076 生者と死者の境界線
深夜1時。
休憩室に入ってきた夕子を見て、品沢の顔から笑みが消えた。
「品沢さん……こんばんは」
「……ああ。こんばんは、お嬢ちゃん」
何があったのかは分からない。つい先程やってきた品沢は、夕子と安城のやり取りを見ていない。
しかし夕子の表情から、なんとなく状況が理解できる気がした。
「……コーヒー、淹れますね」
品沢はその言葉にうなずき、あくまで普段通りに振舞おうとした。
だが、心が騒いでいた。
彼女のこういう雰囲気は、これまでも何度か感じている。だが彼女はその度に自らを奮い立たせ、立ち直ってきた。
しかし今の彼女からは、その可能性が見えてこない。
石川との会話を思い出す。
「品沢さん。どうして夕子さんに声をかけてあげないんですか。今の夕子さんを見たでしょう。あんな辛い顔、今まで見たことがありませんよ」
「勿論わしだって、本当にお嬢ちゃんが危ういと感じた時は声をかけるさ。そして共に悩み、苦しみ、協力する。だが、今はまだその時じゃない」
その時は今ではないのか。そう思った。
差し出されたコーヒーをひと口飲み、考えた。
夕子はポーチを手に、無言で喫煙所に向かおうとした。そしてノブに手をかけてすぐ、はっとした表情を浮かべ品沢に声をかけた。
「ごめんなさい品沢さん。今すぐ煙草が吸いたいなって思って。よかったらご一緒してもらえませんか」
「勿論構わないさ。だけどお嬢ちゃん、外はかなり寒いみたいだよ。上着、はおった方がいいんじゃないかな」
品沢の言葉に夕子は苦笑し、
「そ、そうですね。寒い、ですよね……」
そう言ってロッカーに向かった。
いつもの彼女なら、声もかけず一人で煙草を吸いにいくなんてこと、絶対にしない。常に周囲の空気を読み、今誰が何を感じ、何を考えているのか分析するのが彼女だ。
そんな彼女が、まるで目の前の自分が見えていないかのように振舞い、あまつさえこの極寒の中、上着も着ずに外に出ようとした。
そんな彼女はもう、かなり危うい状態なのではないか。そう思った。
「……」
喫煙所で、二人が無言で白い息を吐く。
幽霊である品沢は感じないが、今夜はかなり冷え込んでいた。事実夕子は、何度も身震いしながら煙草を吸っていた。
「お嬢ちゃん。それを吸い終わったら一度中に入らないかい? かなり寒そうに見えるんだが」
その言葉に、夕子は決まり悪そうに微笑んだ。
「ありがとうございます。でもまだ大丈夫ですよ。我慢できないってほどじゃないですから。それに……今日は品沢さんに煙草、いつもより多く吸ってもらいたいって思ってましたから」
そう言って、冷えかけのコーヒーを口にした。
「気遣ってくれるのは嬉しいが、それよりわしは、お嬢ちゃんの体が心配なんだ」
「ふふっ、ありがとうございます。でも本当、大丈夫ですから。
あ、そうだ。品沢さんに会ったらすくに言おうとしてたのに忘れてました。品沢さん、一昨日は本当にありがとうございました。あんなにたくさんの人に祝ってもらえて、本当に嬉しかったです」
そう言って頭を下げた。
どうして、どうしてこの子は……そう思い、表情を強張らせる。
今のお嬢ちゃんはわしが知る限り、これまでで一番苦しんでいる。そう確信できた。
今の彼女の目が、それを訴えている。
それはかつて、自分が命を落としたあの震災で見た、隣で息絶えようとしていた妻のものと同じだった。
全てを諦め、絶望に侵された瞳だ。
石川。わしが言ったその時というのが今、来たのかもしれない。
そう思い、白い息を吐いた。
「あんなことぐらいしかできなくて、申し訳なかったと思ってるよ。何しろわしらは、物理的な干渉を一切奪われている。何人かが手作りでプレゼントしないかと言ってきたんだが、そもそもわしらは物に触れることができない。ならばこの服で、そう言って自分の服を使おうとしたやつがいた。わしらにとって、確かにそれは唯一触れられるものだからね。だが仮にそれで何かを作ったとしても、今度は逆にお嬢ちゃんが触れられない。だから諦めた。
ならば歌なんかどうだろう、そう言ったやつがいたんたが……何度か練習してみたんだが、地獄の窯を開けたような出来栄えでね、断念したんだ」
「ふふっ、なんですかそれ。でも、ちょっと聞いてみたかったな」
「そうなのかい? だったらもう一度、やつらに声をかけてみるか」
「ああいえ、そういう意味で言ったんじゃないんです。それに」
そこまで言って、夕子が目を伏せた。
「……お嬢ちゃん。知っての通り、わしは死者だ。この世界に何の影響も与えられない、無力な老いぼれだ。そんなわしに、お嬢ちゃんはいつも笑顔で接してくれる。それがどれだけ、わしの乾いた心を潤してくれたことか。わしは本当に感謝してる。そして、そんなお嬢ちゃんには幸せになってほしいと願ってる」
「……」
「石川の遺言でもあるからね。わしはやつの遺志を継ぎ、これからもお嬢ちゃんを見守りたいと思っている」
「ありがとう……ございます……」
「余程のことがない限り、わしはお嬢ちゃんの人生に口出ししないと決めている。それはわしが死者で、お嬢ちゃんは生者だからだ。わしの無責任な言動で、お嬢ちゃんの人生を狂わす訳にはいかない、そう思ってるからだ。残念だが、生者と死者の間には、それぐらい大きな溝があるんだよ。境界線、と言った方がいいのかな。だが……
お嬢ちゃんが望むなら、わしはいつでも受け入れたいと思ってる。こんなことを言うと怒られるかもしれないが、わしはお嬢ちゃんのことを、娘のように思っているからね」
その言葉に、夕子の頬に涙が伝った。
顔を上げ、品沢を見つめる。
品沢は微笑み、うなずいた。




