075 暴言
「安城さん、今なんて……」
夕子がそう、声を漏らした。
これまで夕子は、安城とコミュニケーションを取ることを避けてきた。
「今夜もよろしくお願いします」「おむつ交換します」「おはようございます」そう言った業務的な言葉だけを口にし、それ以上接触しないようにしてきた。
だが今、夕子は口にしていた。
安城の言葉に反応していた。
「何がそんなに楽しいのか……へらへら笑いながら人の体を触って、バカなんじゃないか」
「バカ……今、バカって言いましたか」
「技術も未熟で仕事は雑、よくヘルパーなんて名乗れるもんだ」
「私のどこが雑なんですか」
これ以上付き合ってはいけない。心の中で自分が叫んでいる。
だがこの時の夕子は、我慢することができなかった。
これまでずっと、安城の圧に耐えてきた。いつか分かってもらえる、そう信じて向き合ってきた。
今のことだって、元はと言えば彼女のおむつ外しが原因なんだ。
利用者の中にはおむつの意味が理解できず、不快感から外そうとする人もいる。しかし安城は違う。多少の認知症状はあるが、おむつを外せばどうなるか、そしてその後、シーツ交換や更衣が必要になることも十分理解できている人だ。
現にこれまで、彼女がそういう行為に及んだとの報告はない。
と言うことは。
自分の夜勤だから嫌がらせで外した、そんな疑念すら持ってしまう。
そしてそう思いだすと、憤りに近い感情が生まれていった。
「安城さんがおむつを外したことで、これだけの時間がかかったんです。勿論、交換するにあたり負担をかけたことは認めます。でもそれだって、必要最小限で済ませた筈です。それを雑だとか未熟だとか、どうしてそんなことを言うんですか」
気づけば瞼が濡れていた。これまでの努力が全て否定された、そんな気がした。
「親も辛いだろうよ。手塩にかけた娘がこんな仕事にしかつけず、それすら満足にできないんだからね」
「両親は関係ないでしょう! 安城さんに何が分かるって言うんですか!」
「そうやって怒鳴るだなんて、ほんと小便臭い小娘だよ。よっぽど甘やかされて育ったのか、それとも親も未熟なのか」
「ふざけないでください!」
夕子が声を荒げる。叫ぶと同時に涙が落ちた。
「私だけじゃなく、両親のことまで侮辱して……いいかげんにしてください!」
ついさっきまで、世界に色が重ねられて嬉しかったのに。
この僅かな時間で、灰色に戻ったような気がした。
どうしてここまで言われなければいけないの?
感謝してほしい、そんな驕った気持ちは持っていない。
それでもせめて、関係を良好にする努力ぐらいしてほしい。
大体、どうして私にだけそんな敵意を向けるの?
私が何かしたって言うの?
もしそうなら、ちゃんと言葉で伝えてよ。
何も言わず、いつも冷たい視線を向けてきて。
そして今、両親のことまで侮辱して。
いくら利用者でも、それは一線を越えた発言じゃない。ふざけないで。
涙で歪む視界の中、夕子が憎しみをこめて安城を睨みつける。
それが介護士として最低な行為だと、頭では理解していた。
でも、心がそれを認めなかった。
そんな夕子を見開いた目で見据えながら、最後に安城が言った。
「それだけメスの顔をして、メスの匂いをさせて。さぞかし楽しいことがあったんだろうよ。でもね、そんなお前を見せつけられる私にとって、それは拷問でしかないんだよ。
ここを一歩出れば、お前には自由な時間が待っている。だけど私はこれから死ぬまで、この狭い部屋から出ることもできないんだ。悪いことなんて何もしていないのに、いきなり牢屋に放り込まれたんだ。それなのにお前は……自分がどれだけ幸せなのかを見せつけて、私を苦しめているんだよ」
地の底から響くような低い声で、怨嗟の炎を燃やし安城がそう吐き捨てる。
考えてみたら、こうしてこの人と話すのは初めてだ。しかもその言葉から、彼女が普段何を思い、感じてるのかの一端が垣間見えたような気がした。
でも。
夕子の感情は抑えられなかった。汚染されたシーツや服を手にし、唇を噛んだ。
「……私なりに仲良くしたいと思い、今まで頑張ってきました。でも今の言葉を聞いて、安城さんとは分かり合えないんだと理解しました。
安城さんが望まれるなら、明日にでも事務所に訴えてください。それが原因で解雇されることになっても、私は構いません。こんな思いをしてまで私、ここで働いていこうとは思いませんので。失礼します」
そう言って部屋を後にした。
涙が止まらなかった。
たくさんの人の顔が浮かぶ。
國澤が、両親が。
品沢、石川、奈緒、百合子。そして和江の顔が。
みんな笑顔だった。
いつもその笑顔を思い浮かべ、心が温かくなっていた。
でも今。
誰の顔を思い浮かべても、夕子の心は乱れた。
まるで今の行為を咎められているような、そんな気すらした。
情けなくて、辛くて。
ついさっきまで、自分のことが好きになってきたと思っていたのに。
今。
自分がこの世界で最も穢れた存在のような気がしていた。
利用者に感情をぶつける。介護者として一番してはいけないことをしてしまった。
そして何より。
そのことを後悔していない自分に、嫌気がさした。




