082 友情
翌日。12月29日。
夕子は夜勤に向かっていた。
千花からは、もう少し休んだ方がいいと言われた。しかし慌ただしい年末、他のスタッフに迷惑をかける訳にはいかないと答えたのだった。
今日から1月1日の元旦まで、連続夜勤のシフトになっている。今の状態でそれはかなりきついが、家に閉じこもっていても悪いことしか考えない、そう思い自らを納得させていた。
それにこれ以上、國澤に迷惑をかける訳にはいかない。彼の事務所も今日、仕事納めだと言っていた。しかし自分が休めば彼のことだ、寄り添う選択をするだろう。そこまで負担をかけたくなかった。
正直言うと、職場に行くのが怖かった。自分の中にある邪悪な一面を自覚した夕子は、こんな自分がこのまま利用者と接していいのだろうか、そう思い悩んでいた。それに何より、品沢に会うのが躊躇われた。
どんな顔をして会えばいいのだろう。品沢さんは励ましてくれたけど、心の底では自分に失望しているんじゃないだろうか。そんな考えがよぎり、足取りが重くなるのを感じた。
「あの……夕子さん?」
背後からの声に振り返る。
奈緒と百合子だった。
「奈緒ちゃん、百合子さん……こんにちは」
「やっぱり夕子さんだった。なんだか雰囲気が違うから、もしかしたら人違いかなって思ったんです」
そう言って奈緒が微笑む。その言葉は、ある意味真実を突いていると思った。
そうだね。確かに今の私は、この前までとは違う人間かもしれないね。
そう思い、唇を歪めた。
堤防で二人の間に座り、分厚い雲に覆われた空を見上げる。
まるで自分の心のようだ、そう思い息を吐いた。
そんな夕子を見つめ、百合子が口を開く。
「夕子さん。何か心配事でもあるんですか」
その言葉に、肩がビクリと動く。
千花と一緒にシャワーを浴びた後、國澤が作ったシチューを食べていた時。
ついさっきまで、全てに絶望していた筈なのに。
いつの間にか、笑みを浮かべていることに気づいた。
その時に思った。
自分はただ、落ち込む姿を演じ、悦に入ってただけではないのかと。
こんな些細なきっかけで、あれだけ沈んでいた心を簡単に忘れられる。
風呂にも入らず、着替えもせず。何も食べないことでしか継続できない悩みって何なのだろう。
私の苦悩なんて、その程度でしかなかったのだろうか。
そう思い、そんな自分が酷く邪悪に感じたのだった。
今も私は二人の前で、悩んでる振りをして同情を誘ってる。
安城さんという一人の人生を滅茶苦茶にしておきながら、それを踏み台にして慰められようとしている。
利用者さんが亡くなって、私は今、こんなに悩み苦しんでいるんです。どうです? こんな私、立派だと思いませんか? 人格者だと思いませんか?
そんな期待をしている自分が心のどこかにいる、そう思い、自分以上に醜い存在はいないのではないか、そう思った。
「いえ……なんでもないですよ。いつも通りです」
無理やり笑みを浮かべてそう言った。しかしすぐ、
「嘘です」
奈緒にそう切り捨てられてしまった。
「誤魔化せてるつもりかも知りませんけど、嘘だってバレバレですよ。夕子さんって本当、分かりやすいんですから」
「……」
厳しい表情で奈緒に見つめられ、夕子は思わず目をそらした。
「ほらやっぱり。夕子さん、私たち友達じゃなかったんですか? 話すことで楽になることもあるんです。何かあったのなら、話してもらえませんか」
友達というワードに、また夕子の心が揺れた。
「お誕生日の日、あれだけ幸せそうに笑ってた夕子さんが、そんな顔をしてるんです。何もない訳がありません。それとも、私じゃ力になれませんか?」
奈緒の圧に苦笑しながら、百合子も口を開く。
「夕子さん。私は夕子さんのおかげで妹と話すことができて、ずっと心に刺さっていた棘を抜くことができたんです。本当に感謝してますし、このご恩は必ずお返ししたいと思ってます。奈緒ちゃんだってそうだと思います。
人が相手だと言えないことでも、幽霊になら大丈夫かもしれません。それに私たち、女同志ですし。男の人よりは気楽に話せると思いますよ」
二人の言葉に肩が震える。
そして気がつけば、夕子はこの数日のことを話していた。
「……」
話を聞き終えて、奈緒も百合子も沈痛な表情を浮かべていた。
そんな二人を見て、夕子は自虐的に微笑んだ。
「私ってね、こんなに真っ黒な人間なの。一人の人生の最後を滅茶苦茶にして、そのことで落ち込む振りをして、周囲の同情を誘って。本当、救いようがないの」
「そんなこと!」
奈緒が声を荒げた。
「……正直言って私は今の話、夕子さんが何に悩んでいるのか分かりません。その利用者さんのことにしても、それってある意味、その人がこれまでしてきたことの報いじゃないかって思ってます。亡くなったことは残念ですけど、でももしですよ、もしその人がまだ生きていたとしたら夕子さん、そこまで悩んでましたか?」
そう言われ、夕子が返答に躊躇する。
「でしょ? たまたまその人が亡くなってしまったから、夕子さんは苦しんでいるんです。取り返しのつかないことをしてしまったって。
でも、それが人の世界じゃないですか。取り返しがつかないことがたくさんあって、でも私たちにはそれを感じることができなくて、後になってから悔やんでしまう。後悔って、そういうことなんだと思います。
夕子さんは本当に素敵な人です。こんな私たちを認めてくれて、手を差し伸べてくれます。まるで女神様みたいだな、そう思ったこともあります。
でも、夕子さんは女神じゃないんです。どこにでもいる、普通の女の子なんです。間違いだってありますし、失敗もたくさんします。今回のことも、ただそれだけのことなんです」
声が震えていた。
「でも、だからこそ私は……そんな普通な存在だからこそ、夕子さんのことを尊敬してるんです。普通でありながら、普通じゃないことを笑顔で成し遂げてくれる。そんな夕子さんだから好きなんです」
そう言って笑顔を向けた。
そんな奈緒の言葉にうなずき、百合子も口を開いた。
「ふふっ。私が言いたいこと、全部奈緒ちゃんに言われちゃったね」
「ええっ? ごめんなさい百合子さん」
「怒ってる訳じゃないよ。と言うか、同じことを感じたんだなって思ったら、なんだか嬉しくなったの。
夕子さん。私も奈緒ちゃんと同じ意見です。その方が亡くなったのは残念です。でも、それだけのことなんです。
誰だって人生が終わる時、たくさん後悔をします。その後悔が強ければ、私たちのように現世を彷徨うことになってしまう。でも、それはかなり特殊なことです。ほとんどの人は、その後悔を背負ったまま輪廻の世界に旅立っていくんです。
その安城さんという方が、どんな後悔を胸に旅立っていったかは分かりません。でも少なくとも、私に言わせればそんな後悔、大したことじゃありません。言ってみればよくある話、その程度のものなんです」
「……」
「でも、夕子さんは真面目だから。それを自分の罪として背負おうとしています。本当に素晴らしいですし、尊敬します。だけど一人の友人として言わせてもらえるのなら、その生き方が少し危ういようにも思えます」
そう言った百合子の笑みに、夕子は照れくさそうにうつむいた。
「そして悲劇のヒロインぶってる自分が、どうしようもなく汚い存在に思えるってことも。それもよくあることじゃないですか?」
普段の百合子らしからぬ、あっけらかんとした言い草に、奈緒も笑いながら「そうそう、その通りだよ」と賛同した。そして、
「とにかく夕子さん、話してくれてありがとうございました。話を聞いて私、やっぱり思いました。夕子さんのことが好きだって」
そう言って親指を立てた。
「そろそろお時間ですよね。夜勤、頑張ってください。それから少し早いですけど、今年も一年、本当にありがとうございました」
奈緒の言葉に、夕子も微笑み頭を下げた。
「こちらこそ、仲良くしてくれてありがとうございました。ああでも、今年も私、大晦日夜勤だから。また会えると思うよ」
「大晦日、大雨らしいんですよ。私たちは問題ないですけど、そんな足元の悪い中、夕子さんを足止めになんてできないですよ」
奈緒の優しさに胸が熱くなる。
「そうなんだ。だったら初日の出も見れないのかな」
「ふっふーん。それがですね、雨は夜中のうちにやむそうなんです。初日の出の時間には晴れてるかもって」
「じゃあ、今年も百合子さんと初日の出を?」
「そのつもりです。そして私は、夕子さんを世界一幸せにしてくださいって願うつもりです」
「私もです。奈緒ちゃんと一緒に願いますから、安心してくださいね」
二人の言葉には答えず、夕子は立ち上がると背を向けたまま、腰の土を払った。
「……奈緒ちゃん、百合子さん。今年も一年、ありがとうございました。二人とも、いい年を迎えてくださいね」
そう、声を震わせながら言った。
涙が止まらなかった。
そんな夕子に微笑み、奈緒と百合子が声を合わせた。
「頑張ってくださいね、夕子さん」




