083 穢れた存在
奈緒たちと話したことで、夕子は心が少し軽くなったような気がした。
しかし。
施設が近付くにつれ。
それが気のせいだと感じていった。
少しずつ、少しずつ足取りが重くなっていく。
息苦しさを感じ、何度も深呼吸をする。
まるで施設に拒絶されているような、そんな気持ちになっていた。
職場では、千花が笑顔で迎えてくれた。
夕子の表情から、まだ回復には程遠いと感じた。しかし出勤すると言った彼女の顔を思い出し、今は見守ろう、そう思ったのだった。
不思議なもので、業務が始まると体が自然と動いていった。
夜勤の開始時刻は17時。夕食は17時45分からで、それまでに利用者の居室を回り、排泄処理を済ませ食堂に誘導しなければいけない。
色々悩んでいる暇もない。ただひたすら、業務をこなしていかなければ間に合わない。
ある意味それが、夕子を通常の状態へと戻していった。
ただ一瞬、安城の居室の前を通った時、息が止まるような感覚を覚えた。
本当なら全員に食事を配り終えた後で、遅番か夜勤のどちらかが彼女の居室に入り、食事介助をしなければいけない。夕子と安城の関係を知っていたスタッフは安城の介助を引き受け、夕子はいつも申し訳なさそうにしていた。
しかし安城が亡くなったことで、これからはその必要がない。おかげで食堂には常にスタッフが二人いることになり、そういう意味では助かるとも言えた。だが、その事実が夕子を現実へと引き戻した。
――そうしたのは私なんだ。
立ち止まり、足を震わせる。
そんな夕子の背中を誰かが叩いた。
遅番の千花だった。
「ほらほら夕子ちゃん、早くしないと夕食のカート、到着しちゃうよ。山川さんの居室、任してもいいかな」
「……は、はい、分かりました。すいません」
そう言って山川の居室へと足早に向かう。
そんな夕子を見つめ、千花は心の中で「頑張れ頑張れ」そうつぶやいた。
深夜0時。巡回の時間。
今夜は比較的穏やかで、今のところ何事もなく過ごせていた。
だが夕子は、できれば今日は忙しい夜勤になってほしいと思っていた。
利用者の徘徊が多いとか、ナースコールが鳴りやまないとか。そういうことがあれば、何も考えず走り回ることができる。
しかしそう願う日に限って、利用者たちは穏やかに過ごしている。おかげで夕子は詰所で一人、色々と考えることになっていた。
巡回の最後に、いつもの癖で安城の居室に入ってしまった。
そしてその必要がないんだと思い出し、うなだれた。
安城の居室はまだ家具もそのままで、あの時から時間が止まっているようだった。
「……」
ベッドを見つめる。
ついこの前まで、安城はここにいた。
目を見開き、無言で自分を拒絶していた。
彼女は一体、自分に何を訴えたかったのだろう。
そんなことを思いながら、小さく息を吐いた。
でも。どんな理由があろうとも。
彼女に放った暴言は、許されるものじゃない。
そう思うとまた、体が震えた。涙が滲んだ。
どうして私はあの時、あんなことをしてしまったのだろう。
どれだけ私は罪深いのだろう。穢れているのだろう。
そう思い、何度もベッドに頭を下げ、「ごめんなさい、ごめんなさい」そうつぶやいた。
1時。休憩時間。
休憩室に入ってきた夕子を見て、品沢は思った。
まだ……立ち直れていないようだな。
「……こんばんは、品沢さん」
驚くほどに、覇気のない声。品沢は静かに答えた。
「こんばんは、お嬢ちゃん。今夜もお邪魔してるよ」
夕子は力なく微笑み、いつものようにコーヒーの準備を始めた。
「今夜もお一人なんですね」
その言葉には、どんな気持ちが込められているのだろう。そんなことを思いながら、品沢が答えた。
「こんなことを言ったら怒られるかもしれないが、今日お嬢ちゃんがどんな様子で来るか分からなかったからね。みんなには遠慮してもらったんだ」
「そう、ですか……お気遣い、ありがとうございます」
コーヒーを差し出し、手を合わせる。
「……どうぞお納めください」
品沢が頭を下げ、コーヒーを口にする。
夕子も座り、ひと口飲んだ。
品沢は自分を気遣い、そして心配してくれている。感謝し、礼を尽くすべきだ。そう頭では理解していた。
しかし、言葉にすることができなかった。
あの日の品沢を思い出す。
肯定も否定もせず、ただ全てを受け止めようとしてくれた品沢。
思い出すと少しだけ、心が温かくなった。
しかしすぐ、それは甘えなんだと叫ぶ自分を感じた。
今抱えているこの悩みも、時間が経てば少しずつ風化していく。
苦しみもやわらいでいく。
安城に対しての罪悪感ですら、小さくなっていくのだろう。
それでいいのだろうか。
いや、いい訳がない。
自分が背負っているものは、そんな単純なものではないのだから。
これは自身の本質に関わる問題なのだから。
誰もがみんな、安城の一件で自分を責めてこない。それどころか、慰め励ましてくれる。
このまま彼らの思いを受け入れ、また前を向いていこうと決意できるぐらい、みんなの心が温かく染み込んできた。
だけどそれは間違っている。
私は穢れている。人として終わっている。
そんな人間が、傷が癒えるまでその優しさに甘えていい訳がない。
自分にこの仕事を続ける資格はあるの?
博幸くんの優しさを。
千花さんの、奈緒ちゃんの、百合子さんの。
品沢さんの思いを受け入れる資格はあるの?
生きる資格はあるの?
そう思い、肩を震わせ。
うなだれた。
そして。
その姿を品沢に見せつけている、そんな自分に嫌気がさし、自嘲気味に唇を歪めた




