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077 嫉妬

 


 安城(あんじょう)とのやり取りを品沢に話す。

 時折声が震え、涙がこぼれ落ちた。


「だから……私にはもう、この仕事を続ける資格がない、そう思ってしまって」


 話し終えた夕子が最後にそう言って、がっくりとうなだれた。

 品沢は微笑み、白い息を吐いた。


「そんなことがあったんだね。さぞ辛かったことだろう。お嬢ちゃん、よく頑張ったね」


「頑張ってなんか……私、介護者として絶対してはいけないことをやってしまったんです」


「確かにこの仕事、我慢こそが求められるものだからね。どんな理由であれ、利用者に暴言を吐くのは間違っている」


「私もそう思います。だからもう、これ以上」


「しかしなんだね。その安城という人の言葉も、ある意味真理をついているね」


 夕子の言葉を途中で遮り、品沢が笑った。


「どういうことですか」


「何も悪いことをしていないのに、こんな牢屋に放り込まれてしまったって」


「……」


「わしの場合、まだ体が動くうちに死を迎えてしまった訳だが、もしあの震災がなく、それからも生を謳歌していたとしたら、いずれは彼女と同じ運命をたどっていたんだ。体の自由がなくなり、やがて心も壊れていく。そしていつか、こういう施設のお世話になっていた」


 品沢が死んだのは60代の頃。確かにまだ、そんなことを考える歳ではなかっただろう。


「そしていつか、思うんだろうね。ここは無実の人間を収容する、合法的な隔離所なんだって」


 その言葉に胸が痛んだ。


 分かっている。このような施設に一度足を踏み入れてしまえば、余程の例外を除き、死ぬまで出ることはできない。こういう施設は表面的に、「人生の総決算」として安穏な余生を過ごす場所であることを謳っている。しかし現実はその理想にほど遠く、ある意味死を待つ者の収容所と言われても仕方ない側面があった。


「お嬢ちゃんは変わった。全てに絶望していた日常から抜け出し、未来を切り開いていこうと決意した。だからこそ、石川も成仏する道を選んだ」


 脳裏に石川の笑顔を浮かぶ。


「だが……そんなお嬢ちゃんの変化が、彼女は気にいらなかったのだろう。それに何故か分からないが、元々お嬢ちゃんのことを敵視していた。虫が好かないからなのか、何か気に障るものをお嬢ちゃんが持っているのか、それは分からない。だがそれでもお嬢ちゃんが諦めず、歯を食いしばって頑張ってることは彼女も認めていた筈だ。

 しかし最近のお嬢ちゃんの様子を見て、それが嫉妬に変化していった、そんな気がするんだ」


「嫉妬……ですか」


「ああそうだ。前にも言ったことがなかったかな。とにかく老人というものは、若人に嫉妬するものなんだ。自分もその時期を過ごし、十分謳歌していたにも関わらず、その真っ只中にいる若人に対し嫉妬する。どれだけ望んでも叶わない若さという宝を、こいつは当たり前のように持っている。それが憎い、恨めしいってね」


「そんなことを思ってる人が、本当にいるんでしょうか」


「それを態度で示したり、言葉にするかどうかは別だ。だが老人であれば、誰もが持ってる感情だと思うよ。

 私たちには何もない。だがスタッフは違う。仕事が終わればここから解放され、自由を満喫できる。そんな理不尽、許せるかってね」


「……」


「もっと言えば……そうだね、こう言えば分かりやすいかな。それはわしら死者が、生者に持つ感情と似ているんだ」


「……」


「わしらは強烈な未練を背負い、この世界に戻ってきた。だが現実は残酷で、わしらは世界に何の影響を与えることもできない。あるのは無力感と、空虚な日々だ。

 この煙草にしたって、お嬢ちゃんが供えてくれなければ吸えない。兼本のバカみたいに、女を抱きたいと思っても触れることすらできない。とにかくわしらは、この世界で何もできない存在なんだ。

 だけど生者は違う。勿論生きていく中で、辛いこともたくさんある。だがそれと同じぐらい、楽しいことも存在する。わしらはそれが妬ましい。どれだけ望んでも手に入れられない幸せを、こいつらは当たり前のように享受している。ふざけるなってね」


 品沢の言葉は過激だった。しかしそのおかげで、夕子は彼の真意が理解できたような気がした。


「……品沢さんの例えで、少しだけど分かったような気がします。でも……そう考えたら私たち、利用者さんに対して何もできないんだと思ってしまいます」


「そんなことはないだろう」


「そう……でしょうか」


「若さを取り戻すことはできない。壊れてしまった機能は改善しない。それどころか悪くなる一方で、よくなることはない。何しろ人生、下り坂な訳だからね。だがそれでも、幸せを感じられない訳じゃない。

 幸せの定義は様々だ。年齢や環境によっても変わってくる。だがそれでも、そんな中でも不変の幸せというものがある。今のお嬢ちゃんなら、それが何か分かるんじゃないかな」


 そう言われ、夕子が考える。

 そして。

 不幸だと思っていた時期と、幸せを感じられるようになった時期の境界に思い至った。

 それはささやかなものかもしれない。だが確かに、それはどんな状況であっても感じることのできる、不変の真理のように思えた。


「人との触れ合い、でしょうか」


「そうだ。やっぱり分かってるじゃないか」


 そう言って、満面の笑みを夕子に向けた。


「私たちがしてることは、決して無駄じゃない……」


「そう思うよ。お嬢ちゃんだってそうじゃなかったかい? 利用者が嬉しそうに笑った時、心が温かくならなかったかい?」


「なりました……はい、なりました」


「利用者だって同じ筈だよ。そしてそれを与えられるのは、職場で働くお嬢ちゃんたちだけなんだ」


 そう言われて。

 夕子の胸に熱いものがこみ上げてきた。


「私、安城さんに謝ってきます。そしてこれからも安城さんと過ごしていきたい、いつか安城さんを笑顔にしたいって言ってきます」


 その言葉に、品沢が大きくうなずいた。


「はははっ、元気が戻ったようでよかった。やっぱりお嬢ちゃんには笑顔が似合うよ」


 じっとしていられなかった。休憩時間はまだ30分残ってる。だが今すぐ安城の元に駆けつけたい、そんな衝動にかられた。

 そんな夕子に向かい、品沢が言った。


「今すぐ彼女の元に行きたい、そんな顔をしてるね。だが……お嬢ちゃん。その前に煙草、もう一本恵んでもらえないかい?」


 そう言って意地悪そうな笑みを浮かべ、ウインクした。




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