081 介護の存在理由・本質
「おいしい……」
シャワーの後、千花は國澤の作ったシチューを温めなおし、夕子と食べていた。
「ほんとおいしいね。こんな寒い日にぴったりの料理じゃない。あの國澤って彼、弁護士だっけ? 頭もよくて料理もできる、最高じゃない」
國澤のことを褒められて、夕子が嬉しそうに微笑む。
確かにここまでハイスペックとは思ってなかった。ひょっとして私、家事でも彼に適わないんじゃない? そんな焦りが脳裏をよぎった。
「と言うか、どうして千花さんも食べてるんですか」
「固いこと言わない言わない。仕事終わってから何も食べてないんだから」
そう言われ、夕子が慌てて時計を見る。
23時。いきなり顔が青ざめるような気がした。
「家の方は」
「家は大丈夫だよ。遅番の時の家事は、基本旦那がしてるから」
「そうなん、ですね……よかったです……と言うか、こんな遅い時間まですいません」
「あはははははっ、いいっていいって。夕子ちゃんとお風呂に入れた訳だし、それに彼氏さんの顔も見れたし。十分元はとれてるよ」
「なんですか、それ」
「ちょっとは元気、戻ったみたいだね」
そう言われ、夕子の瞳にまた、翳りが宿った。
お風呂に入って、博幸くんのシチューを口にしてるだけなのに。これぐらいで私、なんで元気になってるの?
さっきまで落ち込んでたのが嘘みたいじゃない。そう思った。
「大変だったんだね、夕子ちゃん」
少し真面目な顔で、千花が話す。
風呂から上がってしばらくして、夕子は安城とのことを全て打ち明けたのだった。
「確かにまあ、そんなことがあったとは思わなかったよ。勿論、利用者さんへの暴言は褒められることじゃないし、そのことで自分を責めるのも分からなくはない。でもね、夕子ちゃん。そういうこともあるんじゃない?」
「どうしてですか? 私は80年生きてきた安城さんの最後を、あんな形で終わらせてしまったんですよ? どれだけ非難されても仕方ないことなんです」
「夕子ちゃんの言ってることは正論だ。何も間違っていない。もしその場に立ち会っていたら、私も叱ってたと思う。でもね」
そう言ってひと息吐き、夕子を見つめた。
「私たちも人間なんだ。そういう時だってある」
「……」
「まあ、これは極論なんだけどね。間違ってもこんなこと、職場では言えない。リーダーって立場もあるし。
でもね、突き詰めればそうなんだと思う。利用者さんはお客様。しかも人生の大先輩で、私たちより色んな経験をたくさんされてきた。私たちの仕事は、そんな利用者さんたちが少しでも穏やかに、楽しく過ごしてもらう為のお手伝いをすることだ。だから当然、立場的には利用者さんの方が上。だけどね、だからこそ思わない? 利用者さんだって私たちに、敬意を持って接するべきだって」
「それは……」
「そんなこと、当然口にしてはいけないよ。そういう気持ちを出すのも駄目だ。でもね、私たちは同じ人間なの。笑いもすれば怒りもする、辛いことがあったら泣くし、人の好き嫌いだってある人間なんだ。
結局何が気に入らなかったのか分からずじまいだけど、確かに安城さんは夕子ちゃんを嫌ってた。でもね、それはある意味、安城さんの権利なんだ。好き嫌いっていう、誰もが持ってる普通の感情なんだから。
でもそれは、夕子ちゃんにも適用される権利なんだ」
「……」
「仕事である以上、そういう感情を出す訳にはいかない。でも夕子ちゃんにだってこれまで、嫌いだった利用者さんぐらいいたでしょ?」
「嫌いって言うか、苦手に感じる方はいましたけど」
「あはははははっ、ほんと夕子ちゃんは優しいね。それにちゃんと空気を読んでる。私なら即答するけどね。勿論です、大嫌いな利用者さん、山ほどいますって」
そう言ってあっけらかんと笑う。
「でも仕事である以上、そんな好き嫌いは認められない。何より向こうは、私たちの支援が必要な方たちなんだ。だから私たちは我慢する。誰に対しても平等に向き合い、接する」
「……」
「そして夕子ちゃんも安城さんと向き合い、頑張って尽くしてきた。それなのにそんな夕子ちゃんを見下して、あまつさえご両親のことまで侮辱した。いくら利用者さんでも、許されることじゃない」
「でも……それでもやっぱり、私のしたことは間違ってると思います」
「間違ってるかもね。私が今言ってるのは極論だから。そしてもしそれがまかり通ってしまったら、介護の存在意義が揺らいでしまう。利用者さんに対して、もっとスタッフに敬意を持てって強要する訳だから」
「……そうですね」
「でも今の夕子ちゃんになら、ここまで言っていいと思った。確かに褒められることじゃないし、ご家族が知れば怒るかもしれない。だけど……夕子ちゃんは十分すぎるほど悩んで、そして苦しんだ。もういいんじゃない?」
涙がこぼれ落ちた。
千花の言葉に、全身が温かくなっていく。
自分は酷いことをした。
人として、介護者として最低なことをした。
でも、それでも千花さんは、そんな私を認めてくれる。罪を受け止めてくれる。
そんな千花さんにこれ以上、無様な姿を見せる訳にはいかない。
博幸くんにも、そして品沢さんにも。
いっぱい心配かけた。迷惑かけた。
それは全て、私の弱い心に起因してるのだ。
ならば千花さんの言う通り、気持ちを切り替えるべきなのかもしれない。
何より私には、安城さん以外にも利用者さんがいる。
今回のことをいつまでも引きずって、みなさんにまで迷惑をかける訳にはいかない。
そう思い、小さくうなずいた。
「すいませんでした、千花さん。色々と、その……ありがとうございま……」
そう言って微笑もうとした瞬間。
あの時。
天井を見つめ絶命していた、安城の顔が脳裏に蘇った。
自分が発した悪意の塊と言うべき暴言を最後に、この世界から去っていった安城。
あの表情は死して尚、自分の所業を許さないと訴えているようだった。
――怨嗟に満ちた瞳。
夕子は口元を押さえ、その場で嘔吐した。
千花が慌てて駆け寄る。
「ちょ、ちょっと夕子ちゃん、大丈夫?」
しかし夕子は答えることができず、嘔吐を繰り返した。
涙で視界が歪む。
博幸くんも千花さんも、こんな私を心配して来てくれた。
でも。
ごめんなさい。
あの時の安城さんの顔を思い出したら。
やっぱり私は、自分を許すことができない。
あなたたちの優しさに甘えられない。
だって安城さんにはもう二度と、そんな機会が訪れないのだから。
私が奪ってしまったのだから。
もしあの時、私がうまく聞き流していたならば。
もしかしたら安城さん、まだお元気だったかもしれない。
そう思うと、一人の人間を殺めてしまった、そんな罪悪感に潰されそうになった。
私にはもう、笑顔になる資格がない。
これから先、死ぬまでずっと。
この罪を背負い、生きていくべきなんだ。
そう思い。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
そう叫び、肩を震わせた。
そんな夕子に憐憫の視線を向けて。
千花は夕子を抱きしめた。




