079 資格
「夕子」
耳元で声がした。
それはある意味、今一番聞きたい声だった。
そして、一番聞きたくない声だった。
「……」
力なく体を向け、目を開ける。
そこには心配そうに見つめる、國澤の顔があった。
「博幸くん……来てたんだ」
「とりあえず無事みたいだな。ほっとしたよ」
その言葉に苦笑する。
「無事って、なによそれ」
「今、何時だと思う?」
そう言って目の前に時計を向ける。
「……まだ9時じゃない。約束の時間は18時だったでしょ」
「9時じゃないよ。21時だ」
「……」
「まだ寝ぼけてるみたいだな。今が朝の9時なら、夕子はまだ仕事中だろ」
「21時……」
國澤の言葉に、夕子が少し考え込む。そして状況を理解し、苦笑した。
「ふふっ、21時かぁ……ごめんなさい、また遅刻しちゃったね」
「遅刻って時間でもないけどな。疲れて寝てるんだろうから、しばらくそっとしておこうと思ったんだ。でも流石に遅すぎるから、心配になってな。合鍵、もらっておいて正解だったよ」
そう言って鍵を見せた。
「ごめん、ごめんね博幸くん……どうして私、こうなんだろうね。折角のデートなのに、こんなに寝過ごして」
「夕子が無事ならそれでいいよ。それにこういう仕事なんだ、トラブルだってあるだろうし、寝落ちするのも理解してる」
「ごめんなさい……」
「でも、来てよかったみたいだな。顔を見てそう思ったよ」
「……」
「何かあったのか?」
そう言って頭を撫でる。その温もりに安堵し、微笑もうとした。
しかしすぐ。
あの悪夢が蘇り、身を震わせた。
「……夕子?」
「ごめん、ごめんなさい博幸くん……私には、博幸くんに優しくされる資格がないの……」
ひっくひっくと肩を震わせ、枕に顔を埋める。
そんな夕子に微笑み、國澤が囁いた。
「夕子と付き合うことになってから……違うな、夕子を好きだと自覚した時から、夕子を支えていきたいと思っていた。こんなことを言ったら怒るかもしれないけど、俺にとって夕子は、本当にか弱い存在なんだ。誰かが傍で支えていないと、すぐに壊れてしまうように思えるんだ。だからどんな時でも夕子を見守る、そう自分に誓ったんだ。
だけどそれを理由に、心の奥にまで踏み込もうとは思っていない。だから正直、今どうするのが正解なのか分からないんだ。
夕子。俺は今、どうすればいい? 何も聞かずに寄り添った方がいいのか、何があったか聞いた方がいいのか」
その言葉はある意味、信念のない詭弁のように思えた。しかし今の夕子にとって、その言葉は救いでもあった。
「気を使わせてごめんなさい。でも……私にはそうやって優しくされる資格がないから」
その言葉は拒絶と同義だ。そう思った。
「分かった。なら俺は、夕子の気持ちを尊重するよ。ただ」
そう言ってにっこり笑った。
「その上で俺は、自分にできることをする。と言うか、したいことをさせてもらう」
「したいことって、何?」
「こんなに弱ってる夕子を置いて帰るなんて、俺にはできない。だからしばらくここにいる」
「しばらくって……いつまで」
「いつまでになるのかな。とりあえず大丈夫だと思えるまで、傍にいるよ」
「仕事は」
「もう年末だし、急な依頼でもない限り問題ないよ」
「でも……そんな風にしてもらう資格なんて」
「資格がないのは分かったから。と言うかそういう言葉、聞きたくない。できれば今ので最後にしてくれ」
「……ごめんなさい」
「俺は自分のしたいことをする、それだけだ。勿論、徹底的に拒絶されたら考えるけど」
「でも……私はひどい人間で……」
「分かった分かった、夕子が頑固なのは知ってるからな。でも残念だけど、俺も頑固なんだ」
そう言って笑った。
本当なら今すぐ抱きしめられたい。胸に顔を埋めて泣きたい。
でも、それはできない。
安城さんはもう二度と、人の優しさに触れることができないのだから。
そして私は、そんな安城さんの最後を穢したのだから。
その事実を受け止めて、罪を背負うべきなんだ。
幸せなんて、望んではいけないのだ。
そう思い。頭から布団をかぶり、國澤の想いを拒絶した。
そんな夕子に苦笑し、國澤は冷蔵庫の中を確認した。
「その様子だ、何も食べてないよな。飯作るから、気が向いたら食べてくれ。とりあえず食材買ってくるから、食べたいものがあるならメッセージ送ってくれ」
そう言ってもう一度、布団越しに夕子の頭を撫でた。
「……生きてる限り、色んなことがあると思う。楽しいこともあれば、辛いことだってある。自分の全てを否定したいことだってあるだろう。俺にもそういう時があるからな、少しは分かるつもりだ。
でもな、夕子。夕子の隣には今、俺がいる。誰がなんと言おうと、俺は絶対に夕子から離れない。そう覚悟できたからこそ、俺は夕子に告白したんだ。だから俺を信じてほしい。俺が夕子を信じてるように」
その言葉に、心が温もりで満たされていった。
しかしすぐに頭を振り、拒絶した。
國澤が部屋から出ていったのを確認して、夕子はまた泣いた。
この涙、博幸くんに見せる訳にはいかない。
こんな姿を見せたら心配される。そして慰められてしまう。
それは罪人である私にとって、許されるものじゃないのだから。
そう思い。
声を上げて泣いた。




