078 後悔の沼
休憩が終わり、別フロアーのスタッフと交代する。
そして4時。
巡回の時間がきた。
安城の居室前で深呼吸し、扉を開ける。
もし覚醒されていたら、さっきの言動を謝罪しよう。そしていつも以上に丁寧に、おむつ交換をしよう。
最後まで笑顔を忘れずに。
部屋の中へと進む。ベッドを覗き込むと、安城はいつものように目を見開き、天井を見つめていた。
口を真一文字に結び、先程の夕子の言動に怒っている、そんな風に見えた。
夕子が拳を握り、声をかける。
「安城さん、その……朝霧です。先程は失礼な物言いをしてしまい、申し訳ありませんでした」
静かに頭を下げる。
しかし安城は身動ぎもせず、じっと天井を見つめている。
「……安城さんが私の言動を不快に思われて、二度と私の介護を受けたくないと言われるのであれば、勿論受け入れるつもりです。ですがもし、安城さんが許してくださるのなら、私はここで頑張りたいと思ってます。
正直言って、私は安城さんのことが苦手でした。どう言ったらいいんでしょう、安城さんが私に対して何を感じているのか、それが分からなくて……
でもさっきの安城さんの言葉で、私はやっと安城さんの本当が見えたような気がしたんです。だからできれば、これからも安城さんの介護をさせていただきたい、そう思ってます。どうか認めてもらえませんでしょうか。それから……先程は本当に申し訳ありませんでした」
そう言葉を結び、もう一度頭を下げる。しかし安城からの反応はなく、ずっと天井を見つめたままだった。
仕方ない。と言うか、これがいつもの安城さんだ。
こんな時間にこれ以上、自分の都合で入眠を妨げる訳にはいかない。そう思い、夕子がパットを手にした。
「では、その……おむつ交換させていただきますね。失礼します」
そう言って掛布団をめくり、体に触れる。
しかし、それでも安城は反応しない。
その様子に違和感を覚え、夕子が安城の顔を見つめた。
目を見開き、天井の一点を見つめている安城。顔を近づけると一瞬、目が合ったような気がした。
「呪ってやる」
「憎んでやる」
そんな声が聞こえてきそうな瞳。
しかし夕子の脳裏には、別の思考が渦巻いていた。
嘘。
待って。
嘘でしょ。
慌てて手袋を外し、鼻腔近くに手の甲を向ける。
――息をしていない。
脈を測ろうと手首に触れる。しかしどこを触っても反応がなかった。
「あ……安城さん……安城さん?」
耳元で名前を呼ぶ。
しかし反応はない。
「そんな、そんなのって……ないよ……」
夕子がその場に腰砕け、呆然とする。
肩が。手が。
震えて止まらなかった。
しばらくして。
ポケットからPHSを取り出すと、休憩中の夜勤リーダーにかけた。
「……どうかした?」
仮眠をとっていた夜勤リーダーが、気だるそうにそう答える。
夕子は涙を浮かべ、声を震わせた。
「……安城さん、心肺停止されてます……」
夜勤を終えた夕子が、報告書を手に事務所に入る。
中には施設長と、スタッフリーダーの千花がいた。
夕子に気づいた千花が駆け寄り、心配そうに体を支える。
「夕子ちゃんお疲れ。大丈夫?」
「はい、大丈夫です……」
「とにかく座って。そんなんじゃ家に帰れないよ」
そう言って夕子を無理やり座らせる。
「すいません……でも本当、大丈夫ですから」
「安城さんのご家族には、施設長が連絡してくれた。もうすぐ娘さんが来られるみたい。でも娘さん、突然のことだけど言ってくれたって。『この施設で最後を迎えることができて、母は幸せだったと思います。みなさんいつも笑顔で、本当に気持ちのいい施設だなと思ってました。どうかスタッフのみなさんにも、くれぐれもよろしくお伝えください。本当にありがとうございました』って」
夕子の頬に涙が伝う。
そんな夕子を優しく抱きしめ、千花が囁いた。
「夕子ちゃんも本当、頑張ってたもんね。そんな安城さんとのお別れだからこそ、辛いってのもよく分かる。でも安城さんも、頑張ってきた夕子ちゃんに看取られて、嬉しかったんじゃないかな」
夕子は肩を震わせ、千花の胸に顔をうずめた。
「本当にお疲れ。明日から連休だったよね。今日は早く帰って、ゆっくり休んでちょうだい。そしてまた、元気いっぱいで戻ってきてね」
嗚咽が漏れる。
違う、違うんです千花さん。
私、哀しくて泣いてるんじゃないんです。
そうじゃないんです。
確かに利用者さんとの別れは辛い。でも、これでも私、プロなんです。
これまでだって、こうしてたくさんの方を見送ってきたんです。いくら哀しくても、こんなところで泣いたりしません。
私は。私は。
安城さんの人生を、とんでもない形で終わらせてしまったんです。
私は介護者として。ううん、違う。
人として最低なことをしてしまったんです。
その罪の重さで泣いてるんです。
これは後悔、後悔の涙なんです。
そう思い、声をあげて泣いた。
「お嬢ちゃん……」
一時間ほどして出てきた夕子を、品沢が複雑な表情で見つめる。
虚ろな目をした夕子は品沢に気づくと、自虐的な笑みを浮かべ頭を下げた。
「もう……品沢さんはご存知なんですね」
「お嬢ちゃんのことが心配だったんでね。あれから少しばかり残ってたんだ」
「そう、なんですね……すいません、ご心配おかけしまして」
そう言ってもう一度頭を下げる。そんな夕子を痛々しく思い、品沢は首を振った。
「こんな時までわしのこと、考えなくていいんだよ。とにかくお疲れだったね、お嬢ちゃん」
利用者を看取った夕子を見るのは、これで二度目だった。一年前の大晦日、青木万由子に続いてのものだ。
あの時も心配した。しかし夕子は気丈に振舞い、いつも通りに接してくれた。
だが、今の夕子はまるで違う。目の焦点も定まっていず、家まで無事に帰ることすら危うく見えた。
「結局私は、安城さんの人生を無茶苦茶にしてしまったんですね」
それは違う。即座にそう否定しようとした。
しかし品沢は、その言葉を飲み込んだ。
これは、生者であるお嬢ちゃんが乗り越えるべき試練。お嬢ちゃんが悩み、苦しんだ末につかまなくては意味がないんだ。そう思い、黙って夕子を見つめた。
「安城さんは長い人生を生き抜いて、たくさんの人と触れ合い、社会に貢献し、子供さんたちを育ててきたんです。努力で人が幸せになれると言うなら、安城さんこそ幸せになるべき人だったんです。なのに、それなのに……
安城さんが人生の最後に見たもの、それは怒りに満ちた私の顔だったんです。安城さんが最後に聞いた言葉、それは私が吐き捨てた罵倒なんです。
人生の大先輩の最後を、こんな小娘が台無しにしてしまったんです。こんなの、絶対に許されません」
「……お嬢ちゃんがそう思うのなら、わしから言うことは何もないよ。その現実を受け止めて、自分の中で消化してほしい。そしていつの日にか、それを乗り越えてほしい」
「乗り越えるって、あははははっ。品沢さん、安城さんにはそれすらもうできないんですよ? それなのに加害者である私が、まるで安城さんの死を踏み台にして生きていくだなんて、そんなの酷いじゃないですか」
「……今日はこれ以上、何も言わないでおくよ。ただ、これだけは言わせてほしい。わしは、いやわしらは、何があってもお嬢ちゃんの友人だ。それだけは忘れないでほしい」
品沢の言葉に涙を拭い、力なく笑った。
「馬鹿なことを聞きますので、どうか笑って許してください。安城さん、幽霊さんになって戻ってきてる、そんなことはないんでしょうか」
「どうだろう。わしらに女の幽霊は認識できないからね、すまないが分からない」
「そうでしたね、ふふっ、ごめんなさい。今度奈緒ちゃんに聞いてみます」
「もし彼女が戻っていたら、どうするのかな」
「勿論、成仏のお手伝いをします。でもその前に、とにかく謝りたいです。許してもらいたい、そんな気持ちはありません。ただただ、謝りたいんです」
そう言うと小さく息を吐き、頭を下げた。
「色々ありがとうございました。今日はこれで失礼します」
力なく歩く夕子。
その背中に向かい、品沢が最後に声をかけた。
「お嬢ちゃん。またここで……待ってるからね」
その言葉に振り返り、微笑んだ。
しかしその目には、光が宿っていなかった。




