の言葉を躊躇う。しかしすぐに思い直し、照れくさそうに微笑んだ。
「なんと言うかだな、ははっ……煙草、めぐんでくれないかな」
喫煙所で、品沢が白い息を吐く。
「お嬢ちゃん、いつもすまないね」
そう言って微笑み、頭を掻く。
そして思った。
死者である自分には、ある意味生者以上に理解してることがある。
それは日常の大切さだ。
日常こそが、人を人たらしめる根源なんだ。
どんな辛いことがあろうとも。どんな楽しいことがあろうとも。
人生という舞台の上では、それはただのスパイスでしかないのだ。
人生のほとんどを占めるのは、当たり前に感じているただの日常。
その日常の価値に気づき、そこに幸せを見出す者こそが、人生の勝者となるのだ。
彼はそう信じていた。そしてそれは、自分が死者だからこそ理解できたことだと思っていた。
今のお嬢ちゃんは危うい。気を抜けば簡単に壊れてしまう、それぐらい危うい。
それはどんな荒療治を使ったとしても、簡単に癒えるものではないだろう。
むしろそうすることで、望まぬ結果をもたらすかもしれない。
それならば、たとえ時間がかかるとしても。
こうして当たり前の時間を繰り返していく中で、少しずつ癒していく方がいいのかもしれない。
そう思い。
品沢はいつも通りの日常を選択した。
そんな品沢の意を察したのか、やがて夕子は微笑み、囁いた。
「……やっぱり品沢さんは、いつも通りにしてくれるんですね」
「はははっ。わしはただ、煙草をめぐんでもらうのが楽しみなだけだよ」
「なんですかそれ、ふふっ」
力なく笑う。しかし先程より少し、覇気を感じられた。
「少しだけ……聞いてもらってもいいですか」
目を伏せたまま、夕子がつぶやく。
「ああ。お嬢ちゃんの話なら、いつだって大歓迎だ」
その言葉に微笑み、続ける。
「私……この仕事を続けていいのか、分からなくなってるんです」
「そうだろうね。見てたら分かるよ」
「昔からそう思ってました。品沢さんには言ったことがあると思います。私がこの仕事を選んだのは、自分より不幸な人の世話をすることで、自分の心を安定させたいからなんです」
「ああ、そう言ってたね」
「そんなことを考えるぐらい、私の心は汚れているんです。でも、それでも……働く中で、利用者さんと触れ合っていく中で、喜びを感じることがたくさんあったんです。そしていつの間にか、この仕事が楽しいって思えるようになったんです」
「そうだね。そう思うよ」
「だけど安城さんのことがあって……改めて今、自分が穢れた存在だって思ったんです。だから……
この仕事を辞めた方がいい、そう思ってるんです」
震える声でそう囁く。
これは相談でなく告解だ。そう品沢は思った。
「……お嬢ちゃんは本当、色んなことを真剣に受け止め、悩み、考えているんだね。すごいと思うよ」
「品沢さんはどう思いますか。私がその、仕事を辞めようか迷ってることについて」
「……」
「品沢さんが私に対し、意見を言わないように気をつけていることは感じてました。それはきっと、品沢さんが私を、生者を尊重してくれてるからだと思ってました」
この子は理解してたのか。そう思い苦笑する。
「でも……どうか品沢さん。人生の先輩として、道を示してくれませんか。私がどうするべきなのか」
「わしには……」
煙草をもみ消し、人差し指を立ててもう一本ねだる。
そして火をつけると穏やかに微笑み、続けた。
「生者の生き方に口を挟む権利がない、そう思ってる。仮にお嬢ちゃんが間違った選択をしてると思っても、それは死者であるわしの考えだ。生者に当てはまるとは限らない。なぜならわしは死者で、思考する行為すら忘れてしまっているからだ。死者というのは、止まった時間の中で存在している訳だからね。言ってみればわしらは、この世界の傍観者なんだ。
だからわしは驚いた。お嬢ちゃんと出会ってから、忘れていた思考や感情を思い出していったからね。まるで自分が今、生きているような錯覚すら覚えてしまった。
そういう意味では、本当にお嬢ちゃんに感謝している。何もなかった無為な日々に、お嬢ちゃんは漣を送ってくれた訳だからね。
ただそれでもわしは、お嬢ちゃんの人生に口出しするべきではないと思っていた。石川のやつは違ってたみたいだけどね」
石川のことを言われ、夕子の胸が少し熱くなった。
「だが……こうしてお嬢ちゃんに聞かれれば、その時は全力で力になろうと思っていた。だから誠意をもって答えよう。
お嬢ちゃんは今、悩み苦しんでいる。葛藤している。そしてたどり着いた選択肢のひとつとして、この仕事を辞めることを考えている」
「……はい」
「それもいいと思うよ。と言うか、その程度のことにそれほど悩む必要はないと思う」
「……」
軽い口調でそう返され、夕子は少し拍子抜けしたような気がした。
「悩むようなことじゃない、そういうことですか」
「そうだね。なにしろこの世界には、選びきれないほどの仕事があるんだ。そして特殊な業種を除けば、誰に対しても門戸が開かれている。これが駄目ならこれ、それでも駄目なら次はこれ。そう考えるのもありだと思う。そして」
「……」
「またこの仕事がしたくなれば、戻るのもありだと思う」
そう言って微笑んだ。
「人生の選択肢なんて、無限にあるんだ。でもお嬢ちゃんは真面目だから、目の前の苦難から逃げていると思ってしまう。もう少し、肩の力を抜いてもいいんじゃないかな」
「逃げることは、悪いことじゃないんですか」
「状況次第だね。少なくとも今のお嬢ちゃんは、誰が見ても危ういと思えるぐらい苦しんでいる。このままいけば、心が壊れる危険だってあるかもしれない。そんな危うい状況なのに、逃げてはいけないと正論を振りかざすのは違うと思う。それは我慢でも成長でもない、ただ苦痛を強いているだけだからね。
勿論、ここからお嬢ちゃんがいなくなるのは寂しい。もしかしたらこれがきっかけで、お嬢ちゃんと会えなくなるかもしれない。でもね、お嬢ちゃん。わしはお嬢ちゃんに幸せになってほしいんだ。そしてそれが、二度とお嬢ちゃんに会えなくなることでしか果たせないと言うのであれば、わしは受け入れるつもりだよ」
その言葉は、夕子の心に重く響いた。
「ただひとつだけ、老いぼれの戯言として聞いてほしい。一部の例外を除いてだが、仕事の悩みなんてものは、数ある悩みの中でも軽い方だとわしは思ってる。なぜなら、辞めた時点でその悩みから解放されるからだ。そしてその決断は、自分でできるからだ。
だが、人間関係が理由で辞める時には注意がいる。それだけは、どこにいっても付きまとう問題だからね。仮に職場に嫌な先輩がいて、その人が嫌で辞めるとする。少なくともその先輩からは解放されるが、もしかしたら新しい職場で、それ以上に苦手な人と出会うかもしれない。
だから人間関係で転職する時は、自分なりに消化した上で、少しでも前向きな状態で辞めた方がいいと思う。でないと、いつまで経っても悩みからは解放されないからね」
そう言われ、自分の中にある弱さを見抜かれているような気がした。




