080 来訪者
それから二日。
國澤は宣言通り、夕子に寄り添った。
この二日、國澤が夕子を求めることはなかった。夜もベッドの傍らに寝ころび、布団に入ろうともしなかった。
時折様子を伺おうと、起き上がる。
悪夢にうなされている、そんな表情の夕子を見つめ、そっと頭を撫でた。
國澤の手料理。
本当なら手を叩いて喜び、口にしたかった。
でも、体がそれを許さなかった。
どんな料理を出されても、口にすることができなかった。
時折嘔吐感に襲われ、トイレに駆け込んだ。
そんな夕子の様子に、状況が悪くなっている、そう思い國澤は苦悩した。
だがそれでも、何があったのか問い詰めることはしなかった。
俺は夕子の強さを信じてる。
例え今、心が粉々に砕けていようとも。
彼女は必ず立ち直る。
俺が愛した朝霧夕子とは、そういう女なのだから。
そう強く思い、見守り続けた。
夕方。
インターホンがなり、國澤が応対した。
ドアを開けると、そこには30代後半と思しき女性が立っていた。
彼女は國澤を見て、一瞬戸惑いの表情を浮かべた。
「あの、ここって朝霧さんのお宅じゃなかったでしたっけ。ひょっとして私、間違えました?」
少し焦った様子の女に、國澤が微笑む。
「いえ、あってますよ。僕はその、少しお邪魔させてもらってる者でして。それでその、失礼ですが」
その言葉に、女が意味ありげな笑みを浮かべた。
「なるほど、そういうことですか」
そして何度かうなずき、微笑んだ。
「濱口千花と申します。職場の同僚なんですけど、朝霧さんはご在宅ですか?」
頭から布団をかぶっている夕子を見つめ、千花が小さく息を吐く。
「夕子ちゃん、お疲れ。いきなりで悪いんだけど、顔を見にきたよ」
夕子がよく口にしていた先輩だと分かり、國澤は夕子の様子を千花に伝えた。
話を聞いた千花は何度もうなずくと、「少しの間、二人にしてもらえませんか? 何を話したとかは、後でお伝えしますので」そう言った。
千花のことを話す夕子の様子から、彼女が千花を慕っていると感じていた。
幽霊が見える、そのことは勿論打ち明けていない。しかしそんな中でも、彼女は千花に対し信頼にも似た感情を持っている、そう感じていた。
それに今回の夕子の様子、原因は明らかに職場にある。そういう意味では、自分より彼女の方が話を聞きだせるかもしれない、そう期待したのだった。
國澤はうなずき、しばらく外で時間を潰す旨を伝えた。
ひとつだけ、千花に頼みごとをして。
「この前の様子から、もしかしたらと思っていたんだけど。来てよかったみたいね」
そう言って、布団越しに夕子の頭を乱暴に撫でる。
「職場で色々あってこうなる人、今まで何人も見てきた。まあ、そのほとんどが辞めていったし、介護自体引退した人だっている。でも私は、そういうものだと思ってる。
どんな仕事であれ、壁に当たる時はある。このままでいいんだろうか、そう苦しみ、悩む。それが介護みたいな特殊な仕事だったら、尚更だと思ってる。
この仕事のほとんどは、人との関わり。自分と違う、しかも特殊な事情を抱えた利用者さんと接していくのは、それだけストレスもかかるから。それにスタッフも個性の強い人が多いし、そういう人たちと関係を築いていくのも大変だからね」
「……」
「だから私は基本、去っていく人を止めたりしない。悩んでいても、できる限り自分で乗り越えてほしいと思ってる。でも。
この前の夕子ちゃんは、それじゃ駄目だと思ったんだ」
その言葉に、肩がビクリと動く。
「この子は本当に危うい、そう思ったんだ。そしてそれを放置すれば、最悪の事態になるかもしれない、そんな風に感じたの」
最悪の事態。
そう言われ。
夕子の中に、生きることを諦めるという選択肢が浮かんだ。
そしてそのことに、妙に納得してしまった。
「國澤くん、だったね。いい男でほっとしたよ。あ、いい男ってのは勿論、顔のことじゃないからね。顔はまあ、そこそこって感じかな、あはははっ」
屈託のない笑い声が響く。
「そうじゃなくて、この人になら夕子ちゃんのこと、お任せできるかもって思えたんだ。なんて言ったらいいんだろう、夕子ちゃんへの信頼が、痛いほど伝わってきたんだよね」
「……」
「ほんと、いい人に出会えたね。お姉さん嬉しいよ。なんでか分からないけど、入社してからずっと、夕子ちゃんのことが心配だったから」
なんとなくだけど。心に壁を作って生きている、そんな私の危うさみたいなものを、千花さんは感じてたのだろうか。そう思えた。
「そんな彼が夕子ちゃんを心配して、ずっと寄り添ってくれた。それなのに聞いたよ? 夕子ちゃん、彼に何も話してないって」
「……」
「そんな話を聞かされたら、もう私が聞くしかないじゃない。でもね、夕子ちゃん。私は彼ほど優しくないからね。覚悟しなさいよ」
そう言うと布団をつかみ、一気に引きはがした。
突然の行為に、夕子が振り向き戸惑いの表情を浮かべる。
「あんたこの二日、お風呂にも入ってないって言うじゃない。それに何も食べてないって。ほんと、バカじゃない?
いい? よく聞きなさいよ。悩んだり苦しむこと、それは全然構わない。そういうことでもなければ、人ってのは成長できないもんだからね。でもね、その方法が問題なの。
何を悩んでるのかは知らないけど。まあ、後でしっかり聞くつもりだけど……そんな風に腐っていたら、いい方向になんて絶対いかないよ。
あんたのことだ、よくしようって気もないのかもしれない。でもね、それは周りにとって、迷惑でしかないのよ。
落ち込んでる自分に酔ってるつもり? それで何か解決する? そんな訳ないじゃない。夜勤明けでシャワーも浴びず、何も食べずにぐったりしてて。夕子ちゃん、人生舐めてない?」
そう言って夕子の腕をつかみ、無理やり立たせた。
「ち、千花さん、何を」
「何をじゃないわよ、この安本丹。お風呂に入るのよ」
「い、嫌……嫌です」
「私の話聞いてた? 私は國澤くんみたいに優しくないの。これでも若い頃は、暴走機関車って言われてたんだ。こうと決めたら即行動、それが私なの。そんな私と知り合いになったこと、シャワー浴びながら後悔するといいわ」
「そ、そんな」
「はいはい、文句は後で聞いてあげるから。脱いだ脱いだ」
上着をつかみ、強引に脱がせる。抵抗しようとするが、千花の圧がそれを許さなかった。
「國澤くんに頼まれたのよ。とにかくまず、あんたをお風呂に入れてほしいって」
その言葉に、夕子がますます混乱する。
「彼、言ってたわよ。自分にとって、風呂ってのはリセット作業みたいなものなんだって。どれだけ嫌なことがあっても、風呂に入ることで気持ちに変化が訪れるんだって。
でも自分は男で、彼女を無理やり入れるなんてできません。だからお願いします、彼女を風呂に入れてくださいってね」
その言葉に夕子は腰砕け、嗚咽した。
こんな私のことを、こんなにも想ってくれる彼がいる。
自分にそんな資格はない、今もそう思ってる。それでも今、そんな彼の想いに心が震えていた。
上半身裸になった夕子が床に顔を伏せ、声を上げて泣く。
そんな夕子をやれやれといった表情で見つめ、千花が強引に腕をつかんだ。
「はいはい、泣くのもシャワー浴びてからね。そんな格好のままだと風邪ひくじゃない。さあ立った立った、さっさとズボンも脱ぎなさい。今日だけは特別に、お姉さんが一緒に入ってあげるから」
そう言って自分も服を脱ぎ、笑った。




